Record1:別所鏨は凛と生きる。
「えー、新生徒会長のべしょりんからの重要な連絡です」
体育館、生徒総会の司会によるナレーションが響く。そんなものに心底興味のない俺は窓の外を散る桜を目で追うことに全神経を費やしていた。そうして呆けている時間はとある爆声によって突如終わりを迎える。
「只今より二年C組、鏡谷明桜を生徒会副会長に任命します!」
全校生徒が見守る中、体育館壇上にいる奇っ怪なメガネを頭に乗せた少女は、一般ギャラリーに紛れる俺を指差して声高らかに宣言した。その言葉を聞いた途端、多数の疑問符が脳内を駆け巡った。何故今、何故俺。この時の俺はなぜなぜ期真っ只中の幼児と遜色のない思考回路だったはずだ。周囲からも驚きや疑問の声が上がっている。しかし、誰かを爆心地にした拍手が波状に拡がり、それらの声はかき消されてしまった。
「今期の生徒会はアタシと彼の二人!! 期待しててね!! では解散!」
「えー、司会の仕事を乗っ取らないでください。午後からは部活動体験の時間となっています、部活動に所属している人は準備に移るようにしてください。その他の人は帰宅して構いません。それでは生徒の皆さんは各々の教室にお戻りください……」
頭を抱える俺のことなど素知らぬ顔で司会者は予定通りの指示を放送し、その生徒総会は終了の合図が下った。
働きアリの法則を知っているだろうか。アリの群れには一定の割合で仕事をしない、怠惰アリが生まれる。それらの怠惰アリが群れから消えたとて、今までは真面目だった働きアリの中から一定の割合のアリが怠惰アリになってしまうという、何とも悲しい法則である。
さて、俺が通う志嶺高校、いわゆる進学校。今から丁度一年前、俺はこの学校に大きな期待を寄せていた。洋風仕立ての新しい校舎、高偏差値故のまともなクラスメイト達。中学のように恋愛だなんだのとうるさい連中は消えてくれると思っていた。奇しくも働きアリの法則のように怠惰アリならぬ恋愛ビトなるものがこの高校からも誕生してしまったわけである。
「いやーびっくりだなぁ、まさか明桜が生徒会役員、それも副会長になっちゃうとはね」
数多く存在する友人の中でも指折りの親しい仲である、米白成葉はおどけた様子で割り箸を割る。不格好な割れ方をした箸を一切気にすることなく白米の詰まった弁当を食べ始めた。
「なってねえよ、あの女子が勝手に言ってるだけだ」
俺は購買で買った握り拳よりは少し大きい、小さなパンをおもむろに齧る。比較的安いパンなので大した期待はしていなかったが意外と美味い。
本来俺は今日昼飯を必要としておらず、集会の終わりとともに帰ろうとしていたところをこの米白に引き止められたのである。
「まーたそんなこと言って。わかってるのかい? 新生徒会長、別所鏨がどういう人物なのかを」
米白はやれやれと言わんばかりにわざとらしく首を振りながらため息をつく。米白はとある紙を懐から取り出して俺へと突きつけた。それはいわゆる選挙ポスターであった。にこやかな別所の写真と名前、加えて彼女の理念がでかでかと印刷されている。「一〇〇の期待に一二〇の結果で応える」、それが彼女の基本理念らしい。米白は続いて口を開いた。
「別所鏨、通称べしょりん。この私立志嶺高校におけるアイドル的存在で異性人気は勿論同性からの人気も高い。眉目秀麗、頭脳明晰、運動神経抜群、どこをとっても超エリートの天才で学外からも──」
「あーいい、ストップだ。俺だってそれくらい知ってる。というか誰でも、嫌でも知ってる」
早口で捲したてる米白を半ば嫌悪気味に遮った。小さなパンは残り半分ほど残っているが、既に胃は十分に膨らんでいる。
「知ってるなら尚更さ。それほどまでに完璧な彼女が面識のない明桜を指名した理由、明桜自身が一番わかっているだろう?」
知ったような口をきく米白だが、悪い気がしないのも事実である。
