Record4:今宵、月とネオンの照らす空の下で。
読みやすい書き方を模索しながら書かせていただいています。
生徒会室に、二人きり。ティーカップをソーサーに置く音だけが空間を彩るような、上質な静寂が部屋中に詰まっていた。
新聞部員であるメイ先輩がこの部屋を後にして約十分、一切の会話もないままに別所は俺に紅茶を差し出したのだった。
「ん、淹れてくれたのか」
「アタシのついでに、ね」
ある意味頼りがいのあるはずの明るさをどこかに置いてきてしまったらしく、今の彼女の姿に学園のアイドルらしさは見当たらない。
今朝のテレビに映っていた時だってそうだ。彼女は学園のアイドルという一つの称号で表すには、あまりに大きすぎる影を持っている。
別所はカップに口をつける。湧き上がる湯気が彼女の顔を霞ませた。
「さて、どうしようかな」
物憂げな表情を浮かべながら別所は呟いた。
新聞部があのような記事を作るに至った元凶とも言える情報提供者の正体ははっきりした。これで新聞部の連中を恨むこともない。
だが、そんなことを知ったところでこの事態が収束する訳では無い。生徒会への疑念が晴れる目処は依然として経たない。
「まあ、とにかく今は仕事だよね! やることいっぱいあるからね〜」
別所はいつもの気の抜けた笑顔に切り替えると、会長席の引き出しから十センチ程はありそうな分厚い紙の束を取り出して俺へと差し出した。別所は席から絶対に立とうとしない。ただ懸命に手をこちらへと伸ばしている。
「明桜くんの仕事は部活動予算案の確認と、来週の部長会に必要な資料作りね」
俺は別所の手から紙の束を受け取り、乱雑に卓上で広げた。
「前年度の活動実績も加味して適宜修正してね。大抵過剰に部費を申請しているだろうから、気持ち三割くらいは引いておいていいよ!」
そんな雑でいいのかよ。だが百八も部や同好会がある中で一つ一つ調整していたら日が暮れるだろうしな。
まず一つ目、文芸部。部員数八名、申請部費四十万。
「過多にも程があるだろ!?」
思わず叫んでしまった。一人あたり五万って、コミケでも出る気か。これを提出したのは部長の佐々木だよな。もっとマトモなやつだと思っていたよおまえは。
「大体の部活はそんな感じだから、心して掛かってね。あっ、資料作りは生徒会備え付けのノーパソ使ってね。ワードは使えるよね?」
別所は軽々しく言うが、普通に考えて今日中に終わる作業か怪しい。最終下校時刻まであと──いや、考えるだけ無駄だ。とにかく目の前の作業に徹しよう。
俺は俺との闘いの火蓋を切った。
上書き保存のマークにカーソルを合わせてクリックした。
「終わったーーっ!!」
約三時間に及ぶ激闘の末、俺は本日の責務から開放された。久しぶりに伸ばした膝が俺の労うかのようにポキリと音を立てた。
「あっ、終わった? お疲れ!」
別所は会長席から飛び降りて、パソコンの画面を覗き込んだ。
「うんうん、よく出来てる! これで部長会での予算決議はスムーズに進みそう!」
別所の指示をその都度聞きながら作った資料はB4用紙二十枚分。これ自体は対して苦では無かった。
問題は部活動予算修正の方だった。まともな金額を申請している部はほとんど存在していない。全てを承諾した場合を軽く計算したところ、全体予算を五百パーセントはオーバーしていた。それだけでも余裕が無いというのに、新入部員の加入による部員数変動も見越さないといけないということを見落としていた。
前生徒会は来期の仕事だからと、適当な部費申請をそのまま受け取ったんだろうな。爆散しろ。
結局最終下校時刻も過ぎてしまった。今から帰ったとして家に着くのは八時半くらいか。今日は晩御飯抜きで良いか、準備するの面倒だし。
「そういえば別所、ずっと俺を待ってたけど帰らなくて良かったのか?」
冷静に考えれば女子高生をこんな時間に家に帰すのはどうなんだろうか。ましてやこんなにも顔の良い娘だ。親御さんは心配することだろう。
「いいのいいの! アタシも色々やることあったからね! それより明桜くんの方が大丈夫? 家に連絡してないでしょ?」
「ああいや、多分家には誰もいないから気にしなくていい。両親は仕事人間だし、兄貴は遊び呆けてもう一ヶ月は家に帰ってきてないしな」
俺が大抵のことにおいて優秀なせいで親は仕事に熱中出来てしまっているわけだ。楽をするために度々食事を抜いていることは知る由もないだろうけれど。
