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1,白い部屋で目覚めてから彼女の部屋へゆくまで




......あれ。


ここは。


気がつくと、何も無い白い空間に居た。

目の前には、黒い外套(マント)を着た男とも女とも取れぬ姿の者が立って居る。


魔女「お(はよ)う、そこの坊や」


......真っ白い空間にはとても浮いた様な格好だ。誰だろう。


ここは一体どこだろうか。


魔女「お前さん、まだ生きていたいのかね?」


自分「え?」


彼とも彼女とも取れぬ者は自分に問いかけている。


自分「あの、此処(ここ)は?」


魔女「ここが何処(どこ)だかは重要では無いよ」


魔女「もう一度聞くがね、お前さん未練は有るのかね?」


自分「......未練...? その、一体何に?」


魔女「さぁ答えてみな」


彼だかは、自分の質問には答えてくれる気が無いようだった。


自分「...」


自分「......たぶん無いと思う」


判らないがそう答える。


魔女「そうかい、そうかい。二言は無いね」


いつのまにか、目の前には古い机があった。


魔女「本当に未練が無いのなら、この紙に名前を書くと良い」


自分「これは?」


魔女「契約書さ、お前さんの魔法のね」


魔女「お前さんが」


魔女「新たな世界で生きていくには必須のモノよ......」


机の上に置かれた紙は淡く光を放っている。


自分「魔法...? それに新たな世界って」


魔女「なんだ、それが欲しいのでは無かったのかね」


杖をついて机の前に立ったその魔女は、(しお)れた指を紙に向け、指差しして語り続ける。


魔女「契約と引き換えに、お前さんの望むものを授けようと言っているのだよ。契約に欲しいものは」


魔女「生前の記憶。主に、お前さん個人に関してのね」


魔女「名前や顔の記憶やらは、まあ、魔法に必要な供物と思えばいい」


魔女は笑いながら契約の内容を言う。


魔女「まぁ一度は死んだ身さ。新たな地にゆくには、すべて要らんものさね」


魔女「さあ、名前ヲ。」


腕を掴まれるとそのまま紙の方へ引き寄せられて、自分はその紙に名前を書いた。

その紙を見返すと、書いた文字が焼けて消えている。


そしてもう一つ。

それと同時に、自分の名前と、(かお)の記憶も消えた。


魔女「これで、お前さんは文字通り心機一転、真っさらな姿に生まれ変わったと()う訳だ」


魔女「ヒ、ヒヒ、さア、あとは何処へでもお行き。」


自分が再び気を失う前に、もう一度だけ魔女はこちらを向く。


魔女「ああ、魔法の名前を教えるのを忘れていた、今のうちに伝えておく」


魔女「魔法の名前は、[美貌(チャーム)の魔術]と言う」




?「[アリエル]、待ってったら!」


??「もう、[ターリア]の足が遅いのよ」


誰の声だろうか。

あれから目を覚ますと、自分は林道の脇に倒れている。


アリエル「ほら、この子。」


ターリア「まぁ、これはイケナイわ!」


瞬く星空の(もと)に、(のぞ)く二人の(かお)が見える。

先に着いた一人は少し軽げな生地で身なりの良い二つ結いの少女で、(のち)(まみ)えた一人は質素な長尺の修道女らしき服と長髪をした、若めの女性であった。


華奢な少女の方が、自分の(こうべ)(ふもと)にしゃがんで、此方(こちら)に問いかけてくる。

...下手をするとスカートの中が見えそうだ。


アリ「ねえ貴方、どうしてこんな所で昼寝をしてるのかしら」


後ろの長髪の女性がそれに反論した。


ター「待って、[アリエル]。もう夜更けも過ぎ(どき)よ? それはきっと違うと思うの」


ター「だっていま昼寝をしていたのなら、彼も布団に()いたときにぐっすりと眠れないでしょ? 良い子は、十二時を過ぎる頃には寝付かないと」


アリ「あら、それもそうだったわね!」


やたらと緩い会話を続けている。頭の上で穏やかな会話を続けるものだから、どうにか起き上がろうにもその気が起きなかった。

