セアの失態
今回からセアの視点に戻ります。
今夜、俺は酒場『ハチミツ』を出ていく。
もう二度と戻ることはないだろう。
俺がユーリの素性をあまり知らないのと同様に、ユーリも俺の素性を詳しくは知らない。ここでは暗い過去を持たない人間の方が少ない。お互いの素性の詮索をしないのはこの街の暗黙の了解だ。そして、人混みと暗闇にまみれた地下街で一度行方をくらましたら最後、警邏と言えども俺を見つけ出すことは不可能だ。
テロットから新たな仮面を入手できたことだし、かなり簡潔で曖昧ではあったがユーリとの別れも済ました。口に出してはっきりとその旨を伝えたわけではないが、俺は蜂のガラス細工のプレゼントにユーリへの想いを込めたつもりだ。勝手すぎる別れ方だとは重々承知の上だ。だって、正面切ってユーリに別れの言葉を告げるなんてできるはずもない。男として最低かもしれないが、これでいいんだ。もう決めた事をうじうじ悩んでいても仕方ない。
最近、警邏の動きがやけに静かすぎるとテロットが訝しげに呟いていたのも気になる。早急に、復讐者として抜かりの無い戦闘装備を整え、次なる計画に向けて動きなさなくてはならない。少しでも隙を見せたら何もかも失う、ここはそういう世界だ。俺が選択したのはそういう人生だ。
酒場『ハチミツ』の営業時間が過ぎて、やっと労働から解放された俺は、汗水かいて賄いを作らされた厨房やユーリ達と食事を共にしたホールを名残惜しく感じながらも、歩調を緩めることなく階段をのぼっていく。この家の間取りから考えて、俺が借りている部屋の窓から出ていくのがまずベストだろう。二人が寝静まった深夜ならばれる心配もない。警邏の本部に忍び込むときに比べれば楽勝すぎる。
俺が荷造りでもしようかと考えながら部屋に戻ると、扉の前に白い紙が落ちているのを発見した。
「なんだ、これ?」
白紙の紙きれ。裏返してみると、どこかで見た記憶があるマークが印されていた。だがいくら頭をひねっても思い出せない。所詮、その程度のどうでもいい記憶ということか。
紙を放り投げて、部屋に足を踏み入れる。すると、どことなく違和感を感じた。何かがいつもと違う。そう言えば、何故か窓が全開になっている。苦労して俺が片づけたはずの散乱していた箱や書物が元通り、いや最初に俺が来た時よりも酷く荒らされている。そう―――まるで泥棒に侵入されたかのように。
果たして、それは事実だった。
俺の頭は氷水をかけられたかのように冴えわたり、あのマークがフラッシュバックするのを感じた。
獣の牙が交差したあの灰色の刺青。間違いない。部屋の前に落ちていた紙に描かれていたマークと完全に一致する。奴ら―――『ハイエナ』だ。確か、ここ数か月で急速にメンバーを増やし、その規模を拡大していったという犯罪集団だったか。おそらく仲間を殺されて、俺に復讐しに来たのだろう。
…でも、何で俺の居場所がわかった?
いや、今考えるべきはそんなことじゃないはずだ。
…奴らは俺の何を奪っていった?
俺は血の気が引いていくのを感じた。予想される限りで最悪の状況が頭に浮かんで離れない。頭をフル回転させてその可能性を否定しようと試みるが無駄だった。
…あり得ない。
俺は急いでユーリの部屋を確認しに行った。シャワー室、トイレ、ヴァンゼの部屋も見て確かめる。が、どの部屋も無人だった。一階でユーリの姿は見かけなかった。外出してるなんて聞いていないし、数時間前にここでユーリと話したばかりだ。
信じたくない。信じたくないけれど、これはもう疑いようもない。
―――ユーリが攫われた。
地下街のゴミ屑ともいえる最低最悪の犯罪集団に。
視界が真っ白になる。脳に電流が走り火花を散らす。
「くそがっ」
俺は力の限り壁を殴った。拳に血が滲むがそんなことはどうでもいい。
これは完全に俺の失態だ。俺がユーリを危険に晒した。無関係なユーリを俺が抱える闇に巻き込んだ。あんな屑共に攫われたら最期、何をされるかわからない。リンチ、強姦、拷問、殺害。すぐに殺されることはないだろうが、それでも死ぬことよりも辛い一生消えないトラウマを植え付けられる可能性が高い。
「なに動揺してんだよ、俺」
痛む拳をもう片方の手で強く握りしめる。
俺は復讐者だ。いくつもの警邏の施設を破壊してきたし、多くの人間を殺してきた。あらゆる死線を越えてきたのだ。冷静さを失ったらそこでゲームオーバーだ。考えろ。頭を冷やせ。思考を巡らせろ。全身の細胞を使って考え抜け。まだユーリが連れ去られてそんなに時間は経っていないはずだ。まだ間に合う。まだ助けられる。どこかに見落としている何かがあるはずだ。考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ考えろ。脳が壊れるくらい考えて考え抜くんだ。
「……待てよ」
そもそも何故奴らは俺の居場所がわかったんだ?
尾行をされるなんてへまをやらかすほど、俺は未熟じゃない。
となると、どこかから俺の居場所に関する情報を仕入れたことになる。誰かに聞いたのか。じゃあそれは一体どこのどいつだ。
奴らに情報提供しても不思議じゃなく、それでいて俺の居場所を知る人物。
この条件に該当する人物はただ一人―――情報屋テロットだ。
テロットとは協力関係にあるが、信頼関係にはない。あくまでお互いに利益が生じる場合に限って助け合うに限定的な協力関係に過ぎない。金さえもらえばその金額に見合った情報を与える、それが情報屋だ。第一、俺の居場所を教えることがそのまま俺に敵対することになるわけでもない。テロットが『ハイエナ』に俺の居場所を教えたとしても何も不思議ではない。
俺のやることは決まった。
当初の予定が狂ってしまったが、攫われたユーリを放って俺だけ勝手に逃げるなんて、復讐を諦めることと同じくらい、あり得ない。
俺は散乱した荷物の下敷きになっていた黒い外套を取り出す。が、すぐに放り投げ、部屋の片隅に隠していたダークレッドの外套を手にする。懐に、仮面があるのを確認して。
「必ず…必ず助け出してみせる」
俺がノードの亡霊の正体だと知ったらユーリはどんな反応をするだろうか。ショックを受けるだろうか。怖がるだろうか。悲しむだろうか。いくら考えてもユーリは良い反応をしてくれる姿は思い浮かばない。いや、いいんだ。嫌われてもいい。もう話せなくなっても構わない。そうだ、これを機に決別すればいい。俺と一緒にいるということがどんなに危険かユーリも理解したはずだ。これでいいんだ。ユーリを守るためなら、俺は本物の亡霊になっても構わない。俺が俺でいられなくなるくらいなら、死んだ方がましだ。もう迷わない。
そうして、 殲滅と決別の覚悟を決めた俺は足早に酒場を去った。




