前編
河のほとりに、定期的に大きな市の立つ町があった。
この地方に散らばる何十もの村から、男衆が隊列を作ってこの町にやってくる。村で収穫した野菜や果物、コーヒーに薬草、女たちの作った織物や細工物などを売り、その金で必要な物をそろえる。他の村から来た知己と出会えれば、ひとときの交流を楽しみ情報を交換する。
特に、この国の西の土地はいくつもの山脈に分断されており、山間に点在する村同士の交流は、このような時以外はほとんどないのだった。
やがて人々は再会を約して、またそれぞれの村へと帰っていく。山道を登り、峠道を縫って。
村の入口にそびえる二本のアカシアの木が、降り始めた雨にしっとりと塗れ始めていた。
その木の間から見える山道を、チャリッ、チャリッ、という音が近づいて来る。馬具の鳴る音だ。
共用の井戸で水を汲もうとしていたオウレンは、桶を放り出して音の方へ駆けだした。
(父さんたちだわ!)
町へ商品の売買に出かけて行った父たちが帰るのを、オウレンは心待ちにしていたのだ。
いよいよ雨期を迎える季節、なかなか町にも行けなくなるため、今回は山ほど色んなものを買ってくるはず。
綺麗な刺繍糸、小麦粉、胡麻や豆類、魚から作った調味料。どれも楽しみなものばかりだし、殊に今回の買い物では、オウレンに髪飾りを買ってきてくれることになっていた。楽しみで楽しみで、オウレンは髪飾りをつけた自分を夢に見てしまうほどだった。
荷物を山のように積んだ馬を引いた男たちが現れ、オウレンは声をかけようとして口を閉じた。
――知らない人がいる。
列の真ん中あたりに、女性の姿が見えたのだ。思わず、アカシアの木を頼りに身を寄せる。
「オウレン。戻ったぞ」
父が豊かな口髭を動かして、手で軽く後ろを示した。
「客人だ。長に伝えて来てくれ」
その女性はオウレンと目が合うと、パッと陽気な笑顔を見せた。黒目がちの大きな瞳が細められる。
年の頃は二十を少し過ぎたくらい……けれど、三つ編みにした髪を何本も後ろに垂らした髪型が、未婚であることを示している。
(まあ、不思議な事もあるものね)
オウレンはうなずいて長の家に駆けだしながら、つぶやいた。
(こんなに短い間に、お客人が続くなんて)
「徒歩でエラト山脈を越えるとは、健脚だねえ。いったんライガップの町まで降りれば、馬を借りてサオグー峠まで登って来れたものを。途中に山小屋もあるし」
そう言ったのは、よく陽に焼けたしわ深い顔の女長だ。むしろの上で背中を丸めて客人を見る。
客人の女性――ツィージンと名乗った――もむしろの上に座り、美しい姿勢で答えた。
「女の一人旅ですので、人が大勢いる場所よりも、山の中の方が安心なんです。このあたりは大きな獣も出ませんし……。でも、途中でこちらの村の方にお会いできて、親切に案内していただけたのは僥倖でした。雨も降り始めましたから」
長の家の広間に、長と長の家族、それに父が向かい合って座っている。
居間は外に向けて開け放たれているため、好奇心旺盛な村の若い娘たちは多少の雨をものともせず、色々とささやき交わしながら中を覗いていた。もちろんオウレンもだ。
町に出かけなかった村の男衆は今、雨で柔らかくなった山の斜面の棚田を耕しに行っている。年に二回植える綿のうち、『雨の綿』を植える季節だった。
オウレンは、ツィージンと名乗った女性をじっくりと観察した。
さっきは雨をはじくように桐油を塗った布を羽織っていたが、それを脱ぎ去ると下にはとても仕立ての良い服を着ていたし、そうでなくともにじみ出る雰囲気、立ち居振る舞いが洗練されている。裕福な家に生まれた人なのに違いなかった。
確かに、このような女性が一人で町になどいたら、よからぬことを考える輩が近づくに違いない。
「私は、儀礼用の織物を織る職人なのです」
ツィージンははきはきと申し出た。
