第2話 距離感ゼロのホルモン物語
小生の名は、文谷修蔵。
文豪の名を持ちながら、物語は書けぬ。
小生にできるのは……食を味わい、語ることだけである。
そして小生は今、完全に誰かの物語の背景として座っている。
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この日、コピー機の前だった。
「文谷さん、今日ちょっと時間あります?」
紙より先に、顔が出た。
牟呂。
第一営業部、中堅。
距離感という概念を、名刺と一緒にどこかへ置き忘れてきた男である。
「ええ、まあ……」
小生がそう言い終わる前に、牟呂はもう頷いていた。
「じゃ、決まりですね」
何が。
訳も分らぬまま定時を迎える。
「お疲れさまでしたー! 文谷さん、こっちです!」
振り向いた時には、もう通路の向こうで手を振っている。
断る理由を探す間もなく、エレベーターに乗せられ、気づけば駅の改札を抜けていた。
「今日はちょっと、面白い人がいまして」
「面白い……人?」
「いや〜、説明すると長いんで。行きましょう」
説明せよ。
小生のそんな思いを他所に、牟呂に押されて電車に乗り込む。
三駅。
小生の生活圏を越えた。
降りたことのない駅。
嗅いだことのない夕方の匂い。
駅前の小さな商店街は、自転車と魚箱と赤提灯でできていた。
精肉店の前を通った瞬間、空気が変わる。
――脂。
小生の鼻孔の奥で、不安が小さく舌打ちをした。
牟呂は迷わず角を曲がり、暖簾の低い店に入った。
くぐる、という動詞がふさわしい。
入った瞬間、煙と声と脂の匂いが、同時に胸に来た。
白い煙。
金属の音。
笑い声。
卓ごとに小さな炭火が置かれ、赤く、呼吸している。
「おー! お疲れっす!」
牟呂は、もう誰かと握手していた。
……誰であろうか。
テーブルには男が二人。
どちらも初対面。
だが牟呂は、旧友の顔をしている。
「こちら文谷さん。うちの、えー……すごい人です」
すごい、とは。
「文谷です……」
会釈。
「どうもどうも!」
二人とも元気がいい。
元気すぎて、職業も立場も分からない。
だがもう、椅子が引かれている。
座る。
おしぼり。
中瓶ビール。
コップ。
「とりあえずホルモン盛りで! 白モツ多めで!」
牟呂はメニューを見ない。
この店を、場として使っている。
炭の上に網。
置かれる皿。
白モツ。
シマチョウ。
ハツ。
センマイ。
まだ生の、鈍い光。
じゅっ。
最初の脂が落ちた音で、会話は一度、負けた。
牟呂は全部の話に首を突っ込み、全部に相槌を打ち、全部を笑いに変える。
仕事。
誰かの失敗。
武勇伝。
どうでもいい裏話。
小生は、肉を裏返し、煙を避け、卓上を見る。
調味料は三つ。
甘めのタレ。
粗塩。
そして、少し湿った七味。
この七味は、毎日、煙と汗を吸っている。
色がくすみ、香りが、丸い。
小生は、少し多めに振った。
焼けた白モツを一切れ。
熱い。
柔らかい。
脂が甘く、舌に絡む。
奥に、鉄の匂い。
噛むと、じわ、と音がする。
「うむ、よろしい」
ビール。
喉に、苦味。
胃に、場所ができる。
場は他人のものでも、舌の上は、小生のものである。
不意に牟呂が立ち上がった。
「トイレ!」
場の重力が、抜けた。
知らない男二人と、小生。
網の上で、肉だけが働いている。
沈黙。
小生は、ハツを裏返し、シマチョウの火を弱め、煙を払い、ビールを飲んだ。
その時だった。
向かいの男が、ぽつりと言った。
「……この店、うまいですね」
小生は、顔を上げた。
「ええ。店というより……煙が、いい」
「分かります、それ」
それだけだった。
だが、それで十分だった。
肩書きも、関係も、この瞬間には要らぬ。
肉があれば。
牟呂が戻ると、場はまた騒がしくなる。
「何の話してたんですか?」
「ホルモンの話」
「いいですねえ!」
牟呂は笑い、勝手に頼み、勝手に焼き、勝手に場を広げる。
追加の皿。
レバー。
コブクロ。
炭が鳴る。
煙が濃くなる。
だが小生は、もう気にしていなかった。
煙の向こうで、ホルモンは、ちゃんと仕事をしている。
それでいい。
会計。
店を出る。
夜風。
服に残る匂い。
指に残る、炭。
「いや〜、文谷さん連れてきて正解でした!」
何が正解だったのか、最後まで分からぬ。
だが、胃は、知っている。
駅までの道。
小生は、心の中でそっと結んだ。
――場は、他人に委ねてもよい。
だが、味だけは、譲らぬ――。
今夜、小生は救われた。
ホルモンに。
- 続く -