彼女らは一体誰なのだろうか。

いやまだそんな事は如何(どう)でも良い。


自分「............ここは、一体何処?」


ター「......アラ?」


アリ「まだ寝惚けてるみたい」


二人に手を()かれて、上体を起こされた。


アリ「ここは[ウォルムス領]の村途中(むらどちゅう)山道(さんどう)よ。自分の居る場所も忘れちゃったの?」


知らない場所だった。いったい何処だろうか。


自分「時代はいつかな」


アリ「...ヘンな事を聞くのね」


アリ「[グース暦]の65年よ」


聞いたことも無い。


自分「その、[グース暦]ってのは......?」


ター「え?」


ひどく驚かれてしまった。長髪の彼女は怪訝(けげん)面持(おもも)ちでこちらの顔を覗いて言う。


ター「貴方、もしかしておバカさんだったのね...? でも大丈夫、たとえ貴方がおバカさんでも、勉強を続ければいつかきっと覚えられるハズ......」


アリ「流石に何かあったんじゃないの?」


[アリエル]と呼ばれていた少女が、[ターリア]と呼ばれた女性の言葉を制止した。

自分の存在も相当不思議な(ざま)だが、[ターリア]と呼ばれる彼女も相当な不思議ちゃんのようだ。


......いや、今いる場所も今いる時代の事も知らないのだから、オカシイと思われて当然か。


自分「何も思い出せないんだ」


アリ「......記憶喪失?」


ター「頭でも打ったのかしら」


[ターリア]は自分の頭の後ろを覗き込んでいる。

…多分、頭にコブは出来ていないとは思う。


アリ「なら」


アリ「ウチに来たら?」


アリ「行く当てが無いんでしょ? うふふ、何日でも泊めてあげる」


ター「もう弱ってる人をからかっちゃダメよ」


アリ「あら。そんなこと言って、[ターリア]も引き留める気マンマンじゃないの、思ったより面クイなのね!」


ター「えッ?! もう違うわよ!」


アリ「アハハっ! じゃあねぇお幸せに!」


[アリエル]は後ろを向いた。


ター「もう! ちゃんと帰るときは周りに気をつけるのよー!」


アリ「わかってるわよー」


帰って行ってしまった。

軽快な人だ。


ター「貴方、名前は?」


自分「えっ......」


ター「名前よ、なまえ。」


自分「お、俺は...」


自分「えっと、僕の名前......」


ここでふと気が付いた。


自分「私の名前、何だっけ」


ひどく頭が混乱している。この木立(こだち)の中の道端で目を覚ましてから、自分の記憶がどうもはっきりしない。ふと不安に駆られて、思わず彼女の方に少し振り向いてしまった。


彼女がきょとんとして居た。

自分が自らの名前を忘れてしまった事を怪訝に思っているのだろうか。


自分「? 如何かしたかな」


ター「貴方、変わってる」


自分「え?」


ター「自分の事、僕って言ったり私と言ったり、俺と言ったり。不思議な人ね」


言われて気が付いた。


生前、自分の事を何と呼んでいたっけ。

俺とか僕とか、如何言っていたかが思い出せない。少なくとも、私とは呼んでいなかった気はするが、忘れてしまうと意外とどれもしっくりと来ないものだな。


自分「ええと、その、一人称をまだ決めてないんだ」


ター「...エヘヘ! 貴方ヘンな事を言うのねぇ」


......案外(ぞく)っぽい笑い方をするな彼女は。


ター「ウフフ、じゃあ、わたしが名前を考えてあげるわね」


自分「君が?」


ター「無いと不便でしょう? 貴方の名前。」


自分「......まあ、たしかにそうだね」


そう自分が言い終えると彼女は急に黙り込んでしまった。眉間に(しわ)が寄っている。こちらのことをじっと見据(みす)えるかの様だ。


そのあまりの急な変貌ぶりに何か怒らせてしまったのかと戸惑ってしまったが、どうやらただ真剣にこちらの名前を考えてくれているだけらしい。眉間に皺を寄せて口をへの字に曲げるその顔も、その真剣ぶりが貌に出てしまっているだけの様だ。


