贈り物
今回はユーリ視点になります。
あたしには幼い頃の記憶がない。
覚えている限り、一番古い記憶はこの酒場でヴァンゼに出会い、記憶を失った経緯を説明された時のものだと思う。記憶がないというのは妙な感覚で、そもそもそれが悲しむべきことなのかどうかさえ分からなかった。
あたしにとって世界はここ『ハチミツ』から始まって、あたしにとって親はヴァンゼ一人だ。ヴァンゼは人に避けられる様な険しい外見をしているけど、実はとても優しくて思いやりのあるおじいさんだ。まだ四十代らしいからおじいさんと呼ぶには若すぎるかもしれないけど。
ヴァンゼ曰く、あたしはとある事故に巻き込まれた際に両親と記憶を失ったらしい。幸い外傷は残らなかったみたいだけど、逆に言えばあたしはこの健全な身体以外のすべてを失くしたことになる。でも、そんなに気にならなかった。たまに怒ると怖いけれど、ヴァンゼと一緒に暮らすこの酒場での生活はすごく楽しかったし、これといって不自由を感じることもなかった。
そんな平凡なあたしの暮らしに、一陣の風が吹き抜けたのはつい先日のことだ。
なんと空から血まみれの少年が降ってきたのだ。物語で空から女の子が降ってくるシーンは本で読んだ経験があるけれど、血まみれの少年が降ってくる話など聞いたこともない。まあ、女の子みたいに可愛い顔をした少年だったのだけど。
髪と同じ漆黒色の瞳はくりくりしていて幼さを残していて、頬も触りたい衝動に駆られるくらい柔らかそうだった。いつか絶対に触ってみせる、なんてね。
その日から、あたしの平凡な日常は、毎日が特別な日々に変わった。同年代の同性も異性もこの近くには住んでいないせいで、最初少年と目が合った時は柄にもなく緊張してしまった。誰とでも仲良くできる明るい性格だと自負していたため、少年にかける言葉に戸惑ってしまった時は、あたしって意外と人見知りかも、なんて思ってしまったほどだ。でも、勇気を出して話しかけると少年は優しく言葉を返してくれた。途中、反応が素っ気なくなった時は嫌われちゃったかもしれないと内心ドキドキだったけど、それは少年の意地っ張りな可愛い性格が表れていると思い込んで乗り越えた。
それからの少年との日々は、口論したり、一緒にご飯を食べたり、口論したり、取っ組み合いをしたり、口論したり、手を握り合ったり、口論したり、岩山に遊びに行ったりもした。少年と話していると、どうしても口論になってしまうのは、お互い少しひねくれ者なところがあるからだろう。まあ、結構それを楽しんでいる自分もいるし、ちょっとひねくれた性格を治す気もさらさらないわけで、あたしと少年の口論は今後も続いていく気がする。あたしの日常に吹き抜けた出会いという名の一陣の風は、あたしに新しい喜びと幸せをもたらしてくれたのだった。
ただ、時折少年―――セアが垣間見せる孤独で寂しげな表情はあたしの胸を辛くさせた。その時のセアはまるで別人のように瞳が険しくなる。セアがどんな悩みを抱えているのか無神経に訊ねるほどあたしは図々しいつもりはないし、心に負った傷はそう簡単に取り除けるものではないだろう。だから、せめてセアにもっと笑顔になってもらいたいとの一心で、あたしのとっておきの場所である岩山に案内したのだった。岩山から見える景色も髪飾りもあたしの演奏も、セアは見てて面白いくらいに驚いて喜んでくれた。セアの笑顔を見れただけであたしはもう満足で、岩山の帰り道には、サプライズを企画したあたしの方が幸せな気分になっているんじゃないかと思ってしまうほどだった。
セアが倉庫に貯蔵していた酒瓶を割ってしまったせいで、ここ数日間、酒場『ハチミツ』は休店している。無事だった酒瓶も底をついてしまったのだ。あたしはこの機会に、セアとたくさん思い出を作っておこうと思ったのだけれど、何か用事があるらしく、一昨日に引き続き今日もセアは外出してしまっていた。
「いつの間にかあたし……」
思わず心の声が漏れてしまう。この先は言えない。口に出してはならない。
あたしは自分を取り巻く運命を呪った。
この国にはしがらみとか宿命とか、そういった人を束縛する鎖が多すぎる。もしもこんな暗い地下街ではなく明るい地上で、普通の女の子としてセアと出会えていたらと何度思ったことか。でも、それは叶わない夢だ。この夢を実現するにはあたしは無力すぎる。無力なだけでなく無知なあたしは、結局、大人の言うとおりに行動するしかない。例えそれが望まぬ展開であってもだ。
その時、階段を誰かが上ってくる音がした。この軽い足音はセアだ。
部屋で寝転がっていたあたしは、勢いよく起き上がって、階段の陰に素早く身を潜めた。
驚かしてやろう。
セアの驚く顔を思い浮かべて、あたしは口元を緩ませた。
最後の一段にセアが足を乗せた瞬間を狙って、あたしは陰から飛び出た。
「わあ! …って、あれ?」
