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Record8:そうして八尾木七凪幠は再び起き上がる。

 小学生の頃から時間が止まったような勉強机。パステル調の青がどうにも懐かしい気分になれる。

 雑に並べ慣れた多数のトロフィーや表彰状、メダル。こうして見ると八尾木という人間が別所や俺と同じ、()()()()にいることを理解する。


 自分で言っておいて、嫌な括り方だ。俯瞰すれば零と一でも、実際はその間に細かな数字が確かに存在している。四捨五入すれば一になるものの、完全な一には敵わない、そんな構図は飽きるほどに見てきた。

 八尾木もそうなのだろうか。そうなんだろうな。考えること自体が野暮ったいとはわかっているが、彼女を知っておくに越したことはない。


 その他はシンプルなベッドとタンスがあるくらいで、女子高生の部屋にしては質素な空間だ。


 一般的に女子の入浴時間は長いものだ。三十分、髪や肌のケアの時間も含め、長めに見積もって一時間。他人の部屋、それも一人きりで過ごすには長尺だ。体も冷える。


「可哀想な俺……」


 この暇を有効活用するべく、俺はスマートフォンを手に取る。


 俺にはどうも今回の事件が解決したとは思えない。黒幕は矢野だった。処罰は未確定だが、生徒会直々に捕まえた以上、再犯の可能性は限りなく低いだろう。しかし、一度広まった噂を無かったことにするのは容易なことではない。仮に矢野を校内で吊るし上げたとして、一体どれだけの人間が俺たち生徒会を信じるかだ。

 それだけじゃない。根本的に何かが違う。ずっと違和感があった。

 事件が起きてからというもの、都合よく事が進みすぎている。式島の名前を暴くことに時間はかからなかったし、矢野はすぐに尻尾を出した。こうも上手くいくと、流石に何かしらを疑わざるを得ない。

 例えば──


「待たせた!」


 八尾木は部屋の扉を蹴り飛ばして開いた。バスタオル一枚を体に巻いて、髪も濡れたままでのご登場だ。もはや意外性も何も無い。まだ五分程度しか経っていないということだけは驚きだが。