「奇遇! アタシも家誰もいないんだ! といっても一人暮らししてるだけなんだけどさ」
低い机に両手を着いてぴょこぴょこと跳ねた。あざとい。非常にあざとい。
「で、どう? 一緒にファミレスでも!」
「財布を見せびらかして言うんじゃない。あざとい超えてやらしいぞ」
高級ブランドロゴの入った財布を両手で広げながら頬をほんのり赤く染めている。タイミングがおかしい。
ファミレスか。女子からの食事の誘いなど普通なら断っているところだが、今回に限っては違う。
曲がりなりにも俺の仕事が終わるまで待ってくれていたのだから、夕食くらい付き合うのが筋ってもんだろう。どうも義理堅い男、明桜くんです。
「わかった、行こう。その代わりお代は俺が出すからな。その財布の出番はナシだ」
今俺の財布にはかなり余裕があったはずだ。女子高生一人分の食事代を出すなんて痛くも何ともない程にな。
「そんなに意地を張らなくても。言っておくけど絶対アタシの方がお金持ってるんだからね」
「勘違いするな。俺はモテる男として常に行動に気を遣わなければいけないんだ。別に、おまえに気を遣った訳じゃないんだからな!」
「ツンデレ!?」
違う、ツンデレじゃない。
「張ってるのは意地じゃなくて見栄だったか。じゃあアタシも見栄張りたい気分だから、間をとって割り勘で!」
「何一つ間取れてねえよ。でも、それが丸いか」
そんな会話を交わしながら、生徒会室の明かりを消した。
「えっと、炭火焼きハンバーグをチーズトッピング付きで、あとパルメザンサラダと、モッツァレラピザのチーズ二倍で!」
四人用のテーブル席。別所は小さな子供のような眼差しでメニュー表を見つめながらそれらを読み上げていく。
それを聞く店員、いや若い男性店員は別所に釘付けと言わんばかりに視線が硬直していた。見慣れた光景だ、主に逆の性別で。
「っておまえチーズ好きすぎだろ、オールチーズじゃねえか」
チーズの三連鎖にしっかりとサラダを組み込んでいるあたりが彼女の美を保つ秘訣なのだろうか。
「知らないの? チーズは食物における最高到達点なの。それに、チーズは種類が違えば全部別モノでしょ」
別所はドヤ顔で講釈を垂れる。腹立つ顔だな。
「明桜くんは何頼むの?」
まずそのメニュー表を寄越せ。目で訴えると別所はハッとした表情を浮かべ、物恥ずかしそうにメニュー表を差し出した。
出来れば店員を呼び出す前に貸してね。
どうせ大した量は食べられないから、少しでいいや。そうなるとサイズの融通の効くパスタが好ましい。そして口周りの汚れやすいナポリタン、ソースの跳ねやすいカルボナーラはNG。イカ墨パスタなんてもってのほか。消去法で残ったメニューは片手で数えても指が余るほどの数だった。
「ペペロンチーノの小サイズで」
「かしこまりましたー」
店員はちゃんと注文を聞いているんだろうか。どうもこちらに興味が無いようですが。
「ご注文は以上で?」
店員はあくまでも別所に聞いた。
「はい、大丈夫です!」
元気よく答えた別所に店員は再度品名を読み上げて注文を確認していく。
俺はどうやら店員からすれば邪魔らしいので明後日の方向でも向いておこう。
しかし八時という時間帯もあってか店内は随分と混んでいる。ファミレスと言うだけあって客層の殆どは家族連れらしいが、ところどころ学生服を着た集団も見られる。あの食事に一切向いていない全身純白の制服はどこの高校だったか。
「明桜くん、飲み物取りに行こ?」
別所が肩を突っついた。いつの間にか店員はいない。
「ああいや、俺が取ってきてやるよ。何飲むんだ」
ドリンクバーまでわざわざ二人で行く必要は無い。誰もいない席に荷物を置いていくことも若干不安だ。
「ありがと、じゃあ明桜くんのおすすめで」
「一番困るオーダーだぞそれ。何持ってきても文句言うなよ」
「それは……知ーらなーいっ」
憎たらしいなこいつ。怒ったり悲しむくらいなら他人に選択を委ねるなっての。
丁度俺らの席の逆側、死角になっているドリンクバーコーナーへと向かう。幸い今は誰も利用していなさそうである。
角を曲がると、見覚えしかない制服とすれ違う。
「ん?」
ただ同じ高校だというだけで大して気にも留めていなかったのだが、それは俺の方だけだったらしい。
「おお明桜! 奇遇だな」
