IAN MOONE
通い慣れた畦道。自宅へと続く帰路。
足取りは、決して軽いとは言えない。
稲荷神社を出て、未来界に戻ると、すっかり暗くなっていた。
コの字形をしたバス停の待合所。もう使われていないだけあって、壁の広告は文字が読めないものもあったけど、わりかしベンチは綺麗だった。座るのに抵抗がないくらいには。
子どもじみた時間稼ぎ。できるなら、皆が寝静まってから帰りたい。
いや、鏡花から伝わっているなら、まこは起きているだろうか。
以前に泉子から家に連絡がいってる可能性だって──。
と、LINEの着信音。
──寄り道せずまっすぐ帰らなくちゃ駄目よ?
泉子からだった。
「はーい。ママ」
微笑ましい反面、地味にぐさりときた。既読だけして、閉じた。
カーチャン多過ぎだって。私の周り。
藤枝家を出る前、泉子としたやり取りを思い出す。
──本当に大丈夫なの?
──うん、悪いわね。突然押しかけて。またお土産持って遊びにくるから。
泉子が、小さく頭を振った。
──本当はね。少し優越感。ささめちゃんは、人気者でしょ?
──有名人って自覚ならなくはないけど、人気者は違うでしょ。
似たようなものじゃないと言って、泉子が笑った。
──そのささめちゃんがつらい時、頼りにしてくれたのが、私だった。だから、優越感。
本当は、もうちょっと続くんだけど、恥ずかしくなってきたので、ここらで打ち切る。
何コレ。彼氏彼女じゃん。
再び、液晶に目を遣った。
ロック画面の時刻が、ありえない数字を示していた。
画面が、じわじわと赤くなってゆく。
顔を、正面から叩かれた。画面から、勢いよく放たれたヒヒイロゴケに。
それは、目を瞑る反射すら許さず、ささめの後頭部を突き抜けていった。
あくまで──そんな錯覚があった。
赤い世界に、人影が四つ。
半裸に裁着袴、荒野を思わせる膚、頭の天辺に曇りガラスのような素材の歪なコブ、目元の黒い鉢巻きには白い絵の具で単眼が描かれている。
──山童が、どうしてこんな平地に?
その内の一人が、長物を肩の上で構えた。腕を、後ろに引いた。
咄嗟に横へ。プリペイド携帯を抜きながら、跳んだ。
転がりつつ、ネイルガンに変えて、うつ伏せの姿勢で二発撃った。牽制の意図が大きかったが、一人倒れた。倒れ方からして、肩に当たったのだろう。
滑らせた銃口の先に──盾。とはいえ、戦国の世に活躍していたような代物だ。
構わず撃とうとして、見えた。
視界の端。ベンチに突き刺さるショベル。長物の正体。
そこに括られた金属の塊は、緑で四角くて──。
飛びついた。
グリップに触れたところで、素早く視線を結ぶ。
爆発した。
吹き飛んだのは、ショベルを持っていた山童と、傍にいたもう一人。
〈揺蕩の折〉によって、ショベルと盾を入れ替えたのだ。
二人が消えて、一人はもがいている。
もう一人、小柄な山童がショベルを握っているが、すでに腰が引けている。
突き出されるショベル。ささめは横に動いた。ショベルを両手で掴みながら、膝に蹴りを一撃、山童がバランスを崩した瞬間、グリップで顎をかち上げる。山童が尻餅をついた。奪ったショベルを投げて捨てた。
「ねぇ」
尻で後退る山童。足の裏に──QRコードのようなピクセル模様が見えた。
──そういえば、前にシャロが言っていた。
山童は、縄張りによって異なるタトゥーを足の裏に彫るのだと。
逃げ出す山童。
その背中を見ながら──シングルハンドで引き金を引いた。
肩を撃たれてなお、ショベルを手に忍び寄っていった山童の断末魔が聞こえた。
何かが、おかしい。
ささめは、倒れたばかりの山童を見た。頭がなかった。
膚には、十字架を模した発疹が浮かんでいる。
──タヌキはまだ生きているかもしれない。
逃げる山童の足に狙いをつける。
大した距離じゃない。引き金にかけた指をくの字に曲げようとして。
呼吸が乱れていることに気付く。
こいつを。こいつまで撃ったら。また報復されるのではないか。敵を作るのではないか。
──ささめねーちん。
だとしたら、今度は、誰が。
我に返った。けれど、それは銃声によってではない。
骨が折れる厭な音だった。
いや、距離から考えて、そこまで大きな音だったとは思えない。
きっと、イメージだろう。光景を目の当たりにしていたのだから。
首をおかしな方向に曲げて、崩れる山童。
傍には、曲げた張本人──ガスマスクがいた。マスクは、白黒写真が似合うデザインだった。全身に光沢があるのは、ラバースーツだろうか。身体つきはスレンダーで、腰や肩のラインから少女だとわかる。
そう、丁度小学生くらいの──。
