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世界が騒ぎ出す朝

 夜が明けた。雲は薄く、冷たい光が山の稜線から街の屋根へ順番に降りていく。元旦の朝は、本来ならば静かで、空気に新しい紙の匂いと甘いお汁粉の湯気が混じるはずだった。けれど、その静けさはテレビの音に押し流されていた。どの家からも同じニュースが響いてくる。神の宣言、百の名前、序列。知らないはずの国名が、やけに身近に感じられる朝。


 駄菓子屋「たちばな屋」の前に立つと、開店前だというのに二、三人の大人が足を止めていた。近所の八百屋の奥さん、向かいの自転車屋の親父さん、犬の散歩の老婦人。皆、手にしたスマホの画面を胸元に抱え、顔を上げたり下げたり、落ち着かない。


「……橘くん。本当に、あんたの名前、出てたの?」

「テレビのテロップに、はっきりとだ。『序列一位・橘結城』って」


 結城は曖昧に笑って、鍵を回した。カラン、と戸に吊るした小さな鈴が鳴る。毎日聞いてきた音なのに、今日は別の国の鐘のように遠く感じた。


「とりあえず、開けますね。寒いから、中で話しましょう」


 ストーブを点け、湯をわかし、棚の前に子ども用の椅子を出す。年始の菓子箱を並べ終える前に、常連の子どもたちが息を白くしながら飛び込んできた。


「兄ちゃん! ニュース、見た! 世界一だって!」

「天使って、ほんとに飛べるの? 昨日の夜、空に光が走ってた!」


 結城は一拍置いてから、少しだけ眉を下げた笑顔を作る。


「飛行は……まあ、まだ試す場面じゃないな。まずは、座れ。手、冷えてるだろ。ココアで温まれ」


 ココアを配るところまで、手は自然に動く。習慣が身体を勝手に動かすのはありがたい。心は、昨夜からまだ現実に追いついていない。テレビをつけると、どの局も同じ映像を何度も流し、違う言い方で同じことを説明している。


『各国で“歪み”と呼ばれる怪物の出現が相次いでいます――』

『こちらはパリからの中継です。第三位・ルシアンが炎の壁を展開して市民を避難誘導――』

『アメリカではマイケル・ホワイトが雷撃で空中の歪みを撃破――』

『日本でも、序列一位の橘結城さんが大分県在住だと発表され――』


 下のテロップには、見慣れない自分の名前が延々と流れ続けている。まるで、別の人のことを聞いているような遠さ。けれど、スマホの着信履歴には、知らない番号がずらりと並んでいた。取材の依頼、出演依頼、自治体からの案内。外国の番号も混じっている。英語の留守電は早口で、最後だけ「プリーズ、コールバック」と丁寧に言った。


(……出ない。今は、出られない)


 店の端で、八百屋の奥さんがニュースを見ながら首をかしげた。


「ねえ結城くん、天使って全員同じ力じゃないのね。昨日、解説の人が言ってたわ。基本は空を飛べるのと、ケガの応急処置が少しできるだけで、あとは人によって違うって」

「そうみたいですね」

「“序列”ってのがあるなら、危険なことは上の人に任せるべきなんじゃないのかねえ……。あんたひとりに何もかも背負わせるわけにはいかん」


 自転車屋の親父さんは不器用な優しさを口にして、胸ポケットからタバコを出しかけ、子どもの目を見て慌ててしまった。


「すまん、店の外で吸う」


 老婦人がココアの湯気に目を細める。


「神さまは去ったってねえ。でも、祈ることまで取り上げられたわけじゃないんでしょ」


 結城はうなずいた。神棚の方向に自然と視線が吸い寄せられる。小さな木の札、色あせた紙の神様。昨夜も同じように見上げた。神は去った。けれど、ここにあるものは消えない。そう思っていた。


 外では、広報車のスピーカーが低く回り始めた。自治体の緊急放送だ。


≪こちら市役所防災課です。昨夜の“神の宣言”に伴い、国からの指示に基づき当市も“歪み発生時の避難行動”を定めました。屋外で異常を見た場合は近隣の建物に入り、窓から離れてください。天使に指定された方は、後日送られる“安全ガイド”を確認のうえ、無理のない範囲で協力をお願いします≫


 “天使に指定された方”。他人行儀な呼びかけに、結城の口元がひきつる。無理のない範囲で――そこに、目に見えない期待と不安が同居している。無理を求められるのが、ヒーローの仕事だと世間はすぐに思い出すだろう。


 昼近く、店の前の道路に車が数台止まった。県外ナンバーも混じる。降りてきたのはスーツ姿の男女。胸に名刺入れ、手にマイク。地方局、全国放送、ネットメディア。通りに三脚を立て始めるのを見て、結城は腹の底に冷たい水を流し込まれたような気持ちになった。


「すみません、取材はお断りしています。子どもも多い店なので」


 戸口に立って頭を下げると、マイクの女性が困ったように笑い、しかし下がらなかった。


「危険は最小限にします。せめて一言だけ、今のお気持ちを」

「お気持ち、ね……。気持ちより、やることが多くて」


 丁寧に、しかしはっきりと断る。背後には、宿題ノートを開いて正月ドリルと格闘している子どもたち。表で見栄えのする言葉を並べるより、彼らの鉛筆の先が止まらないよう見守る方が大事だ。