「古くなった打敷を直したり、新しく織り直したりしながら、町や村をめぐっています。しばらく軒先をお借りできれば、そういった仕事をさせていただきたいのですが、御入り用はありませんか?」
「ああ、それはぜひともお願いしたいね。我が家に歓迎するよ」
長の返事に、ツィージンは再びあの陽気な笑みを見せた。
「ありがとうございます!」
オウレンは、村から山を少し登った所にある古い祠を思い浮かべた。
この国では、土地神を祀る祠の供物を置く卓に、打ち敷きと呼ばれる長い布をかけて垂らす習慣がある。村の祠の打ち敷きは、織物の名手だった六代前の女長が織ったものだったが、今ではもうすっかり色褪せて刺繍も何箇所か擦り切れている。
そんな祠の様子を思い浮かべていた時、目の隅で何かがわずかに動いた。
(何だろう)
オウレンはツィージンの顔から視線を下げていった。この村の人間は長袖のチュニックを着ているが、彼女はゆったりした袖の合わせ衣の上に袖なしの外衣を重ねて着ている。今の気候だと、少し暑そうだ。
外衣の背中から腰にかけて、木の枝に小鳥のとまった図案が刺繍されている。本物そっくりの見事な鳥で、とても美しい。
その鳥が、くいっと首を曲げて背中の羽をつくろった。
オウレンはびっくりして、軽く目をこすった。
もう一度改めて刺繍の鳥を見ると、鳥は最初に見た時と同じように、枝の上で静かにうずくまっている。
見間違いだったらしい。
「実はねツィージン、この家には今、もう一人客人がいるんだよ」
長の声に、オウレンは注意を引き戻された。長が話を続けている。
「仕事も頼みたいんだけど、その客人のことでもう一つ頼んでもいいかねぇ」
そして、家の奥に向かって声を張った。
「ディラク! 来られるかい?」
「『ディラク』……?」
ツィージンは不思議そうにつぶやいた。この国の言葉で「迷子」という意味なので、不思議に思うのも当然だろう。
コトン、コトン、と床に何かが当たる音がして、ツィージンより少し年上に見える男が姿を現した。
眉も、唇も、柔らかく優しそうな線を描いているその男は杖をついていて、頭と左足に布を巻いて手当を施されている。
男は、長とツィージンから等間隔の位置に、かなり離れて座った。痛めている方の足は、前に伸ばしている。
「この男は、村から少し行ったところにある峡谷で、怪我をして倒れているところを運良くうちの男衆に見つかったんだよ。崖を上ろうとして落ちたらしいんだけど、頭を打った拍子に何もかも忘れちまったようでね」
長の言葉に、男はツィージンを見てゆっくりと頭を下げた。
大きな口がうっすらと微笑みを浮かべる――オウレンは、この人は本当は、この口でもっとおおらかに笑う人なんじゃないかな、といつも思う。
「名前もわからないから、ひとまずディラクと呼んでいるのさ。たぶん、崖の上に咲いているジュカオの花を採りに行こうとしたんだろうけどね」
そう言って長がディラクを見ても、彼は特に反応を示さない。覚えがないのだろう、少し申し訳なさそうに目を伏せるだけだ。
ツィージンが思い出すようにして言った。
「ジュカオ……一度、収穫されたばかりのものを見たことがあります。薬効のある花ですね」
「それは、珍しいものを見なさった。花の女王にはめったに目通り叶わぬのに」
長は「さすがに、各地を旅しているだけある」と感心したようにうなずいた。
「ただ、崖の上に上れていたとしても、一足遅かったがねぇ……あれはほんの一時期しか咲かない花、もう時期が過ぎてしまっている」
「そうなんですか」
「うん。それでな、お前さんが旅してきた土地のことを、ディラクに話してやってはくれないか。もしかしたら、覚えのある場所があるかもしれないからね」
「そういうことでしたら、喜んで」
ツィージンはディラクに目を向けて、明るい笑みを見せた。
その後、オウレンの父が祠から持ってきた打ち敷きをじっくりと検分したツィージンは、一から織り直したいと長に申し出た。しかし、なるべくこの村で揃えられる材料を用い、また古い打ち敷きに使われていた刺繍糸の一部を、新しい布にも織り込むという。
