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初蹴り、風の匂い

結城は予定どおり、少年サッカークラブの初蹴りに顔を出した。グラウンドの端に白い霜が残り、太陽に照らされてきらきら光っている。空は澄み、冷たい風の匂いが鼻腔を刺した。


「今日は無理しない。体を温めて、ボールと友だちになるだけだ」


 保護者たちがフェンスの外から見守っている。昨夜のニュース以来、誰もが落ち着かない目をしているのに、子どもたちだけはいつも通りに笑った。結城は胸の奥が緩むのを感じながら、ランニングの先頭に立つ。


「いち、に、さん、し――息は止めない。足の裏まで意識して」


 掛け声に合わせて子どもたちが声を出すと、冷えた空気がすこしあたたかくなった気がした。基礎のドリル、対面パス、トラップ。結城の声はいつもより少し低く、しかし柔らかかった。昨夜のことを説明する言葉を、彼はまだ持っていない。説明を求められることも分かっている。けれど、いまはボールの音だけをここに響かせたかった。


「コーチ、見て!」


 小学三年の陸がアウトサイドで器用に方向を変え、笑った。結城は親指を立てる。走る背中の列が美しいリズムで弧を描き、霜を削って白い線が伸びていく。冬の太陽が背中を温め、息は白く、笑い声は澄んでいた。


「次、ラダーいくぞ。踏み損じないように、目は二歩先だ。ひとつ飛ばし、開閉、シャッフル」


 小さな足が軽やかに格子を踏む。つまずいた子がいても、隣の子が自然に手を差し伸べる。結城はその様子を見て、胸の奥の硬さが少しずつほぐれていくのを感じた。昨日から世界は変わった。けれど、この習慣はそのままでいい。隣の手を離さないこと。声を掛け合うこと。サッカーの原則は、暮らしの原則と同じだ。


 十五分ほど経ったころ、フェンスの向こうでざわめきが起きた。二台のワゴン車が停まり、ロゴの入ったカメラと三脚が降ろされていく。地方局のクルーだ。結城はゆっくりと子どもたちを止め、笛を一度鳴らして集合をかけた。


「円になって座ろう。水分」


 子どもたちが水筒を手にすると、結城は立ったままフェンスの方へ歩み寄る。ディレクターらしき男が、丁寧な笑顔で会釈した。


「序列一位の橘さんですよね。今日の練習風景を少し撮らせていただけませんか。地域の皆さんに“いつも通りの安心”を伝えたくて」


「お気持ちは分かります。ただ、子どもたちの顔は絶対に映しません。僕も、今はコメントを控えます」


「差し支えなければ、後ろ姿だけでも」


「……それなら、十分離れた位置から、五分だけ。練習を妨げないことが条件です」


 男は安堵の笑みを浮かべ、クルーに指示を飛ばした。結城は戻り、円の中心で膝をつく。


「みんな、テレビの人が来てる。でも気にしない。今日の目標は“うまくなる”じゃなくて“楽しく終わる”だ。オーケー?」


「オーケー!」


 声が揃う。ドリブルリレー、ミニゲーム。結城はプレーには入らず、タッチラインの外で声を出した。視界の端にカメラの影がちらつくたび、背骨のどこかがぞわりとする。けれど、子どもたちはすぐにボールの行方しか見なくなった。シュートの音、ボールがポストを叩く乾いた音、靴紐を結び直す小さな息。そこにあるのは、ニュースの言葉ではない現実だった。


 ミニゲームの途中、空気の密度がわずかに変わった。風が止み、グラウンドの影が一瞬だけ濃くなる。結城は反射で視線を上げた。ベンチの影が、さざなみのように波打っている。


(……来た)


 昨夜、店の前で見た黒い靄の感触が、皮膚の内側を冷やしていく。グラウンドの隅、器具置き場の陰から、影が持ち上がった。二重に重なったような黒。どの角度からも底の見えない穴のような質感。子どもたちの笑い声が、ほんの少しだけ薄くなる。


「――ストップ!」


 結城は笛を吹いた。子どもたちが一斉に立ち止まる。彼らの視線を自分に集めたまま、結城はゆっくりと立ち上がり、影と子どもたちの間に入った。フェンスの外の保護者が息を呑む気配がする。カメラの三脚がギシ、と音を立てた。


「水飲みタイムだ。輪になって、コーチから離れすぎない」


 指先が冷たく痺れ始める。胸の奥の糸を、昨日より速く結ぶ。右掌を軽く前へ。声は低く、はっきりと。


「ここは、通さない」


 見えない壁が、地面から立ち上がる。砂塵がふわりと浮き、光が屈折して空気が薄く歪む。影がそこへぶつかり、波紋が広がった。昨日よりも、硬い手応え。結界はグラウンドの半分を包む弧になり、子どもたちと保護者を背中側に押しやった。