「確かに俺の成績は別所鏨に次いで学年二位、大抵のスポーツであれば人並み以上の実力を持ち、サッカーにおいてはその中でも更に秀でている。そして何より顔が良い。そこらの大手アイドルグループにすら負けないと自負しているぞ」
「ほんと明桜って自分を褒める時だけはよく喋るよねえ」
仕方ない。褒めずにはいられないのだから。むしろ褒めないと鏡谷明桜たりえない。
「でも明桜の自己賛美の数々には全面的に同意さ。だからこそ明桜じゃなきゃ完璧な彼女に並び立てないとも思うのも自然だろう?」
米白の箸が先程から全く動いていない。対して俺は手にしていた残りのパンを口内の遥か彼方へと牛乳と共に流し込む。一気に詰め込んだあまり、一瞬喉に停滞しそうになったパンとの格闘は熾烈なものだった。一息つくまでに五秒、いや七秒。
「だーからと言ってだな。俺のその才覚を見ず知らずの女に捧げる理由にはなり得ない、反論は?」
この私立志嶺高校における生徒会という組織は異質なほどの存在感を放っている。大抵の学校行事の管理・運営は生徒会が全てを取り仕切り、生徒が主体とは思えない程の激務をこなさなければならない。つまるところ、教員が極限まで楽をするためのシステムなのである。
「そりゃあそうさ。だけどもその苦労を差し引いても生徒会役員になるメリットはお釣りがくるよ。学食は無料、内申点の大幅アップ、学内の統制権……は役員というより生徒会長か」
べらべらとべらべらとべらべらと。蛇口を全力で捻ったかのように言葉が溢れ出るのはある種の才能を感じる。まあ俺ほどでは無いけれど。
「俺は学校の食堂は普段利用してないし、内申点なんて困りようがない。おかげで俺の進学は安泰だ」
「そっか、明桜は推薦狙いか。確かに志嶺高校の指定校推薦は潤ってるからね。ここらじゃ最上級の進学校なだけあるよ」
自然に話の腰を折ることが出来た。このまま徐々に本筋をフェードアウトさせたいものだが。
「俺は当然公志大学の推薦狙いだな。私立大学では日本でトップを争う偏差値の高さ。更に志嶺からの指定校推薦であれば学費の五割は免除という特別待遇、あまりにもコスパが良すぎる、破格だ」
俺が真面目に語っていると、米白は見計らったかのように弁当を口に掻き込んだ。散々喋ることに夢中になっていた割に大学の話になると途端に興味を失う男が何故この高校に入学出来たのか、謎は深まるばかりである。
俺は牛乳パックを丁寧に潰し、中身を一気に飲み干した。米白も米白で弁当を頬にパンパンに詰め込みながらも、弁当箱を空にした。
「齧歯類じゃねえんだからもう少し落ち着いて食えねえの?」
「僕の人生はひふはっへ──駆け足なのさ」
「それは近いうちに喉を詰まらせることの暗示か?」
「かもしれないね」
能天気なやつだ全く。
「あ、そういえば推薦の話だけどさ、もし別所と推薦の取り合いになったらどうするの? 流石の明桜もべしょりんが相手じゃ分が悪いよ」
平然とした顔でそんな質問をする米白に俺はそれなりに驚かされた。そういえばこいつはこんなやつだった。興味がなくとも情報は聴き逃さない。
「心配すんな、公志大の推薦枠は二つあんだよ。俺の狙う普通の指定校推薦と、特別枠で試験も学費全免除のハイセンス推薦。後者は特別な実績がないと認められないんだよ、それこそ生徒会役員だとか」
「あっ、つまりべしょりんがわざわざ指定校推薦で公志大を選ぶメリットはゼロってわけだあ!」
やけに大きな声で結論を言うのが気になったが、まあそういうことである。本来俺は追加の内申点など必要ないという話だった気がするが、話はしっかりと逸らせたので良しだ。そんな安心はつかの間だった。教室後方の戸が開く音が、俺の耳を刺した。いや、俺だけでは無い。恐らく教室にいる全ての人間がその音に心臓を握られたはずだ。
「話は盗み聞きさせてもらったわ!」