だがその最中ずっとこちらの顔を見つめているものだから、流石にだいぶ気恥ずかしかった。思わずちょっと顔を逸らしてしまった。


少し、いや(しばら)くしてから、彼女が再び口を開いた。


ター「じゃあ、[ピノ]。」


自分「[ピノ]?」


ター「うん。貴方の雰囲気を見て、最初にそう思い浮かんだの」


ター「...やっぱり変かしら?」


ピノ「いいや、そんな事ないよ」


ピノ「綺麗な名前だ。僕に名前をくれて有り難う」


この地ではじめて貰った名であった。

些細(ささい)な事なのにそれが嬉しかった。


ター「あなた、お(うち)は?」


分からない、と首を振った。


ター「......そう、でも大丈夫」


ター「わたしね、わたしも昔は孤児だったのだけど、いまは住み込みで修道院にご奉仕をしているの」


ター「うちの決まりは緩くてね。昼間は村のみんなもお勤めに来るのだけど、夜はみんな自分のお家に帰っちゃうから、夜はわたし一人しか居ないの」


ター「だから、あなたもう一人くらいなら、村のみんなもきっと住み込みを許してくれると思う」


彼女一人で暮らす修道院に自分が居候をする、はたしてそれは逆に大丈夫なのだろうかと思ってしまったが、あまり深くは言及しないでおいた。


ター「ちょっとここで待ってて、修道院のみんなを呼んでくる」


彼女がくるりと背を向けた。彼女の姿を向けた方に、うっすらと村らしき建物の陰が見える。


ター「貴方のお部屋、片付けないとね」


ター「部屋の支度をして、食事をしたら、きっと十二時にはちゃんと寝られるはずだから」


そう言って彼女は軽快に去っていった。


不思議な人だ。ふわふわとしている(よう)(さま)なのに、妙に言葉や行動がハッキリしているものだから、そんな大胆な所に驚いてしまう。

でもそんな姿がとても愛らしくも思える。僕の名前も、結局俺自身でなく彼女が決めてくれたのであった。


でも、そう言えば結局私自身の事を呼ぶ"呼び方"は決まらなかったな。結局、自分の事をどう呼んだものだろうか。


俺、僕、私。忘れてしまうとどうも皆しっくりこない。

自分の喋り方くらいはそのうち決めてしまわないと。



アリエル「ねぇ」


ピノ「うわッ!??」


急な事で思わず驚いてしまった。

見ると、其処(そこ)には先ほど[アリエル]と呼ばれていた少女が、背後の木々の合間からこちらを覗いて居た。


黒を基調とした軽げなその衣装が、風に煽られて静かに揺れている。


ピノ「君は......さっき帰ったんじゃ」


アリ「そうだったかしら」


彼女はそう(とぼ)けてみせた。


一体、どうしたのだろうか。

彼女が自分の方へ歩みを寄せてくる。


アリ「ちょっと、気が変わったのかも」


アリ「ねえ、貴方、私の(ウチ)に来ない?」


ピノ「え?」


突然の提案であった。


アリ「ちょっとね、心配だったの」


アリ「貴方のこと。」


後ろに立った[アリエル]が、背後から僕の右肩に手を掛ける。

そして俺の左肩に顔を寄せて、私の顔の方を向くと()う語りかけた。


アリ「心配だったの。だって記憶も手持ちの荷物さえも、何も持っていないようだったから」


華奢な少女が僕の背から顔を覗きながらそう言っている。


彼女は、これが俺の境遇を気にかけての事なのだと言う。

そうは言っているのだが。


ピノ「それは、わかったんだけれど」


ピノ「でもどうして」


どうして一度帰るそぶりをして、それなのにまたもや戻って来たのだろうか。

それも、もう一人(ターリア)の居ぬ合間に。


アリ「ううん、ちょっとね?」


その事への返答なのか、それとも言葉を遮りたかったのだろうのか?


アリ「最初に貴方の事をふと見たときにね、思ってたの」


アリ「貴方、良いなって」


ピノ「......え?」


アリ「さ、此方(こちら)に居らして。支度をしてさしあげるわ」


そのまま手を()()せられて、連れられた。


アリ「何もかも、持っていないのでしょう?」


ピノ「いや、でも、[ターリア]が...」


アリ「大丈夫、また戻ってくれば良いのだから」


彼女が、人差し指を立てて私の口元をしぃと塞いだ。


気が付くと、小さな馬車が、[ターリア]が走っていった方向とは反対の方角の道すがらに()まっている。その道すがらの先を目で追うと、そこにはひとつの小さな街の姿が()った。

そしてさらにその遠く遠くの方には、小さくもぼんやりとと一つの屋敷の姿が据えて見える。こんな遠くからも在る事が判るほどだなんて、果たしてどれだけ豪奢(ごうしゃ)な邸宅であるものか。