「急ぎすぎだ。髪くらい乾かしてこい、結局風邪引いちゃ意味無いだろうが」


 八尾木は短い茶髪を犬のように振り回し、スプリンクラーばりの散水を見せる。


「やめろ! 顔にかかる!」


「良いではないか良いではないか!」


「絶対にこのシチュエーションで使う言葉じゃないからな!?」


 何度か顔を拭うが、その度に水が飛んでくる。たまったもんじゃない。


「冗談はこれくらいにするとして……」


 八尾木から差し出された手には白いドライヤーが握られていた。


「乾かしてくれないか」


「は? 嫌だが」


 何故俺がそこまでしなきゃいけないんだ。優しさの域からとっくに逸脱している。


「鏡谷くんは女性の髪のセットすら出来ないのか? 噂では対女性において相当な手練と聞いていたのだが、間違いだっただろうか」


 安い挑発をする。こういうプライドに関わることを言えば素直に俺が乗るとでも思ったか。


「上等だよ早くこっちに来い、座れ!」


 簡単に乗るんだよな俺は。

 八尾木の手からドライヤーをぶんどり、壁にあったコンセントに接続する。

 あまりにも単純な俺という人間に驚愕したままの表情で、八尾木は俺の前で背中を向け、胡座をかいて座った。

 八尾木の頭が胸下辺りに位置するように膝立ちで構える。


「まずタオルドライからだ、バスタオルは?」


「今纏っているこれで良ければ……」


 良いわけない。なにかと脱ぎたがるのは勘弁して欲しい。

 今ここには俺の使用済みタオルもあるが、正直なところ清潔とは言えない。


「大丈夫だ、ある程度水分は飛ばしたからな。ドライヤー一本でも何とかなるはずだ」


「ほんとかよ……」


 非常に横着な話だが、ここに無いものの話をしていても埒が明かない。新しいタオルを持ってくる気もないみたいだしな。

 段々面倒になってきた。諦めてドライヤーのスイッチを温風へスライドさせる。

 透明感のある髪を伸ばしながら乾かしていく。八尾木の落ち着きがなく、縦横無尽に揺れ動くせいで無駄に時間と労力を消費する。


「その格好で暴れるな、(ほど)けたらどうする」


 ただでさえ上から見下ろす今の構図は色々見えそうでまずいのに、わざわざガードを緩くするような真似をして欲しくない。


(ほど)けたら私の自然体が解放されるだけだ」


 あっ、そうですか。


「んで、話ってなんだよ」


 ドライヤーの音と共にようやく本題に切り込む。至極うるさかったピタリと動きを止め、それは静かに、啜り泣くような声で八尾木は話し始めた。


「──私には才能があると思うか?」


 予想だにしない質問であった。いや、そもそもの話、今の八尾木の心象は読めたものではない。


「俺にどんな答えを求めているのかはわからないが──それだけの実績を持ちながら才能がないとは口が裂けても言えないな」


 彼女が自身に才能がないと認識しているのだとしたら、あまりに傲慢で、強欲だ。


「いや、才能というのは『人の上に立つ才能』だ。私が部員を率いて、べしょりんと同じように上手くいくと思うか?」


 俺は言葉に迷う。正直になれば、俺は八尾木を傷つけかねない。かといって、誰にだってわかるような嘘をつけるはずもない。


「私は勝つための水泳を辞めた。べしょりんと本気で競うのが馬鹿馬鹿しくなったからだ。それなのに、私が部長なんてな。自ら比較されに行くようなものではないか」


 八尾木は息を吸う間もなく饒舌に話し続ける。


「教えてくれ。私はどこへ向かえばいい。何をすればいい」


「違うな。何かするんじゃない。何もしなければ解決する問題だ」


「それは、どういう──」


「水泳部を辞めればいい。それで全て終わる」


 そうだ。初めからそうしてしまえば済む話。そうすれば、八尾木の悩みは全て解決する。


「なんで……なんでそんな酷いことを言うんだ?」


「別に水泳を辞めろって言ってるわけじゃないだろ。部活じゃなくたって水泳は出来るんだからな」


 俺は酷なことを言っている。その自覚がある。それでもこれは誰かが言ってやらなければいけない。


「本気で上を目指す気がないと、諦めたと自分で言ったんじゃねえか。それなら部活にこだわる道理がどこにある」


「私は……私はただ……」


 言うんだ、自分の口で。そうすれば俺も手を差し伸べられる。


「私はただ皆と楽しく水泳をしたいだけなんだ!! それの何が悪い!? 才能を放棄するのは悪か!?」


 八尾木は涙目で天井を仰ぐように吠えた。

 怒れ、喚け。気付くんだ。自分は悪くないということに。


「どうしたいのか、自分でわかってるじゃねえか。忘れんなよ、それをどうにか出来るだけの力が自分にあるってことを」


「……何が言いたいんだ?」


 思ったより察してくれない。これじゃあ格好がつかないだろ。


「おまえがしたいことが出来るように、部活そのものを変えろってことだよ。仮にも部長なんだろ」


「そんなこと出来るのか……?」


「俺で良ければ協力くらいはしてやる。問題はおまえのやる気だ、やるのか、やらないのか」


「わ……私の一存で決めれる話じゃない。ほら、べしょりんに聞くとか……」


「今は水泳部の部長と話してんだ。別所は関係ない」


 だから、言え。


「──助けてくれ」


 彼女が絞り出したのは、それ以上でもそれ以下でもない言葉。俺の優しさに火をつけるにはそれで十分だった。


