Record7:浅瀬の人魚は夢を見ない
「もっと! もっと奥を突くんだ!」
八尾木七凪幠は興奮気味に強く言葉を発する。
彼女の言葉が俺の鼓動をより一層早くした。
「このサイズだぞ? それならもっと手前で細かく刺激を与えてだな……」
「何を言っている。一度に大きく動かした方が気持ちいいに決まってるだろう。もしかして、ハジメテなんじゃあるまいな?」
「下手くそで悪かったな。わかったよ、おまえの言う通り一番弱いところを的確に突いてやる」
そう言って俺は──ボタンを押した。
それを合図にアームが降下し、大きなクマのぬいぐるみの臀部を強く押す。その拍子にバランスを崩したぬいぐるみは獲得口へと落下した。
電子的なコングラッチュレーションの音声が俺たちを祝う。
「まさか一発で取れるとは……」
八尾木との放課後デートという名の偽装工作にて向かったのは学校の近所にあるゲームセンターだった。
「私の指示のおかげだな。しかしそれを完璧に再現した鏡谷くんも中々のものだ。つまりこの子は二人の愛の結晶とも呼ぶべき存在だな」
俺の百円玉のおかげだ。
八尾木は獲得したぬいぐるみを胸に抱き寄せた。
「おまえの判断が正しかったのは否定しないが、そのクマは愛の結晶なんかじゃない。ただの景品だ」
「おやおや、君はこれほどまでに冗談の通じない人間だったかな」
冗談だと言うのなら抱いたぬいぐるみの頭を撫でるのをやめろ。赤子を愛でる母親じゃあるまいし。
しかし、例の犯人を誘き寄せる場所としてゲームセンターは相応しいのだろうか。
それこそクレーンキャッチャーや格闘ゲームのアーケード筐体の作り出す狂騒と無限の死角は人が隠れるのにはうってつけだ。
別所は現行犯逮捕などと息巻いていたが、この空間では難しいミッションになりそうだ。
「それで、君のお金と私の指示で取ったこの愛の何とやら、所有権は一体どちらにあるのだろうか? 普通であれば君の物だと思うのだが──」
八尾木はチラチラとこちらの様子を伺う。
「ああ、おまえのでいいよ。欲しかったんだろ」
大体八尾木が物欲しそうに目配せしなければプレイもしていない。まあ協力してもらった礼くらいにはなるだろう。
「どうやら誤解していたらしい。鏡谷くん、君は良い奴だ!! 私が保証しよう!!」
八尾木はクマと額を擦り合わせながら躍るような声で笑った。
これでノーパンノーブラじゃなかったらなぁ。
「次はアレだ、アレ!!」
八尾木が指し示したのは箱型のプリントシール機。通称、プリクラ。
「さてはおまえ普通に楽しもうとしてるな?」
あくまで俺たちは誘い出すためのエサだということを忘れたか。
「むしろ楽しまないなんて選択肢がある方が驚きだ。嘘臭くないようにするなら全力で楽しむべきだ。それに──」
「私はこれが人生初デートなんだ。良い思い出と考えるのが自然だろう?」
なんだか、似ている。どことなく、言語化が難しいのだが──別所と似ている。
だからなんだと言われればそれまでではあるのだが、彼女の、八尾木七凪幠の素の顔がわからない。
「何を難しい顔をしているんだ。早く行こうじゃないか」
半ば強引に手を引かれ、その煌びやかな桃色の筐体に吸い込まれた。
「プリクラなんて随分久しぶりに撮る気がするな……」
確か最後に撮ったのが中一の時だった。その期間、約四年。この熱の籠る温く狭い空間に息苦しさを覚える。初夏だからまだしも、本格的な夏場には絶対に入りたくない。
外観に比べてあまりにも殺風景なこの内装は今なお健在のようで。せめてカメラ周りだけでももう少し可愛げとか飾り気があってもいいだろうに。
八尾木は鞄にぬいぐるみを詰め込んだ後、正面の液晶画面で『二人でプリクる』モードのボタンを押す──プリクるってなんだ。
