闇の底の絶景
翌日、ヴァンゼに頼んで、たった一時間だけの休息を獲得した俺とユーリは、エリア4の地下街にある横丁の中でも三本の指に入ると言われる大きさの黄昏横町にきていた。
黄昏横町は一本の広い大通りを中心に、そこから小さな通りが派生する形で成り立っている。大通りの両脇には、横町の始まりから終わりまで屋台や酒場、雑貨屋などが延々と続いていて、人ごみでごった返していた。地上でたまに開催される祭りの夜店を何倍にも拡大した感じだ。
まだ昼間なせいだろう、大人だけでなく子供がはしゃいでいるのがちらほら見られる。宙には赤や黄色などの暖色系の提灯や電灯がぶら下げられていて、ここ黄昏横町では地下街の暗闇を全然感じさせない。殺伐としたリグレジアの裏世界である地下街で、唯一この横丁だけが人情や活気という人間らしさを失わずに輝いていた。
濁流のような人ごみの中を俺はユーリに引っ張られながら進んでいた。
「ほらほら、早く早く」
隙間などほとんどない黄昏横町の大通りをユーリはぐんぐん前進していく。とても真似できない。ていうか、ちょっと強引に引っ張りすぎだって―――
「痛い、痛いってユーリ」
先導してくれるのは有難いが、そんなに強く腕を引っ張られると人を避けることすらできないわけで、この混雑では少々というか、かなりの限界がある。俺はさっきから周りの人にほとんど体当たりして進んでしまっていた。
「セアが遅いから悪いのよ。あたしだってこのごちゃごちゃを歩くの結構大変なのよ。もうすぐだから、前進あるのみ!」
なんてマイペースなやつだ。
もう昨夜の大人しさが嘘のように、さっきからユーリは絶好調だった。
外出時は露出度の低い格好をするのが決まりなのか、今日は丈の長い薄地の黒いドレスに白のカーディガンを羽織っていた。綺麗になびく白銀の髪は相変わらず健在というか、黄昏横町の明かりに照らされていつもより煌めいていた。
それに対して俺は、ヴァンゼに借りた少し大きめの黒い外套を着ているという、地味極まりない格好だった。そして絶好調ならぬ絶不調だ。理由は分かりきっていた。昨夜のアレだ。思い出すだけでも顔が熱くなる。今朝、目が覚めた時なんかは羞恥心で死ねそうだった。誰だよ、あんな素直な少年は。あれは断じて俺ではない。そうだ、もういっそアレは別の誰かだったってことにしてしまおう。などと、誤魔化そうとしてもこの顔の火照りは収まらない。いくら最高に嫌な夢をみて、うなされ弱り切っていたとしてもだ。あそこまでユーリにさらけ出すことはなかったはずだ。もう…まともにユーリの顔を見ることができない。なんだか、超えてはいけない一線を越えてしまった気がする。いや、もちろん精神的な意味で。
黄昏横町の全長は約一キロを余裕で超えるらしい。
その果てしなくみえる大通りを半分くらい進んだところで、ユーリは薄暗い小通りに入っていった。人影が徐々に少なくなっていき、完全に黄昏横丁を抜けて、数分歩いたところにそれはあった。
「これは……」
灰色でごつごつしたその塊は、巨大な岩山だった。薄暗い住宅街の中に、ひっそりと建つその岩山は、四階建てのビルくらいの大きさだった。
「なんでこんな街のど真ん中に…」
俺が率直な疑問を口にすると、ユーリは何かを探している様子で答えた。
「この岩山、全体の一部でしかないらしいの。氷山の一角というより岩山の一角と言った方が分かりやすいかな?それで、本当はここにも住宅街を作りたかったらしいんだけど、大きすぎてどう頑張っても撤去できなかったみたいで、こうやって放置されてるのよ」
なるほど。確かに、これを取り除くのは相当苦労しそうだ。
「あ、あったあった。ここよ、ここから登れるの」
なんだと?
いったい何をいっているんだユーリは。
「ほらセア、早くして。あまり時間ないんだから」
「いやいや、意味が分からないんだが。どういうことだ? 連れてきたかった場所はここか? この岩山が?」
冗談だろう、と俺は後ずさりをしようとしたが、強く握ってくるユーリの手がそれを許さない。
「当たり前でしょう。いいから早く登るの!それとも何?スカート履いてるあたしに先に登れっていうの?」
どうやら、岩山に登ることは確定事項らしい。
その後、口論でユーリに敵うはずもない俺が渋々岩山を登ったことは言うまでもない。岩肌には突起が多くあって比較的登りやすい形をしていた。
先に頂上に着いた俺は後から登ってくるユーリを手伝う。
「ふうっ、やっとついたー」
ユーリはそう言い、額の汗を拭って、地面に倒れるようにして腰を下ろした。岩山の頂上のスペースは狭かったが、平らで安定していた。
俺も自然な流れでユーリの隣に座ることになる。
「それで、どうして汗水かいてまでしてこんな場所にきたんだ?」
外套を脱いで脇に置く。シャツの胸の部分を前後させ風を送る。…暑い。
「まだ気づいてなかったの?」
ユーリも白のカーディガンを脱ぐ。
「ここから眺める黄昏横丁が一番綺麗なのよ」
みて、と俺に微笑みかけ、ユーリはその方向を指差した。
指先を目線で追った俺は、ユーリの意図を即座に理解した。
それはまるで、闇の底で淡く光る竜が泳いでいるようだった。赤や黄に輝く光の帯が地下街を横切っている。人の流れはその光の帯に動きを与えていて、とても神秘的な光景をつくりだしていた。