「それじゃ、鏡谷明桜の本領発揮といき──へくちゅっ!」


 ダメださっむい。いい所だったろ今。


「君は締まらないな。私の髪は放っといて君も風呂に入るといい。暖まるぞ」


「いや、それはいい」


「遠慮をしても何もいい事は無いぞ」


「いや、どうせ着替えも持ってねえしさ」


「いくらでも貸すさ。心配いらん、男モノの下着だって持っている」


 八尾木はおもむろに立ち上がるとタンスに飛び付き、中身を放り投げ始めた。

 キャミソールやブラジャー等の下着が飛び交う。一瞬のうちで散らかる部屋を見ると、初期状態が散らかっていなかったのは奇跡ではないのか。


「あったぞ。喰らえ!」


 すこぶる美しいピッチングフォームで俺の顔面に投球する。


「んなもん投げんな!」


 投げた物の正体は紺色のボクサーパンツ。


「一回しか履いていないはずだ。新品同然と言えるな」


「下着は一回でも履いてたらアウトだ。つーか、なんでこんなもの持ってんだよ」


 下着の端をつまんで持ち上げる。


「中々下着を着用しない私を見かねて母が色々と買ってきたのだ。というかそんな汚物のような持ち方をしないでくれ、流石に傷つくぞ」


 なるほど、親御さんの苦労が伺える。


「それは悪かったけれども。まあとにかく、俺はもう帰るから」


「待て、せめて着替えてから行くべきだ!」


 八尾木は帰ろうと立ち上がった俺の体にしがみつく。


「やめろ、裸で接触するんじゃない!」


「その格好のままだと体調を崩すだろう!? ほら早く脱げ!」


 八尾木が俺のカッターシャツのボタンに手を掛けると、その拍子に二人揃って床に倒れ込んだ。


「おわっ!?」


 大きな音と揺れが部屋に響く。覆い被さるようにして重なった八尾木の姿は、言葉にするのも(はばか)られるほどに犯罪チックだった。


 でも、他意はないだろう。大丈夫。


「ちょっと、すごい音がしたけど何してるの?」


 その声と同時に部屋の扉が開かれた。


「あれ、母さん。おかえりなさい」


 下着の散乱した部屋で、全裸の娘が男を押し倒しているこの状況はいわゆる修羅場というやつではないだろうか。それにも関わらず八尾木は平常運転である。

 まじまじと八尾木の痴態(ちたい)と俺の恥態(ちたい)を見下ろす若々しい女性の目には妙な落ち着きがあった。


「どうも、お邪魔してます、鏡谷と申します……」


 挨拶などしている場合かと自らを叱責したい。だがそれ以外には何も言えない。それに下手に弁明するのもそれはそれで怪しいだろう。


「あら、男前。七凪幠(ななこ)の母です。何も無いけどゆっくりしていってね」


 何事も無いように微笑みながら自己紹介をする八尾木母。ノータッチなのもそれはそれで怖いんですが、どのような見解でしょうか。

 床に背をつけたまま軽い会釈をする。


「あれ、鏡谷くん。あなた体中ずぶ濡れじゃない。雨に当たったのね。ちょうどいいわ、お風呂に入っていきなさい。ほらほら」


「えっ、いや俺は──」


 八尾木母は八尾木と床の間から俺を引き抜いて否応無しに連行する。俺の言い分など微塵も聞かれることなく脱衣所に放り込まれた。


 結局こうなるのか。





「他人の家の風呂って落ち着かねえな……」


 湯船の中、天井から滴り落ちる水滴を眺めながら呟いた。入浴剤が溶けたオレンジ色のお湯が体を包み込む。


「失礼する」


 脱衣所の扉を開く音がした。


「着替えはこちらに置いておく。バスタオルも好きに使ってくれて構わないからな」


 曇りガラス越しの八尾木が気を利かせてくれている。


「なんつーか、色々悪いな」


 反響することでより俺のイケボがイケヴォになっていく。顔が見えないところで良かった。うっかり惚れられかねない。


「なに、遠慮するなと言ったのはこちらだ。気にする事はない」


 洗濯機が回る音がする。沈黙の長さを証明するように、延々と。


「──ありがとう」


「……ああ」


 たったそれだけの応酬。八尾木の感謝の言葉に見合った結果を出さねばなるまいと、俺は身を奮い立たせた。





「すみません、いきなり押しかけた身でお風呂までいただいてしまって」


 首にかけたバスタオルで髪の毛の水分を拭い、リビングの八尾木母に頭を下げる。


「気にしないで。ほら、こっちに座って。お腹すいてる? シフォンケーキ食べない? 紅茶派? コーヒー派? あっ、服のサイズは大丈夫だった? ごめんね、七凪幠の服しか着せられそうなものがなくて」


 怒涛の世話焼きである。これが親という生物なのだろう。

 八尾木の隣の椅子に案内され、遠慮がちに腰を下ろした。

 しかし男子高校生に娘の服を着せるというのは多少なりとも抵抗は無いものだろうか。知らないうちに俺の制服や下着諸々は洗濯機にぶち込まれており、やむなく八尾木のボクサーパンツを履く羽目になった。屈辱的だ。


「いやいや、サイズ的にはピッタリでしたから。それに、どうです。結構似合ってません?」


 青いデニムパンツと美少女のキャラクターが印刷された白いTシャツは完璧に着こなされ、もうこれは実質俺の所有物であった。俺の一部になっていると言っても過言じゃない。


 ファッションセンス的観点では──まあ、ノーコメント。だが、俺の抜群のプロポーションとこの顔があればなんとでもなる。結局元が良ければ何を着ようが大抵様にはなるものだ。


