Gradation
煙管の方が似合うと思うのだけれど。
背中に甲羅を転写プリントした半纏。細くぴったりとした股引。底がサメの歯みたいにギザギザした下駄──トーマ君が、コーンパイプを吹かす姿を見ながら、そんなふうに思う。場所が場所だけに、何だか罪悪感があった。
放課後で学校の屋上。私たちは、フェンスを背に隣り合って座っていた。
「何かすごく甘い匂いがするね」
トーマ君が、んっと短く言ってタバコの缶ケースを差し出す。そこには、広いつばの帽子に、鳥の嘴のようなマスクを着けたキャラクター。書いてあるのはアルファベットだけど、読み方がわからない。何語だろうと思っていたら。
──ただ、知識が湧く。
「メディコ・デッラ・ぺステ。──何? このキャラ」
「ペスト医師。連中のマスクと、こいつの匂いをかけたんでしょうよ。色んなハーブやスパイスを焚き込めて、邪悪な臭いが追い払えると信じていた」
「好きなの?」
「別に。お嬢から頂戴している兵主部の報恩を紳士の嗜みとすりゃあ、コイツはガキがパーティーで吸うヤツです。ただ、ルームノートが甘いんで──女子ウケがイイ」
口の片方をくいっと上げて、気障っぽく笑うトーマ君。
似合わなくて、つい笑ってしまう。
ひでぇなぁ──と、トーマ君も笑って、すぐに訝しげな顔をつくった。
「どうしたの?」
「お嬢。イタ語読めるんですね」
「イタリア旅行したいなぁと思ってて」
最近、息をするように嘘を吐いている気がする。でも、吐く度、胸のどこかが痛むのだから、きっとまだ私はまとも寄りなのだと思う。
トーマ君は、ふぅんと相槌を打っただけだった。
「さて、良い報せと悪い報せがあります」
私は、小さく挙手をして、じゃあ良い方を──とお願いする。
「良い報せは、山童たちが平地に現れ出したことです。奴らは、そう簡単に棲み処を変えない。土地を巡る地気が自分にマッチしているかどうかを基準にテリトリーを決める──そういうルールで生きているからです。奴らが山を下りて来たとしたら、考えられるワケの一つは、追いやられたからでしょう」
「それを、風梨華がやったって?」
「だとしたら、どうして風梨華の仕業とわかったか──でしょう?」
トーマ君が、私の言いたいことを先読みした。
「形状記録を調べたんですよ。ヒヒイロゴケが保存しているのは、人の見聞きしたものだけじゃあない。ヒヒイロゴケ自体が歩んだ変遷も残してるんです。たとえば、お嬢が刀の生成に使ったヒヒイロゴケは、見た目こそ他と変わりませんが、調べれば確かに残っているのです。これは、かつて刀の一部だったことがある──と。今の技術では、何時何分何秒にその変化が起こったのかがわかっても、誰がその変化に関わったのか──個体の特定は難しいとされています。生成時に使う思念波から、理論上個体は特定できますが、思念波のデータベース化に辿り着いていない以上、何ともだそうで。で、怪しいと踏んだ辺りの形状記録を探ってみた。すると──鬼百合が出た」
鬼百合。トンネルでも舞っていた、風梨華を象徴する花だ。
「さて、悪い報せですが──」
そこで、トーマ君は言葉を止めた。曇りガラスみたいな素材の頭を掻いて。 ちょっと言い辛そうに続けた。
「風梨華は、もう生きていないかもしれません。形状記録を調べたとき、鬼百合の他にも見つけたものがあります。かつて、風梨華の血肉だったヒヒイロゴケです。それも多量に。ただ、俺もお嬢も奴にそこまでの痛手を負わせた憶えはない」
「山童たちを追い出すときに怪我をした──とか?」
「単純な怪我の理由付けなら、それでもオーケイでしょう。問題は、どうして奴が山童たちを追い払ったかです。俺は、こう考えています。風梨華は何かから逃げていて、そこを隠れ処にするために、先住民を追い払わざるを得なかった。つまり、そのですね」
トーマ君の声が小さくなってゆく。
──ああ、やっぱり。
「捨てられたんだね。風梨華は」
トーマ君も、助けに来たときに。
「足止めっていう役目は果たせた。だから、もう用済みだって、捨てられたんだ」
勘付いてしまったんだ。私と風梨華の間に何かあったってことを。
「あの風梨華って奴は──仲間だったんですか?」
八百八狸の一味だったときの──と、トーマ君が付け足す。
うん──と頷いた。自分でも意外なくらい、躊躇いがなかった。
「一緒に戦ってくれたギノーは他にもいた。既来界での生き方を教えてくれたギノーは他にもいた。私を庇ってくれるギノーは他にもいた。でも、私のこと一番女の子として扱ってくれて、私の女の子でいたいって気持ちをわかってくれたのが、風梨華だった」
そう、わかってくれた。慰めてもくれた。けれど──。
認めてはくれなかった。
全ては、私のためで、私の責任だ。
