HEAVY RAIN
夢を見ている。
すぐに夢だってわかったのは、アイツのフーデットレインコートがグレーだったから。
アイツが持っていたのはブラックで、グレーを持っているのは私の方。
つまり、私は夢の中──無意識の世界で、アイツに自分のコートを着せてるワケだ。まあ、私なら上のスナップボタンを留めて着るとして。
流石に──こじらせ過ぎでしょうに。
そこは、私の住んでいた団地内にある公園で、バスケットコートはなかったけど、ゴールだけがあった。
夢の中の私はベンチに座って、爪先で地面にのの字を描いている。
スニーカーの柄がうるさい。身体は、あの頃に戻っている。
アイツが膝を曲げた。ジャンプシュート。
あ──って声が出た。ボールが指を離れた瞬間、どこに落ちるかわかった。
中学からバスケ部に入って、一年でレギュラーになって、去年の全国大会で優勝して。中学生でも全国に出たら、アイツより綺麗なフォームの選手はゴロゴロいたけど、見ているだけで、こんなにもドキドキするシュートを打つのは、今でもアイツだけ。
──何か乙女回路がフルスロットルしてる。
ネットが乾いた音を立てて──。
いつの間にか、私はゴールの前にいた。ゴールの前にいて、シュートした直後の指先を見ていた。服装がさっきと違う。ロールアップしたスポーツショーツに、オールホワイトのスニーカー。ちょっと──こなれた感じになっている。
「すっげぇ五連続かよ」
やっぱ才能あるぜお前と言うアイツに、先生の教え方がイイんじゃないと微笑んで、拾ったボールを投げて寄こす。場所を代わった。さっきまで私が立っていた場所には、スリーポイントライン代わりの線が引かれている。
「何でスリーにこだわるの?」
「二点より三点取れた方がカッコイイだろ?」
「それって目立ちたいってこと?」
アイツは間を置いて、いかにも何かを押し殺しているふうに、言う。
「ああ、お前の言う通りかもな」
アイツは、ゆったりとボールを突いている。経験者となった今なら、それがどういう時間なのかわかる。シュートが入るイメージを積み重ねているんだ。
けど、夢の中の私は、なんとなくこっちを見てくれないのが気に食わなくて。
何でも良いから言葉を続ける。
「何で、バスケ辞めちゃったの?」
ジャンプシュート。何度もリングにぶつかって、それでも何とか入った。
アイツがボールを拾って、
「お前はどうなんだよ」
こっちにパスする。
途端、時間の流れが緩やかになった。飛んでくるボールの縫い目が見えるくらいに。
私は、それを受け取って──。
雨の中にいた。
身体は、今の自分になっていて、ブラックのレインコートを着ている。
雨が、被ったフードを打つ音しか聞こえない。
雨の向こうには何も見えない。
それほどの豪雨なのか、そもそも向こうには何もないのか。
手の中には、ボールがある。でも、ボールだけ。
パスしてくれたアイツはいない。
ねえ、もうつくしと三人で暮らそうなんてバカなこと言わない。
一緒にいたい、連れて行ってなんて本気で頼まない。
「つくしさ、死んじゃったんだよ。もう三人じゃないんだよ」
だから、せめて。せめてさ。
「慰めに来てよ」
※
口の中に、じわりと唾液が湧いて、目が覚めた。
レモン──とつい呟いてしまう。
鏡花はこっちをチラ見して、すぐに目線を文庫本に戻した。
セミロングの黒髪、黒いフレームの眼鏡、腹に力入れてますみたいなわざとらしさがない、自然に伸びた背筋。
ただ本を読む姿が、これだけ様になる中学生もそうはいまい。
ローテーブルには、とっくに冷めているはずのレモンティーがある。けど、湯気が出ているから、私がそろそろ起きると踏んで、淹れ直してくれたのかもしれない。
コースターは輪切りのレモンを模している。この部屋でこれなんだから、きっと司書の自宅はカーテンがレモンイエローで、クッションもレモンの形で、レモンの匂いがするキャンドルとかあるに違いない。考えただけで、涎出てきそう。
「司書室は仮眠室じゃないのよ。せめて保健室を使ったら?」
「あそこだって仮眠室ではないでしょ」
鏡花が、こっちを睨んでくる。我ながら幼稚な屁理屈だ。
ごめんって言って、冗談っぽく笑って見せようとする。ただ、自分でもわかる。
──どうにもぎこちない。
「本当に大丈夫?」
「疲れが溜まってるだけ。具合は悪くないわよ」
ここに来たのはこの娘に話があったから。
今日、大野木家に帰るって伝えに来たのだ。
泉子の家に転がり込んで、もうすぐ一週間になろうとしている。いくら親友とその両親が大丈夫だと言ってくれたって、流石に限度があるだろう。
で、帰るって伝えたとき、鏡花は特に何も言わなかった。
私が、みんなどうしてる──って、すごいバカみたいな質問をしたら、それこそすごいバカを見るような目つきで、見て確かめるのが一番だと思うわよ──って言われた。どこまでもごもっともだ。
つまり、目的は果たしている。いるんだけど、このまま帰るには早過ぎる気がして。
去年の冬に帰宅部デビューした私は、部活以外の放課後の過ごし方に慣れていない。
結局、そのまま居ついてしまい、レモンティーの匂いと司書の手作りレモンクッキーの甘酸っぱさ、あと鏡花が文庫本をめくる音とソファの心地よさなんかにリラックスしていたら、つい居眠ってしまって、現在に至る。