俺よりも一回りも小さな[アリエル]の手が、僕の手を惹いてゆく。結局自分はその手に導かれて、軽率(けいそつ)にもその馬車へと乗り込んだのである。


軽薄だったとは思う。


でも。

此処に残ったとて、どうせ(かくま)う孤児が一人増えるだけだろうと、結局は彼女(アリエル)(ほう)の誘いに乗ってしまったのである。


どうせ往く(あて)など初めは無かったのだから。


道すがらで揺れる馬車の中で、[アリエル]が此方の方を向いて喋りをはじめた。


アリ「貴方って不思議ね。記憶もなくて、ここの土地柄も時代の事も何も知らない。そんな人が自分の身ひとつで道端に転がっているんだもの」


ピノ「......ああ、そうだね。自分でもそう思う」


アリ「しかも、荷物どころか手持ちさえも持ってないだなんて。まるで前世にでも忘れて来てしまったみたい」


ピノ「......」


ピノ「うん、みんな何処かに置いてきてしまったんだ」


アリ「...アハハっ、ヘンなお人」


彼女が静かな声でこちらに笑いかけてくる。

その機を見計らって、ひとつ先程から気になっていた事を質問した。


ピノ「...[アリエル]は、[ターリア]とは友達とかなのかな」


アリ「......んー?」


[アリエル]は馬車の車窓の景色へ目を向けると、軽く一言言葉を交わした。


アリ「...そうね。まあ、友人みたいなものなのかしらね」


そのような事を聞いていると、いつの間にか()まった馬車の目の前には大きな屋敷が在った。



魔女にでも化かされたかとさえ考えた。

余りにも、ひたすらに大きな屋敷であった。屋敷の庭には妖艶な花々が咲き乱れている。余りの豪勢なその(さま)に、思わず唖然としてしまった。


一体なんだと言うのだ。自分がこれまでの前世で一体何をしでかしたとでも言うのだろうか? 目の前のそれこそ"住む世界が違う"と言った表現がぴったりな(さま)の宮殿の居座ることを目の前にして、自分は改めて、これまで暮らしてきたであろう"前の世界"とは違う御伽(おとぎ)の国に迷い込んだのだと確信してしまったのである。


こんな状況下で神隠しの被害者に成せる事と言えば、唯々(ただただ)見知らぬ(そら)に対して天啓を乞うくらいの事しか無い。


連れられて、僕は屋敷の中を通りそのまま彼女の部屋へと()()って居たのである。


アリ「さ、入って」


俺はそれに言われるがままである。


ただ。

連れられたその彼女の部屋は思いのほか広くはなく、内装も一瞥(いちべつ)だけではその豪勢さを理解するには至らず拍子抜けしてしまった。だが目を凝らすとベッドの上に掛かった黒いレースの刺繍のきめ細やかさや、部屋の壁の主張しないその装飾が、その(じつ)如何(いか)に凝っているものだろうか。仄暗(ほのぐら)い部屋に隠れるその余りに過ぎた()(よう)が、この屋敷の出鱈目(デタラメ)な地位を隠しきれていない。


自分が一体どんな王侯(おうこう)貴族(きぞく)在処(ありか)に迷い込んでしまったものか、はたして見当もつかない。


そんな部屋の絨毯(じゅうたん)をまるで余計な通り道かの様に小走りで横切った[アリエル]は、そのベッドの上に身を乗り上げてから一度ダラけて横になると、また身を乗り出してこちらの方を向いた。

そのレースの(こす)れる音が、心底心地良(ここちよ)い音だった。


アリ「そう言えば、貴方名前は?」


そう言えばそうだった。

彼女には名乗るのはまだであった。たとえ混乱していても名前くらいは名乗るであろう。彼女に自分の名すら告げずにこの屋敷まで案内させていたのだと考えると、なんだか自分自身がだいぶ気の抜けている人に思えてしまった。

改めて、名を名乗った。


ピノ「俺は、[ピノ]。」


ピノ「[ターリア]が名付けてくれたんだ」


アリ「...」


アリ「ふぅん、そうなの」


そうなの、と言う言い草に少し気を取られた。


アリ「あの子に名前、つけてもらったんだ」


アリ「でも、それなら彼女は貴方にとっては、親代わりと云う事よね」


何で、そんな事を()くんだ?

