tremolo
学校は休むことになった。
まあ、つくしがいなくなって、そのショックからあの音を聞くようになって、それが幻聴だってわかってるくせに癒されている自分が厭になって、とりあえず距離を置こうと友だちの家に転がり込んで、そこで散々甘やかされた帰り、誰それの田んぼで泥遊びに興じてたんだから、そりゃまぁ心神の衰弱と受け取られても仕方がない。
いや、実際衰弱はしてるか。
リビングのソファでごろごろしている。部屋は選択肢になかった。きっと、あの音がする。かといって、ここもくつろげるかと訊かれたら微妙だ。
だって──つくしの遺影が置かれている。
布を敷いた小さなテーブルに、あの娘の写真があって、お花やお水が供えてある。仏壇っていうよりは、いなくなってしまったあの娘のスペース。
上手く言えないけど、とにかく視界に入れたくなかった。
そうだ。そもそも私に相談しない方がおかしいじゃない。つくしの遺影をリビングに置くなんて勝手に決めて──。
いや、勝手じゃないか。相談は、されていたか。
意見なんて──言わなかったわね。そういえば。
時計に目を遣る。もうじきかな。
一時間程前、今日は一六時からお客さんが来るから出迎えてあげてとまこに言われた。
それだけ伝えて、まこは出て行ってしまった。
服装がガーリーな感じじゃなく、大人しめだったので、多分仕事だろう。業種上別にガーリーでも構わないんじゃないんかと思うけど、着る服によってやっぱり人の気持ちって変わるから、あれがまこの制服なんだろう。
大野木まこ。家に来た友だちは、まこを見て、みんな同じことを言う。
理想のお母さんっていうより理想のお姉さん。私だって、そう思う。
いや、確か匂坂だけは、違うことを言っていたか。
──ココちゃんと同レベルで重症っていうか、天然モノだよね。あと、お母さんって顔にケガしたことある? 手術するくらいエグいヤツ。えっ、いや、知らないならいいんだけどねー。全然。
一体──何が言いたかったのか。何にせよ、アイツは二度と家に呼ぶまい。
私のいた一時保護所では、そこを出たあと、保護されていた者同士で連絡先を交換することは禁止されていた。だから、私とつくしは本来別々の家に引き取られるはずだった。
なのに、こうして一緒の家で、義姉妹として。
──玲市兄逆玉だもんなぁ。
細かいことを気にしない性分のせいか、口が滑ったのか、晶のそんな呟きを思い出す。
まこの実家って、金持ちなんだ。
首を振る。そこは──もういいじゃないか。
私たちは義姉妹で、あの二人は両親なんだから。
裏で何が動いたんだとか、知ったところでどうにもならないことを考えるのは止そう。
今以上に、心の健康を害するなんて御免だ。
と、インターホンが鳴った。
──本当に一六時ぴったりね。
ドアを開けた先に、
「こんにちは」
制服姿のしずりちゃんがいた。
久しぶりにつくしを見た。こうして遺影の前に座ったのは久しぶりだった。
傍にはしずりちゃんがいて、その手にはインスタントのココア。しずりちゃんがマグに口をつけた。
「ごめんね。今ウチの女子力高い勢がいなくて」
ココがいてくれたら、ナントカ茶瓶とかいう専用の急須で中国茶まで出せるのに。
いえ──と言って、しずりちゃんは控えめに笑った。
何だかお伽話の主人公みたいな娘ねぇ──と、初めて家に来たしずりちゃんを見て、まこが耳打ちしてきた。中々上手いこと言ったもんだ。
ロングの黒髪、黒目がちなのに凛々しい眼差し、大人びたカラーのレトロな私服。これが親じゃなくてこの娘自身のセンスだって言うんなら、特にカラータイツの取り入れ方で教わることがありそうだった。
──親が先生なんだって。
ゆるい三つ編みのつくしが言った。しずりちゃんに編んでもらったらしい。
そういえば、私はつくしのコーデは毎日のように考えていたけど、髪に手を出したことはあんまりなかった。
──学校の先生なんです。
──へえ、どっちが?
