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もう一度・小生さんがゆく。  作者: 釜瑪秋摩


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第4話 止まらない男の湯豆腐物語

 小生の名は、文谷修蔵(ふみやしゅうぞう)

 重厚な名前に似合わず、平凡な会社員である。

 せめて食事くらいは、少しばかり格好をつけさせてもらおう。


---


 夜九時を回った第一営業部は、事務所というより、水の抜けたプールに近かった。

 音がない。

 人がいない。

 だが一カ所だけ、空気が動いている。


「本当にすみませんでした、はい……はい……」


 電話。

 滝藤(たきとう)の声。


 小生は、席で資料をまとめていた。

 もう帰ってよい仕事だったが、帰るには、少しだけ心が重かった。


「いえ、こちらの確認不足で……はい……ええ……」


 もう五分。

 いや、十分。


 電話は切れない。

 いや、切れた。


 ……と思ったら、滝藤は受話器を置いたあとも、まだ頭を下げていた。

 机に向かって。


「……すみません……」


 誰に。


「大丈夫ですか」


 小生が声をかけると、滝藤は一度、驚いたように目を見開き、それから、勢いよく頭を下げた。


「あっ、文谷さん……すみません……いや、すみませんじゃなくて……いや、すみません……」


 何についての謝罪か、本人にも、もう分からぬようである。


「もう、終わった案件ですよね」


「そうなんですけど……でも、もし明日になって……いや、そもそも最初に……」


 未来と過去を同時に謝っている。

 小生は、少し考えた。

 珍しく、考えてから、言った。


「……飯、行きませんか」


 滝藤は、謝罪の途中で止まった。


「え」


「飯です」


「え、あ、はい……でも僕、まだ……」


「腹は、もう、鳴ってます」


 滝藤の腹が、その瞬間、小さく鳴った。

 勝った。


 夜の街は、事務所よりも静かだった。

 雨上がり。

 歩道が光っている。

 滝藤は、まだ喋っている。


「いやほんと、ああいうのって後から来るじゃないですか、あの時こう言えばよかったとか、そもそも自分が……」


 小生は、それを聞きながら、路地を一つ、曲がった。

 灯りが、柔らかい。

 小さな店だった。


 白木の引き戸。

 曇りガラス。

 中が、よく見えぬ。

 滝藤は、言いかけた言葉を口に残したまま、戸を見た。


「……ここですか」


「ここです」


 店は、声を小さくさせる構造をしていた。

 入ると、音が、ほどけた。


 カウンターだけ。

 七席ほど。

 奥に、湯気。


「いらっしゃい」


 声が低い。

 安心する声である。

 二人、座る。


 メニューは、壁に三つだけ。

 ・湯豆腐

 ・湯葉

 ・雑炊

 酒は、日本酒と瓶ビール。


「湯豆腐を」


 小生が言った。


「……僕も、それで」


 鍋が来る。

 白い湯。

 昆布。

 豆腐。


 湯気が、二人の間に、座った。

 滝藤は、まだ喋っている。


「ほんと、今日の電話もそうで……」


 だが、言葉が、湯気に当たって、少し遅れる。

 小生は、豆腐を一切れ、すくった。


 白。

 四角。

 揺れる。

 口に入れる。


 ……熱い。

 だが、派手な味は、ない。

 あるのは、大豆の、奥底から滲む甘み。

 舌の上で、温度と豆の記憶だけが、仕事をする。


「熱っ」


 滝藤が言って、それきり、黙った。

 二切れ目。

 滝藤は、息を吹き、豆腐を見、口に入れた。


 噛まない。

 溶ける。

 しばらく、二人とも、音を立てなかった。


 箸の先で、昆布が揺れる。

 小生は、徳利を取り、二つ、注いだ。


「……うまいですね、これ」


 滝藤の声は、さっきより、低かった。


「ええ」


 それだけで、もう十分だった。

 滝藤は、また何か言いかけたが、豆腐を一切れ、口に入れ、黙った。

 小生は、心の中で思った。


 ――この男には、説教よりも、沈黙に耐える料理が必要なのだ。


 鍋が、軽くなる。

 水を足し、豆腐を足し、最後に、米と卵。

 雑炊。

 白から、乳色へ。

 湯気が、一段と濃くなる。


 滝藤は、椀を持ったまま、しばらく、動かなかった。


「……さっきの電話の件なんですけど」


 来るか。


「……まあ、いいか」


 来なかった。


 雑炊を、口に入れる。

 米。出汁。卵。

 それらが溶け合い、一つになる。

 昆布の記憶が、最後に、滲む。

 ああ、と声が出そうになる。


「あ」


 滝藤は、それきり、何も言わなかった。


 店を出る。


 夜風。


 滝藤は、また少し喋り出した。

 だが、声が、違う。

 速さが、違う。


「なんか……すみません、文谷さん」


「それは、さっき聞きました」


「あ、はい……」


 滝藤は、笑った。

 少しだけ。

 完全には、治らぬ。


 だが一時、湯豆腐は、男を黙らせた。

 それで、よい。


 小生は、胃の中の白さを感じながら、駅へ向かった。

 今夜もまた、小生は、救われた。

 静かな、湯気に。





- 続く -

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