『まずはカメラに向かって両手でピース!』
プリクラ筐体がギャルじみた音声で指示を仰ぐ。
「ほら、指示に従わないか。ピースだぞピース。キメ顔ダブルピースだ」
なんだか嫌な言い回しだな。何がとは言わんがすこぶる嫌だ。
八尾木は至って普通のダブルピースを決めて催促するのだが、俺は羞恥心、あるいはプライド故か躊躇している間にシャッター音が鳴ってしまった。
「何故ポーズを取らないのだ?」
「いや俺そういうキャラじゃねーしな……」
正直に言えばキメ顔やキメポーズにはあまり抵抗は無い。だがダブルピースなどという媚びたポーズは違う。全部違う。
「そうやって空気を読まずクールなフリをしてスカしているのが一番恥ずかしいんだぞ」
中々的確に痛いところを突いてくる。悔しいが、こんな言い方をされてしまっては俺としても不本意だ。
仕方ない、次は真面目に──
『次はバックハグで仲良しアピール!』
「やっぱやりたくねえ!」
「そんなに私が嫌いなのか!?」
いきなり付き合いたてカップルレベルの熱量を求められても困るに決まっている。むしろ抵抗のない八尾木がおかしいのだ。他の女子なら──いや、相手が俺であれば誰でも嫌がらないか。
「ゆっくり膝立ちして、背を預けてみるんだ。大丈夫、痛くしないからな。じきに気持ちよくなってくる」
「やめろその言い回し! おまえのは冗談にならねえんだよ!!」
未遂とはいえ俺に手を出しかけた奴が言っていいことじゃない。更に言えば下着を着用していない
肩へと伸ばされる腕を全力で阻止する。取っ組み合いの構図になったかと思えば、カウントダウンと共にシャッターは降りた。
「ああ! またポーズを取り損ねてしまった!」
「それ以前にカメラを見てなかったな」
普通に考えて勿体ないの一言に尽きるが、背に腹はかえられない。俺にもプライドってものがある。
『二人で一緒にハートを作って!』
この先は無難なお題が続いた。そもそも女性二人での撮影を想定していたのだろう。その無難なお題でさえ健全な男子高校生には痛々しくてノりきれなかったのだが。
『最後のポーズ! 手を繋いで天使のようにフワッと飛び上がろう! 掛け声に合わせてジャンプしてね!』
七枚目の撮影。ついに最後の一枚である。今まで撮った六枚のうち四枚は上手く撮れちゃいない。当然八尾木は不満げに口角を下げている。
「私のお金なんだ。ラストくらいは真面目にふざけてもらおう」
そう言うと八尾木の左手は俺の右手と結びついた。気温に見合わずほんのり冷たい手が包み込む。
跳ねるくらいなら許容範囲だ。その手のひらに免じてやろう。
『いくよ〜? さん、にー、いち……』
『ジャンプ!』
俺たちは持ち前の運動神経で高く跳び上がった。それがいけなかったのである。
八尾木のスカートが靡く。ふわりふわりと重力に置いていかれるように舞う。
パシャリという音と共にカメラが捉えたのは──これ以上は野暮というものだ。
「なんというか、鏡谷くん、君は加工をしない方が映える顔をしているんだな」
八尾木は出来上がったプリントシールを眺めながら気まずそうに言った。
俺が普段プリクラを撮らない理由の一つがそれである。既に完成している俺の顔をイジると却って顔面クオリティーが落ちる。つまるところスマートフォンに付属しているカメラで撮った無加工の写真の方が断然イケてる出来栄えになるのである。
俺の手にも全く同じプリントシールがあるが、俺の瞳は少女漫画を彷彿とさせる大きさに変化している。
イケメンを通り越して最早怖い。俺だけ二次元との境界に片足を突っ込んでいる。
そしてその横に映る八尾木。捲れ上がったスカートの内部は黒いペンで塗りつぶされている。