しずりちゃんの表情が僅かに硬くなる。
一体今のどこに地雷があったんだって考えていると、
──どっちもです。
しずりちゃんは微笑んでそう言った。眉が八の字だった。
その微妙なムードを変えたかったからってワケでもなく、ただ、その日持っていたペンケースが某ビーグル犬のキャラもので可愛いかったから、ついペンケース可愛いって言ったら。
──すみません。
何故か、顔を赤くして謝られた。
言葉の選び方がココに似てると思った。
「安心しました。──お顔が見れたので」
お元気そうで──とでも言いかけて止めたのかな。言葉を選んでくれている。
本当に、つくしと同級生なんだろうか。
年のわりに礼儀正しい子は、私の経験上二つのパターンに分けられる。愛されて育った子と育ちがいい子。この娘は──両親が教職だっていうし後者っぽいけど、にしたって、ここまで洗練されるものなのか。
つくしの遺影を見る。ついさっき、しずりちゃんの供えてくれた花に憶えがあった。
「もしかして、結構通ってくれてる?」
花だってタダってワケじゃないのに。
「お邪魔でなければ良いのですが」
「全然──」
つくしも喜んでる──なんて。
そこは、そんな感じのことを、さらりと言わなきゃダメだろ、私。
しずりちゃんは、待ってくれている。
私がしずりちゃんに話しかけること。本当に伝えたいことを伝えること。
まさか、逆の立場が回って来るなんて。
「つくしがね、いないってこと頭ではわかってるの。けど、実感が湧かないっていうか」
遺影のつくしは笑っている。
「ここにはいない気がして」
だから、ここには座れない。
いや、本当にここにつくしがいるだなんて、魂があるだなんて、誰も思ってないか。
「結局、カッコつけてるのかもね。私もしずりちゃんみたく──素直にならないと」
手を合わせてあげられるくらいには。お花を供えてあげられるくらいには。
「素直なんかじゃありません」
はっきりとした口調だった。しずりちゃんは、膝の上で拳を握っている。
「ついこの前まで一緒でした。ついこの前まで普通にお話していました。ついこの前まで一緒にほしいものを考えていました。初めてお友だちの誕生日会にお呼ばれしました。そうやって過ごしてきたつくしちゃんの写真が、今こうして目の前にあって、それに手を合わせて、あの娘を感じられるかと言われたら、そんなの──よくわかりません。通っているのは、他にしてあげられることが──したいことが思いつかないからです」
声が、震えている。
でも──と言って、しずりちゃんは胸に手を当てる。
「ここに来て、つくしちゃんのことを考えると、胸がすごく痛くなるんです。そんなとき、私は、ああ──ここにいるんだなぁって思います」
この娘は、痛みの中につくしを感じている。
「このままでは、いけないとわかっています。つくしちゃんを、いつまでも痛みと結びつけたままではいけないと、つくしちゃんに申し訳ないとわかっています。でも、もうしばらくはこのままで。これにつくしちゃんを感じていたいんです」
しずりちゃんを抱き寄せた。そうせずにはいられなかった。
つくしは──一時保護所にいた頃から、あまり眠れない娘だった。
けど、私と一緒なら眠れるっていうから、布団に入って来るあの娘に、私はいつも仕方ないなぁってお姉さんぶった顔をして。
でも。
本当に、抱きしめていたのはどっちだ。
抱きしめられていたのはどっちだ。
安心させてあげないとって思っていたのは──。
ささめさん──と名前を呼ばれる。
返事ができない。うんという声さえ出て来ない。
「ささめさんにはささめさんの──つくしちゃんの居場所があると思います」
私は、泣かなかった。泣かないように我慢した。
泣くには、まだ早過ぎるっていうか、何もかもが中途半端過ぎる気がして。
何より、今泣いてしまったら。
もう、二度と引き金を引けないように思えた。
※
家の前で立ち往生している。立ち往生とは、本来立ち死にを意味する言葉らしい。確かに、今の私は立ったまま死んでいるようなものかもしれない。
