2,アリエルの部屋にて
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少しばかりの日が経って、自分は未だに[ターリア]の住む修道院に部屋を間借りして生活をしている。
この日も自分が四苦八苦して作った大して美味くもないスープを分け合ってから、食べ終えて暫くしたのちに軽く身なりを整え修道院を抜け出す事にした。
[ターリア]が、心配そうにこちらの様子を伺っていた。
ターリア「[ピノ]、またお出かけするの? もう夜も暗くなってきたのに」
ピノ「うん、少しだけ」
ピノ「[ターリア]は先に寝ていて」
[ターリア]は少し不安げな貌をしている。
ター「......えっと、また戻ってくるのよね...?」
ピノ「少し、出掛けてくるだけだよ」
ピノ「大丈夫、十二時までには戻るから」
ピノ「おやすみ、[ターリア]。」
それで。
修道院を出て、村の山道を下って街まで降りると、街の入り口には馬車が留まっている。
一目では控えめながらも、じっと見ると解る黒を基調としたその装飾の凝り様。
[アリエル]の所有する馬車だ。
召使い「お待ちしておりました。」
あれからずっと、街の入り口には馬車が留まっている。
あの日からずっとだ。
別に毎日来られる訳じゃない。ただ、こうも好意的な待遇をしてもらっているのを知ってしまうと、耐えられずに誘惑に乗っかってしまうのが俺の救えない点である。
それと、招待を断る罪悪感も少しある。
屋敷の庭が見えて来た。
馬車を降りて、召使いに屋敷の中まで案内されてから、僕は湯の間を独り借りたのち[アリエル]の部屋まで向かった。
アリエル「ごきげんよう。」
[アリエル]がベッドの縁に座って居る。
凛とした貌立ちに、流れる様な髪のその色と、此方を見据えるようなその流し目。
蠱惑の誘いである。
俺は彼女の向かいに在る丸椅子に座った。
あれからずっと、こんな事をしている。
最悪であるが、自分は誘惑に耐えられなかったのだ。
逆に言えば捨て鉢になっているとも言える。
それで、再び会いに行くなどしてしまったのだ。
アリ「[ピノ]さん」
また[アリエル]は僕の背後に歩み寄って居た。彼女は後ろで、僕の髪を掻き分ける仕草をしている。うなじがくすぐったかった。
アリ「さみしかった。しばらく来てくれなかったから」
ピノ「...済まない」
アリ「良いの、来てくれたから」
ピノ「......ひァっ?!」
そう言い終えると彼女が少しだけ、僕の耳の後ろを指でなぞった。
アリ「...うふふ! 踏む方がお好きだなんて、最初に仰っていたのに」
アリ「苦手なところ、見つけてしまったかしら」
ピノ「...いや、苦手なんかじゃないよ」
アリ「......アハハっ! 貴方、おもしろいお人。」
結局、この屋敷に来る度に俺は彼女に遊ばれている。彼女が僕を手玉に取るのが得意なものだから、どうも仕返しする気に成れなかったのだ。
アリ「あのとき」
アリ「其れはまた次の機会に、だなんて言っておいて」
アリ「結局また私ばかり遊んでしまったわね」
ピノ「良いよ、遊ばれるのも愉しいから」
アリ「でもそれじゃ不平等よ、きっと」
ピノ「なら、なにかお返しがほしいな」
アリ「うふふ、ほら、やっぱり。」
彼女がまたベッドの縁へ座った。
アリ「じゃあ」
アリ「今度は御好きにどうぞ?」
ベッドに仰向けに寝そべる[アリエル]が、縁から放り出した脚を上げて此方を手招いている。
...脚招いていると言った方が適切だろうか。
なんて。
気が付けば私はその脚に釘付けだった。
良い様にするのも悪い様にされるのも、その何方もが心地良い。泥濘に足をとられるのが余りにも気分が良くて、その華奢な身体のやたらな豊かさが、天多の地母よりも豊かに見えて仕方がなかった。
それからまた、その後の暫くを経て。
寝そべる僕の胸に項垂れている彼女の、後ろ髪を手のひらで更に少しだけ、俺の胸元へ押した。
彼女の口元が綻んだ気がする。
アリ「[ピノ]さん、汗の匂い」
ピノ「うん、君も」
アリ「すうぅ。」
なんて心地良いんだろう。
この時間が永遠と続けばいいのに。
気が付けば、十二時が近かった。
ピノ「...あ。もうじき十二時を過ぎる」
ピノ「もう、帰らないと」
もう帰らなければならなかった。
[アリエル]が怪訝な表情をして居る。
アリ「......[ピノ]さん。如何してそんなに十二時が気になるの?」
実際如何してそんな事を気にし出したのか。
ピノ「え、如何してって」
一夜で魔法が解ける訳でも無いだろうに。
何だか、約束を破ると魔法が解けてしまう気がして。
実際にあの子と約束を交わしたわけでも無い。
俺が勝手に思っているだけなのに、そんな思い込みに妙に急かされた。
アリ「どうしたの、そんな間の抜けた貌して。まるでくるみ割り人形みたい」
