3,大令嬢と会う
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この頃私は夜がふけると、街の辺りを只々徘徊して居た。
其処で、丁度良い女が居ると俺は貌を偽って声を掛けた。
要は、私は夜な夜な女の品定めをしていた。
屑で在るが、そう人知れず言われていたとしても更々辞める気は無かった。どれだけ充足して居ようと、承認欲が満たされる日など来はしない。
決して僕だけでは無い筈だろう。
其処で丁度良い女を見つけた。
やたらと、街に似合わぬ風貌をした女性だった。
黒いドレスの裾がはためいている。
ピノ「独りですか」
大令嬢「あら、お相手をして下さるの」
街道の一角にあった喫茶屋のテラスの椅子に、脚を組んで座る姿が際立って艶やかで在る。
明らかにこの街の者ではなかった。貴族かの如く豪奢で優雅な格好なのに、周りには人っこ一人居やしない。
付き人どころか、人っこ一人も居やしなかった。
鬼が出た夜の様だ。
ピノ「お話でもどうですか」
大令嬢「ええ、良いですよ?」
僕は店の軒先の、丸いテーブルを挟んで彼女の向かいの椅子へと座った。
この夜、いつもの[アリエル]の馬車が街へ出ていない事を良い事に、僕は街の中を散策していた。
するとこの店だけ、夜中誰もいないにも関わらず店先のテラスが用意されている。そこに彼女は一人座っていたのだ。
はたまた妖艶な雰囲気であった。
たまたまであろうが、周りがやたら閑散としていたのに此処だけ幽霊が店を開いたのかと、思わず店の様子に対しそんな冗談を思ったほどだ。
そんな彼女を取り巻いた妖しさには多少なりとも危うさは感じていたが、それでも結局は声を掛けていた。どうせこれも、魔法が尽きて身が尽きる迄の時限付きの火遊びだ。自分の身の保身など今更どうでも良かった。
大令嬢「如何して此方に?」
ピノ「只々夜遊びにと出てきただけですから」
大令嬢「あら、イケナイ人ですね」
暫く談笑をしたのち、僕は彼女の邸宅へ一時だけお招きいただく事と相成った。
大令嬢「用意して。」
彼女が誰にでもなく声を掛けると、息づく間もなく馬車がこちらへ現れた。まるで虚空への鶴の一声の様だ。
豪勢な馬車で在る。
彼女に続いて馬車に乗り込んだ。彼女が向かいの座席へ座って居る。
改めて対面をするとその妖艶さがよく見て取れる。流れる様なその艶髪に凛とした貌立ちと流し目をして、「たまにはこう云うのも良いものですね」、なんて彼女に言われるものだから、思わずどう返せば良いか分からなかった。
ピノ「良きお家柄なのですか」
大令嬢「私の出自なんて、如何でも良い事でしょう。大した事ではありませんから」
まあ、どうせひと時の関係に過ぎないだろうからと其れ以上は聞かなかったが、彼女がかなりの出で在る事だけはきっと間違いなかった。
そんな事を話しているうちに、馬車が屋敷の前に辿り着いた。
豪華過ぎる。
[アリエル]の屋敷よりも大きい。
目を奪われるのはその異様に豪華な屋敷の、藍だか、黒だか、宮殿一帯の彩色の暗い色一色で在る事。
そして、その周囲は宮殿の薔薇園が着飾っている。
無駄を全て削ぎ落とした様な、その異様な色彩一色の放つ威圧感。それがなんと美しい。
まるで湖に鎮座する黒鳥の様で在る。
この地で目覚めてからこう幾度も豪勢なものばかり目にすると、もう既に自分の感覚が麻痺してしまっているんじゃないかと然う思ってしまう。
きっとこの屋敷の規模は、僕の驚く以上に凄まじいものの筈だ。
彼女が車窓から屋敷の方を眺めて言う。