八百八狸──総帥の隠神刑部を含めた一桁台の狸は、三番と七番以外すでに消滅している。白い鬼の手によって、だ。
一味を抜けたあの日から、仕返しされるんじゃないかと怯える一方、心の隅っこでこうも考えていた。あれだけ──減らしたのだ。実力差をみせつけたのだ。だから、もう報復なんて、あり得ないんじゃないかって。
それが、実際は。
出直すなら失敗した場所で。
彼らは再び私の前に現れ、風梨華を送り込んで、つくしちゃんの命を奪っていった。
強くなったつもりでいた。追い返せるつもりでいた。
でも、それは、敵意が私にしか向いていない場合だ。
今回は、ボスやトーマ君まで巻き込んで。
終わりが見えない。くらくらする。
「お嬢?」
「大丈夫。その、風梨華の詳しい居所は?」
「お望みとあらば絞り込みます。けど、知ってどうするんですか?」
言われて、くしゃりと髪の毛を触る。
ほんと──どうするんだろう。
ケリをつけたいなら。死にそうな風梨華の介錯がしたいなら。
私は今すぐ学校を抜け出すべきなのに。
「俺にお嬢の行動を決める権限はありませんが、ひとまず会ってみるのはどうでしょう。危険だってことは百も承知です。それでも、ただ、会ってみては」
何気なく、空を見上げる。
「そうだね。せめて、会って後悔したいかな」
灰色がかった桜色の雲が、怖いほどの速さで流れて。
白い雲に、青い空をつれてきて。
屋上の入り口に、ささめ姉さんがいた。
※
「いつもどうやって入ってるの?」
フェンス越しに、景色を眺めながら、ココに訊いた。
屋上に出たのは初めてだった。普段は鍵がかかっているからだ。
ココは、フェンスに背を向けて、体操座りをしている。
「匂坂先輩から借りたの」
言って、ココが渡してくれたそれには、何かが足りない。
「普段は先輩が持ってて、私が借りたいときに借りに行くの。でも、これ、ネームホルダーがないでしょ? 教室の鍵についてるやつ。だから、多分──ね?」
ココが、困ったように笑う。いや、実際、困ってるんだろうけどさ。
「別にチクったりしないわよ。ただ、意外。アンタってこういうことするのね」
本当に、意外。ルールを破ることとは、縁がなさそうっていうか。
そう、私が思い込んでいただけで、内面まで知ろうとしていなかっただけか。
「うん、偶にね。そういうことするんだ」
縮こまるココ。気のせいか、ちょっと嬉しそうに見える。
しかし、匂坂センパイねぇ。瑛センパイや瑛さんでないのが、まだ救いか。
同じクラスの匂坂について、知ってることはそんなにない。
身長は私以上晶以下。大きな口をパカッと開けて、目を弓なりにする笑い方が特徴。コート丈のアウターが好きで、靴の趣味は私と合う。小学生の頃に剣道をやってて今は帰宅部。やや困り顔の泉子が言うには、おしゃべりがとても上手な娘。そっぽを向いた晶が言うには、ヤなヤツ。で、同性愛嗜好者の噂あり。
「仲良いの?」
「マッサージしあいっこしたりするよ」
そうこともなげに言ってから、
「あ、足の裏だよ?」
慌てたふうに付け足すココ。
足の裏。泉子でイメージしてみる。するにせよ、されるにせよ。抵抗が──ある。いや、あの娘に膝枕してもらってる私が言えた身分かっていう気もするんだけど。ともかく、しあいっこは学校じゃしないだろう。すでに、何度か家に行ってる仲なのか。
「ええと、根は悪い人じゃないよね?」
そこで──同意求めるのかよ。
「善い人でもないけどね」
どちらからともなく、短く笑った。
──私、一年間遭難してたの。
私が洗い役で、ココがすすぎ役。そうやって分担して皿洗いをしていたとき、何の前触れもなくココが言った。私は、危うく皿を割るとこだった。
鏡花から聴いた話によれば、ココは小学四年生の頃、クラスメイトの度を過ぎたいじめがきっかけで、山の中を一年遭難する破目になったらしい。ココは自分がドジだったから迷ったと言っていたけど、まあ鏡花の言ってる方が真実だろう。
山の中で、最初にココを見つけたのは、鏡花だった。
一年ぶりに帰って、何か食べたいものはないかと詰め寄られたココの返事は、お腹はそんなに空いてないから、髪をどうにかしたいな──だったという。
ココは、長く真っ直ぐな刃物でザックリといったミディアムヘアーだった。
いなくなったときと着ている服が違う。身体は清潔で、栄養面も特に問題なし。
それで一年もの間、どうやって生きてきたのか、何も憶えていないというのだから、警察は誘拐の線で捜査を進めた。犯人は、まだ捕まっていない。
戻って来たココには、以前と違う点があった。
話すとき、目を伏せがちなのは今もだけど、明らかに視力が回復していた。目の色は変わっていないから、色素が増えたわけではない。なのに、前より明らかに、眩しがっている素振りがない。
あと──よく笑うようになった。
──それは良い変化なんじゃないの?