「こんな光景…初めてみた……この国で、しかも地下街でこんな綺麗な景色を見れるなんて信じられない」
それは俺の本音だった。
地上は高層のビル群に埋め尽くされ、地下は濁った闇色に染まっている。リグレジアはそういう国だとずっと思っていた。おそらく、間違ってはいないだろう。だが、今俺の目の前に広がっているこの光景は、そんな認識を覆すほど衝撃的で感動的だった。
「言ったでしょ、あたしは透明感のある綺麗な色が好きなの」
ね、とユーリははにかみ、先ほど黄昏横町のガラス細工屋で寄り道して購入した、薄紅色のガラスでできた朝顔をポケットから取り出した。
「これ、セアにあげるわ。プレゼントよ」
不意にユーリにそう言われて、俺は戸惑った、というより反応に困った。
朝顔のガラス細工が差し出される。
「だがこれは、ユーリが欲しくて買ったんじゃ―――」
「いいの。もともとセアにプレゼントするために買ったんだから。きっとよく似合うわよ」
俺は落とさないようい注意して受け取る。よくみると、朝顔のガラス細工には髪留めとして使えるように安全ピンがついていた。
「似合うって…俺、一応男なんだけど……」
「あははは、いいじゃない。セアって女の子みたいな顔してるし、あたしが保証するわ。うん、絶対に似合うと思う」
いやいや、似合う似合わないの問題じゃないだろう。これを平然と髪につけてしまったら、俺は男として大切な何かを失ってしまう気がする。
俺は苦笑する。ほんとにこの少女には敵わないな。
「……ユーリ、ありがとう」
俺がそう言うと、ユーリは驚いた顔をした。
「いきなりどうしたのよ?セアが素直にお礼を言うなんて珍しいわね」
「いや、そのセリフ、ユーリにだけは言われたくないな。俺は基本的に、素直な人間だ。―――じゃなくて」
ついつい話が逸れてしまう。
「昨夜も、今も、ユーリは俺を励ましてくれただろう。だから、ちゃんとお礼を言っておきたくて。ユーリ、本当にありがとな」
俺はユーリの顔を見つめながら言った。
すると気のせいか、ユーリは頬を赤くして顔をそむけてしまった。
「べ、べつに大したことはしてないわ。それにあたし、セアに恩を売るために優しく接しているだけかもしれないわよ」
不思議と、ユーリの声は少し震えていた。
「嘘だな。ま、どっちでも俺は構わないよ」
「……セアって、変」
「そうかもな。俺も自分を普通だとは思ってないよ」
「何よそれ? もしかして自分が変態って自覚してるの?」
「待て待て、変ってそういう意味か? 何度も言ってるが俺は変人でも変態でも変質者でもないから」
「ふふ、なんかおかしいわね」
「なにが?」
「なんでもないわ」
「…なんだよそれ、やっぱ俺よりユーリの方が断然変だよ」
俺があきれ顔でそう返すと、ユーリは何か思い出したみたいで、手のひらを合わせて言った。
「そうだった!もう一つ、サプライズがあったこと忘れてた」
俺は首を傾げる。これ以上なにをするというのだろう。
ユーリは胸元をまさぐり、紐で首にかかっていたらしい、それ―――ガラスの棒を取り出した。胸元がやや露出してしまい、すぐさま視線を逸らした俺の苦労など知らない様子で。
「これよこれ」
「それって……ガラス製の、笛か?」
無色透明なそのガラスの棒には、いくつか小さい穴が開いていた。
「ええ、正確にはクリスタルフルートっていうの。無色だけど、透き通っててキラキラしてるところとか、すごく気に入ってるの。多分、あたしって透明感のあるものに強く惹かれる傾向があるみたいなのよね」
「とうめい、か……」
ユーリのその気持ちは少しだけ共感できた。濁り穢れた国に住んでいるせいか、ガラス細工やクリスタルフルートのような透き通った輝きは特に眩しくみえるのだろう。
「一時間を過ぎたらまたヴァンゼに叱られちゃうし、一曲だけね」
惜しそうにそう言うと、ユーリはふっくらとした艶のある唇でクリスタルフルートを咥えた。
反射的に、俺は瞳を閉じて耳を澄ます。
それは静かで透き通るような美しい音色だった。
その音色は、俺の心の壁を通り抜け、胸の奥底までたどり着くと、まるで花のつぼみが開く瞬間のように、ぱあっとにじんであたりを満たしていった。
俺はつい最近、この音色を聞いたことがあった。そうだ、思い出した。俺がユーリに助けられ『ハチミツ』で目を覚ました時に聞こえてきたのは、これだったのか。
安らかな笛の調べに俺は夢中で聞き入っていた。
でも少しして我に返る。この笛の音も、所詮、今だけのものだ。すぐに酒場に戻らなくてはならないし、何より、俺はここにいるべき人間ではないのだ。
隣りにいるはずのユーリが、どこか遠い存在のように思えてしまう。
多分それは錯覚でも勘違いでもなく、紛れもない事実なのだろう。
瞼を開けて横を振り向く。ユーリはクリスタルフルートを咥え、気持ちよさそうに目をつぶり、演奏に集中していた。
ユーリに対して芽生えようとしている心の中の何かを俺は必死で抑え込み、復讐者としての自分の使命を再確認した。結局、俺の生きる道はそこにしかないのだ。溝鼠が汚染された場所でしか生きれないように、奴らと殺し合う血に塗れた戦場でしか、俺は生きられない。生まれつき住む世界が違うのだ。
―――ユーリ、ありがとう。
そう、口に出さず呟いた直後、笛の音は止んだのだった。