彼は振り返り、俺の顔を下から覗き込んだ。普通のメガネをかけた彼は、長ったらしい前髪を揺らす。その両手ではグラスに入った飲み物が不安定に波打っている。
「うわ、佐々木かよ」
文芸部部長、佐々木奏。昨日性癖王なる謎の文化を流布していた、少しばかり変な人間だ。
「うわとはなんだ佐々木かよとはなんだ。僕がいちゃ不都合でもあるのかよ」
「いや、ないけど。単に驚いただけだ」
積み重なったアクリルグラスを手前から二つ手に取る。
「ん? 二つってことは誰かと来てるのか」
「ああ、別所の誘いでな」
グラスの片方に少量の氷とコーラを注ぐ。炭酸で跳ねた液体が服に付かないよう距離をとる。
「べ、別所って、あの会長だよな。明桜が女子の誘いに乗るなんてことあるんだな」
目を丸くした佐々木がぱちくりと瞬きを繰り返す。
別所の飲み物は何にしようか。ジュースか、紅茶か。水は──多分求められてないだろうな。
「んー、佐々木は別所の飲み物は何がいいと思う?」
なんとなく聞いてみる。すると佐々木は不穏な笑みを浮かべ、自信の持っているグラスを台上に置いた。
「そんなもん、適当に決めてしまえばいいんだよ!」
佐々木は俺の手から空のグラスを奪い氷をぶち込んだかと思えば、無作為にドリンクをブレンドし始めた。
「ああ、バカ! 適当にも程があるだろ!」
こいつに委ねちゃいけなかった。そういえば佐々木は別所に対して妙に敵意を抱いているんだった。
グラスを奪い返した頃には、濁った液体がゆらゆらと妖しく蠢いていた。
「そんじゃ、僕は吉田を待たせてるから。バイビー!」
佐々木は無責任な言葉とブレンドドリンクを置いて自身の席へと帰ってしまった。
捨てるのも勿体ないよな、これ。仕方ない、最悪俺が飲めばいいや。
陳列された棚からストローを二本つまみとって、俺は別所の待つ席へと戻った。
「待たせたな。ところでなんだが別所、この二つの飲み物、どっちを飲みたい?」
一応、選択権をあげよう。しかし普通のコーラもこのブレンドドリンクと並ぶと非常に怪しく思えてしまう。逆に罠臭いもんな。
「当然こっち。面白そうだし」
別所はなんの迷いもなく佐々木特製ブレンドドリンクを手に取った。マジかこいつ。
「後悔するなよ。味は保証しないからな」
念を押して忠告する。絶対美味しくないとわかりきっているからな。
「いいのいいの。それが醍醐味なんだよ」
そう言うと別所はストローに口をつけてゆっくりとそのドリンクを吸い上げた。
俺はその行く末を見届ける義務がある。さらば、生徒会長よ。永遠なれ。
「え、ちゃんと美味しい。覚悟してたのに」
別所は嫌な顔を見せることなくストローから口を離した。
「はあ!? んなわけ──」
ブレンドドリンクを手に取って、ストローに口をつける。一口吸うと、口の中に果物の芳醇な香りと甘味が広がった。ピーチやアップル、オレンジが互いを尊重し合っている。
「フルーツティーだ……」
佐々木はこれを意図的に作ったのだろうか。いやそんなわけないな。
「別にいいんだけどさ、女の子が口をつけた後の飲み物を断りもなく飲むのってどうなの? アタシの間接キスだよ。値をつけたら万はいくよ」
「じゃあ多分今このストローは五万円くらいの価値はあるんじゃないか。別所と俺、二人分の値がつくだろうからな」
「論点をずらしたって誤魔化せないからね!? まったく……」
別所は不服そうな態度でブレンドドリンクもといフルーツティーを再度飲み始めた。
別所の主張はもっともかもしれないが、この行動のせいで説得力に欠ける。第一マウストゥマウスでのキスを仕掛けておいて、間接キス如きで騒ぐのも馬鹿馬鹿しい。
「お待たせいたしました、こちらご注文の──」
そうこうしているうちに現れた店員が専用の台車に乗った料理をテーブルに移動させていく。
別所と俺は礼を口にして、店員を見送った。
「いただきます!」
別所は運ばれてきたチーズ三昧の料理たちを次々に口に運ぶ。食べっぷりは立派なものだが、その勢いに負けることなく所作が美しい。
フォークとナイフの動きに無駄がない。洗練されている。洗練力は軽く五十三万かそれ以上だ。洗練力ってなんだよ。
俺も小さな声で「いただきます」と呟き、食事を始める。しかし、ただ黙々と食事に専念するつもりは無い。
「なあ別所」
「んー? なあに?」
意を決して、踏み込んだ。
「水泳辞めるって本気なのか?」