大令嬢「自分の仕事で暫く外へ出ていたのですが」
大令嬢「ちょっと、またここが恋しくなりましてね」
大令嬢「久々に、お忍びで私の土地にでも帰ってみたのです」
やはり、この宮殿一帯が彼女の持つ家なのか。相当なご令嬢なのだろう。
ピノ「仕事とは貿易か何かですか」
大令嬢「まあ、そんなところです」
馬車が庭園の中央を進む最中はそんな事を談笑していた。
やがて大玄関に着いてから、彼女に続いて馬車を降りる。
その際、彼女の左手に誘導された。
左手の細い指一本一本が、やたら滑らかで美しかった。
大令嬢「生憎、もてなす術も大して持ち合わせてはいませんから......」
大令嬢「私からは、大したことはできませんけれど」
事を済ませて、彼女の敷地に所有する大浴場で彼女と湯浴みをすると、浸かっている湯の気煙から柚子の薫りがした。
浸かっている湯槽の中で後ろから、俺の背にもたれ掛かっている彼女が僕の胴に手をひたと周して、小さく囁く。
大令嬢「何時帰られるの?」
ピノ「このあと直に」
大令嬢「もう少し、此方に居らしてはダメ?」
彼女が、脚を内から絡めて引き留めてくる。
ピノ「いけません、深夜を周るまでには帰りませんと。直に十二時を過ぎる」
湯槽の下から身体を抱き抱えられた。
僕の恥じるうちに向きをはたと直されて、その湯槽の下の、彼女の脚のその上に、対面をするように跨いで座らされていた。
細い指が俺の右頬に添わって優しく、僕の左頬を彼女の胸元に押し当てる。
更に、耳元に小さく呟く。
大令嬢「私がお嫌い?」
そんな筈が無かった。
ピノ「......そう云う、そう云う訳では無いのです。単に、ただ門限を守らなければいけない気がするだけですから」
余韻とでも云うのか、それとも黙りとして居るのか、少しの無言の間が有った。
幸福だからかそれとも間が保たないのか、彼女の胸元に直に耳を押し当てられている間が、やたらと長く感じて熱かった。
それで彼女がつつうと、沿わせた指を離した。
大令嬢「そう、なら仕方がないのね」
彼女がそばから離れると、続けて言う。
大令嬢「さあ、もう時間ですね。お互い、のぼせてきってしまう前にあがりましょうか」
そして湯を上る前に一言。
大令嬢「ああ」
大令嬢「そう言えば、すっかりと忘れておりました」
忘れていた事があった。
大令嬢「名前、名乗ること。」
すっかり忘れていた。流石にまたもや人に名乗るの忘れたのは阿呆を通り越して、もはや愚かだなと自分の事を思う。
僕の横で、彼女が名を語った。
大令嬢「私、[グリムヒルデ]と申します。」
大した事ではないが、送迎までは流石にと遠慮をして、屋敷から独り帰る前にはこんな会話をした。
ピノ「大した事も返せなくて済みません」
グリムヒルデ「あら、良いのですよ」
グリム「お返しならくれているではありませんか」
彼女が一歩僕の方へ歩み寄る。そしてそのあとに。
彼女が左手の人差し指を差し出して、
僕の貌の輪郭を拭った。
彼女が僕の貌を褒めて居る。
グリム「お大事になさってくださいね、貴方の、一番大切な物ですから」
グリム「私もこれくらいの事でしか返せませんけど、貴方の姿で望まれたなら、これくらいは幾らでも。」
ここで、ふと思う。
自分の貌では無い。
偽物の貌で在る。
そんな些細な気持ちを押し仕舞って、僕は屋敷を出た。
登場キャラ一覧
・ピノ 記憶の無い青年。この頃は街へ繰り出してはナンパばかりしている。
・グリムヒルデ(大令嬢) ピノの前に現れた妖艶な女性。彼女の出自などは謎に包まれている。スレンダーなドレスがとても優雅。