しかしここで隠したところで筐体の内部データには元の写真が残るんじゃなかったか──いや、ここは知らぬが仏。ノーパンだったやつが悪い。
「プリクラって撮るまではいいんだが、このあとの保管に迷うんだよな」
「一般的にはスマホの裏に貼っているのをよく見かけるな。かく言う私もその一人だ」
八尾木のスマートフォンの裏には別所を初めとした水泳部で撮ったと思われるプリントシールが貼り付けられていた。
手書きの『インハイ優勝&準優勝おめでとう!』の文字。
そして別所がちゃっかりとセンターを陣取っているあたりが別所らしい。
「……仲良いんだな」
「……どうだろうね」
八尾木は煮え切らない返事をする。我ながら意地悪なことを言ったものだと後悔した。純粋な感嘆のもとで口にした言葉ではなかったと、自身で理解していたからだ。
「あっ、次はアレだ! エアホッケーだ!」
八尾木が指をさすと同時に俺の携帯電話がうるさく鳴る。誰からの着信かが想像できる分、体感だが普段より一層うるさく感じてしまう。
仕方なく電話に出ると、やはり聞き覚えのある声が耳を劈いた。
『ちょっと!! いつまでゲーセンにいるの!? 普通にデートしてるだけじゃん!!』
この甲高い声は頭に響くからやめて欲しい。思わず耳を閉じるが、それすらも貫通する勢いである。
『こんなんじゃいつまで経っても盗撮犯なんて捕まえらんないからね!?』
「わかったわかった。それより電話はそれだけでリスクだからやめろ。指示はメールで頼む」
どこで誰が話を聞いているかわからない中、電話は危険だ。特に別所の声は電話越しでも周囲に聞こえ過ぎる。
『んもーっ!! アタシだってプリクラ撮ったりしたいのに──』
俺は静かに通話終了ボタンを押下した。これ以上の会話に生産性は無い。完全に私情だけを語るターンに入っていたしな。
「つーわけだけど八尾木、いいか」
既にエアホッケーのマレットを構えて臨戦態勢に入っている八尾木を引き戻すのは胸が痛む。事情を察した八尾木は悲しげに眉尻を下げたかと思えば、突然に笑顔へと変貌した。
「ふむ、仕方ない。ならばエアホッケーはまた今度だな!」
「ああ、そうだな。それは今度にして──」
あれ、もしかして次があるんですか。
広々とした公園のど真ん中、直射日光に晒されてじりじりと熱を上げるベンチに腰をかけた。
焼けるようとまではいかないが、あまり心地よいとは言えない生温い感覚が臀部に伝わる。
八尾木が遠くから元気ハツラツに走ってくるのをぼんやりと眺める。細長い脚をスカートの裏側からちらちらと覗かせながら、幼気な少年のような顔で向かってくる。
「選べ。クリームチーズかチョコミントだ」
駆け寄ってきた八尾木の両手にはそれぞれコーンのアイスが握られている。先程急にどこかへ行ったかと思えばこんなものを買ってきていたとは。そういえば先程キッチンカーを見かけた気がする。
「なんつー二択を強いてんだ。もう少し万人受けするチョイスはなかったのかよ」
そう言いながら俺は鮮やかな空色をしたアイスへ手を伸ばし、それを受け取った。
八尾木は満足そうにした後、俺の隣へと座り込んだ。
「良かったよ、そちらを選んでくれて。私はチョコミントは嫌いだからな」
「なんで買ってきたんだよ……」
溶け出したアイスをフチから舐める。鼻に透き通る清涼感が気温と共鳴し合う。
「んで、いくらだった」
俺は空いた右手でカバンをまさぐる。財布らしき感触を探すが、どうも物が多くてすぐには見つからない。
「お代なんて良い、私の自己満足だからな。でもその代わりと言ってはなんなのだが鏡谷くん、そちらのアイスを一口くれないか?」
八尾木は自分のアイスが溶けかかっているというのに、俺のチョコミントアイスに興味を示した。