長とどんなものにするかを話し合ったり、女衆と使う糸について相談し合ったりするうちに、ツィージンは自然と村に溶け込んでいった。
◇ ◇ ◇
村の中央にある広場には、高床に柱と屋根だけの集会所がある。
雨の降る中、女たちは風通しの良いそこに三々五々集まって、賑やかにおしゃべりをしながら糸を紡いだり籠を編んだりする。
ツィージンがその仲間に加わり、仕事をしながら旅の間に見聞きしたことを話すようになって、数日が過ぎていた。普段村から出ない女衆は外の話題に飢えていて、みんなが話を聞きたがったのだ。
そしてツィージンは、村の女衆に負けず劣らずよくしゃべった。お陰で、オウレンも気楽に彼女に話しかけることができた。
「あの外衣は、いつもは着ないんですか」
尋ねると、ツィージンは薄い黄色の合わせ衣姿でうなずいた。
「私の故郷では普段も着ているんだけど、こちらの人は一枚しか着てないみたいだし、ちょっと暑いから脱いじゃった。……あの外衣がどうかした?」
「いえっ、えっと、素敵だったから」
「ありがとう」
彼女はニッコリしたけれど、じっとオウレンを見つめているので、オウレンは少し戸惑いながら自分の糸車を回すことに集中している振りをした。
ディラクも、集会所の隅の方で女衆の仕事を手伝いながら、話に耳を傾けている。
男衆の仕事――今は、この雨で一斉に生えた茸を取りに山の奥へ入っている――を手伝えるほどにはまだ回復していないので、ちょうどいいと言えた。
しかし、ツィージンの話に彼の記憶を呼び起こすようなものは、これと言って出てきていないようだった。
この村には、手に入りにくい高機はないけれど、ツィージンは腰織り機を持参しており組み立てて使っている。幅の狭い打ち敷きを織るには、腰の幅があれば十分だ。
織り機の構造は、経糸を二本の棒の間にぴんと張り渡し、開口部に緯糸を巻いた杼を走らせて繰り返し織っていく形だが、ツィージンは腰織り機の二本の棒のうち片方を集会所の柱に紐で縛って固定し、もう片方を自分の腰に巻く帯で固定している。人間が、織り機の一部になるわけだ。
機織りはとても手間と時間のかかる作業だったし、特に雨期は杼のすべりが悪くさらに時間がかかる。しかし、オウレンはいつもツィージンの近くに陣取って、彼女の機織りを飽きずに見ていた。
最初の部分ができあがって来ると、ツィージンは針を使って経糸のあちこちをすくい、絵緯糸と呼ばれる刺繍糸を緯糸と一緒に織り込み始めた。
「縫い取り織り、というのよ。今は布の表にだけ模様を織り込んでるから、裏には模様が出ないの」
説明してくれるツィージンの手元を見て、オウレンは感嘆の声を上げた。
「うわぁ……これ、ツィージンさんの持ってきた糸?」
平らな箱に、何色もの刺繍糸の束が入っている。
「そうよ、綺麗でしょう」
「うん。こんなにたくさん色が……まるで、虹が入ってるみたい」
ふふ、と彼女は笑い、オウレンに顔を近づけてささやいた。
「少しあげようか。それで何か刺繍して見せてくれるなら。どれが好き?」
「ほんとっ!?」
オウレンは迷いに迷った挙句、薄い青の糸を選んだ。
雨の季節に似合う色のような気がしたからだ。
ツィージンの頭の中には打ち敷きの図案ができているようで、日を重ねるごとに少しずつ絵柄が織り上がっていった。
ある日、やはりオウレンがツィージンの手元を熱中して見つめていた時、雨が急に強くなった。ざあっ、という音に顔を上げた時、オウレンはそれに気づいた。
ディラクが、以前よりずいぶんと、ツィージンの近くに座っている。
ツィージンは機織りをしながら時々顔を上げて、女衆の隙間から確認するようにディラクの方を見る。
ディラクは少し申し訳なさそうに、ツィージンの瞳を見返す。