颯爽とその開いたドアから現れたのはまさに話題の少女、別所鏨であった。頭に乗せた巨大なぐるぐるメガネが気になって仕方ない。ぐるぐるメガネのぐるぐるって漫画的表現の類だと思っていたんだが、実在するのか。
「きゅっぴーん☆ みんなのアイドルべしょりんだよー! わーい!」
少女の奇妙な言動に俺は凍りつく。いや、彼女がそういう人間だということは以前から知っていたのだが、いざこの距離で、かつ目があった状況でそんなとち狂ったような言葉を吐かれると何も言えなくなってしまう。小学生ならまだしも齢十六、七の高校二年生が自称アイドルとは片腹痛い。
俺が沈黙を選択し、別所と十秒ほど目の合った状態でいた間に、別所は教室中の生徒から囲まれてしまった。
「べしょりーん! 生徒会長就任おめでとー!」
「ありがと! っていっても信任投票なんだけどね」
「私知ってるよ、べしょりんが立候補したら他の候補者が全員降りちゃったんでしょ!?」
「えーっ!! 流石べしょりん!!」
男も女も誰彼構わず周りへと引き寄せてしまう様はまさしく俺と同じタイプの人間だ。いや、悔しいことに彼女のそれは俺以上であることを認めざるを得ない。少なくとも俺が他クラスに行けど寄り付くのは女子生徒が大半だ。
「ちょっとごめんねみんな。今日は鏡谷明桜くんにヨージがあって来たから」
別所は正面にいた二人の女子生徒の隙間を縫い、俺の席の真後ろまでたどり着いた。近づくと、別所の整った顔立ちがより鮮明に映り、思わず凝視してしまう。
「面と向かって話すのは初めてだね、明桜くん」
別所が俺の名前を呼んだことで我に返る。いかん、またしても敗北を認めてしまうところであった。しかし、変なメガネさえ無ければなあ。普通のメガネでも十分似合うだろうに。
「その自覚があるだけ安心した。もう一段階配慮が欲しかったんだがな」
それとない笑顔を作る。数々の女子を落としてきた殺人スマイルほどに屈託のない笑顔は作れない、愛想笑いの域を出ない表情だと思う。
「嫌そうな顔ね。それより、アタシからの生徒会への勧誘を蹴るつもりなのは本当?」
その話をしていたのは随分前だった気がするのだが、一体いつから盗み聞いていたのだろうか。
「残念ながら本当だ。俺は楽な道を選ぶのが好きなんだ。あんたもわかるんじゃないか、優れた人間である以上な」
大抵の人間は、必要以上の努力は望まない。今現在持っている力における最高の妥協点を目指すものだと俺は思う。これは怠惰という言葉だけでは表せない、ある種の効率化だとか多くの懸念事項を経た上での話ではあるのだが。
「えっ、明桜くん、べしょりんからのお誘いなのに断っちゃうの!?」
「私べしょりんになら明桜くんを譲ってもいいって思ってたのに!!」
「おい、ちょっと待てよ。鏡谷はどうでもいいけど、べしょりんはみんなのアイドルなんだぞ!」
面倒なことに関係のないクラスメイトが騒ぎ始めた。誰が誰に誰を譲るだって? 馬鹿馬鹿しい。
右の女子から、俺に振られた女その一、俺に振られた女その二、俺に振られた女その三。要は最もらしい諦める理由が欲しいのだろう。
しかしこうもすぐに色恋沙汰へと話を変貌させる、イリュージョニストも顔負けの手品は不快感を煽ってくる。
俺も少し苛立ちを覚える程耳障りだった空間に終止符を打ったのは意外にも米白であった。
「はいみんな一旦落ち着いて。べしょりんの声が聴こえないでしょ」
たったそれだけの言葉でやかましい人間オーケストラが終演した。妙にあっさり聞き入れるものだから驚かざるを得ない。
いざ満を持して別所が口を開いた。いや、俺は待ってないけど。
「えっと、簡潔に話すね。明桜くんがもし本当に生徒会に入らないって言うんだったら、キミの狙ってる公志大学の指定校推薦、アタシが貰っちゃうね!」
「はぁ!?」
驚きのあまり反射的に椅子から立ち上がる。