「モデルさんみたいね〜。でも七凪幠の選んだ服はちょっと……」


 言ってやるな。俺の容姿次第では(いにしえ)のオタクと化していた、なんて思っても口にしちゃいけない。そもそも俺の容姿がこんなに優れていなければ快く衣類を貸してはくれなかっただろうが。


「普段制服以外を着ない人間にファッションなどわかるわけがないだろう。ドジョウに空を飛べと言っているようなものだ」


 八尾木はイマイチ納得のし難い例えを傍らにふんぞり返る。八尾木母は心底呆れ返った顔でテーブル上のシフォンケーキを取り分けた。


「ごめんね、見ての通り変な子で。はい、これ鏡谷くんの分。えーと、コーヒーだったかしら?」


 目の前に差し出されたケーキの香りがほんのりと鼻をくすぐる。既に程よい甘味が伝わってくる。


「ありがとうございます──あ、俺コーヒー飲めないんです」


 コーヒー牛乳は好物なのにコーヒーが苦手という、我ながらなんとも難儀な舌をしている。

 仕方ないだろ、だって苦いんだから。


「じゃあ紅茶でいいかしら? それとも牛乳?」


「んーと、紅茶でお願いします」


 正直好みで言えば断然牛乳なのだが──ここで紅茶を選んだのはちょっとしたプライド及び見栄の表れである。優雅に紅茶を嗜む様を少し見せつけてみたくなったのだ。


「母さん、私牛乳ね」


 テーブルの席に着いた八尾木はキッチンへと向かう八尾木母に子供らしく無邪気に呼びかけた。


「はいはい。あと、普段みたく『ママ』って呼んでくれていいのよ?」


 沸かしたお湯をティーポットに注ぎながら、鬼のような発言をする。

 鼻歌を携えていた八尾木はその唐突な言葉に顔を真っ赤にしながら視線を足元へと落とした。

 八尾木でも恥ずかしがることはあるらしい──その線引きに大きな問題を抱えてはいるが。赤面する八尾木に同情と物珍しさの感情が混ざる。


「そ、そういえば父さんは? 確か迎えに行ったはずじゃ?」


 恥じらいを誤魔化すように話題を変える。覚束無い呂律がその心情を物語る。


「父さん? 知らないわよあんな人」


「いや、そんなことは」


「残業奴隷になって余生を過ごすんじゃない? まさか、仕事が愛人だったりしてね」


 八尾木母の注ぐ牛乳がコップから溢れる。勿体ない。事情は知らんが、他人の家の夫婦喧嘩など聞きたくない。俺視点で言えば、母親だけで良かったが。


 少し経って、優しい湯気を放つ紅茶が運ばれてきた。種類は──よくわからん。特別詳しい訳でもない。多分、普通のフレーバーティーの類だろう。


「ありがとうございます」


「いいのよ、そんなにかしこまらなくて」


 座布団の敷かれた椅子に腰掛けて、八尾木母は年相応のため息をついた。


「いただきます」


 俺と八尾木はほとんど同時にシフォンケーキを頬張った。

 なるほど、これはこれは。


「鏡谷くん、可愛い顔して食べるのねえ」


「へ?」


 初めて言われた。いや、品が無いことを皮肉っているのかもしれない。


「すみません、がっつくような真似を」


「いいのよ。七凪幠なんてほら……」


 口の周りに白い髭をつけた八尾木は二切れ目のシフォンケーキに手を伸ばしていたところでこちらの視線に気が付き、その動きを止めた。


「──ちゃんと晩御飯も食べてね」


 注意の内容が子供のそれすぎる。嬉々としてそれを頬張る姿も同じようにそうだった。


「でも嬉しいわ。七凪幠にもちゃんと友達がいたのね」


 いや別に友達って訳では──なんて、流石に言えるはずもなく。それじゃただのシフォンケーキ泥棒だしな。


「なっ、別に私にも友達はいるぞ。例えば──」


 八尾木が反論しようと身を乗り出した時、インターホンが鳴った。

 八尾木母が気怠そうに立ち上がろうとするが、八尾木が制止するように椅子を引きずりながら立ち上がった。


「私が出るから大丈夫だ。座っていてくれ」


「あらそう、じゃあお願いね」


 疲れを見せた母に対する八尾木の優しさだろう。いい心構えだ。

 玄関へと向かっていく八尾木の後ろ姿。バスタオルが落ちなければいいが──じゃない。


