残響ノ方程式
夏という一瞬のきらめきの中で、忘れられた名前がひとつ、静かに還りました。しかし、因果の方程式はまだ終わりません。
その少女は、春の終わりに現れた。
咲き誇った桜の花びらが風に舞い、校庭の片隅、誰もいないはずの場所で、小さな鈴の音だけがそっと響いた。
「ねぇ、君は……名前を、忘れたことはある?」
探真透矢は、その声に振り向いた。しかし、そこには誰もいなかった。
淡く漂う鈴の音だけが、彼の鼓膜に優しく触れ、ひとひらの桜が手のひらに落ちてきただけだった。
それが、すべての始まりだった。
篠ノ葉高校は、春の陽気に包まれていた。
新学期の始まりは、どこか浮ついている。だが透矢にとっては、春の訪れなど、ただの季節の変化に過ぎない。
「おーい、透矢先輩っ!」
軽やかな足音とともに、透矢の背後から小柄な影が勢いよく迫ってきた。振り返る間もなく、背中に柔らかな衝撃。
「……紡希か。勢いが良すぎる。ニュートン第三法則も知らないのか。」
「物理なんて放送部に関係ないよー!」
紡希 縁は明るい茶髪のボブを揺らしながら隣に立つ。小柄で活発、まるで子猫のように表情がころころと変わる。
「先輩、知ってる?今朝、大変なことがあったんだよ!」
「……また噂話か?」
「違うの!今度は本当だよ。校庭の大木から、“日記”が降ってきたの!」
「日記帳が、空から?」
「うん、それもね、誰のものか分からない古びた革の表紙の日記帳。開こうとすると必ずページが風にめくられてしまうんだって。最後まで読めないんだよ。不思議でしょ?」
透矢は腕を組み、思案する。偶然にしては出来すぎている。
「場所は?」
「ふふっ、興味持ったね!旧校舎の裏庭だよ。でも今は立入禁止になってるんだって。」
その瞬間、透矢の耳にあのときと同じ小さな鈴の音が微かに聞こえた。
透矢は立ち上がる。
「行こう。今すぐに。」
「えっ!?今から!?放課後まで待とうよ!」
「その頃には痕跡が消えている。」
紡希は慌てて透矢の後を追った。
旧校舎は、時間に忘れ去られたようにひっそりとたたずんでいた。
その建物は、篠ノ葉高校の歴史そのものだったが、今では老朽化が進み、立入禁止の札が色褪せて風に揺れている。
「なんか、雰囲気あるね……。ここ、ほんとに立ち入り禁止だよ?」
「そんなことは知っている。だが、あれが“偶然”だとは思えない。」
透矢は無言で進む。
やがて旧校舎の裏庭に出ると、一冊の本がそこに置かれていた。革の表紙はひび割れ、ところどころ焼け焦げたような跡すらある。その上に一輪の桜がそっと置かれていた。
「……あれが、噂の日記?」
紡希は透矢の後ろから恐る恐る覗き込む。
透矢は慎重にその日記に手を伸ばした。
触れた瞬間――。
ぱらり。
風もないのに、日記のページが一枚、自らの意志を持つようにめくられた。そこに記されていたのは、たった一言だった。
――「君は、名前を覚えているか?」
また、あの鈴の音が響いた。今度はすぐそばから。
「聞こえた?」
「う、うん……。先輩、あれって……。」
透矢は辺りを見回す。しかし、どこにも人の気配はない。ただ、淡い春の香りが風に混じっているだけだった。
そのとき、不意に空からもう一冊、同じような日記帳が落ちてきた。
「っ……!」
透矢は手を伸ばし、その日記を受け止めた。
この現象は偶然ではない。この出来事自体が「誰か」に仕組まれた因果の一部なのだ――そう直感した。
「紡希、ここから先は危険かもしれない。戻っていろ。」
「やだよ、先輩が一人で危ない目に遭うかもしれないなら、絶対ついていく!」
その目は真剣だった。透矢はため息をつきつつ、彼女の意志を受け入れる。
「なら、覚悟しておけ。」
こうして、彼らは知らず知らずのうちに、 “名前”を巡る大きな渦に巻き込まれていくのだった――。
透矢と紡希は、日記が落ちてきた旧校舎の裏庭から、そのまま校舎の内部へと足を踏み入れた。
「ここ……まだ生徒の立ち入りは禁止だよね?」
「今は“答え”を見つける方が優先だ。」
透矢の言葉に、紡希は肩をすくめながらも、彼の後に続いた。
廊下は長く、古びた木の床は歩くたびにきしみ音を立てた。壁には剥がれかけたポスターが残り、かつての生徒たちの賑わいの痕跡が、そこかしこに色褪せたまま残っている。
