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もう一度・小生さんがゆく。  作者: 釜瑪秋摩


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第6話 出世コースの親子丼物語

 小生の名は、文谷修蔵(ふみやしゅうぞう)

 文豪のような名を持ちながら、名を残す予定はない。

 昼休みはいつも、誰かの背中を見送って終わる。

 追うでもなく、止めるでもなく。

 今日、小生は()()()()()()と、飯を食う。


---


 昼休みの廊下で、後輩の池松(いけまつ)に呼び止められた。


「文谷さん、今日……よければ一緒にどうですか」


 声は淡々としている。

 誘いとも報告ともつかない調子。


 池松と二人で飯を食うのは、初めてだった。

 向かったのは、会社から少し離れた小さな丼屋。

 回転が早く、無駄な装飾がなく、昼時でも静かだ。


 池松は迷わず、「親子丼、並で」と告げる。

 小生は、メニューを一周見てから、同じものを頼んだ。


 あっという間に運ばれてきた丼は、湯気が低い。

 だが、丼に触れた指先には熱が伝わる。

 卵は半熟、鶏は小さめ、出汁は控えめ。


「……提供が早いね、ここ」


 小生が言うと、


「はい。ちょっと遠いですけど、すぐ出てくるので午後に支障が出ないんです」


 と池松は答えた。


 箸を入れる。

 卵は舌の上でとろりと崩れ、出汁は静かに染みてくる。

 鶏肉は柔らかく、ほぐれるように噛み切れる。

 噛まなくても食べられる飯だ。


「池松くんは、来期だったっけ」


「はい。正式には、まだですが」


 小生は、親子丼を飲み込みながら、頷いた。


「向いてるよ」


 そう言うと、池松は少しだけ目を伏せた。


「……向いてる、ってよく言われます」


 その口調は、やはり淡々としていて、嬉しさも、誇りも、ほとんど入っていなかった。

 池松の箸は止まらない。

 一定の速さで、同じ量を運び続ける。


 小生の箸は、ときどき止まる。

 湯気を見たり、壁の短冊メニューを読んだりする。


「文谷さんは」


 池松が言う。


「昇進、考えたことありますか」


 小生は少しだけ考えてから


「……考えないようにしているかな」


 と答えた。

 池松は、否定もしない。


「僕は、考えないと不安になります」


 そう言って、また一口食べた。

 親子丼は、味が変わらない。

 最初から最後まで、同じ場所に着地する。


「上に行くと、楽になりそうですか」


 小生が聞く。

 池松は、少しだけ間を置いた。


「……楽にはならないと思います。でも、違う疲れ方にはなると聞きました」


「ほう」


「今は、自分のミスで謝る側ですけど。上に行くと、部下のミスで謝る側になるって」


 その言い方も、変わらず淡々としていて。

 小生は、卵の黄色を見つめながら思った。

 池松は、もう、こちら側から離れ始めている。


 丼の底が見え始める。

 池松の方が、少し早い。


「ごちそうさまでした」


 きれいな声で言う。

 小生は、最後の一口をゆっくり噛んでから、


「……ごちそうさまでした」


 と続けた。


 店を出ると、昼の風が冷たい。


「文谷さん」


 池松が言う。


「また……機会があれば」


「ええ」


 小生は頷く。


 池松は、もう午後の顔をしていた。

 歩き出す背中は、迷いが少ない。


 小生は一拍遅れて歩く。

 腹の奥に残った、薄い出汁の温かさを確かめながら。


 親子丼は、腹を満たすには十分だった。


 だが。


 なりたい自分までは、運んではくれなかった。

 小生は、いつもの少し遅い歩幅で、第一営業部へ戻った。





- 完 -

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