[アリエル]が困った貌をして嘲笑をしている。
嘲笑われるほどだなんて、一体僕はどれほど間抜けな貌をしていたものだろうか。
そんな事を考えていると。
そんな中、ふと些細な疑問が頭に湧いた。
その些細な疑問に、自分の脳内は妙に強く支配されてしまった。
ピノ「そういえば」
ピノ「俺の顔って、どんな貌だったっけ」
アリ「......アハハっ!? なにそれ!」
[アリエル]は僕の素っ頓狂な態度に思わず吹き出してしまった様だ。彼女のした困り顔まで消え失せる程だ。
アリ「自分の貌すら忘れてしまっていたの? まさかそんなに深刻な人だったなんて」
アリ「それとも、なんでも記憶喪失のせいにして、恍けるつもりかしら」
ピノ「そんなんじゃないよ、気を損ねてしまったのなら謝る」
アリ「ウフ、嘘だって。冗談よ」
彼女が脚を組み直した。
僕の間抜けな面に気を良くしてくれた様だ。気を良くした彼女は、部屋のとある方を指差していた。
アリ「そんなに自分の貌を思い出したいなら、鏡でも見れば良いじゃない。」
アリ「鏡、そこにあるわよ」
[アリエル]の指差す方に、大きな鏡がある。
そう言えば、湯浴みの時もこれまで一度も鏡を見ようとした事はなかった。揺れる水面に気を取られる様な事さえも無かった。
今までどうして自分の顔すら見ようとしなかったのか。
鏡。鏡を見た。
木彫りの人形だった。
人形だったのだ。実際に鏡にうつった自分の顔は、木彫りの様相をしていた。木目の浮かんだ丸い輪郭に、顎元に口の形だけが雑に彫られている。他には何の部位も付いていなかった。
覗いた口の中までもが木目でびっしりだった。そんな口元が、喋る度にうねうねとしている。
気持ちが悪かった。
何だこれは。
此れが今の自分?
これじゃまるでのっぺら貌じゃないか。
アリ「ね、なかなか男前でしょう?」
彼女はそう笑っていた。冗談で、当たり前の事を笑っているかの様だ。
聞けやしなかった。再び彼女に対して、自分の顔は今どんな貌をしているのかなど、そんな質問は恐ろしくて聞けやしなかったのだ。
彼女が再び、こちらに歩みを寄せてくる。
自分は鏡の前に覆い被さった。
アリ「? どうしたの?」
ピノ「いや、何でもないよ。」
アリ「何でもないって、そんな様相じゃないわ」
ピノ「本当に、何も無いんだ。さあ、さっきの続きをしよう。」
もし鏡に写るの自分の姿を、彼女が見たりしたらどうなるものか。
無理矢理にでも言葉を取り繕って彼女を鏡から引き剥がしたが、果たしてその必要があったのだろうか。
魔女『お前さんを見た者の魔法を解きたければ』
あの時の、その言葉の先が思い出せない。
それが思い出せないのが怖くて、それで彼女を鏡から引き剥がしてしまったが、果たして鏡に写る自分を隠す必要は有ったのだろうか?
でも怖くて確認など出来なかったのだ。
アリ「なに怯えてるの? ほら」
ぎょっとしてしまった。
彼女が手鏡を差し出していた。
アリ「ホラ。綺麗な貌じゃない」
手鏡には、木彫りの人形と彼女が一緒に映って居た。
いつもの場所で馬車を降りて[アリエル]の屋敷から帰る最中、自分は開き直って考え直していた。
何をそんなに怯えていたのかと。
[美貌の魔術]。
あの魔女の掛けた魔術、今の自分の顔が、きっとその魔術の正体なのだろう。
木彫りの人形の、彫られていない顔のままなら、きっとどんな貌にでも彫り替えられる。
相手の望むままに貌を彫り替えている。そう見える魔法の顔。
そう、シンデレラだって魔法で姿を変えられていたじゃないか。それだけの事なんだと思った。
魔法はいつも解ける要因がある。
彼女が手鏡を差し出してきたとき、自分は彼女に掛かったその洗脳が解けてしまうのだと思った。でも別に、鏡に自分の貌が映ったとて何も問題など無かった。自分の顔を失う事に怯え過ぎていたのだ。
魔法なんてそんな簡単に解けるものでも無いのではないだろうか?
いや、別に魔法なんて解けたとて良かったんだ。だって、今の自分なんてのは只の世捨て人と何も違いは無いのだから。
怯えられて今いる場所を失ったとて、また元の根無草に戻るだけだろう。
この時は、そう開き直っていた。そう思い込むほか無かったのだ。
忘れよう。元の自分の事も、魔法の事も。
怯えていても仕方のない事だけは、きっとそうに違いない。
そう言い聞かせて帰路に着いた。
登場キャラ一覧
・ピノ 魔女から魔法を授かった青年。その顔は誰にも知られていない。基本的に屑。
・ターリア ピノを拾い修道院に匿った健やかな女性。ハーフアップ入りの栗色の長髪をして、修道服を着ている。不憫。
・アリエル ピノを屋敷に呼び連れ誘惑する妖艶な少女。軽げなゴシックドレスを着て、ボリュームのある短いツインテールをしている。不憫。
・魔女 性別すらも判らないお喋りな魔女。ピノに魔法を授けた。やたらと不審。