「なんか、時間が止まってるみたいだね……。」
紡希がポツリと呟いた。
そのとき、透矢は立ち止まった。
「……聞こえるか?」
また、あの鈴の音が微かに響いた。
音は、真っ直ぐ廊下の奥――旧音楽室から流れてきているようだった。
「行くぞ。」
「えぇぇぇ、ちょっと怖いよ……。」
それでも紡希は透矢のすぐ後ろにぴったりとついて歩いた。
旧音楽室の扉は少しだけ開いていた。中からは、埃っぽい空気とともに、かすかな音楽のようなものが漏れ出している。
透矢はそっと扉を開けた。
そこには、白いドレスを纏った少女が、一人ピアノの前に座っていた。
「……っ!」
透矢は息を呑んだ。
少女はこちらに背を向けたまま、静かにピアノの鍵盤に指を落とす。しかし、その動きはどこか儚く、不完全だった。音はかすれ、曲になりきれずに消えていく。
「誰……?」
紡希が小声で尋ねたそのとき、少女はそっと振り返った。
透矢は目を見開いた。
その顔は、春の日に見た幻影――あのとき、鈴の音とともに現れた少女だった。
「……あなたは。」
「私は……」
少女は小さな鈴のついたブレスレットをそっと鳴らすと、かすかに微笑んだ。
「まだ、思い出せないの。」
「思い出せない?」
「私の“名前”。それが見つかれば、きっと全部、終わるのに。」
その言葉を最後に、少女の姿はふっと霞のように消えた。
「ちょ、ちょっと待って!」
紡希が慌てて駆け寄ったが、そこにはもう誰もいなかった。ただ、ピアノの上にもう一冊の日記帳が残されていた。
透矢は無言でその日記を手に取った。ページを開くと、またしても風が勝手にページをめくり、一つのメッセージだけが残された。
――「私の名前は、音の中にある。」
「音の中に……?」
透矢は考える。この言葉はただの謎かけではない。何か、明確な“鍵”があるはずだ。
そのとき、ピアノの中に何か光るものが見えた。透矢は鍵盤をそっと押し上げる。
そこには、小さな銀の鈴が隠されていた。
「これって……さっきの子がつけてた……?」
「間違いない。」
透矢は、その鈴をそっと掌に包んだ。
「彼女は、存在している。だが、 “誰”なのか、その因果は未だ不明だ。」
「先輩……これって、本当にただの幽霊話じゃないんだよね?」
「……幽霊よりも、もっと厄介なものかもしれない。」
透矢の目に、微かに不安の色が宿る。しかしその奥には、確かな決意もあった。
「この謎は、必ず解く。」
小さな鈴の音が、ふたたび静かに響いた――。
第二章 波間に沈む微笑み
夏の陽射しは、容赦なく照りつける。
篠ノ葉高校では、夏休みを間近に控えた解放感が、教室のあちこちで弾けていた。
「先輩、海に行きませんかっ!」
放課後の教室に、元気な声が飛び込む。紡希 縁は、すでに夏仕様の帽子を手に、眩しそうに目を細めていた。
「海?なぜだ。」
「決まってるじゃん!夏といえば海でしょ?しかもね、篠ノ葉の海岸で、最近ちょっと変な噂が流れてるんだ。」
透矢は手元のノートから目を上げた。そのノートには、前回の事件で手に入れた日記の内容と、あの少女の言葉が幾重にも記されている。
「噂とは?」
「これ!」
紡希はスマートフォンの画面を透矢に見せる。そこには地元掲示板の書き込みが表示されていた。
──『篠ノ葉海岸の夜、誰もいないはずの旧プール跡地から、水音が聞こえる。月明かりの下で、誰かが泳いでいる影が見える。』
「まさか……。」
「先輩、これはきっとまた、あの子と関係があるよね?」
透矢は無言で立ち上がった。答えは明白だった。
「行くぞ。」
「うん!」
夜の篠ノ葉海岸は、日中の喧騒とは打って変わって静まり返っていた。
月は高く昇り、海面は銀色に輝いている。
かつて学校の施設だった旧プール跡地は、今では海岸沿いにひっそりと放置されていた。フェンスは錆び、コンクリートはひび割れている。
しかし、その場所から――確かに聞こえていた。
ちゃぽん……。
「先輩……今の、水の音……。」
「聞こえている。」
二人はそっと足を踏み入れる。草むらをかき分け、プールの縁にたどり着く。
そこには、誰もいないはずの水面が静かに揺れていた。
月明かりに照らされ、白いワンピースの少女が、静かに水面を歩いていた。
「っ……!」
まさしく、あの時見た少女だった。
「……待って!」
