ウティカのカト
──部屋を見ろ。
跳び起きた。最悪のモーニングコール。まだ、真夜中だった。
一三九番──虎狼狸の声。通信路を乗っ取ったのか。
部屋を見回す私に、バカにしたような虎狼狸の笑い声。
急いで廊下に出て、ココたちの部屋に入る。窓が開け放たれていた。身を乗り出していた鏡花が、弾かれたようにこっちを向いた。ベッドにココがいなかった。
「アンタ──」
──返してほしけりゃ捜してみろ。色々探ってくれてんだろ?
舌打ちして、部屋を出ようとした私に、
──ああ、ところでよ。この文化遺産みてぇな庭。入場料取られんのか?
心臓を、鷲掴みにされたような。
つくしちゃんのこと、信じてあげてください。
──この前は選べなかったろ? 相棒か義妹か。今回は大サービスだ。どっちか選ばせてやるよ。
ココかしずりちゃんか。
身体ごと振り向いた。鏡花に近付いて、腕を掴んで引き寄せた。柑橘系の匂いがする。
「絶対家を出ないで。他の皆も絶対家から出さないで」
晶は、顔が見えないけど多分寝てる。この非常時に──豪気で助かる。
鏡花の肩を二回軽く叩いて、返事を聞くより先に、私は部屋を出て行った。
レインコートを羽織って家を出ると、すでに既来界だった。
フィンガースナップ。空中から煙と共に現れた腕時計を装着。口元に近付ける。CHECK──音声入力。後ろで煙の噴き出る音が聞こえ始める。スモークディフューザーが作動したのだ。今頃、しずりちゃんの家も同じ煙──〈水火の折〉に覆われているだろう。ディフューザーをオフにしない限り、効果は一日持続する。
──シャロ。ココが虎狼狸に攫われた。しずりちゃんも危ない。ディフューザーで時間を稼いでるうちにヤツを見つけないと。
言った傍から、腕時計を通して、手首に地図が投影される。これは──。
──ささめ君を襲った山童の縄張りに、一か所転移ポータルが設置されている。今、地図を送った。元は更生施設だった建物の前だ。その先が恐らくフルグライトに繋がっている。
──フルグライトって?
──錬金術師の工房だよ。詳しいことは省くが、虎狼狸がこちらの通信路を乗っ取れたのも、フルグライトのお蔭だろう。
──それって、今やってるテレパシーも傍受されてるかもしれないってこと?
──ああ。だが、こうなった以上やることは変わるまい。
ええ、アンタの言う通りよ。
──わかった。先に行ってる。シャロはまずしずりちゃんの家に向かって。
──承知した。安全を確保でき次第、君を追おう。
フードを被って、クロスバイクに跨る。
ベルトのケースに入ったプリペイド携帯に触って、ふと考えてしまう。今度は、撃てるだろうか。
ハンドラーと契約ギノーは運命共同体。私が死ねばシャロは死ぬ。シャロはまだベストじゃないのに、身体を張ってくれている。今さら敵の仕返しにビビって、ここぞってときに引き金を引けない私に、命を預けるだなんて──。
「うっざ!」
蹴りつけるみたいにペダルを漕ぎ出す。
怖い。そりゃ滅茶苦茶怖いけど、怖いって感情じゃん。どうしようもないじゃん。
何より、ココとしずりちゃんは生きてる。シャロだって生きてる。
だったら、それしか考えるな。他は──全部後回しだ。
※
鋒が空を斬る。当たらないことはわかっていた。こんな腕力のみに頼るような堂に入らぬ太刀筋では。
銃声。腕が跳ね上がった。手を離れた花舟が、床に落ちる音を聞くより早く、二発目。がくりと膝が折れた。目前に銃床。殴られた。びゅるりと血が出た。受け身も何もなく、ただ転がる。
左側がよく見えない。額から流れる血が目に入っている。
上体を起こすと、こめかみに銃を押し付けられた。同じ感触が後頭部にもあった。
銃は──「半」と表示された光の立方体から伸びる手に握られている。
視界には、あのガスマスクが四人。うち二人の右手が「丁」の立方体に消えていた。
どうして──〈ウインチェスターキューブ〉が使える?