鈍いオレンジの日が差すリビングで、鏡花の淹れたハーブティーを手に、私は言う。
わずかに俯く鏡花は、どうかしらと含みのある返事。
──今のココを見ていると、鎮目鏡花だった頃の自分を思い出して、不安になるの。あのときの私は無理をしていた。これが、家族を守ることに繋がるのだからと諦めていた。今のココは、あの頃の私と似ているの。そっくりな笑い方をするの。だから、あの娘が笑顔をつくる度、心細くなるのよ。
確か、ココが前に言っていた。鏡花は以前より笑わなくなって、けど安心したって。それは、鏡花が無理をしていない証拠だからって。
一方、鏡花はココが以前より笑うようになって、でもその大半が無理してるってわかるから、不安になるという。
ウチの白黒は仲が良い。良いけど、いや良いからなのか、踏み込まない。
いっぺん腹割って話したら──って言いたいけど。
できるくらいならとっくにしてるか。
「ささめ姉さんって両利き?」
返された鍵をじっと見てから、ココが言った。
何で──このタイミングで?
「姉さんが去年の試合、右手でも左手でもシュートしてたの、今思い出しちゃって」
去年の試合──ココが言ってるのは、最終日だけ観戦に来た全国大会のことだろう。一応、私は部内一の点取り屋だったから、それだけボールにもよく触ったってことだけど。にしたって、あんだけボールが目まぐるしく動くスポーツで。
「結構良い目してるじゃん」
ココは、そうかなと言って、目を伏せた。地肌が白いから、赤くなるとすぐわかる。
私は、右手をひらひらさせながら言う。
「利き手は左よ。ただ、世の中って右利き向けの商品が多いから、右手も使えた方が便利だと思って、意識して使ってるだけ」
そう、世の中には右利き向けの商品が多い。
たとえば銃。安全装置は左側だし、リボルバーのシリンダーだって左側にスイングアウトする。私は、その気になれば左利き専用の銃を生成できるけど、いつだってそれができるとは限らない。ときには、拾うとか、奪うとかして入手した、右利き向けの銃で戦う場面も出てくる。だから、私は普段から左右どっちの手でも銃を扱っている。そのかいあって、今じゃ三〇メートル先にあるコインをどっちのシングルハンドでも撃ち抜ける。もちろん、ネイルガンの自動照準補正機能なんかは抜きにした、自力オンリーの話だ。
「姉さんってキレがあるよね」
「は?」
「晶と話してるのとは全然違うから」
言われて、当たり前じゃないって言いかけて、はっとする。
私はこの娘の義姉なのに。この娘は私の義妹なのに。
たった、二言三言交わしただけで、私の知らないココがぽんぽん出てくる。
私たちは、びっくりするくらいおしゃべりをしたことが──ない。
ホントはさ──と溜息まじりに切り出す。
「鏡花から言われたの。アンタと一度話した方が良いって。きっかけは──後押ししてくれたのはあの娘だけど、でも話したかったって気持ちはホント」
鏡花には、すぐ謝って終わりにするなって言われたけど。
それでも、今一番伝えたいのは。
「ごめん」
逃げ出さなければ、それはそれでしょ。
「私こそ──」
ココの言葉は、終わったのか。
いや、表情を見る限り、一旦切っただけか。その辺り、判別がつかない。
──浅いからか。
待つよ──と私は言う。
「アンタ、私のこと苦手でしょ? 私もアンタを初めて見たとき正直手強そうな娘だなって思った。思えば、最初からそうだったのよ。あった頃から溝があって、でもそれを埋めようなんて思わなかった。そのまま、今日までやってきちゃった。そんな私らがぎくしゃくして、今もぎくしゃくしっぱなしなのは自然なことだって思う。だから──待つよ」
アンタが私に声をかけること。言いかけた先を伝えに来てくれること。
たとえ、負担に思われたって、こればっかりはさ。
ココは、緊張しているふうだった。縋るような目つきで、私を見て。
「いいの?」
待たせてしまって。
ああ、なんとなく、晶と鏡花がこの娘に夢中になるのがわかった気がする。
頷く私に、ココはやわらかく笑った。
エンボスが熱をもった。
踊り場で足を止めた。ノイズに耳を澄ませる。
──今のところ月面に宇宙船は見当たらないね。
脳内で感じる聞き慣れた声に、つい頬が緩む。
シルクハットにインバネスコート、蝶ネクタイに白手袋。
──お待たせしたかな。ささめ君。
ホント、待ちくたびれたわ。