彼女の前に立つ僕の貌を、ベッドの縁に座る[アリエル]が下から覗いてくる。


アリ「じゃあ、貴方のこと」


アリ「[ピノ]さん、って呼ぶね」


ベッドの上に座る[アリエル]が目の前に立つ自分へ向かって、そう(ささや)いてくる。

自分より背の低い[アリエル]のその、上目遣いでこちらを見る姿に思わず息を飲み込んでしまった。


それから、ここに座ってと(うなが)されて、そして言われるがままにベッドの縁の上へと腰を下ろしていた自分が居る。


アリ「ねぇ、[ピノ]さん。」


左に座る[アリエル]がこちらを覗いて言う。


アリ「此処まで来てしまったのだから」


アリ「私のお願い、聞いてほしい」


もうどう言えば良いのか判らなかった。自分の冷や汗がやたら熱い気がした。


アリ「うふふ、客人と言えど、招かれたからには期待には沿うものではなくて?」


アリ「()れが、淑女からの誘いとならば、特に。」


足りない頭で今日のことを思い返して、どうにか言葉を(ひね)り出した。


ピノ「ダメだよ、[アリエル]......。そんな事をしていたら、時刻が十二時を過ぎる」


ピノ「十二時には、良い子は寝つかないとって、彼女が──」


アリ「ねえ、[ピノ]さん。一旦、門限の(その)事は忘れてほしい。今だけでも良いから」


彼女が目の前からこちらの肩へ手を(まわ)す。

僕はその手で彼女の方へと惹き寄せられるがままであった。


アリ「さぁ、もっと此方に居らして。踏んでさしあげる」



その暫くを経て、彼女の胴を(じか)にして俺の指を這わせていると、ふと、部屋の扉をコンコンと小さく叩く音が聞こえた。

男らしき声が、扉の裏からただ静かに聞こえる。


アリ「なぁに?」


召使(めしつか)い「馬車が御見(おみ)えです。」


アリ「...もう、仕方ないのね」


アリ「[ピノ]さん、あのね? お父様が帰ってきたみたい」


アリ「だから、今夜はコレでおしまいね?」


もう終わりの時らしい。


アリ「御免なさい。帰りは、送って差し上げる事は出来なさそう」


アリ「一緒に湯浴みをしたら、屋敷の裏手まで連れていってあげるわね」


ピノ「体を流す時間なんてあるのか?」


アリ「大丈夫よ! お父様は召使達(ウチの)()めさせておくから」


...なんだか、この屋敷の序列を垣間見た気がするな。


アリ「うふふ、それで」


彼女が背から腕を周して、此方に語りかけた。


アリ「[ピノ]さん、如何(いかが)でした?」


僕の背を這う素肌と、(なま)めかしい声に気圧(けお)されかけた。


ピノ「...ホントは、踏まれるより踏む方が好みだったり」


アリ「......アハハっ! 上に乗る方がお好きだったなんて」


彼女が私の首の後ろで(ささや)く。


アリ「気付けなくて御免なさいね。(なに)せ、(はじ)めてなものだったから」


アリ「じゃあ()れは、また次の機会に。」


彼女が俺の体から後ろへ退いて離れると、自分らは互いの身支度を()()って部屋を後にした。

それから、ふたり湯浴みをしたのちにその浴場を出ると、また身支度をし合った(のち)に彼女に手を引かれて、屋敷の裏口へと連れ行かれた。


屋敷の裏口にすら、溢れんばかりの園花(そのばな)が咲き乱れている。


アリ「ねぇ、[ピノ]さん」


アリ「これ、貴方の荷物。」


大きめの(かばん)だった。中を開くと、代わりの衣服やブラシ、石鹸などの日用品が綺麗に詰め込まれてある。


ピノ「そんな」


アリ「いいの。受け取って」


彼女が強く突っぱねる。

自分はその態度に甘んじて、そしてその厚意に甘える事にした。


アリ「これで、きっと許して。」


彼女が一言そう言った。

彼女が向いていたのは帰りの方角である。


屋敷の扉が静かに閉じてゆく。その向かいに、彼女が()てた人差し指を唇に小さく押し当てて、しぃと音を立てるのが見えた。


アリ「くれぐれも、この事は内密に。」


扉が、がたと音を立てて閉じた。


蠱惑(こわく)からの誘いである。



彼女の屋敷の庭から、花の蜜の香りが漂っている。


なのに。


彼女からは、花香(かこう)でなく海風(うみかぜ)の香りがするような気がする。



------

それで。


結局[ターリア]の厚意をむげにしてまで[アリエル]の邸宅に押し入った俺は、その結果[アリエル]の屋敷にも居られなくなって闇夜の街を彷徨う羽目になったのである。


あの時、馬車に乗り込んだ時はまた村に戻って()ればそれで良いだろうなどと軽く考えていたが、見返せば(あた)りはもう、街灯の()さえすっかり消灯()()()()しまっている。