「いいけど、おまえ今自分でチョコミントは嫌いだって言ってただろ」
「嫌いでも食べたくなる時はある。そういうものだ」
八尾木は前髪を後方へと流し、俺の持つチョコミントアイスにかぶりついた──結構がっつりいったな。大きな一口で口元をだらしなく汚しながら、納得のいかない表情を浮かべる。
「……やはり美味しくは無いな。甘味のある歯磨き粉という感じだ」
「チョコミントと歯磨き粉を同列に語るな。おまえの歯ブラシにチョコミントつけるぞ」
「それは同棲のお誘いか?」
「なんでそうなる?」
言葉へのアンテナが高すぎる。会話が難しい。
「私の方も一口食べるか?」
八尾木は溶けかかったアイスをこちらへと向けた。
「いや、大丈夫だ」
流石にやりすぎだ。デートのフリのはずがこのままでは嘘から出た真。本末転倒だ。
「遠慮するな。ほら、ガブリといってしまえ」
八尾木は察しが悪く引き下がろうとしない。このまま拒否し続ける方が変な気もして、仕方なく俺は小さく齧り付いた。
「……美味い」
「そうだろう?」
どこか誇らしげに笑う彼女の表情に一点の曇りが見えた。なにか言いたげにこちらを見つめる。
「その……すまなかった。先日のこと」
「先日……?」
謝る八尾木が言いたいことはすぐにわかった。でも、知らないフリをする。
「その……倉庫でのアレだ。ここまで言えば何のことかわかるだろう?」
密室の倉庫内で俺の貞操を狙った話。俺としては本人に蒸し返すような真似はしたくなかったが、そちらから切り出されては仕方がない。
「本当にすまなかった。言い訳がましいことを言うが、気が動転していたのだ。あんなことをしたところでどうなる訳でもないのに……」
「気にすんな。んなことより、アイスが溶けちまうぞ」
「だから──」
「俺が気にしてないんだ。これ以上はもうよそうぜ、余計な気を遣いあうだけだ」
しつこく言葉を紡ぐ八尾木を強く制止した。
お互い忘れるべき──無かったことにするべきだ。
気まずい沈黙の中、不意に俺の携帯電話が口うるさく鳴った。
着信。相手はどうせあいつだ。
かけるなって言ったのに、一言言ってやらないと気が済まない。
苛立ちの中、俺は電話に出る。
「おい、だから不用意に掛けてくるなって──」
『犯人、捕まえたよ』
「──え?」
早い。この公園に来てまだ五分程度だ。
「と、とにかく向かう。どこにいる?」
『大丈夫だよ。アタシがそっちに行くから』
「お、おうそうか」
プツリと電話が切れる。
別所はあまり喜びの感じない声色をしていた。別にそこまでハイテンションで報告するものでもないが、普段の別所ならもう少し嬉しそうに話すと思うのだが。
「どうやら私は御役御免のようだな」
「悪かったな、おまえのおかげで助かった」
軽く感謝を伝え、日差しと体温でドロドロと溶けたアイスを食べ終わった頃、タイミングを見計らったかのように別所が一人の女の子を連れて現れた。何ら変なところの無い普通の女の子だ。
「この子が、か」
式島を唆し、俺たちに脅しをかけるような真似をした張本人。ついにご対面というわけだ。
「証拠のカメラも押収済みだし、本人も認めたわ。で、この子の処遇なんだけど……」
別所が何か言いづらそうに視線を落とす。気がかりなことがあるのだろう。ではここからはバトンタッチだ。
「なあ、あんたはなんでこんなことしたんだ。どう考えてもやり過ぎだとは思わなかったのか」
「……うるっさいな!! おまえなんかに説教なんてされたくない!!」
恐ろしい剣幕で女の子は怒鳴り散らした。怒りというよりも、憎しみ。そんな思いが混ざって、酷く歪んだ顔でこちらを睨む。呑気に群れをなしていた鳩達が一斉に羽音を上げた。