紡希が駆け寄ろうとする。しかし、その瞬間――少女はふっと姿を消した。
そこには、わずかに水音だけが残されていた。
透矢はプールの縁に近づき、静かに水面を覗き込む。
水面に映るのは、自分と紡希、そして――もう一人。
「……!」
振り向いても誰もいない。しかし、確かにそこに「誰か」が映っていた。
そのとき、透矢の手元に、何かが触れた。
水面から浮かび上がってきたのは、小さな銀の鈴だった。
「また……彼女だ。」
透矢はその鈴を手に取る。冷たく濡れた鈴は、微かに震えているようだった。
「先輩、この鈴……あの子がつけてたやつ?」
「ああ、間違いない。」
透矢は水面を見つめたまま、冷静に思考を巡らせる。
「“音の中にある”。この言葉の意味は、音そのものではない。“音が生まれる場所”――つまり、彼女の記憶そのものが、どこかに封じられている。」
「それって……どういうこと?」
「彼女は存在しながら、名前だけが世界から消されている。因果の方程式の中で、“名前”が欠けたまま存在し続けることは、あり得ない。」
透矢は鈴を握りしめ、月に向かってそっと囁いた。
「……君の名前は、必ず見つけ出す。」
その瞬間、ふたたび静かに鈴の音が響いた。
水面には、一言だけ文字が浮かび上がる。
――「夏の波間に、約束は沈む。」
「約束……?」
透矢はその言葉を胸に刻みつけた。
翌日、透矢は篠ノ葉海岸の図書館に向かった。
「夏の波間に約束は沈む」――この言葉が指し示すものを探すためだ。
古びた地方資料の棚をひとつひとつ丁寧に調べる。
そんな彼のもとに、またもや紡希がやってきた。
「先輩、見つけたかも!」
彼女が差し出したのは、昭和初期の地方新聞の切り抜きだった。
──『篠ノ葉海岸に沈んだ真珠の誓い』
そこには、かつて篠ノ葉の港町で密かに語り継がれる「真珠の約束」という伝説が記されていた。
かつてこの地で、互いに名を呼び合うことを誓った恋人たち。しかし、少女は不慮の事故で命を落とし、その名は誰にも伝えられないまま波間に消えた――。
「これだ……。」
透矢は確信した。少女は、この伝説の“名を失った存在”そのものなのだ。
しかし、この伝説はただの悲恋譚では終わらない。
記事の最後には、こう記されていた。
──『名を呼ぶ者が現れぬ限り、少女は永遠に名を持たぬまま、波間に微笑み続けるだろう』
「名前を……呼ぶ者。」
透矢は手の中の銀の鈴を見つめた。
その夜、再び篠ノ葉海岸を訪れる決意を固めた。
夜の海は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。
静かで、冷たく、どこか寂しげに波の音だけが響く。
旧プール跡地には、再びあの少女が立っていた。
「君の……名前は?」
透矢が問う。しかし、少女は静かに首を振るだけだった。
「私には、もう……名前はないの。」
「ならば、僕が見つける。」
透矢はポケットから、もう一つの日記帳を取り出した。
あの日から、ずっと読み進められなかった最後のページ。それが、今、ようやくめくられるときだった。
ページを開くと、そこにはたった一行だけ書かれていた。
――「夏音」
透矢はその名を口にした。
「……夏音。」
少女は驚いたように目を見開き、そして――微笑んだ。
「ありがとう……やっと、思い出せた。」
透矢の周囲で、再びあの鈴の音が響く。しかし今度は、どこか晴れやかな音色だった。
少女――夏音は、静かに歩み寄ると、透矢の手に自分の持っていた銀の鈴をそっと重ねた。
「さよなら。これで……私は、ようやく行ける。」
「待って……!」
透矢が手を伸ばした瞬間、夏音の姿は、朝露が消えるようにふっと消えた。
その場所には、二つの銀の鈴だけが、静かに残されていた。
翌朝、篠ノ葉海岸は一変していた。
旧プール跡地は更地に戻り、そこにあったはずの朽ちた施設は跡形もなかった。
「まるで、最初から何もなかったみたいだね……。」
紡希が小さく呟く。
透矢はそっと、手のひらに残された二つの鈴を見つめる。
「彼女は、もう迷わない。」
鈴の音が、優しく夏の終わりを告げた。
最後までお読みいただきありがとうございます!次回は「秋」の章、「黒猫は名を喰らう」へと続きます。いよいよ物語は核心へと近づいていきます。お楽しみに!