鏡花は、変わらずページをめくっている。
──勘違いされやすいだろうなぁ。
無表情だけど無愛想じゃない。どんなときも冷静だけど冷淡じゃない。
今年演劇部の部長になる泉子は言った。
──少し威圧的な響きになるけれど、他人に言うことを聞かせることにすごく長けている娘だと思うわ。
バスケ部で後輩だったハナは言った。
──ボールを持っていないときの動きが上手い。パスだって味方がディフェンスを振り切れるように出している。とにかくボールを持っている相手に合わせるのが上手なんです。
まさに文武両道。学校において誰からも一目置かれる存在。先生の間にさえ、まあ大野木家の四女に任せておけば大丈夫だろうみたいなムードが漂っている節がある。
でも、ココは。
──義姉妹の中で誰が一番可愛いかって訊かれたら、私は迷わず鏡花さんって言うよ。
その可愛いには、ココしか知らない鏡花もたくさん含まれているんだろうけど。
私が知ってる範囲で、可愛いところあるじゃんって思うところもあるにはある。
たとえば、養父のこと──玲市のことが好きなところとか。
玲市はライターの仕事をしている。売れっ子なのかはわからないけど、妖怪や伝説に関する記事を主に書いている。鏡花も元からそういう趣味があったみたいで、先月もその手の講演会を二人で聴きに行っていた。そのときの鏡花の格好──気合の入れようを見れば、まあ意識してんだろうなぁとは思う。
ただ、それが家族として笑って応援していいレベルなのか、一線を越えかねないレベルなのかは、判断に困る。
けど、晶がそのことで鏡花をからかったとき、ココが露骨に不機嫌そうだったから、結構危ういラインなんだろう。ココは誰かを好きって気持ちとか、身体の特徴とか、思春期の女子によくある悩みをバカにする態度に容赦がない。
年上に望みのない恋ねぇ。
口にしたレモンティーから苦味しか感じないのは。
きっと、思い当たる節があり過ぎるせい。
時計を見た。司書はカウンターに出ていてしばらく戻らないと言っていた。
訊くなら──今のうちか。
「ねぇ、幽霊っていると思う?」
鏡花が、こっちに目線を寄越した。ちょっと、びっくりする。読書中に声をかけたときは、大抵ページを見たまま返事するから。
「信じたくはないわね。もし、いるのなら一度くらいは顔を見せてほしいものだわ」
──その頭に、思い浮かんでいるのは誰なのか。
ああ、そうか。
ごめん──と、すぐに謝る。
鏡花は、この娘と同じ家で育ったココもだけど、両親を火事で亡くしているんだった。
実の親がいないという点じゃ、私だって同じ。けど、私の場合、物心ついたとき、すでに父親はいなくて。父親の人となりは、たまにアルコールの入った母さんのグチから小出しに聞く程度だったし、母さんの方はある日突然姿を消して、そして帰って来なかった。
母さん──久喜霙。
自分のファッションセンスを私に押しつけて──事実それは今の私から見ても良いセンスだったんだけど──私の選ぶ服も靴もカバンも、みんなダサいと一蹴して。
ファッションについてだけは、最後まで一度も褒めてくれなかったけど。
普段、目の前にいる私がホントに映ってんのか不安になるくらい、とろんとした目が。
あの瞬間──私が試着室から出て来たあの瞬間だけは。
すごく真剣な目をしていて。
娘としてっていうか、人として見られてるなって実感があって。
すごく──嬉しかったことを憶えている。
私の方は行方こそわからないけど、でもどこかで母さんなりに誰かに面倒かけながら、お世話してもらってるんだろうなぁて思う。そういう相手を捕まえるの上手だったから。
一方、鏡花とココの方は、ある意味じゃ行方が知れていて。そして、二度と会うことはできない。実の親がいない者同士と言っても、この差は大きい。
鏡花は、何も言わない。何を考えているのか、わからない。
「私──」
そろそろ帰るわと言おうとしたところで、
「ココにもそんなふうだったわね」
口調が──鋭い。
トゲっていうよりカミソリ。ちくりっていうよりさくり。
「自分が悪いかどうかはともかく、相手の意見に耳を貸さないで、ごめんの一言ですぐに問題を打ち切ろうとする」
鏡花が何のことを言ってるのかは、すぐにわかった。
そう、ココにはもう謝っている。あの日叩いたことを、色んな意味で傷付けたことを。学校にいるとき声をかけて、ちょっと時間をもらって、人気のない階段の踊り場で。
というか──。
「聞いてたの?」
時間と場所を選んだこっちからしたら盗み聞きでしょ。
そう思ったから、一応威圧的に言ってみたけど、そりゃあもう全然効いていない。
コイツは黒猫だ。大体優雅で、時にふてぶてしい。
「ココはね、時間がかかるの。思いを言葉にすることに。あの娘は誰かの言葉で人が変わることを、変えてしまうことを知っているから、人一倍時間がかかるの」
ココと話してるときだけじゃない。ココの話をしているときも、鏡花の声は優しい。
確かに──私は謝るだけ謝って、さっさと逃げ出した。
言いたいことだけ言って、自分の心にだけ薬を塗って。
万が一、ココの返事に傷付いたら厭だからと、自分可愛さに逃げたのだ。
鏡花が、ローテーブルに文庫本を置いた。
「認めると、ココのことを贔屓している。義姉妹の誰より肩入れしている。でも、それでも、お願い。ココにもきちんと話す機会をあげて」