思い出した、彼女は演劇部の部屋の隅にいた子だ。演技の中以外ではほとんど喋っていなかったものだから、大人しい人物だと誤認していたが間違いだったのか。
「なんで何もしてないおまえがべしょりんの隣に立っているんだ!! そんな資格がどこにあるんだ!!」
こんな台詞を女子の口から聞くことになるとは思ってもいなかった。男に妬まれるのは慣れっこだ。幾度となく罵倒され、あまつさえ人間性さえも否定されるような言葉を浴びせられてきた。
別に女子に嫌われることが全く無かったとは言わないが──とにかく、女子に嫉妬の感情を向けられることはゼロに等しい経験だった。
「俺、あんたにそんなに嫌われるようなことしたっけな」
「その『あんた』って呼び方も気に食わないんだよ!! 名前くらいちゃんと呼べ!!」
もはや文句を言いたいだけなんじゃないのか。第一彼女も俺をおまえ呼びしてるだろ。
感情的に吠えるばかりで結局何に怒っていてこんな事件を起こしたのかよくわからない。
「いや、俺あんたの名前知らないしな……」
「……は?」
目をかっぴらいた彼女は目が据わっていた。
「ああそうですかそうですか。私なんて眼中に無いと、そう言いたいわけ。あっそう。そうですかそうですか」
怒りを突き放すような形で表現する人間は苦手だ。眼前の女子はそういうタイプらしい。この手のヤツとは相性が悪い。
しかし誰だっけな。最近告られた女子にはこんな子いなかった──はずだ。
「鏡谷くん、それはないだろう」
「そりゃ怒るよ。明桜くん、そういうところホントーに良くないよ」
八尾木にも別所にも呆れられる始末。そりゃまあ忘れられている身からすれば不愉快なのだろうが、覚えていないものは覚えていないのだ。
「彼女はべしょりんと共に生徒会長候補に立候補していた矢野さんだ。本当に知らないのか?」
八尾木が見かねて説明するが、それでもあまりピンとこない。矢野という名前自体は以前からどこかで目にしたことがあったはずだが、顔と名前は一致していなかった。
生徒会長候補といえば、別所が立候補したことにより他の候補は皆辞退したと誰かが口にしていたのを覚えている。つまり彼女はそのうちの一人だ。
「矢野……矢野……あっ、アレか。学内模試成績学年三位の」
前回の模試で成績表が貼り出された際に俺とその名を連ねていたことを覚えている。入学当初から別所に次いで学年成績二位の俺にとって三位以下など気にも留めやしない。その地位が脅かされたことは一度たりともないからだ。
「そう、その矢野だよ。まさかそれほどまでに私に興味が無かったとは……努力知らずの天才様は違いますねぇ」
不満の音を漏らすように、矢野は悪態をついて言葉を放つ。
「確かに俺は努力はしない主義だが──言いたいことはそういう事じゃなさそうだな」
「ああそうだよ! 私はこれでも中学生の時は神童扱いされていた! 必死に、血の滲むような努力をして、周囲の誰よりも賢くなった気でいた!」
だが、違った。彼女がこの高校に入学して知ったのは、自身よりも優れた存在だった。
「──初めは驚いた。そして悔しくなった。私の努力は足りていなかったんだと、もっと頑張っている人がいるその事実に歯を食いしばったよ!」
段々と彼女の言いたいことがわかってくる。彼女が何に怒り、こんな真似をしたのか。きっと、別所もわかっている。
「でも実際はどうだ! おまえはなんの苦労もなくそこに立っている! それどころか私が欲したべしょりんの隣を奪っていった!」
彼女は許せなかったのだ。俺という存在が。彼女の努力を否定するその才能が。
矢野は切羽詰まった様子で別所の両手を取って強く語りかける。
「べしょりん! もう一度考え直して!! 努力でここまで上り詰めた私と、やる気の欠片もない鏡谷明桜、どちらが副会長に相応しいのか!!」