目を細めて、額に汗が浮いたなぁと思ったときには、もう。
いた。
アッパーカット。眼前を通り過ぎる拳。空気の衝撃に顔を叩かれる。
バックステップしながら、〈水火の折〉を広げる。
当たらなかった。というより、見当たらなかった。
右側から衝撃。横転しながら、その勢いは殺さず、滑走に繋げる。
さっきの一撃──横合いからの体当たりだろうが、ガードできたのは偶然だった。ガードした腕が、重い。折れてこそいないが──ボンディングスキンありきでこれか。
と、項の辺りに、静電気が走る。
後ろ向きに滑走する中、靴の裏に絡めていたヒヒイロゴケを外す。
後方宙返り。ほとんど、宙に身を投げたような高さだった。
頭を反らした。裏拳を振り抜いたガスマスクの背中が見えた。
空中で、ガスマスクの後頭部──ポニーテールに狙いを付けて。
銃身を掴まれた。
こちらを見てすらいないのに。
反応──できるのか。
二回、三回と景色が回って。
何度かバウンドした挙句、横たわっているとわかったのは、頬に感じるヒヒイロゴケの硬さと、ゆるゆると迫るガスマスクの足に気付いてからだった。
ささめは、立ち上がる。
肩の力を抜いた。深呼吸の余裕はなかった。
集中力とは、とどのつまり不要なものをどれだけ取り除けるかだ。必要なものだけにどれだけ意識を注げるかだ。
ささめには、形成の際に痛みが伴った傷を釘に変えて抜く能力がある。自身が障碍であると認識したものを取り除ける力。これは、集中力にも応用が効く。集中の妨げである雑念を障碍として除去し、極度の集中状態を意図的に作り出すのだ。そこに、ボンディングスキンによる身体能力の強化が加われば、三メートルの距離から撃たれた弾丸さえ、ささめは見切ることができる。
それでも──。
ガスマスクの動きは見えない。ならば、目で追うのは止めだ。
BLEACH──直後、前方広範囲に〈水火の折〉を展開。
同時に、背後へ伸ばした右手──ノールックで引き金を二回引いた。
身体ごと素早く振り返ると、ガスマスクがいた。
いて、胸元で光る二本の釘を見ていた。
爆音と共に、上半身が跡形もなく消し飛んだ。
ネイルガンをゆっくりと下ろしたところで。
激痛があった。僅かに身体が浮いた。
へその辺り。腸。拳がめり込んでいる。拳だけ。手首より上が、ない。
両膝をついて、喘ぐような声を出しながら、見えたのは。
黒いコードが、ガスマスクの断面に群がり、元の姿を造ってゆく光景。
あのコードは、散らばった肉片か。回復──しているのか。
つい先ほど、ささめを殴った拳も、コードに繋がっている。
ガスマスクが、原形を取り戻した。まるでビデオの逆再生だった。
その腹から、絡まるコードを千切りながら抜いたのは、シンプル過ぎるあまり玩具にしか見えない銃。その引き金に指がかかって──。
波紋が広がった。直後、ブラウン管テレビのスイッチを入れたときに聞こえる音を、何倍も大きくしたようなノイズ。
目の前に無数の光球があった。規模の小さな銀河のようだった。
紫色に輝くそれらは、密度を増して、小動物を形作る。
フェレットか、オコジョか。眼は赤と青のオッドアイ。二本の尻尾の先端にも、それぞれ赤と青の光が灯っていて。左右に揺れる度、光の線を描いている。
ささめとフェレットの周囲には、光のドームが形成されている。
どうやら、このフェレットのお蔭らしい。
ガスマスクが、銃を腹にねじ込んだ。使わなくても充分と判断したのか、元より装弾数が一発だったのか。そして、消えた。
光のドームのあちこちに、絶え間なく広がる波紋と先程のノイズ。
どうやら、あらゆる方向から攻撃をしかけているらしい。
フェレットが後退した。
助けに来てはくれたが、ガスマスクより圧倒的に上手でもないらしい。
ささめは、腕時計を見た。その先に繋がっている相手を想った。
シャロはまだ万全ではない。けれど、もう、これしかない。
MODE──頭の中で言い終える寸前。
ガスマスクの腕が、真横へ伸びた。続けて、もう片方の腕も。まるで、糸で操られているマリオネットのように。そう、糸。螺旋状の黒い光輝が、ガスマスクを縛り上げていた。
光輝の出所を目で追うと、神社で扱う符に朱書あるいは墨書されているような文字が、黒い光を放ちながら宙に浮かんでいた。ささめには読めない。意味もわからない。ただ、禍々しいという印象がある。
文字の傍らには、和柄の翅をもった蝶の群れ。
ガスマスクが、強引に千切った。光輝ではなく、自らの腕をだ。
タックル。光の壁が激しく波打つ。
ガスマスクの首を、新たな光輝が捕らえた。
ささめは、そこで初めて気付く。
光輝を生成している文字は、蝶が飛んだ軌跡そのものなのだと。