「本気だよー。あ、もしかして今朝のテレビ観てくれたの? アタシが出てたから?」
食事の手を止めることなく別所は応答する。テレビは観た。だがそれを伝えるのはなんだか癪だった。
「話の腰を折るな。問題は別所がやめた後の水泳部だろ」
俺の言葉に、別所は黙りこくってしまった。初めは楽観的であった別所にも、既に事態の深刻さが理解出来ているらしい。ハンバーグの欠片がフォークに刺さったまま宙に浮いている。
「式島美崎。メイ先輩はこの名前を俺たちに教えてくれた。念の為に問うぞ。『式島美崎』は水泳部員の、あの『ミサキ』だよな?」
それは昨日水泳部に訪問した際に会った、俺に敵意を放っていた真面目そうな女子の名だ。
別所はナイフとハンバーグが刺さったままのフォークを鉄板に立て掛けるように置いてから静かに頷いた。
「だとすれば、式島の目的は一つ。別所を生徒会長の座から降ろして水泳部へと引き戻すことだ」
推測ではあるが、十中八九そうと見て間違いないだろう。
「別所に水泳を辞めるなと言いたいわけじゃない。所詮俺は部外者以外の何者でも無いからな。そんなことを言う権利がないのはわかっている」
わかっている。わかっているが、思うことが無いわけじゃない。だから別所、おまえの口から言ってくれないか。
俺は小さなペペロンチーノを一口サイズにまとめて口へと運ぶ。ようやくありついた食事だが、俺には少し辛過ぎる。
「やっぱ、無責任だよね」
別所は肩をすぼめて言う。
恐らく、今俺たちの脳裏には同じ人物の顔が過ぎっているのだろう。別所に代わって水泳部部長を務めている八尾木七凪幠だ。
昨日の様子を見るに、彼女は水泳部という集団において何の力も持ち合わせていない。名ばかりの部長なのだ。
「ナナちゃんはね、水泳の推薦入学だったらしいんだよ」
別所は両手を膝に着けたまま話を続ける。声色はなんとなく重苦しくて、やはり彼女らしくない。
「中学生の時から色んな大会で入賞して結果を残しててね。稀代の天才なんて呼ばれてたんだって」
天才。別所が他人に使うには重すぎる言葉だ。その先を知っている俺には重すぎる。
「きっと高校では部のエースなんて当然で、インハイ優勝すら夢じゃないレベルだって、そう評価されてきた」
でも、現実は酷だった。俺も身をもって知っていることだ。
天才にも、上の天才がいると。
「アタシはそんなことを知らずに水泳部に入部した。それまで水泳なんてしたことも無かったけど、一番映えそうな部だったから選んだの。そんな気まぐれがきっと、彼女の自信を、心を打ち砕いた」
インターハイは夏に行われるはずだ。せいぜい三ヶ月か四ヶ月か。別所はたったそれだけの期間に全国トップに登り詰めるまでの実力を身につけた。
しかし八尾木だって紛れもない天才だ。別所に次いで準優勝。普通の人間には到達できっこない。成績だけ聞いたのならば、水泳という分野においては別所と八尾木、二人の才に大差は無いのではないかとも思う。
だがきっとそうじゃないのだろう。
九十九点と一〇〇点の間には大きな溝があるように、二人には絶対的な格の違いがあったのだ。そしてその溝を越えようと周りが努力している内に、別所は一二〇点を叩き出すのだ。
「いつの間にかアタシが部の主導権を握っていて、みんなも、ナナちゃんもそれを嫌がらないどころか祝福してくれた。初めはそれでいいと思ってたんだよ」
別所の顔が歪む。今にも泣き出しそうで辛そうなものだから、俺は目を逸らしたくて仕方なかった。だが、聞いてやらないといけない。
俺は彼女と同じ、天才だから。わかってやれるのは天才だけだ。
「でもいつからか、気付いちゃったの。ナナちゃんは……ナナちゃんは一番を諦めたんだって。アタシと競うだけ無駄、ずっと二番手で良いって……二番手しかなれないって結論を出しちゃったんだって……」
別所の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。その姿はまるで幼児。肩を震わせ泣いているところを見るに、取り繕っているようには見えない。
彼女は天才なりに悩んでいたのだ。
他者を淘汰して、蹂躙して、立ち直れなくなった者の存在に気付いて。まるで玩具を分解して遊ぶ子供がその玩具を直せないと知ったかのように。
「本当は、本当はわかってたの。アタシが居なくなったところで今のナナちゃんの心が一番手に返り咲く訳じゃないって。でも、アタシが何を言ったところで、何をしたところであの頃のナナちゃんは……」