「ちょっと待て、その格好で出る気か?」


「そうだが、何かまずいことでもあっただろうか」


「全部まずいが?」


 いつもそうなのだろうか。いやまさか、そんなわけ。


「まあ一瞬だ。問題ない、行ってくる!」


「えー……」


 なんて女だ。親の顔が見たいよ俺は。

 八尾木はドタドタと騒がしく走っていく。マンションなんだからもう少し落ち着け。下の階から苦情が来ても知らんぞ。


 リビングに八尾木母と二人きりになる。気まずい。


「──あの子、学校で上手くやってるかしら?」


 知らねえ。知ってる訳がねえ。


「そうですね、服を着ていればいい子だと思いますよ」


 体育倉庫で襲われかけたことは黙っておこう。


「──最近、水泳の話をしなくなったの」


 どこか遠い目で八尾木母はボヤいた。


「別に他にもっと楽しいことが見つかったならそれでもいいんだけど。でも折角才能があるんだから頑張って欲しい──なんていうのは親のエゴなのかもね」


 親の心、子知らずとはよく言ったものだ。それと同様に、子の心も親は知らないのだろう。気の利いたことを言えたなら良かったのだが、俺は俺が思うほど器用ではなかった。


「一体何を考えてるんですかっ!!!!」


 玄関から誰かの怒号が聞こえる。騒がしいが大丈夫だろうか。不安になるな。


「ちょっと俺見てきますね。何かあると大変ですから」


 もう既に何かあったような気もするけど。それでも布切れ一枚羽織っただけの女子を放っておくのは良くない気がする。というか良くない。


 俺は八尾木を追って廊下への扉を開けた。


「それにはやむにやまれぬ事情があってだな……」


「そんなもの知りません! 部長はつくづく自分の立場をわかっていない!」


 八尾木に怒りを顕にしている人物の顔を見て、俺は出てきてしまったことを後悔した。

 そいつが怒っているのは俺のせいでもある。


「あんまり八尾木のことを悪く言わないであげてくれ、式島」


 訪問者の正体は式島美崎(しきしまみさき)であった。恐らく部活を休んだことを糾弾されているのだろう。


「なっ、何故あなたがここに──いや服のセンスどうなってるんですか。私の部屋着の方がまだ幾分かマシですよ」


 顔を合わせて早々に罵倒を乱射する。式島は照準を俺に合わせていたつもりだろうが、実際にその弾丸が撃ち抜いているのは八尾木の方である。


「で、まさか部長は本当にデートを理由に部活をサボったんですか?」


 その冷ややかな目は明らかな軽蔑。ファッションセンスについては擁護できないが、こちらについては流石にフォローを入れてやらなければならない。


「違うぞ、俺が()()を仰いだんだ。すまなかったな、水泳部の他連中にも俺が悪いって言っておいてくれ」


「そんなこと、信じられるとでも? それに一体何の協力なんですか──あっ……」


 察しが良くて助かる。それに、()()()()()である式島の立場ではどうしても俺たちを責めることは出来ない。俺たちは後始末をしているのだから。


「……わかりました。私から説明しておきます」


 物分かりが良くて助かる。どこか不服そうではあるが、わざわざここで嘘などつかないだろう。


「あら、お友達?」


 中々戻ってこないので心配になったのか、八尾木母が顔を覗かせる。


「外、寒かったでしょ。あなたも上がっていくといいわ」


 まあ、こうなるか。





 八尾木の口の中には三つ目のシフォンケーキ。八等分されていたはずのケーキが、既に二切れしか残っていない。


「それで、何故鏡谷さんは八尾木さんの家に上がり込んでいるんですか」


 フォークを器用に使って、必要以上に小さく切り分けたシフォンケーキを口にしながら式島は問いかけた。


「何故って、そりゃ雨宿りだけど」


「その割には随分とくつろいでいるように見えますが」


 俺がくつろいだら悪いかよ。それに、こんなにも美味しそうなシフォンケーキを差し出されて食わずに帰るなんて失礼極まりないだろう。俺の腹に収めてやるのが世のため俺のためだ。