するとツィージンは安心させるようにニッコリして、また丁寧に糸をしごきながら口を開く。雨の音で、話し声が遠く聞こえる。
ディラクも再び仕事に戻り、ツィージンが女衆の質問に答えている声を、雨の音をぬって聞き取ろうと耳を傾ける……。
――直接言葉を交わしているわけではないけれど、二人は会話をしているのかもしれない。
ツィージンとディラクは全く性格の異なる人間同士なのに、どことなく雰囲気が似ているんだ、とオウレンには感じられた。
ある朝、オウレンがふと目を覚ましたら、雨がやんでいた。
この所、朝はいつも雨だったので、オウレンは朝露が陽の光にきらめくのを見たくてたまらなくなった。まだ家族が眠っている中を、こっそり家を抜け出す。
そして村の中央まで出た時、まだ誰も来ていない集会所で、ツィージンとディラクが並んで縁先に腰かけているのを見た。
二人は静かに言葉を交わしながら、空を眺めているだけだったけれど、オウレンはハッとなって思わず踵を返してしまった。
「……ねえ母さん……ツィージンとディラクって、結構仲良くなったみたい、だよね」
オウレンは野菜の皮むきをしながら、母に話しかけた。朝食の準備をしている母は、米粉を水で溶く手を止めることなく答えた。
「そうね。一緒に長の家に御厄介になっているから、話す機会も多いんでしょう」
「でしょ? 夫婦になって、この村で暮らせばいいのに」
ツィージンを慕うオウレンが勢い込んでそう言うと、母はちらりと彼女を見て笑い、また作業に戻りながら言った。
「ディラクは、もう結婚しているかもしれないじゃない」
そうか、とオウレンも口をつぐんだ。
ディラクはツィージンよりもさらに年上に見える。とっくに結婚している年頃だ。彼の帰りを待っている家族がいるのかもしれない。
(じゃあ……もしツィージンがディラクを好きになっても、どうしようもないのかな。でも、家族がいるかどうかもわからないのに……このまま何も思い出せないまま……?)
考え事をしていたオウレンは、「手が止まってるよ」と母に言われてあわてて皮むきを再開した。
その頃から、ツィージンは打ち敷きを織るのに疲れると、木枠に小さな布を挟み込んで刺繍をするようになった。彼女にとって、織ったり縫ったりは呼吸をするように欠かせないことのようだ。
「何を刺繍しているの? ……花のつぼみ……?」
オウレンが尋ねると、ツィージンは微笑んでうなずいたけれど、よくしゃべる彼女にしては珍しくそれ以上何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
ひと月が経ち、ディラクがようやく男衆の仕事に加われるようになって集会所に来なくなった頃、ツィージンの織っていた打ち敷きが織り上がった。
女衆が「見せて、見せて」と群がり、打ち敷きは次々に手を渡って行く。いつも辛口の伯母が「六代前の長には敵わないけど、まあまあだね」と評して、次のオウレンに渡してくれた。
打ち敷きには、図案化された絵が織り込まれている。青と茶を基調にした布には、薬草の花や綿花らしきものが一面に浮かび上がっていた。中央に二本の木、これは村の象徴のアカシアだ。そして水の守り神である蛇に、このあたりでしか見られない蝶。
オウレンは目を凝らした。ツィージンは、糸の色むらさえも利用して、ものすごく細かく色の変化をつけている。
その時、また、何かが動いた気がした。
いや、刺繍の蝶が、確かに羽ばたいた。
オウレンは布を取り落としそうになって、持ちかえるふりをして誤魔化すと、もう一度眺めた。
蝶はもう動かない……しかし、翅の鱗粉がきらきらと光って、今にも飛び立ちそうに見える。
顔を上げると、ツィージンと目が合った。
あ、とオウレンは息を飲んだ。オウレンが『見た』ことに、ツィージンは気づいている。
しかしツィージンは何も言わず――ただ、少し憂いのある笑みを浮かべ、目を伏せただけだった。