ヘビのおんがえしっ!
「私はヘビです」
僕の前に突然降ってきた美少女は、うるうると潤んだ瞳でそう告げた。
降ってきた、という表現はちょっと大げさかもしれない。正しくは『落ちてきた』だろう。僕が住んでいる団地の、ちょうど僕の部屋の前に生えている大きな木の上から、ボタッと。
「……へび?」
「はい。十三年前、あなたに助けていただいたヘビです。お礼をするために戻ってきました」
「悪いけど記憶にない。それじゃ」
サクッと言い放ち、僕は踵を返した。
高校生活最後の正月も、早二日目が終わろうとしていた。年末から引きずった風邪がようやく治まってきたため、近所の神社へ合格祈願に行くところだったのだ。こんな大事な日に「落ちる」とか縁起が悪い。
「待ってくださいッ!」
ぐいッ。
必死の形相をした美少女――もとい電波な蛇少女が僕のダッフルコートの背中を掴んだ。ちょうどフードのところを力いっぱい引き寄せて。
「ちょ、首、苦しいんだけどッ」
「願いを言ってくれるまで離しません!」
「分かった、分かったから!」
僕が叫ぶと、満足げににっこりと微笑んだヘビ少女。僕は仕方なく彼女に真正面から向き合った。
風に揺れる長い黒髪と、透き通るような白い肌。大きく黒目がちな瞳、小さく赤い唇。その唇から吐き出される息がゆらりと立ち上り、人間らしい温かみを感じさせる。
神秘的なまでに清楚な面立ちとはいえ、やはりヘビの化身なんかには見えない。どこからどう見ても可愛らしい女の子だ。クラシックな紺色のセーラー服がお嬢様っぽくて良く似合っている。中学生くらいだろうか?
「私のこと、思い出してくれましたか?」
うっかり彼女の姿に見惚れてしまっていた僕は、慌てて頭を振った。
「思い出せない。っていうか人違いじゃないのか? 十三年前っていったら僕はまだ五才だぞ」
「ハイ、私は三才でした」
「やっぱ人間じゃねーか」
「その時はヘビだったんですッ」
小柄な彼女が僕を見上げ、軽く唇を尖らせる。こんなに可愛い子なら覚えていてもおかしくなさそうだけれど……残念ながら当時の僕はヒーローごっこのことしか頭にないガキンチョだった。
「まあ思い出してくれなくてもいいですよ。私はお礼ができるだけで満足なんです。だから願いを言ってください」
「じゃあ、受験合格」
「無理です」
……即答だった。
全く期待していなかったはずなのに、ショックを受けてしまうのはなぜなんだろう。あたかも神様から「無理」とダメ出しされたかのようだ。
ふらりとよろめいた僕を、彼女のほっそりした腕が支えた。
「大丈夫ですか、ユキヒロさん」
「な、なんで僕の名前を……」
「あなたのことなら何でも知ってますよ、なんせ恩人ですからね」
そう言って彼女は、僕の腕にキュッとしがみついた。あたかもヘビが絡まるみたいに……とは思えなかった。どちらかというと、人懐っこい子犬みたいだ。
「別のお願いを言ってください。あ、さっきみたいなのはダメですよ。私にもできることとできないことがありますからね」
斜め下から投げかけられる、美少女の甘い吐息。
それを吸い込んでくらっと来た僕は、たぶん熱がぶり返していたんだと思う。
だから……ボソッと呟いてしまった。いつもなら決して口にしないようなことを。
「おっぱい」
「……え?」
「おっぱい触らして」
「え、あの、えっと……」
彼女の頬がみるみる赤くなっていく。僕の腕をパッと解いて、ジリジリと後ずさる。
その怯えたような表情と潤んだ瞳を見て――夢心地の僕は、何かを思い出しかけた。
「ま、待ってください!」
彼女の悲鳴が、熱に浮かされた僕の頭をサーッと冷やした。
気付けば僕はハァハァと息を荒げ、いたいけな美少女に向かっていやらしく手をワキワキさせている。こんなところをご近所さんに見られたら痴漢扱いは免れない。僕は慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんッ」
「――もうちょっとだけ、お時間をくださいッ」
「へ?」
「……ないんです」
そう呟いて、彼女はセーラー服の胸で結んだ赤いリボンに触れた。そして、今にも泣きだしそうな顔で。
「まだ、ないんです。私には、揉めるような胸がないんです……」
「そ、そっか……」
寒風が僕らの間をピューと吹き抜けた。
胸の前に当てた彼女の指先が、小刻みに震えている。僕はため息とともに告げた。
「今日はもう家に帰りなよ」
「ユキヒロさん?」
「このままじゃ風邪引くぞ。ていうか僕の風邪が移……ゲホッ」
「あッ、すみません、引きとめてしまって」
「うん、まあ、楽しかったよ」
再び夢心地モードになった僕は、彼女に手を振り元来た道をふらふらと歩き出した。途中で崩れ落ちかけたとき、身体を支えてくれる温かい腕を感じた気がした。
まるでおとぎ話みたいなことを言う、不思議な美少女との邂逅。
これは僕の視た夢だったのかもしれない。神様が寂しい受験生の僕に見せてくれた、おかしな初夢。
再び熱を出した僕は丸一日寝込んでしまった。そして今日もう一度あの木の前を通ったものの……残念ながら彼女は現れなかった。
次に会えるのはまた十三年後。その頃には彼女の胸も充分に育っているだろう。
入手してきたお守りを見つめつつ、そんなことを考えて一人ニヤニヤしていた僕の後ろ頭を、母さんがバシッと叩いた。
「痛いな、何すんだよ」
「熱下がったんだからしゃんとしなさい。お蕎麦のびちゃうわよ。あとコレ、お隣の小林さんからお届け物」
リビングの机の上にポンと置かれたのは、何やら見覚えのある物だ。
そう、さっき僕が神社で買ってきたお守りと全く同じもの。
「ありがと。でも何で?」
「さっきも言ったでしょう? このお蕎麦、引っ越してきた小林さんの奥さんからいただいたって。夕方アンタが出かけてるときに『離婚してまた出戻りです』って、お子さん二人も連れて挨拶に来て」
「あー、聞いたかも……」
「その小林さんちの妹さんが、わざわざアンタのために買ってきてくれたんだって。覚えてない? アンタがヒーローごっこで助けた女の子。カナちゃん」
その瞬間、記憶がフラッシュバックした。
カナヘビなんてあだ名をつけられ、皆に囃したてられて木の下で泣いていた小さな女の子。あれからすぐに遠くへ引っ越してしまった。
別れ際、僕の腕にギュッとしがみついて、泣きじゃくりながら何かを言っていた。
そう、たぶんこんなことを……。
「ぜったい、お礼しに戻ってくるね!」