 最後の一口を喉奥に下し、手を合わせた。


「ご馳走様でした。このケーキどこで買ったんですか?」


「駅の近くに商店街あるでしょう。あそこに出来た新しいお店で買ったの」


 にこやかに答える八尾木母だけがこの空間における唯一の癒し要素であった。

 突如現れた式島による張り詰めた空気に、俺も下手なことは言えない。しかし、式島の登場自体は考えようによってはとても都合のいいことでもあった。


「なあ式島」


「なんですか、私は今甘味を楽しんでいるので邪魔しないで頂けると助かります」


 相変わらず可愛げのない、無愛想で嫌味ったらしい返事をする。

 どうもやりづらい。俺の中の女の子像はもっと俺に対して優しいはずなのだが。


「ミサキ、そうあからさまに邪険にするものじゃない。彼は意外といい人だぞ」


 八尾木のそれはフォローのふりをした悪口ではないだろうか。少なくとも俺はそんなところに意外性を秘めたつもりは無い。


「そのいい人である俺から今後の水泳部について提案なんだが。式島、おまえ──部長やる気ないか?」


「え」


「──はい?」





 午後八時半。明度の低い自室、勉強机にて、俺は自身のスマートフォンとの睨めっこに勤しんでいた。


「……電話か、メッセージか、いや、明日直接話すか?」


 かれこれこの三択問題に三十分は悩んでいる。何をそこまで躊躇う必要があるのかと問われれば、何一つ返すことは出来ない。

 強いて言うのなら、プライドというか、意地というか。俺ともあろう男が自ら女子に連絡を取るなどあって良いことなのだろうか。かといって、後回しにするべき事項でもない気がするしな。

 じゃあメッセージか──いや、返信がすぐ来るとは限らない。出来れば手短に済ませたい案件だ。何より、意味の無い会話に発展する気がして仕方ない。


 俺は必然性のない限り、電話はしない主義だが──覚悟を決めろ、明桜。

 先程保湿した両頬を叩き、気合いを入れ直す。


 通話ボタンを押すと、静かな部屋に軽快な呼出音がこだました。この待ち時間が最も緊張する。


「もっしぃー、べしょりんだよー!」


 うざったい声が異常なまでに反響し、何度も脳裏にまで伝わる。

 ああ、もう切りたい。まるで頭の中に別所を飼っている気分だ。大体、自己紹介せずとも別所の携帯電話にかけたのだから別所が出るのは当然だろうが。


「もしもし、こちら鏡谷。いきなりかけて悪いな。今、大丈夫か」


「ん、大丈夫だよー。急にどうしたの?」


 別所はそう言うが、電話越しに聞こえる水の滴る音に気付かない俺ではなかった。この籠ったような声と反響。さては。


「……おまえ、今風呂か?」


「え、何!? ストーキングしてる!?」


「してない。すまん、後でかけ直す」


「だから、大丈夫だって! 防水だし!」


 おまえのスマホ事情なんて興味無い。それに防水だからといって無闇矢鱈に濡らして良いわけじゃないだろう。


「あ、もしかして。想像しちゃう?」


「……何をだよ」


「体を洗う時にまずどこから洗うのか、カラダのカタチ、色、柔らかさ……」


「気色悪い、やめろ」


 冗談めかして言う割に内容が生々しくて聞いてられない。嫌でも想像してしまう。


「気色っ……ええ!? 言い過ぎ!! 絶対言い過ぎ!!」


「おまえ、自分が可愛いからってなんでも許されると思ってる節ない? 大丈夫か? 将来苦労するぞ?」


「明桜くんに言われるのはなんか違う気がするなあ!?」


 別所は不服そうに声を荒げた。と、何の話だったか。どうも話の本筋からズレてしまう。


「本当に大丈夫なら話を続けるけど、いいか」


「ばっちこーい!!!!」


 やかましい。

 とにかく別所は入浴中でも問題ないとの事なので、俺は満を持して切り込んだ。


「まず確認したいんだが、志嶺高校の部活動において、単独の部が同時に二人以上の部長を立てることは可能なのか?」


「ええ? 前例は多分ないけど、出来るんじゃないかな? 一応ルール上は一人までだけど……ルールを変えちゃえばいい話だし」


 何かを擦るような音と共に別所が答える。恐らく体を洗っている音をマイクが拾っているのだろう。

 何はともあれ、別所がこう言ってくれたなら話は早い。


「それなら良かった。実は、水泳部の部長を式島にも担ってもらおうかという話を八尾木としていたんだ」


「……その意図は?」


 別所は怪訝そうに問う。


「この前新入生の部活動体験会があっただろ。あの時思ったんだが、うちの水泳部は敷居が高すぎる。別所に釣られてきた人間からすれば尚更、求められるレベルが高い。だから初心者を受け入れる体制を整える必要があると思ってな。そこで、元々部長だった八尾木と真面目で別所の意見を取り入れていた式島、それぞれをリーダーにして二つのグループを作ることを考えた」