──〈木配〉は、自身のワンノートを固有のそれも含めて、一定の制限下で任意の対象に貸与できる。これによって、発動者が貸与したワンノートを使用できないといった事態が生じることはなく、発動者はそれを対象から自由に回収することが可能である。
湧いた知識によって、知る。
トーマのワンノートは、二つではなかったのか。
驚きましたよ──とディスプレイに映るトーマが言った。そう、錆付いた額縁の、壁に設置されたディスプレイに映っている。声も合成音声ではない。機械ではギノーを捉えられないはず。自分の知らない技術だ。
「いや、どうにかして突き止めるだろうなぁとは思ってたんで。辿り着けたこと自体には然して驚いちゃあいません。ただ、方法がねぇ」
そうまでして助けたいんですかとトーマが言った。憐れむような目で、少し笑った。
「俺は卑怯です。だが、嘘吐きは厭だった。別にここまでしなけりゃ、狸どもに俺の罪を擦り付けることだってできたんです。でも、いずれはバレる。貴女に隠し事はできない。だから、たとえ貴女に蔑まれようとも、長い目で見たとき、貴女のためになることをしよう。それを、終えてから散ろうと決めました。だから、邪魔はしてほしくなかった」
トーマは上を向いて、息を吹いた。何かを──告げようとしているようだった。
「大野木つくしを殺したのは俺です」
──え?
撃ち殺したのは俺ですとトーマが言った。
佐竹の言葉。俺が見たとき、つくしは血だらけでした。
「一つはあの娘に見られたからです。あの娘は、俺が狸とつるんでた頃を知っている。もし、貴女とつくしが秘密を分かち合える関係になったら、あの娘はそれをバラすでしょう。あの瞬間──山ン中をフラフラしていたあの娘を見た瞬間、俺をそれを恐れた。同時に今しかないと思った。だから、撃ったんです」
秘密を分かち合える関係になったら?
それは──どういう。
「すっとぼけたフリは止しましょうや。薄々勘付いていたはずです。あの娘も見えていたってことに」
カイジューだったというのか。人間に成るために、どうしたら。
「何の罪もない。何も知らない被害者じゃない。巻き込まれるべくして巻き込まれた」
巻き込まれた?
「貴方が──殺したんでしょう?」
それなのに、よくもそんな。
トーマは、苦々しい表情を浮かべて、
「あの娘は、近いうちに貴女を殺すかもしれなかった」
と言った。
──つくしちゃんが、ついて来るなんて珍しい。
「何もあの日、あの瞬間そうだったとは言いません。ただ、あの娘から仕掛けることは十分にあり得た。だから、先手を打ったのです」
理解が追いつかない。そんなこと、あり得るわけがない。
「信じてほしいと願っても、信じてくれと乞いたりはしませんよ」
「どうして──」
ようやく、絞り出せた声だった。
「どうして、ボスまで奪おうとするの?」
「奴は、確かに貴女の身を案じている。いざとなったら、身を呈して貴女を守るでしょう。でも、幸せにはできない。隣にふさわしいとは言えません。そして──」
映像が左右に分割される。右側は監視カメラから見るような俯瞰視点。
二人のガスマスクを相手に、戦っているのは──。
「今、ようやく捕まえた」
ボス。
二発の銃声が重なった。どちらもココの頭を撃ち抜く音ではなかった。
ガスマスクの手首はそれぞれココに押さえられていて、首にはそれぞれ有刺鉄線が巻き付いている。
〈ブラッドスポーツ〉──ココが鋭く息を吐くのに呼応して、ガスマスクの首が落ちた。
脇の下まで手を引き、一八〇度の螺旋回転を加えながら〈引飴〉を放つ。狙いは手近な壁。破壊された向こう側には。
「な──」
ココは、目を疑った。壁が崩れた瞬間、後ろからも同様の音が聞こえていた。
壁には──穴が開いている。向こうには。
白いマウンテンパーカーを着たココの背中が見えている。
「三次元トーラスってヤツですかね? お得意の力技じゃどうにもなりません」
直後、脚に痛みが集中した。前のめりに倒れるココ。足を撃たれたのだとわかったが、何発当たったのかはわからなかった。ヒヒイロゴケでできた脚──回復力こそ尋常ではない。だが、痛みは感じる。疲労も感じる。熱や重さは蓄積する。
「ああ、考えてみれば、奴から先に仕留めれば、お嬢は幻覚で気を失うんですよねぇ。何でバカ正直にお嬢から狙っちまったかなぁ。エンボスはそれからゆっくり剥ぎ取ればいい」
さあ、腹を割る時間と行こうぜ──と冷たい声でトーマが言った。