 記者たちはそれでも居座り、店の向かいでレポートを始めた。カメラが街路の空を仰ぎ、コメンテーターが遠隔で喋る。「地方都市の一角にも混乱が――」「序列一位の生活は一変――」。外野の言葉が、結城の背中に細い棘になって刺さる。


 スマホが震え続ける。画面の一つを開けば、サッカーの保護者グループからメッセージが重なっていた。《ニュース見ました。本物なの?》《子どもたち、練習は?》《危険なら、しばらく休みにしましょう》《でも、コーチの指導が大好きだから……どうか気をつけて》。言葉の温度差に胸が痛む。返信欄に指を置き、少し考えてから打つ。


《今日は通常どおり店を開けています。練習は予定どおり午後、短時間で。無理はしません。何かあればすぐ中止します》


 送信して、深呼吸をひとつ。自分の文章が落ち着いているのを確かめ、少しだけ肩の力が抜けた。


 午後になると、初詣帰りの人々が紙袋を下げて通りを行き交った。皆、神社のお札やお守りを握りしめ、賽銭やおみくじの話をする。そこへ不意に、背中に薄い風を感じて結城は空を見上げた。冬空の高いところに、細い光の線が走り、すぐに消える。高速飛行の残光。姿は見えない。羽の形も分からない。だが、誰かが上空を駆けた事実だけが残る。


「……遠くまで、行けるんだな」


 自分の胸の奥のどこかが、微かに反応する。昨夜路地に張った見えない壁――結界。手のひらに、まだ熱がこもっている錯覚がある。触れてはならない光のほうは、深い湖底のように沈黙していた。


 テレビの画面が海外の映像に切り替わる。崩れた高架、煙を吐く街路、泣き叫ぶ人々。その中央を、白い光が一直線に切り裂く。アリア・スカーレット――序列四位。細身の少女が真っ直ぐに剣を掲げ、歪みの核へ踏み込む様子が、手ブレ混じりの映像でもはっきり伝わってくる。彼女の足元で、黒い靄が砂のように崩れていく。


『ロンドン市警の発表では、負傷者の多くは軽傷で済んだとのことです。天使の基本能力として“高速飛行”と“軽度の癒し”が確認されています――』


 アナウンサーの声が続く。「軽度の癒し」。正確な言い方だ。切り傷や骨折を早く癒す程度――昨夜、八百屋の奥さんが言っていたとおり。画面のテロップの端に、白字で箇条書きが流れる。《※重度の欠損や致命傷の回復は不可能》《※自己回復は疲労に比例して低下》。世界は、言葉で不安を囲い込み始めている。言葉にして、お守りにする。人間はそうやって嵐をやり過ごしてきた。


 夕方、町内会の役員が店にやってきた。腕に赤い腕章。真面目な顔。


「橘くん。小学校の体育館を避難場所にする話が持ち上がってる。夜間の見回りも増やす。子どもたちが多いから、ここも“駆け込み所”として登録していいか?」

「構いません。鍵は常に内側から閉められます。奥の倉庫なら壁が厚い。非常食と水も少しはあります」


 言いながら、頭の中では必要なもののリストが次々に浮かぶ。毛布、懐中電灯、簡易トイレ、充電器。電話の向こうで卸の担当者に在庫を確認し、配送の目処をつける。駄菓子屋にできることは、小さくて、しかし無数にある。小さなことを十並べれば、ひとつの大きな安心になる。


「それから……橘くん個人のことだが」


 役員が言いにくそうに咳払いをした。「天使に指定された人は、近いうちに“安全ガイド”の受講が義務付けられるらしい。市役所の会議室で説明会がある。詳細はまた連絡が来るそうだ」


「わかりました。行きます」


 口に出して初めて、現実がまた一つ重みを増した。説明会。顔合わせ。自分だけの話ではない。日本には、他にも天使がいる。ニュースの画面で走り抜けるテロップの中に、確かに見た名前があった。アリア。佐伯。黒瀬。だが、会うのはまだ先でいい。今は、店の奥の瞳を守る。


 暗くなる前に、商店街の人々と手短な打ち合わせをする。自転車屋は工具と発電機の手配、八百屋は店先のスペースを無料の休憩所に、パン屋は売れ残りのパンを避難所に回す段取り。誰もが、できる範囲で、できることを積み上げる。そうやってこの街はいつも季節を越えてきた。


 日が落ちる。ニュースは“世界の動き”へと視点をさらに広げていく。各国政府が緊急会見を開き、宗教指導者が「神に感謝と別れの祈りを」と語る。市場は乱高下し、空港は臨時の点検体制に入った。SNSには嘘と真実がほぼ同じ割合で流れ込み、善意の拡散と悪意の冗談が入り混じる。