「未経験者や新入生を指導する八尾木組、とことん成績を伸ばす式島組。式島には部長のポストを与えておけば式島も文句は言わないだろうし、他の部員もある程度あいつの指示に従うはずだ」


 これが最善のはず。

 八尾木が責任と向かい合う方法であり、競争から脱する方法。

 そして、誰も別所という偶像に頼らずに済む方法。


 結局のところ、八尾木には別所の代わりを務められないというのが結論だ。別に八尾木に限った話ではない。水泳部に属する全ての部員──いや、学校中を探したってそんな人材はいない。もし、いるとすればそれは多分一人だけだ。

 それでも、八尾木の実績は十分どころか研ぎ澄まされた武器である、それは変わらない。その武器を活かせないなら活かせるよう戦い方を変えればいいだけのことだ。


「……つまり、もうアタシがいなくても水泳部は大丈夫ってことなのかな。気兼ねなく辞められる」


「いや、まだわからん。それに──」


「別所、おまえが水泳部を辞める必要も無い」


 初めから、おかしかったんだ。

 明確に水泳を、水泳部を好きだと言っておきながら辞めるつもりなんて。

 生徒会長の仕事がそんなに重荷なのか。別所ほどの才能の持ち主が、他のことを投げ出さないといけないほどに。それとも──


「水泳が好きならば続ければいい。今まで通りとまではいかないだろうけども、数日に一回、週に二、三回程度なら頑張ればいけるだろ」


「んーと、一体何を言ってるの、明桜くん。アタシは生徒会長なんだよ? アタシが誰よりも頑張らなくちゃいけないし、だから──」


「アタシアタシって──俺も生徒会役員だろ」


 それとも、俺じゃ頼りないのか。


「生憎俺は部活も入って無えし彼女も作る気は無え。オマケに勉強なんてせずとも常に学年二位の成績を維持出来る才能の持ち主だ。つまり、なんだ。結構暇なんだよ」


 俺だって、何故こんなことを口走っているのかわからない。ただ愚直なまでに自分に厳しい別所(こいつ)に腹が立ったのかもしれない。

 俺はこんなに単純な人間だったか?


「俺に任せられることは任せてみろ。そりゃ完璧超人のおまえからすれば信用出来なくても仕方ねえ。それでも俺を選んだのはおまえだ。信じてみろよ、鏡谷明桜を」


 電話越しに吐いた言葉だ。お互い、どんな顔をしているかわからない。鼻で笑うだろうか。

 使っていない目覚まし時計の秒針が言葉を急かすように音を立てる。


「……本気で言ってるの? アタシは自ら茨の道を選んだ。生徒会長になって、役員に明桜くんたった一人だけを引き入れて。その上でアタシのわがままに付き合うってことだよ?」


「そりゃ人手が多い方が楽だけどな。でも別所の代わりが務まるヤツがいるとしたら俺くらいだろ」


「……そう。じゃあ、信じる。明桜くん、()()してるよ」


 別所の声がどこか活気に満ちた気がするのは、俺の希望的観測だろうか。別所の期待という言葉はあまりに重くて、頭上よりも遥か上から見下ろしている。それはそれできっといい。


 別所と並び立つには、それ相応の覚悟がいる。わかっていたことだろう。


 シャワーの音が鮮明に聴こえる。別所が入浴中だったことを忘れて話し込んでしまった。


「悪い、長話になった。そろそろ切るぞ」


「え? なに? 聞こえなーい!!」


 シャワーに紛れた別所を意に介すことなく、俺は赤い通話終了ボタンを押した。


 重厚な背もたれに体重を預け、ぼうっと天井を見上げる。

 これで良かったのだろうか。

 俺は今回の件において、誰の気持ちも理解していない。示された要求と欲求に最低限を与えただけだ。これが俺という人間性の限界だと言わんばかりの最善策だった。


 全てが上手くいけばいい、なんて願ってしまうのは他人行儀で無責任なんだろうな。

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