木々が囁くように葉を揺らす。その音が鮮明に聞こえる程に、辺りには静寂が敷き詰められていた。
「──それで話はおしまい?」
打ち破ったのは別所からだった。にこやかに、全てが穏やかに過ぎ去ったような顔つきで言う。あまりに場と不似合いなその表情に違和感を覚えたのか、矢野はその足を一歩後方へと下げた。
「ひとつ聞かせて。その勤勉な努力っ子の矢野ちゃんはなんで生徒会選挙を辞退したの?」
その言葉は矢野の背中を刺すように、鋭く尖っていたように思える。あからさまな動揺を誘い、口の動きは拙くなっていく。
「そ、それは……べしょりんの方が人の上に立つのには向いていると……」
「目が泳いでる。今、嘘ついたでしょ」
「ち、違うっ! ほっ、本当に──」
言葉を重ねるほどに口籠もる。見ていて痛々しいほどの焦り具合に目を背けたくなる。
「逃げたのだろう。私と同じように」
矢野を取り囲うように追い詰めたのは八尾木だった。
「べしょりんと一緒にいたいという話であれば、自らが生徒会長になり、役員に指名すればいいだけの話だ。──だが矢野さん、君は勝負から降りた。対抗馬であるべしょりんと戦うことを恐れて」
八尾木は矢野の目をじっと見つめる。瞬きを許さない眼光が差す。
「自ら投げ出して、責任を転嫁し、間違ったやり方を取る。考えることを放棄した結果だ。私も、君もだ」
八尾木は悲しげに俺に目線を送る。間違ったやり方とやらを口で語ることはない。ただ聞くまでもなく、彼女の瞳は俺との記憶を見ていた。
ギラギラと照りつけていた太陽は次第に雲に隠れ、あたりに影を落とす。
「知ったふうな口を……!」
図星だったのか、はたまた的外れな指摘だったのか、俺にはわからない。ただその握られた拳がどのような意味を持つのかだけはなんとなくわかっているつもりだ。
「──よし、考え直した!」
「──ん?」
別所の突発的な発言に三人共々呆気にとられる。
何を、だ。
「考え直したけど、やっぱり矢野ちゃんは副会長には出来ないや! ごめん!」
別所はわざとらしく舌を出して謝る。空気が読めていないのか、読む気がないのか、まさしく別所だ。
「今ナナちゃんが言ったことが全てだよ。逃げるのはいい。でもそれに言い訳を作ってしまったら、ずっと逃げ続けるよ」
耳の痛い言葉だった。恐らく、矢野も、八尾木も、俺も。
「少なくともアタシは矢野ちゃんを選ばない。だから、待ってるよ。生徒会長になった矢野ちゃんがアタシを選ぶ時を」
空から落ちた雫が肩を濡らし始める。雨雲の下、立ち尽くす矢野を横目に別所はカメラを持って去っていく。
「私も変わらねばな……」
八尾木の呟きが雨音に混じり、地面に打たれた。
雨に無抵抗な姿勢を貫くのかと思えば、鞄だけは胸元に抱え込んで丁寧に守っている。
俺は鞄の奥底に忍ばせていた折り畳み傘を広げ、八尾木に傘を差す。既に雨を浴びた後で、気休めにしかならないかもしれないが、打たれ続けるよりもずっとマシだろう。なにより、八尾木は服が透けると公然わいせつで通報されかねない。
それともう一人。
「矢野、あんたも入れ、風邪ひくぞ。小さい傘だがとりあえず屋根のあるところまで入っていけ。女子二人くらいならギリギリ入れるだろうから」
「……ほっといて」
優しさとも同情とも言えるそれは簡単に蹴飛ばされた。仕方がない。
そういえば別所は大丈夫だろうか。傘を持っていればいいのだが。そんな思いを馳せながら、俺は八尾木を連れて屋根のあるところを探しに行くのだった。
そうは言ってもそう都合良く雨宿りの出来る場所は見当たらず、俺は左肩を濡らしながら八尾木の隣を歩いた。既に周囲は住宅街と化しており、どこへ向かっているのか、向かえば良いのかもわからないまま、八尾木の歩幅に沿っていく。