もうじき十二時も過ぎる。こんな夜更けの中で、思い返せば合わせる顔など何処にも無いじゃないかと、結局は()く当てもなくただ街中を彷徨っているだけであった。

その最中(さなか)


ピノ「......え、[ターリア]...?」


ター「[ピノ]! どこへ行っていたの?!」


村の方角の街頭に、私を探していた[ターリア]の姿があった。


不義理にも羽目を外したおかげで往く当てもなく街を放浪していたが、それなのに、自分を探しに出ていた[ターリア]と再会してしまったのだ。


かなり心配していた様子だった。


ター「だって、何も言わずに居なくなっちゃうんだもの、一体何処へ行っていたの?」


返答に困った。


ピノ「...いや、そこの大きな建物が目についてしまって、つい」


ター「ああ、あの屋敷はここの土地では特別大きいものね。どこからでも目立つから」


ター「あの屋敷はね、実はさっき会った[アリエル]のお屋敷なの!」


ター「彼女はこの自治領の跡継(あとつ)ぎだから」


自治領、そんな規模の話だったのか。流浪の身の自分にはあの屋敷の規模を推し量る事など出来る訳もなかったが、地域一つを治める程の話となると、改めてその規模の大きさに()()()()()ばかりだ。


ただ自治領が如何(どう)とは語ってはみたが、あの屋敷はかく云う世俗領主の風情(ふぜい)が持てる様なものには到底見えなかった。きっと、その今の領主の持つ権威とは相当なものなのだろう。


あの子(アリエル)、そんな深窓(しんそう)の育ちであったのか。


ター「あら、その鞄どうしたの?」


気が付いた[ターリア]が、自分の持つ鞄を見ていた。


[アリエル]から貰った鞄の事だ。


どうにか聞こえの良い言葉を見繕った。


ピノ「......えっと。さっき、鞄を見つけたんだ。良い人が渡してくれたと言うか」


ター「そっか...、良かった」


この鞄の事は、俺の鞄だと言い張った。


こんな素性のよく判らない自分に対しても、彼女はただただ献身的にこの身を案じてくれている。


ごめん、実は、もう屋敷にも入ったんだ。


彼女がこちらに向かって声を掛けた。


ター「さぁ、戻りましょ?」


彼女が僕の方へ手を差し伸べてくる。

また、彼女の村へと連れて行ってくれる様である。


自分は彼女の厚意に甘えている。親身になって世話を焼いてくれる彼女に対して、自分がひどく矮小(わいしょう)に思えた。

でもこんな醜悪な(ざま)が自分の本性なのだろうな。



それから、彼女に連れられて訪れた修道院は少し古めかしさが残るものではあったが、それでもそれがよく手入れの行き届いたことは見ればすぐにでも判った。


奥に招待をされ、ここで待っててと客間の椅子に案内されてその様にしていると、少しして[ターリア]は机の上にパンとスープを運んできた。こんな時間なのにスープから湯気が出ている。


きっと、作り置いてあった残りを温め直してくれたのだろう。スープとパンを頂いて食べている間、[ターリア]はただ穏やかに、貰った食事を食べるこちらの貌を見つめていた。