 結城はシャッターを半分だけ下ろし、店内の照明を落として、子どもたちの送り出しを始めた。


「家まで送る。二人ずつだ。暗くなる前にな」


「兄ちゃん……また来ていい?」

「もちろん。ただし宿題はやってからな」


 玄関の前で、母親たちが深く頭を下げた。目の下に疲れの影。けれど、礼の言葉より先に子どもが「コーチね、今日も算数教えてくれた」と自慢するから、少しだけ笑顔が戻る。


 最後のひとりを送り届けて戻る途中、遠くの空にまた細い光が走った。今度は二本、交差して、すぐに消える。音はない。光だけが、冬の空気を一瞬だけ熱くする。誰かが飛び、どこかで誰かが地上を守っている。


 店に戻り、戸を閉め、鍵を回す。ストーブの火が小さくなっていた。やかんの湯を足し、ほうじ茶を淹れる。湯飲みを手に取ると、掌の真ん中――昨夜、結界を張った部位がまだ微かに熱い気がした。錯覚かもしれない。それでも、身体は覚えている。


(目の前を守る。順番は、それだけだ)


 テレビの音量を下げると、代わりに街の遠いざわめきが耳に入ってくる。救急車のサイレン、広報車のスピーカー、犬の吠え声、誰かの笑い声、誰かの泣き声。それらが混ざって、奇妙に柔らかい地鳴りのように床を振るわせる。


 スマホが震えた。市役所からのメールだ。《【天使指定者向け】説明会のご案内/会場:市役所第三会議室/日時:一月三日 午後/持ち物:身分証・配布済み安全ガイド》。添付のPDFには、基本能力の注意点が箇条書きで並ぶ。《高速飛行を公共インフラ上空で行わないこと》《応急処置程度の癒しに頼らず、必ず医療機関へ》《戦闘行為は複数名で、単独行動は避ける》。常識的なことばかりだが、その“常識”の上に今の世界が乗っていると実感すると、背筋が伸びた。


 返信欄に「出席します」とだけ打って送信し、結城は湯飲みを置いた。ふと、神棚の方へ顔を向け、軽く会釈する。特別な言葉は要らない。昨夜と同じ、いやそれ以前と同じ、ごく普通の仕草。


 戸の外を、風が一度だけ撫でた。鈴がかすかに鳴る。誰もいない。けれど、見えないところで世界が軋みながら新しい形に落ち着こうとしている気配がした。


 明日は、午前中に仕入れ、午後は初蹴り。夕方は店を早めに閉めて、説明会の準備がある。やるべきことを順番にやるだけだ。結界を張る必要がなければ、それでいい。張る必要があるなら、張る。癒しの光に触れなくて済むなら、それが一番いい。触れなければならないときが来ても――その時は、迷わない。


 テーブルの上のノートに、走り書きで明日の段取りを書きつける。買うもの、配るもの、借りるもの。ボールの空気圧をチェック。子どもたちに伝えること。ニュースに煽られた不安は、手触りのある準備で小さくできる。


 深夜のニュースが、新たなテロップを流した。《国内でも“歪み”が散発的に確認》《被害は小規模/人的被害なし》《上空に光の軌跡》。アナウンサーが落ち着いた口調で言う。「過度に恐れず、しかし油断せず」。正しい言葉だ。結城はリモコンを置き、薄く肩を回した。


「――よし」


 独り言は、誰にも届かない。けれど、届かなくていい言葉もある。自分にだけ届けばいい言葉もある。


 コートを椅子に掛け、シャッターを最後まで下ろす。外の冷えが一枚、鉄越しに柔らいだ。暗がりに沈む店の中で、レジの小さな表示が青く灯っている。いつも通りの数字。神が去っても、ここには毎日の計算が残っている。チョコの仕入れ、ラムネの売り上げ、ガムの在庫。世界が大きく揺れても、日常は小さく続く。


 目を閉じる。昨夜、結界にぶつかって砕けた黒い影と、今朝テレビで見た白い剣の光が、同じ夜空の奥で交差している映像が脳裏に残っていた。遠くで誰かが戦っている。近くでも、きっとすぐに戦うときが来る。


(そのとき、俺は――)


 答えは、もう決めてある。目の前を、守る。人の命。子どもたちの笑顔。日常。その順番で。


 元旦の夜は、初詣の人波が静まり、霜が降りる音が聞こえそうなほどに冷え込んだ。どこかで猫が鳴き、どこかで誰かが笑い、どこかで祈りの鈴が二度鳴った。神は去った。けれど、祈りは残る。人は残る。だから、守るべきものも、ここに残る。


 結城は店の奥の簡易ベッドにもぐり込み、明日のために目を閉じた。眠りに落ちる直前、スマホが再び震える。画面に浮かんだ差出人は、市役所でもメディアでもない。サッカークラブの保護者会の代表からだった。


《明日、子どもたちをグラウンドへ連れて行きます。私たちも手伝います。コーチひとりに無理はさせません》


 胸の奥で、固くなっていたものが少し解ける。短く「お願いします」と打って送信した。送信音が静かな店に小さく響き、やがて完全な静けさに溶けた。


 世界が騒ぎ続ける間にも、人は眠り、朝は来る。その朝に子どもたちがボールを蹴れるように――序列一位という肩書きよりずっと前から、自分がやってきたことを続ければいい。

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