すると、そこには誰もいなかった。
「あれれ? セアー?」
あたしは混乱してセアの姿を探す。
その時だった。後ろから思いっきり肩を掴まれ体を揺さぶられた。
階段の目の前にいたあたしは落下する恐怖と後ろからいきなり驚かされたというダブルの衝撃で、みっともない悲鳴をあげてしまう。
「ひゃあっ」
「なっ、危ないっ」
体勢を崩し、足を踏み外したあたしを背後の不審者セアが寸前のところで抱きしめ受け止める。あたしの胸にこみ上げたのは安堵と、セアに抱きしめられている恥ずかしさ。頬が火照るのを感じる。
「あーその、ごめん、ユーリ。悪気はなかったんだ。いや、ほんとに」
セアは焦ってあたしから離れると、慌てて謝罪した。
今のはおそらく、あたしが隠れていることに気がついたセアが、例の常人離れした動きで跳躍か何かをし、あたしの背後に移動したのだろう。完全にしてやられた。
あたしの顔は多分、赤くなっていることだろう。恥ずかしくてとてもセアには見せられない。どうしよう。落ち着け、落ち着くんだあたし。
「……あっそう」
条件反射というやつか、ついつい冷たい反応をしてしまう。
あたしってこんなに不器用だったかな。これじゃあ本当に怒っていると勘違いされてしまう。
「あーえっと、ユーリ?」
「なによ、別に怒ってないわ。あたしがそんな短気な女の子にみえる?」
ああああああ、もう何言ってるのあたし。もっと優しく接したいのに。
「いや、全然見えない。だって、ユーリが本気で怒ってたら、蹴飛ばされるくらいはされてるだろうからな」
セアのあたしに対する評価を知り、ちょっとだけショックを受ける。
あたしってセアにそんな乱暴な女の子に思われてたの?
あたしは頬の火照りが収まってきたのを感じ、後ろを振り向いた。
「心外だわ。人を蹴り飛ばすなんてはしたないこと、あたしがするわけ―――」
「つい最近、この階段でユーリに蹴飛ばされたばかりなんだが。あれー人違いだったかな」
「それはそれ。これはこれよ」
「いや、意味わからないから。第一、今のは階段の陰に隠れて俺を驚かそうとしてたユーリが悪くだろ?」
「ささやかなスキンシップよ。その好意を無下にしたセアが一番悪いわ」
「スキンシップって、じゃあ今のもスキンシップってことで大丈夫か?」
「ええ。本心でセアが、女の子を抱きしめる行為をスキンシップと呼ぶのならあたしは何も言わないわ。うん、かける言葉も思いつかない」
「おい、そんな人を憐れむような目でこっちを見るな。冗談だって」
やれやれといった様子でセアは自分の部屋に入っていく。
もう少しセアと話していたかったがもうすぐ時間だ。
セアとの会話は基本的に口論になる。でも不思議だ。お互いを責めあっているだけなのに、どうしてこんなにも楽しいんだろう。
いつもと何ら変わりのない会話。そしてこれが―――
「あ、そうだった。ユーリちょっとにこっち来てもらえるか?」
「うん? どうかした?」
セアに呼ばれたあたしが何気なく部屋に入ると、セアは脱いだ外套のポケットから、光る何かを取り出した。
「これ、俺からユーリにプレゼント。この前のお返しだと思ってくれればいい。ま、似たようなのユーリの部屋にあった気もするが」
それは可愛い蜂を模したガラス細工だった。透明感のある黄色が光を受けてキラキラ輝いている。蜂の羽や顔まで細かく線が入っていてとても綺麗だった。
セアからの突然のサプライズに、あたしは言葉を失った。
まずい、これはほんとにまずい。嬉しくて悲しくて涙がでそうだ。
「えっと、ありがとね。セア。すごく嬉しい。これ、大切にするね」
あたしはこみ上げる気持ちを率直に述べた。こういう時は長く語るべきではない。シンプルな言葉の方がより強く思いを伝えられるものだ。
「どういたしまして。じゃ、俺は厨房を手伝わなくちゃいけないから」
そう言うと、セアは照れ笑いを隠しながら駆け足で下に降りて行ってしまった。
慣れないことをして恥ずかしかったのだろう。気のせいか頬が赤くなっていた気もする。あたしに負けず劣らず不器用というか素直じゃないというか。
「ほんと、まいったなあ…」
セアが去った方向を見つめながら、あたしは蜂のガラス細工を胸で抱きしめた。可愛いガラス細工はいくつも持っていたし、蜂を模したものもその中にあったかもしれない。でも、セアに貰ったこの蜂のガラス細工ほど愛おしくて胸が締め付けられるガラス細工は他にないだろう。そのかけがえの無さといったら、蜂から連想してしまう皮肉さえも霞んでしまうほどだった。
その時だった。
突然、背後で窓の開く音がした。
一瞬、またセアがあの常人離れした体技であたしを驚かせようとしているのかと思い、あたしはすぐに振り返った。
―――でも、そこにいたのは見知らぬ顔をした薄汚れた男だった。
次回から物語が大きく動き始めます。
どうぞお楽しみ下さい。