どうして引き返したのだろう。いや、理由はわかっているはずだ。
玄関にあった見たことのあるローファー。しずりちゃんの靴だった。
善い娘なんだってことは、わかっている。
ただ、目が──私を見る目が駄目なのだ。
しずりちゃんはどういうわけか、私のことを尊敬している。自意識が過ぎるのかもしれないけれど、きらきらとした、焦がれるような眼差しを向けてくる。
私は、あんな目を向けられていい存在じゃないのに。
つくしちゃんの目が、ありのままの私を映す鏡なら。
しずりちゃんの目は──美化された私を映す偽りの鏡。
それはそれで、耐えられなくなる。
その場に蹲った。考えていたら、お腹が痛くなってきた。
後ろから、誰かが近付いて来る。足音からして家族の誰かではない。それでも、顔は上げなかった。今は誰とも話したくない気分だった。
あの──と声をかけられる。聞いたことのある声だった。振り向くと、
「誰か、呼んで来ましょうか?」
心配そうな顔でこっちを見る佐竹君がいた。
こけしみたいな子だと思った。
髪型も然ることながら、瞳が円らだから余計にそう見えたのだろう。
初めて佐竹君に会ったのは、佐竹君のお姉さんに当たる依鈴先輩の自宅にお呼ばれしたとき──剣道着姿の佐竹君が、お茶とお菓子を持って来てくれたときだった。
さて、このラクガンと紹介されたお菓子はどうやって食べるのだろう、見た目はメレンゲ人形みたいに固そうだけれど、やっぱり舐めるのだろうか、飴みたいに、とりあえず先輩が手をつけるのを待とうとか、色々考えていると、
──弟の佐竹だ。大野木のところの末っ子がいるだろう。あの娘にほの字らしいぞ。
あまりにも、さらりと。
佐竹君が固まった。
私は、可哀想だと口にするのは、小学生だからって下に見過ぎていると思ったので、
──そ、そういうことを茶化すのは、お姉さんでも酷いと思います。
依鈴先輩を見据えてそう言った。
先輩は、予想していたとばかりににんまり笑って、
──ほら、こういう気遣いをする奴なんだ。
面白いだろうと言って、佐竹君を見た。
佐竹君と視線が触れ合う。
頬を赤らめて、先に目を逸らしたのは、佐竹君の方。
何だか──お友だちになれそうだと思った。
夕暮れの公園には、私と佐竹君以外誰もいなかった。
私たちはブランコに並んで座っている。ベンチに座ろうとは思わなかった。佐竹君が気を悪くしない距離感がわからなかったからだ。
どうして、声をかけてしまったんだろう。ちょっとお話ししないだなんて。
場所は公園を選んだ。家でお話しするって訊いたとき、佐竹君が少し顔を曇らせたからだ。私の願望がそう見せたわけではない──と思いたい。
佐竹君は、ナップサックを背負ったままだ。急ぎの用でもあるのだろうか。いや、それだと家の前にいた説明がつかない。私の誘いにオーケーを出したりはしない。よっぽど大切な何かが入っているのだろうか。
ふと、依鈴先輩の言葉が頭を過ぎる。
──末っ子がいるだろう。あの娘にほの字らしいぞ。
「佐竹君は、つくしちゃんのことどう思ってたの?」
これは──突っ込み過ぎてやしないか。
別の話題を振って誤魔化そうにも、言葉が浮かんでこない。
「好きですよ」
びっくりした。あまりにも素直な一言だった。
佐竹君の顔は、決して笑顔とは言えない。でも、柔らかい顔つきをしている。
──好きでしたじゃないんだ。
息を飲む。
何か、すごいな。
佐竹君は、喉の辺りを触りながら、続ける。
「不思議です。アイツがいたときは、いつもこの辺りでつっかえていたのに」
今じゃあ、こんなに、あっさり。
「大野木さんはどう思ってたんですか? つくしのこと」
問い返されて、言葉に詰まった。頭の中が、真っ白だった。
「酷い」
ただ一言、ぽつりと呟いてしまう。
「最近ね、学校から家に帰るまでの間、ずっと考えてるの。今日、家族と顔と合わせたら、どんな顔で、どんなことを話したらいいんだろうって。つくしちゃんがいなくなって、雰囲気はどんよりしていて、料理はちょっとできるから頑張って美味しいもの作ろうって思うんだけど、でも、頑張り過ぎるのも、何だかズレてるというか、良くないのかなって」