別所の頬を伝う涙が痛ましい。
これが別所の心の内。学園のアイドルの苦悩。
贅沢な悩みだ。
誰しも才を持てば持たざる者からは羨まれる。妬まれる。才は人を壊し、関係を壊す。それが世の理であり人の理だ。散々持て囃されてきた別所がそれを理解していないはずがないだろう。だが、問題は理解しているかどうかじゃない。
別所は才という責任に囚われている。
功績への責任。人への責任。敗者への責任。
彼女がその才による束縛から抜け出したいと願った時、責任という鎖はそれを許さない。
そんなことは、間違っている。
「別所」
名を呼んだ。
持って生まれてきた者は持たざる者と同じように悩んではいけないのか?
馬鹿を言うな。贅沢な悩みだって立派な悩みだ。それを切り捨ててなるものか。
「水泳は、好きなのか」
たった一つの質問。俺はこれだけで全てを問うかのような気持ちで口にした。
別所は一瞬キョトンとした顔を浮かべたが、すぐに顔の筋肉を引きしめた。
「……好きだよ。水泳も、水泳部も」
それだけ聞ければいい。俺のやるべきことがよくわかった。
生徒会として初めて自主的に仕事をしよう。本校の生徒のお悩み相談及び解決事業だ。
考えるべくは、『別所のいない水泳部の体制』だ。
こちらを見つめる別所の涙をそっと指で拭ってやる。別所は物理的距離を詰められたことに驚いたのか、怯えたのか、目をぎゅっと瞑っていた。
温かいのに、なんだか冷えきったようにも思えた涙だった。
「生徒会副会長の名は伊達じゃないってところ、ちゃんと見せてやるよ」
ゆっくりと目を開いた別所はただ呆然としていた。
「明桜くんって、意外と優しいんだね」
「失礼な、俺はいつだって優しい。あ、でも今のは特別だからな? レアモーションだ、高くつくぞ」
よく考えれば何の思惑も無しに女子の涙を拭うなど俺らしくない。
なるほど、『らしくない』ってこういうことか。
「あー、明桜が女の子を泣かしてるー」
あからさまに別所の声では無い。誰だ。
「……またおまえか、佐々木」
粗方予想は着いていたが。次は背に少女をぶら下げた状態でのご登場だ。出来の悪い心霊写真みたいだな。
「そうだよまた僕だよ。女性のすすり泣く声が聴こえたもんだからてっきり生でカップルの別れ話を見れると思って駆けつけたのに、残念だ」
そりゃ悪うござんした。
「佐々木ぃ、それ趣味悪いからやめなぁ?」
背後霊もしくは守護霊的な女性、吉田が土筆の如く顔を覗かせて言った。もっと趣味の悪い占いをしていたのはどこのどいつだと思ってるんだ。
「冗談はさておいて、僕本気で気になってたんだけど、マジで二人は付き合ってんの?」
飽きるほどされた質問が佐々木の口から放たれた。さっき聞いておけよ。
「付き合ってない。大体俺は昨日初めて別所と話したんだぞ」
「昨日知り合った女の子と夕食? 二人きりで?」
痛いところを突かれた。シチュエーション自体に問題があるんだよな、これ。
「オトナの付き合いってやつだよ、わかる?」
「えっ、オトナの突き合い? セクハラですかぁ、べしょりん?」
沈黙。吉田という女が作り出した、静寂。あるいは無視。何か言えと言わんばかりに別所に熱視線を送る。
肝心の別所は言葉に困り果て、口角が地と平行状態になっていた。なんだその据わった目は。瞳の奥には無しかない。まずい、何故かはわからないが面白い。
笑いを堪える俺と目が合った別所は空気を読むように口を開いた。
「それよりアタシはキミ達二人の方が気になるな。佐々木くんと吉田ちゃん、友人ってより恋人の距離じゃない? もしかして、ラブ?」
いつの間にか別所は普段の別所に戻っている。佐々木達が来たことで取り繕っているのか、本当に元気を取り戻したのか俺にはわからない。
別所の揶揄いも兼ねた質問は俺も気になっているところだった。相手の関係値をぶち壊すのが怖くて触れられなかったところをこうもあっさりと、自分が踏み込まれたことに対するカウンターと言わんばかりに踏み込み返した。
「いや友達だけど」
佐々木から返ってきたのはあっけない答えだった。カウンターは不発に終わったらしく、佐々木も吉田も動揺する様子は一切ない。
「仲の良い男女を見たらすぐに恋愛に変換するのは辞めた方がいいよ、会長さん」
おまえがそれ言う?
