SNEAKERS
私とささめ姉さんは、山奥の開けた場所にいる。どこかはわからない。ただ、見晴らしが良くて、空気に馴染みがあった。だから、きっとここは十朱市内のどこかで、ささめ姉さんも同じ匂いを感じてくれていたらいいなと思った。
「どこだろうね」
「さあ? ブラジルじゃなさそうよ」
ごめん、今の聞かなかったってことでとささめ姉さんが早口に言う。
「まあ、私たちは生きてるし、一人じゃないから──」
何とかなるでしょと言って、ささめ姉さんが笑った。
良い意味で姉さんらしくない──あどけなさがあった。
「ねぇ、何があったか憶えてる?」
つい、ささめ姉さんから顔を背けた。あの時と、同じ言葉だったからだ。
怒られるわけがないとわかっているのに。
「ココ」
ささめ姉さんの声は、変わらず優しい。
「そんなふうに目を背けてたら、私が怒ってないってこともわからないわ」
ささめ姉さんを見た。初めて、目を合わせたような心地がした。
ささめ姉さんは、小さく目を見張っている。唇が声にならない言葉を短く結んで、けれど、読み取ることはできなかった。
「私、遅れてるって思ったの。皆が自分の先を歩いていて、その背中を追いかけてる。後ろに付いて行っているつもりだったんだけど、それじゃ心配かけるだろうなって思ったから、無理をして皆の隣を歩いているフリをしてた。でも、皆と話をして。ささめ姉さんがこうして私の言葉を待ってくれていて、ああ、ホントの気持ちを口にしていいんだって思えた」
深く考え過ぎるあまり──。
「私、つくしちゃんがいなくて寂しい」
本当に伝えないといけない言葉は、いつも遅れてやってきてしまう。
でも、貴女は待つと言ってくれたから。こうして待ってくれていたから。
「つくしちゃんを助けられなくてごめんなさい」
強く──抱き締められた。
私から、姉さんの顔は見えない。でも、どんな顔をしているかはわかる。姉さんの肩は、震えている。背中をそっと撫でた。あのささめ姉さんにこんなことをするなんて思わなかった。
こんなことを──してもらえるなんて思わなかった。
「あ」
目頭がじんと熱くなった。そんな──こんなに泣いてばかりいては、まるで。
まるで、普通の女の子みたいだ。
伝えよう。
この震えた声が、ちっちゃい子みたいな甲高い泣き声に変わってしまう前に。
「姉さん、私ね。帰ったら姉さんに渡したいものがあるんだ」
結局、私とささめ姉さんがいたのは十朱中の裏山で、知ってる道に出るまでそう時間はかからなかった。
家に帰ると、みんなと警察の人がいた。タックル紛いの勢いで、真っ先に抱き着いてきたのが鏡花さんだったのは、ちょっとだけ意外だった。まこ姉さんと玲市兄さん、それから警察の人に叱られた。怒ってくれた──と言った方がいいかもしれない。よく見ると、つくしちゃんのときにお世話になったおじさんだった。
晶に頭をぐしゃぐしゃされて、触んなバカなんて言いつつも、満更ではなさそうなささめ姉さんを見ていたら──とてもじゃないけど、訊く気にはなれなかった。
ねぇ、何があったか憶えてる?
※
本当は直接お会いしたかったのですが、と前置きして、しずりちゃんは電話越しに話し始めた。
あのスニーカーは、つくしとしずりちゃんの二人で相談して決めたものだったらしい。どうやら私の魂胆はバレバレだったみたいだ。二人で考えるに至った経緯を訊いたら、主にささめさんのせいですと冗談っぽく言われた。
──ねーちん、オシャレさんだからな。私、ダサいって思われるのはイヤだ。
普段からよく行くお店だったのに、妙にきょろきょろしてると思ったら。あらかじめ目を付けておいたスニーカーを探していたのか。
どうして話してくれる気になったのって訊いた。夢を見たからですとしずりちゃんが言った。夢につくしが現れて、何をするでもなく、ただ一緒にいたと。
そのとき、誕生日プレゼントの話をしていいって言われたんだと先読みする私に、しずりちゃんはいいえと言って。
──つくしちゃんは何も言いませんでした。けど、つくしちゃんがいなくなって、それから夢に出てきてくれたのは初めてでしたから、そういう意味だと思ったんです。
未来界は、今ごろ夕暮れ時だろう。
私は、膝にスニーカーを抱いている。もう、片っぽだけじゃない。
ココは、あの林の中で偶然拾ったのだと言った。こうして、探し物が帰ってきて──。
シャロからは、つくしを殺した青い膚のギノーは消滅したと聞かされた。
あまりにも──気持ちが急に軽くなり過ぎた気がする。
隣にはオッドアイのフェレットがお座りしていた。フェレットってどこ触ったら喜ぶの? いや、厳密には見た目だけだけどさ。とりあえず、頭をカリカリしてみた。わりと正解っぽいリアクションだった。
「ありがとう。助けてくれて」
何故か、目線がキツくなった気がする。今のどこがいけなかったのかちょっと考えて。
「いや、皮肉じゃないわよ。ガスマスクのときだって、アンタがいなきゃヤバかったし」
アンタが時間を稼いでくれなかったら、あの蝶だって間に合わなかった。
そう、和柄の翅をした蝶の群れ。どうして、助けてくれたのか。
「それに、アンタがいたから──」
手首に浮かぶ血の泡。
「私は、もうこれでいいやって思わずにすんだ」
自殺──せずにすんだ。
フェレットが、私の手首をぺろぺろ舐める。
「大丈夫。もう、あんなことしないわ」
皆を引っ張らないとって思ってた。
皆が前を歩いてるって思ってた。
自分だけが、つくしのいない事実から、立ち直れてないって思ってた。
でも、そうじゃなくて。
──私、つくしちゃんがいなくて寂しい。
「もう、一人じゃないから」
皆──似たようなものだったから。皆で、ちょっとずつ前に進むから。
フェレットが陽炎みたいに揺れる。嘘みたいにあっさりと消えた。
最後に名乗ったわけでも、こっちに背を向けたわけでもなかったけど。
なんとなく、もう会えない気がした。
気が付けば、茜色が部屋を優しく彩っている。
もしかしたら、あのフェレットは本当につくしの置き土産か何かだったりして。そんな淡い期待に心の中で頭を振って。振ろうとして──止める。何も焦ることないじゃない。だって、私は、ココは、他のみんなだって、まだ。
私は、スニーカーをぎゅっと抱き締めた。
あの音はもう聞こえない。