 影は形を変えた。犬のような四肢が生え、舌のように分かれた闇が地面を舐める。塗りつぶしたインクが生き物の真似をしている。結界の表面にザラつく爪の感触が伝わり、結城は奥歯を噛んだ。


「コーチ……」


 円の中から不安の声。結城は振り向かずに答える。


「大丈夫。コーチからは絶対に離れない。深呼吸して、数えるんだ。いち、に、さん――」


 呼吸の数と同じリズムで、結界の厚みを変える。押してくる力を受け流し、弾ませ、いなす。サッカーで相手の体をずらしたときの感覚が、ここでも役に立つことに、皮肉のような感謝を覚える。


 影の舌が結界の表面に触れ、じゅ、と音のない音を立てて縮んだ。次の瞬間、影は自らを刃のように尖らせ、突き破ろうと一直線に伸びてくる。結城は左手を重ね、膜の前にもう一枚、薄い層を重ねた。二重のガラスに空気の層を入れるみたいに。衝突の衝撃が掌を刺し、腕の骨にまで響いた。


 耐える。足の裏で土の粒を感じながら、結城は視界の端で保護者の動きを確認した。数人が子どもたちの後方に回り、肩に毛布をかけ、輪を小さくしている。フェンスの外の記者たちが口を開けたまま固まり、カメラのレンズがわずかに震えていた。誰かが震える声で「110番を」と言い、別の誰かが「いや、危険を煽るな」と小声で制する。声はすぐに凪いで、ボールの転がる微かな音に吸い込まれていった。


 影はしばらく押し続け、やがて形を崩し、ふたたび獣の姿に戻った。今度は弧を描いて側面から回り込む。結城は結界のカーブを微調整して、影が滑って外れるように角度を変える。直接ぶつかり合わず、重力の方向だけを一瞬だけ騙す。相手が速ければ、こちらは鈍く。相手が鈍ければ、こちらは速く。リズムの主導権だけは渡さない。


 息を吸う。吐く。吸う。吐く。


 五分が永遠に感じられた頃、影は突然、薄い霧のようにほつれた。黒が灰に、灰が白に、そして空気に戻る。残ったのは、冬の乾いた匂いと、子どもたちの小さなすすり泣きだけ。


 結城は結界を残したまま、ゆっくりと振り返った。


「……大丈夫だ。誰も怪我はしてないか?」


 うなずき。涙。保護者のひとりが「足首をひねったかも」と手を挙げる。倒れたのではなく、輪を小さくする時につまづいただけらしい。結城はうなずき、結界を薄くしながら彼女のところへ歩いた。


「冷やしましょう。アイスバッグ、あります?」

「車に……」

「僕が取りに行きます。ここで待っててください」


 フェンスを回って駐車場へ走る。掌の熱はまだ残っている。胸の奥の光――触れれば一瞬で痛みを無かったことにできるもの――が、静かにこちらを見ている気がした。結城は首を振り、トランクからアイスバッグを取り出した。


 戻って処置をしていると、地方局のクルーがおそるおそる近づいてきた。


「先ほどの……今のは、やはり“歪み”でしょうか」

「ええ。小規模でしたけど」

「撮影は……」

「子どもたちの顔が映っていなければ、使ってもらって構いません。ただし、“恐怖を煽る”編集はやめてください。ここにいるのは、日常を取り戻そうとしている人たちです」


 ディレクターは何度も頭を下げた。「ありがとうございます。約束します」。


 処置を終えると、子どもたちが自然と近づいてきた。「コーチ、さっきの壁、すげー」「怖かった」「でも、となりの手、離さなかったよ」。結城は微笑み、両手を上げて見せる。


「いいか、今のも大事な“練習”だった。怖いって言えたこと、手をつないで輪を小さくできたこと。それが今日いちばんのナイスプレーだ。もうひとつ――応急処置はする。けど、“治るから大丈夫”って思って無茶をするのは一番ダメだ。分かったか」


「はーい……!」


 練習は予定どおり短縮し、最後に円になって解散の挨拶をした。


「今日、怖かったやつ」

 何人かの手が上がる。「怖いって言えるのは強い証拠だ。大事なのは、怖くても、隣のやつの手を放さないこと。サッカーも同じだ。次も一緒にやる。いいな」


「いい!」


 解散後、保護者に子どもを引き渡しながら、結城は一人ひとりに短く声を掛けた。「送ってくれてありがとう」「寒いから温かくして」「何かあったらすぐ連絡を」。一連のやり取りの中に、ほんの少しだけ、昨夜以前の世界の温度が戻ってきた気がした。フェンスの外で地方局は短い収録を終え、「地域の落ち着き」を伝える原稿を読み上げていた。