締め上げられ、項垂れたガスマスクの頭が、あっさりと落ちて。
柱の如く噴き上がるヒヒイロゴケの飛沫。いや、噴き上がっている、その中に。
黒いコードの束──触手が揺れている。先は、ブレード状になっている。
ぐるりと円を描いた。
勢いを維持したまま、光のドームを両断しようとして──。
弾かれた。
蝶が、鏃状に姿を変えるや、触手目がけて突っ込んだのである。
新たに湧いた群れは、まるで落雷のように、次から次へと降り注いで。
ガスマスクを後退をさせ、終いには膝をつかせてしまう。
拘束を担っていた蝶たちが、二手に分かれた。
一方は右へ。一方は左へ。
なおも全身からを触手を伸ばして、光のドームを攻撃しつつ、蝶の群れを相手取るガスマスクを中心に、文字を走らせていく。
文字の列が、ガスマスクを包囲する寸前で。
フェレットの全身が輝いた。光球が形作るシルエットに戻った。
光のドームが厚みを増す。肉体を保つ分のエネルギーを当てたということか。
何かが、起きる。
光の向こう。薄っすらと見えたのは、三六〇度から一斉に放たれた雷の束。
飲み込まれるガスマスク。ささめは堪らず目を瞑って──。
開けたときには、もう何もいなかった。
ガスマスクも、フェレットも、蝶の群れも。
ふと、足許を見た。中身入りのマスクが転がっていた。
ネイルガンを向けた。この状態からでも再生は大いに考えられる。
ポニーテールに目を留めて。
「え」
断面で、千切れたコードが蠢いている。
撃てるだけ撃った。
弾が尽きるまでという意味ではない。指が痛んで動かなくなるまでだ。
もう、ビデオが逆再生される気配はなかった。
ささめは尻餅をついた。ばしゃりと湿った音がした。
田んぼの中にいた。
目の前には、肩を小さく上下させる鏡花がいる。
当然、足首は泥に浸かっている。汚れていい格好には見えない。
「帰りたくない気持ちは慮ってあげるけれど」
鏡花が、こっちへ手を差し出す。
「駄々をこねるにしてもこね方があるでしょう?」
呆れ顔をしてみせる鏡花の眼鏡には、泥が一滴跳ねていて。
ささめは思う。
なるほど。ココの言っていた通りだ。今、あの娘の言っていたことがよくわかった。
大野木鏡花は──可愛い。
ほくそ笑むささめは、眉を顰める鏡花に頭を振って。
差し出された手を掴んだ。
──おはよう、シャロ。何よ、怪我は大したことないって昨日伝えたでしょ。もう、平気だから。で、送ってくれた山童のタトゥーのデータ。昨日確認してこれだと思うヤツにチェックつけといたから、そう、〈眼福の折〉に入れておいたし、確認よろしくね。うん、いや、寝たってば。時間が少ないだけで、ちゃんと寝ました。はいはい、揚げ足取んなー。は? まだだけど? ねぇ、ご飯の心配までするのは流石に止めてくんない? お父さんかっつーの。あっ、あと昨日言い忘れてたし言っとくけど、ガスマスクって新しいデザインじゃなくて、一九世紀くらいのうっさん臭いヤツだから。とにかく何かわかったら教えて。うん、うん、わかった。ありがと。
テレパシーを終えて、大きく伸びをする。
鼻に抜けるひんやりとした空気。日がのぼるにはまだちょっと早い。
──やっぱ、通信路回復すると便利だわ。
あのとき、ガスマスクの生首を間近で見て、わかったこと。
すっぽり被っているだけだと思っていたマスクは、ラバースーツとの境目を火で焙って、完全に接着させていたこと。
ポニーテールは、マスクの後頭部にある穴から出ていて──。
その、オリーブアッシュの髪が、妙に手入れされていたこと。
そこだけが、可愛がられている。
寒気とは、違う。血のように、粘り気のある何かに、薄い膜一枚隔てて纏わりつかれているみたいな、はっきりしない気持ちの悪さ。
一体──何だったのよ。アイツは。
くるりと振り返れば、木立の中に佇む別荘みたいな我が家がある。ホント──辺鄙なところに建ってる。まあ、私にとってはそっちの方が好都合なんだけど。
戻ろうとした矢先、ドアが開いた。
まこが出て来た。
昨日の鏡花といい、今の私といい、部屋着にアウターで外出すんのは、ウチの家族のブームなのか。
──そんだけ心配かけてるってことでしょうに。
「寒くない?」
まこは微笑んで、
「それ、今言おうとしたところよ」
と言った。
見つめ合う。先に恥ずかしくなって目を逸らしたのは私。
昨夜の帰り際、シャロに言ったことを思い出す。
どんな顔して帰ったらいいと思うって。
アイツはそれを私に訊くのかねって怒った素振りをしてみせたけど。
「おかえりささめちゃん」
「ただいま」
さて、私はどんな顔をしてるんだろう。