第3話 やらかし後の鶏皮ポン酢物語
小生の名は、文谷修蔵。
文豪の名を持ちながら、語れる武勇伝は一つもない。
あるのは、失敗談と、胃に残る味だけだ。
今夜は、その失敗の張本人と、杯を交わす。
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定時十分過ぎ。
第一営業部の島が、まだらに残っている時間。
安田が、ひょいと顔を出した。
「文谷さん。今日……一杯だけ、行きません?」
一杯で終わったことは、ほとんどない男の誘い方だ。
昼の会議で、安田はやらかしていた。
余計な一言。
余計な資料。
余計な笑顔。
取引先の部長の顔が、わずかに硬くなり、それを小生だけが見ていた。
その後、案の定、大杉の長い説教が続いた。
「いや、安田くん。怒ってるわけじゃないんだよ。ただね、言わなくていいことってのはね――」
安田は、その時間、ずっと頷いていた。
「……文谷さん、奢ります」
やらかした日の安田は、財布が軽い。
小生は、頷いた。
入ったのは、駅裏の小さな居酒屋。
焼き場が近く、煙が低い店だ。
まず出てきたのは、瓶ビールと、お通しのキャベツ。
そして、安田が一番に頼んだのが、
「鶏皮ポン酢。あと、ハツと、レバー。塩で」
「……渋いですね」
「落ちてるときは、内臓ですよ」
わけのわからない理屈だった。
鶏皮ポン酢が来る。
氷の入った器に、刻みネギと白ゴマ。
箸でつまむと、ぷるりと震える。
口に入れる。
冷たい。
酸っぱい。
脂が遅れて舌を撫でる。
――いや、しかし。
「……うまいですね」
「でしょ。これ、気持ちいいんすよ。油断してるときに、ちゃんと来る」
安田は笑って、ビールを飲んだ。
昼のことを忘れたような顔で。
「今日のあれ、やっぱマズかったですかね」
「……ええ。まあ」
「ですよねー。あの部長、絶対根に持つタイプですよね」
「……ええ。まあ」
ハツが来る。
コリコリとした歯ごたえがあり、噛むほどに肉の旨味が広がる。
血の味は薄い。
「でも、言っちゃうんですよね。僕」
安田は串を振る。
「ここだけの話とか、正直に言うととか。あれ、営業の地雷ワードなんすけど」
「よく踏んでいますよね」
「踏みます。走って踏みます」
安田は、少し笑ってから、声を落とした。
「……でも、何も言わないで、何も残らないのも、ちょっと怖くて」
小生は、鶏皮をもう一口、口に入れた。
脂とポン酢が、まだ喧嘩している。
「文谷さんは、すごいですよ」
急に、安田が言う。
「謝れるじゃないですか。ちゃんと、相手の前で、下がれる」
小生は、ビールを一口飲んだ。
少し、苦い。
「……下がってるだけです。前に進んでない」
安田は、しばらく黙ってから、
「でも、下がれる人って、案外いないですよ」
と言った。
レバーは、柔らかかった。
火が浅く、舌で切れる。
鉄の匂いと、塩の粒。
「今日のあれ、また文谷さんが謝りに行きます?」
「ええ。多分。明後日あたり」
「……ですよね」
安田は、少しだけ、肩を落とした。
「ついてきます。今度は僕、黙ります。でも……それが一番難しい」
安田は笑った。
本当に、軽い笑いだった。
二杯目のビールが空いた頃。
鶏皮の器は、ほとんど透明になっていた。
脂も、酸味も、もう残っていない。
「ごちそうさまでした」
安田は、ちゃんと言った。
昼より、少しだけ静かな声で。
店を出ると、夜風が煙の匂いをさらっていく。
「文谷さん」
別れ際、安田が言う。
「また……やらかしたら、付き合ってください」
「……毎回は、胃がもちません」
「ですよね」
安田は笑って、駅の方へ行った。
小生は、逆方向へ歩く。
腹の中は、まだ温かい。
心の中は、昼の会議よりは、少しだけ軽い。
やらかしのあとに食う飯は、
いつも、味がはっきりしている。
小生は、ポン酢の酸味を思い出しながら、帰路についた。
- 続く -