食事の礼をして、食器を片そうとすると[ターリア]が再び(はな)しだす。


ター「ごめんなさいね、ほんとはお風呂まで沸かしてあげたかったのだけど、そんな時間もなかったから」


ピノ「いや...、そんな。良いんだ、こんな時間までふらふら街を出歩いていたのは僕なんだから」


ピノ「なのに、わざわざ出向いてきてもらってしまった」


ター「良いのよ、その、心配だったから」


ター「......」


周囲を見渡すと、辺りにはテーブル横の壁に小さく宗教絵画が飾られているくらいで、他には暮らしを着飾る様な余分は何も置かれていない。

清廉潔白を体現しているかの様にさえ感じる。


ター「お皿、片付けるね」


ピノ「待って、寝る部屋を提供してもらって食事まで用意してくれたのだから、お皿くらい洗わせてほしい」


ター「そう? じゃあその間に貴方のお部屋に、荷物運んでおくわね」


そう言うと僕を水事場まで案内した彼女は、俺が教会に持ってきた鞄を手に持って、暗い廊下の向こうへと消えていった。


僕が皿を水で擦る手元は、彼女がここに置いて行ったランタンの薄灯りだけが照らしている。


すぐに、皿を片し終えた自分を再び戻ってきた彼女が手招きした。


ター「こっちよ」


自分はただ彼女の後ろをついて行った。

進む修道院の静寂な廊下を、彼女の持つ暗いランタンの()だけが照らしている。


このとき。

このあと自分はただ普通に自分の寝床に案内されて、ただそのまま翌日を迎えるのだろうと。


そうだとばかりに思っていた。


彼女に案内されて、部屋の扉の前に立つ。


ター「[ピノ]、ここよ」


促されて、部屋の中に足を踏み入れた。


見ると。



その部屋の中には、既に衣類や小物などが並べられている。


ピノ「......え?」


案内されたのは、自分用の部屋ではなく、


彼女の部屋だった。


部屋の中に案内されると、彼女が()()と扉を閉じる。

そうして僕の方に姿を向き返した。


ター「あの、あのね...? 私は、気が早いのではと考えているのだけど、皆は(アピール)は早い方が良いって言うから...」


ター「でも、私もイヤでは無いし......」


彼女の耳が紅い。


ター「ほんとは、こういうことは修道院ではダメなのだけど......」


ター「その、如何(いかが)...?」



それから暫くの事を経て。

真隣で寝ている彼女(ターリア)の静かな素顔を見て、こう思った。


あべこべな力だと。



[美貌(チャーム)の魔術]。

(おぼろ)げに覚えているあの白い空間で、魔女の様な姿をした者は言っていた。お前にとある魔法を掛けると。

その様な契約をする、そう言っていた。


実際、何故俺に対してこうも皆入れ込み出すのかと、悦びと同じくらいに当惑の気持ちは大きかった。


それも訳が判れば、何の事はない。


私に掛かる魔法を目にしては、道理の神さえも瞳を逸らす。この異能の前には、全ての情緒(じょうちょ)など介入する余地は無いのだと。


全てが過ぎ去った今、僕はただ()う思った。



なんて素晴らしい能力なんだ!



------

紙に名前を書いた際、魔女はそれと一緒にこの様なことも言っていた。


魔女「無駄なものなど一度全て捨ててしまえ。」


魔女「新たな地へ往くなら、要らんモノはみな置いて行かんとね。捨てた過去が尾を引いたところで仕方が無い」


魔女「言葉の壁も要らんね、これも重要では無い」


そう言って魔女は紙に文字を書き足していた。

魔女が自慢げに話を続けている。


魔女「この魔法はお前さんへの特注品だからね。精々(たの)しむと良い」


魔女「それも、ヒ、ヒヒ、シンデレラが掛かった様なチンケなモノじゃ無いさね。なんせ一夜で魔法が解けてしまうなんて事もない。ずっと、魔法の掛かった美しい姿で居られるのだから」


魔女「王子様の前で魔法が勝手に解ける心配も無い」


魔女が笑っている。相当この魔法に自信があるらしい。


魔女「アア、ただ一つだけ助言を。」


魔女「お前さんのその[美貌(チャーム)の魔法]は、そのお前さんのその口先に掛かっている。お前さんを見た者の魔法を解きたければ、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎──」


ここの言葉は忘れてしまった。


魔女「いつも、鼻ばかりでは不便だろうと思ったのでね......ヒ、ヒヒ。」


ケタケタ笑っている。

魔女の続ける妙な物言いは、(みな)しも、こうも耐えうるものでは無い。


魔女「まぁ、そんな事は重要では無い」


魔女「さ、せっかくもう一度の命だ。存分に愉しみたまえ。」


登場キャラ一覧

・ピノ 林の中で目覚めた記憶の無い青年。

・ターリア 林の中でピノを拾った若い女性。

・アリエル ピノを屋敷へと招待した少女。

・魔女 ピノに魔法を掛けた怪しい魔女。


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