だから、家に帰るのが厭になる。何をするわけでもない放課後を過ごしてしまう。
ささめ姉さんは。
受け入れてくれる親友がいる姉さんは。
誰かに受け入れてもらうことに抵抗がない姉さんは。
だから──ずるい。
「つくしちゃんがいなくなったのに、私自分のことや周りの顔色のことばかり考えてた」
佐竹君とは違う。喉に言いたいことがつっかえているわけではない。
私はつくしちゃんのことをどう思っていたんだろう。
その答え自体がないのだ。どこにも見当たらないのだ。
「なんて薄情なんだろう」
目の前が、滲んでくる。
こんなもの流してはいけないのに。流していい立場ではないのに。
横から、ハンカチが差し出された。
「薄情だったら、泣いたりなんてしませんよ」
佐竹君は、前を向いたままだった。
私は、ハンカチを受け取る。つい、笑ってしまった。
「佐竹君。男の子なのにハンカチ持ってるんだね」
「な──」
「すごいね、佐竹君は」
佐竹君が真っ赤になる。何かを言おうとして、けど、言えなくて。
何故だか──涙ぐんでしまった。
「これは、違うんです。ただ、姉貴──じゃなくて。褒められたのが、あまりに──」
私は、佐竹君の向かいに立った。
日傘を開く。これで、周りから佐竹君の泣き顔は見えない。
佐竹君が俯いた。膝上の握り拳にはらはらと涙を落として。
絞り出すような声で、言った。
「大野木さん。俺には、話さなければならないことが、謝っても絶対に赦されてはいけないことがあります」
※
「すみません、送ってくださって」
いいのよ別にと言って、格子戸の向こうに広がる景色を見る。ぼてっとした灯篭のあるいかにもな日本庭園。そう、まだ庭園だ。ここからじゃ、建物が見えない。ここに着くまでの塀だって、結構な長さだったのに。
これ──文化財とかに指定されてないわよね?
しずりちゃんが年のわりに礼儀正しいのは、両親が教職だからって思っていたけど、この調子だと代々そういう家系かもしれない。
「入場料はもらっていませんよ?」
「──私、そんな顔してた?」
「家に初めて来たときのつくしちゃんがそうだったので」
──なあ、どこで入場料払ったらいいんだ?
まさか、あの娘と発想が同レベルとは。
つくしから、今日はしずりちゃんの家で遊んだという話は何度か聞いたことがある。となると、つくしはこの門をくぐったのか。我が義妹ながら結構な度胸だ。
「最近さ、よく眠れてる?」
しずりちゃんが、小さく目を見張った。
「前に、つくしが言ってたの。友だちにあんまり眠れない子がいるから、何かよく眠れるようないい方法はないか──って。だから今のはひっかけただけ。それがしずりちゃんだってことは、言ってなかったよ」
「そうですか。なら、あのおまじないも」
しずりちゃんが、言葉を切った。その瞳が、潤み始める。
「平気?」
「はい、平気です。今はもうよく眠れています。つくしちゃんがとっても頑張ってくれましたから」
詳しいことはわかんないけど。
つくしはこの娘のために頑張った。この娘もそれを感謝してくれている。
なら、それで良いじゃん。
頬を伝う涙を、人差し指ですっと拭う。
しずりちゃんがすみませんと言った。
「ねえ、厭なら言わなくてもいいんだけど。ひとつ訊いておきたいの」
「はい」
「さっき、つくしとほしいものを一緒に考えたって言ってたでしょ。あれは──」
何のこと?
しずりちゃんがぎくりとした。申し訳ありませんと言って、頭を下げた。
「お答えすることはできません。つくしちゃんとの約束ですから」
顔を上げて、そう言ったしずりちゃんの表情は。
何だか晴れ晴れしていて。すごく年相応に見えて。
私は、腰に手を当てて、短く息を吐いた。
「ホント──いい友だちだわ」
「あの、つくしちゃんのこと、信じてあげてください」
──ささめねーちん、これほしい。
しずりちゃんの頭を撫でながら、私は言う。
「もちろん、信じてる」