黙りこくる八尾木にかける言葉が思い浮かばない。仮にも傘の半分を貸しているのだから礼の一つくらいあったっていいのではないかと思いつつ、彼女がとてもそういう気分ではないことも理解していた。
言いたいことだけ言ってそそくさと帰ってしまった別所が腹立たしく感じる。
「この辺コンビニすら無いのな。せめて雨が凌げるだけでも違うんだが」
何か会話が繋がれば良いと、周知の事実をわざわざ口にする。
「そうだな……私の家が近い、上がっていくといい」
「いや上がんねえよ?」
そもそもこいつは自分の家に向かっていたのか。意外と図々しいな。
「左肩」
「ん?」
「先程から傘をこちら側に寄せているだろう。気付いていないとでも思っていたのか」
「いや、むしろ気付くようにしてるが」
「……君は強いな」
その言葉が真実かはさておき、心地の良い褒め言葉だな。俺はイケメンだし頭も良いし優しいが、自信を強いと思ったことはない。
「このマンションの七階だ、来るといい」
「いやだから俺はいいって──」
「大丈夫だ、何もしないと誓おう」
何かするやつは決まってそう言うんだよ。何もしないやつも言うだろうけれど。それでも前科あり、現在進行形変態の言葉にどれだけの信頼を置けるのかはかなり審議の必要な部分ではあるだろう。
「あのなぁ、何かするしないに関わらず女子の家に上がり込む行為自体に問題があるんだよ。それくらいわかるだろ」
「頼む、ほんの少し話をしたいだけなんだ」
嫌だ、無理だ、と突っぱねようと思っていた。それなのに、今にも崩れ落ちて泣きそうな顔をされてしまってはそれも難しい。優しい男はしおらしくされると弱いのだ。
「──わかった、話を聞くだけだ。だが条件としてタオルを貸してくれ。俺も人間だから寒いんだ」
「そんなに私が薄情な人間に見えるか?」
「わからん。俺が八尾木を語るには、八尾木という人間を知らなさすぎる」
マンションの屋根に入り、折りたたみ傘の水滴を振り払う。随分重くなった袖を絞ってみるが、効果はたかが知れていた。
重くなった身体を引き摺るようにしてエレベーターに乗り込み、重力に逆らう。
八尾木は七〇七号室の扉をガチャガチャと何度も引くが、一向に開く気配は無い。鍵がかかっているようだ。
「変だな、この時間は母さんがいるはずなのだが」
八尾木は不審がりながらもポケットから鍵を取り出し、その扉を開いた。
「ただいまー……母さん?」
明かりの点いていない薄暗い玄関を八尾木は覗き込むが、人の気配は無い。その代わりにそこにあったものは一枚の書き置きとタオルだった。
八尾木が書き置きを拾い上げる。
「『父さんに傘を届けてきます。お風呂は沸かしておいたのでそのまま入りなさい』だそうだ」
「いや俺に振られても。入ってこいよ。別に待ってやるから」
「ほう、私のお風呂上がりの姿が見たいのだな。それは仕方ない」
八尾木は一枚だけ準備されていたタオルを俺の頭にかける。
「左手にある私の部屋で待っておいてくれないか。急いで入ってくる」
八尾木はそう言うと電気も点けず、全身を濡らしたままで浴室へと向かって行った。廊下に足跡を残していくことも躊躇わない。酷く大雑把だが、その足取りはどこはかとなく重い。その後ろ姿を見ると一人きりにさせることに不安を感じる。強風に揺られる炎でも見ているような気分だ。
タオルで頭髪を拭く。それだけでタオルは十分に水分を含み、ブレザーが弾いた水滴は完全に拭き取れはしなかった。
最近よく濡れるな、なんてことを思いつつ八尾木の姿を思い返す。
「……そういえばあいつ、着替えを持たずに行ったな」
その意味に気付かないふりをしたまま、俺は一人で八尾木の部屋へ向かうのだった。