「佐々木くんがそれ言う!?」
自分のことを棚に上げまくるバケモノがいる。危うく別所のツッコミとハモってしまうところだった。
「私達が恋愛感情を抱くことはないですよぉ。ラブはラブでも恋愛ではなく親愛のラブですからぁ」
吉田が言い切った。現状はそうでも多少答えを濁したりくらいはしそうなものだが、それすらない。
本当にただの友人なのか、予め決めておいた常套句を吐いただけなのか、俺には知る由も無い。
「それじゃあ僕らはもう行くわ。あんま遅くならないようにな」
まるで保護者かのような台詞を残して佐々木と吉田の二人は会計へと向かって行った。
「何しに来たんだ、あいつら……?」
「わかんない……」
静かになったテーブルで二人、目を合わせる。
佐々木達が現れる前の別所の涙も相まって変な空気感だ。
目を赤くした別所はこちらをじっと見つめ続けた末、優しく微笑みかけた。
「明桜くんって、肝心なところで格好つかないね」
「格好つけなくても元からかっこいいからな」
俺くらいかっこいい男ともなれば無意識にも格好よくなっているものだ。
下らないことを駄弁ってはすっかり冷たくなったパスタを口にする。別所が完全にチーズの固まったピザをおすそ分けしてきた時には正気を疑ったが、なんだかんだ美味だったので許そう。
ただ、割り勘するにしては食べる量が不均等で不平等だ。いや、別に気にしてないけど。
「んーっ!! 美味しかったぁー!!」
夜空の下で別所は肘を伸ばして伸びをした。
「結局出来たてを食べ直したいからってマルゲリータもう一枚頼みやがって。しかも全部一人で食っちまうし」
「分けて欲しかったんなら言ってよー! 明桜くん全然食べないから心配だったんだよ? ほんとに男の子?」
無用な心配と失礼のコンボを指先を顎に当てたあざといポーズで中和している。
「胃袋が小さいことがそんなに悪いことかよ。それに俺が言いたいのは配慮とか気持ちの面の問題でだな────」
つまり、小さいのは俺の胃袋だけじゃなくおまえの器もだってことだ。これを口にしないのは俺なりの優しさである。
「うぇー。せっかくお腹いっぱいで気分良くなってたところにお説教とかやめてよー」
不貞腐れるように唇を尖らせる別所。またしても俺の作り上げた別所像が歪みを見せる。どこまでも掴みどころがないことにさえ慣れてしまった。
本物の彼女は、何処にいるんだろうか。
俺としたことが、仮にも一人の女性であるはずの別所の、その心の内へと踏み込もうなんて考えが脳裏を過ぎっていた。
「自制しなきゃな……」
俺の口が取りこぼした一言が届く当てもなく宙を漂った。
「え、何か言った?」
「いいや、独り言だ」
今俺が考えるべくはまず水泳部のことで、俺自身のことでは無いのだ。
今宵、月とネオンの照らす空の下。酷く艶やかな少女の横顔に見惚れてしまわぬように、星を見上げた。
水泳部の不和、別所の葛藤。決着の日は明日だ。握りしめた拳をズボンのポケットにしまい込んで見ないフリをした。