第5話 深夜のコンビニおでん物語
小生の名は、文谷修蔵。
文豪の名を持ちながら、残業日誌すら満足に書けぬ。
書けぬ代わりに、夜に残り、飯を選び、考える。
今夜は、静かな後輩と、蛍光灯の下にいる。
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終電少し前。
営業部のフロアは、ほとんど無人だった。
コピー機の音が、やけに大きい。
その前に、柄本が立っている。
背中が、小さい。
「柄本くん、まだ帰らないんですか」
「……これ、終わらせてから」
声が低く、掠れている。
机の上には、資料の山。
付箋が、無秩序に刺さっている。
「飯は?」
「……さっき、コーヒー」
「それは、飯ではないね」
柄本は、少し考えてから、首を振った。
「……大丈夫です」
その「大丈夫」は、信用ならない。
小生は、上着を取った。
「ちょっと、一緒に行こうか」
「……どこへ」
「コンビニ」
外は、冷えていた。
ビルのガラスに、街灯が伸びている。
二人で歩くと、足音だけがする。
入ったのは、角のコンビニ。
深夜の匂いがする場所だ。
揚げ物と、コーヒーと、ビニール。
「柄本くん、何食べる?」
柄本は、棚を見ている。
弁当。
カップ麺。
パン。
だが、どれにも、手を伸ばさない。
「……決まらないなら、おでんかな」
小生は、言った。
鍋の前に立つ。
大根。
玉子。
こんにゃく。
しみた色ばかり。
「何を入れたい?」
「……大根と厚揚げ」
「……渋いね」
「……染みるので」
小生は、大根と玉子と、厚揚げ。
それと、ちくわぶ。
プラの容器が、温かい。
会計を済ませ、店の外のベンチに座る。
車は、たまに通るだけ。
まず、大根。
箸を入れると、簡単に切れる。
口に入れる。
熱い。
出汁が、舌を包む。
遅れて、大根の芯から、甘みが滲む。
煮崩れる寸前の、柔らかさ。
「……うまいな」
「……ですね」
柄本は、大根を食べるのが、遅い。
噛んでいる。
というより、口の中に置いている。
「柄本くん、残業、多いよね」
「……はい」
「無理はしないように」
柄本は、少しだけ、目を伏せた。
「……無理しないと、追いつかない気がして」
玉子を割る。
黄身が、少し粉っぽい。
だが、出汁が染みている。
「追いつかなくていいんです」
「……でも」
「俺も、追いついてないですよ」
柄本は、ちくわぶを見ている。
少し、戸惑った顔で。
「……それ、何ですか」
「……俺も、よく分からない」
半分に割って、片方を柄本の容器に入れる。
箸を刺してじっと見つめてから、口に入れた。
小生も、一口食べる。
もちり、とする。
小麦だけの、飾らぬ味。
出汁を吸って、ただ、そこにある。
柄本の背中と、似ている気がした。
「……不思議ですね」
「……だよね」
柄本は、厚揚げを割った。
中が、湯気を出す。
豆腐の白さが、出汁の茶色に包まれている。
柄本が、それを口に入れた。
少しだけ、表情が、緩んだ。
「……文谷さん」
「……うん」
「……仕事、嫌ですか?」
少し、考えた。
「……嫌な日が多いよ」
「……好きな日は?」
「飯がうまい日」
小生が即答すると、柄本は、小さく笑った。
それだけだった。
夜風が、少し強くなる。
おでんの湯気が、消える。
最後に、残った汁を飲む。
塩と、出汁と、少しの油。
腹の奥が、ゆっくり温まる。
「戻ったら終わりにして、今日はもう帰ろうか」
「……はい」
店を出ると、街は静かだった。
どのビルの窓も、ほとんど消えている。
「……ありがとうございました」
「礼を言うことはないよ」
「……でも」
「ただの飯ですよ」
柄本の背中は、さっきより少しだけ、大きい。
それで、十分だった。
- 続く -