 帰り道、信号待ちの交差点で空を見上げる。白い雲の切れ間に、細い光が一筋だけ走って消えた。羽は見えない。高速で顕現するはずの翼は、人の目には残像しか残さない。


(会うのは、まだ先でいい)


 ニュースのテロップに流れた名前たち――アリア、佐伯、黒瀬。いずれ必ず、同じ空の下で交わるだろう。けれど、出会いの順番は急がなくていい。守る順番は分かっている。


 店に戻ると、戸の前に紙袋が置かれていた。中には使い捨てカイロと、手書きのメモ。「いつも子どもたちをありがとうございます。無理はしないでください」。差出人の名前はなかった。結城は紙袋を抱え、ストーブの前に置いた。


 夕方、商店街の共同掲示板に、新しい張り紙が増えた。《災害時一時避難先一覧》《防災連絡網の更新》《夜間見回り当番表》。その横に、小学生の字で《たちばな屋はやさしいところ》と落書きの紙が貼られている。誰かが剥がさずに残したのだろう。油性ペンの線が、やけに心強かった。


 夜。店を閉め、電気を落とし、神棚の前に立つ。掌を合わせ、頭を下げる。祈りの言葉は短くていい。神は去った。けれど、祈ることで守れる心の形がある。


 スマホが震えた。市役所から一斉送信のメール。《明日以降の“天使指定者向け説明会”の日程》と場所。続けて、地域の防犯グループから《夜間の見回りに天使の同伴は不要。危険時のみ通報を》というメッセージ。必要以上の期待も、無用な英雄視も、今のところはないらしい。胸の奥で、固くなっていたものが少しだけほどけた。


台所でお湯を沸かしながら、結城は掌を見つめた。まだ、熱はある。結界の痕跡。胸の底の光は、深い水面の下で静かだ。



(“癒し”は、最後の最後まで使わない。間に合うために動く。それが俺のやり方だ)


 湯気が顔に当たり、目を閉じる。思い出すのは芝生の匂い、雨上がりのピッチ、夜のグラウンドの照明。夢は遠くへ行った。けれど、足はまだここにある。子どもたちの笑い声がある。守る順番が、はっきりある。


 湯飲みに注いだほうじ茶を持って店の中央に戻ると、ガラスの向こうで冬の星が瞬いていた。世界は騒がしい。けれど、夜空は昔からこんなふうに静かだ。


 テーブルの上のノートに、明日の段取りを書き出す。仕入れの品目、避難袋の補充、説明会の確認、サッカーの練習メニュー、近所の独居のおばあちゃんに様子見の連絡。書き出すほどに、焦燥は小さくなる。手を動かすと、世界は手の届く大きさにたたまれる。ついでに、保護者グループへの連絡文も下書きした。《本日の練習では小規模な歪みの発生がありましたが、子どもたちに怪我はありません。輪になって距離を詰める手順を確認し、次回も同手順で動きます。帰宅後は体を温めて早めの就寝を。何か異変があればすぐ連絡を》――送信は寝る前でいい。今は、言葉を整えておくことが大事だ。


 最後にペン先を止め、ひとつだけ大きく書いた。


《目の前を守る》


 ペンの跡が紙を少し凹ませる。その凹みを指でなぞり、結城はゆっくり息を吐いた。過去の自分が、練習中のアクシデントで夢を手放した夜のことを思い出す。鳴りやまない救急車のサイレン。照明に白く浮いた芝。肩を叩かれて告げられた「戻れるかは五分五分」。あの夜、自分の目の前を守ってくれたのは、名前のない大人たちの手と声だった。今度は自分が、その側に立つ番だ。


 外で、風が一度だけ強く吹いた。鈴が鳴り、遠くで犬が吠え、誰かの笑い声がまた空に解けた。空のどこかを、細い光が走る。きっと世界のどこかで、誰かが同じように目の前を守っている。


 湯飲みを空にし、照明を落とす。暗闇がやわらかく降りてきて、棚の菓子の輪郭をやさしく塗りつぶした。結城は簡易ベッドに身を横たえ、掌を胸に当てる。熱は、もうほとんど感じない。


「――また明日」


 誰にともなく呟いて、目を閉じた。遠くで一度だけ、羽が空気を切るような無音の気配がした。夢に落ちる直前、結城は思う。明日、世界がどれだけ騒いでも、ここでやることは同じだ。子どもたちが笑って駄菓子を選び、ボールを蹴れるように――順番どおりに、ひとつずつ。


 眠りの底へ、静かに沈んでいく。グラウンドの霜の白さと、小さな落書きの油性ペンの線が、最後までまぶたの裏に残っていた。

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