「待て待て待て、んなことしてあんたに何のメリットがあんだ!?」
柄にもなく語気を強くして別所に迫った。
「アタシを見くびるような発言をした罰、ってところかな」
しくじった、ということに気付いたのは今になって、やっとのことだった。別所に推薦の話を聞かれたことがではない。別所相手には言ってはいけないことを俺は口にしていたのだ。
「いやあ明桜、見事に地雷を踏み抜いたね」
米白は茶化すように笑っているが、それに言及する気にもなれない。
「アタシは明桜くんの素質をすっごくすっごくものすごーく買ってるの。でもその向上心の無さ! 宝の持ち腐れ!! これは性根っから叩き直すしかなーいっ!!」
どうやら別所は燃える女というやつらしい。一人で盛り上がってこちらを指差している。
「いやいや、べしょりんは萌える女の子だよ」
米白は当然のように思考を読んでくる、怖い。むしろこいつを生徒会に誘った方が役に立つと思うのだが。
「と、とにかくだな、俺はやらん。もし推薦が取れないのならば一般入試を受けるまでだ」
俺の学力であれば公志大学なら十分に合格圏内だ。俺の極限まで楽をするという考えにはそぐわないが、どうせ別所も実際にはハイセンス推薦を取るだろう。相手の駆け引きに乗らない、これが大事だ。
「ということでこれ、返すね」
俺の言葉を聞き入れることなく、別所は何かカードのようなものを手渡してきた。「返す」と彼女は言った訳だが、何も貸した覚えは無い。
「返すって何を──」
覚えはなくとも差し出されたものは受け取ってしまうのが人間の性だ。別所から渡されたそれを見て、俺は己の目を疑った。
「俺の学生証じゃねえかよ!?」
すぐさまにブレザーの胸ポケットをまさぐり、生徒手帳を開く。数日前にはそこにあったはずの学生証が消えていた。
いつから抜き取られていたのか検討もつかない。ただこういうことに手を貸しそうな悪友には心当たりはあるんだよな。
「生徒会役員への登録手続きには学生証が必要だから、しばらく拝借しちゃった。ということで一年間よろしく♪」
どうやら俺に逃げ場などとっくに無かったらしい。別所の口八丁に翻弄されていただけに過ぎなかった。
「米白、おまえだな? 学生証を抜き取った犯人は」
上目遣いでこちらを覗く米白を睨みつける。
「いやぁね、べしょりんに誘われて断るような男の子がこの世に存在するなんて思ってもみなかったからね。それにこんなに面白そうなことに乗らない手はないじゃないか。ねぇ、べしょりん?」
「ね、米白くん♪」
どうやら二人は初っ端からグルだったらしい。米白の演技、いや出任せをぺらぺらと放つ力には恐ろしいものがある。話術とも呼べるそれは非常に長けている。いや待て、何を冷静に分析しているのだ。
「つまるところ、俺は既に生徒会役員として正式に登録されている、ということだな?」
俺の質問に、二人は同時に頷いた。逃げ場なんてとっくに無かった。
「呆れた。よくもまあ話したこともない男にこんなに必死になれるな」
俺は額に手を当て深くため息をついた。今からでも登録を無効にして貰えるよう担当の人間に頼み込むことも出来る。
だが悪知恵の働く米白のことだ、その辺の対策は事前に打ってあるだろう。後手に回っている時点で俺の敗北は決定事項なのだ。
「まあまあ、何であれ経験だよ。入ってみれば意外と楽しいかもしれないよ?」
力技で無理やり加入させておいて何を言うか、この窃盗犯め。しかしこれ以上策を弄されるのも面倒だ、この際一旦引き受けた方が話は早い。
「わかった、一旦生徒会副会長の座は引き受ける。ただし(仮)だ。そうだな、1ヶ月は真面目に請け負うが、その先は保証しかねる。心底つまらないと感じたらその先はナシ」
俺の苦渋の決断に、米白と別所はハイタッチをしてみせた。こいつら仲良しじゃねえか、やっぱ米白が副会長やれよ。
「残念だけど、ボクじゃ力不足だよ。それにべしょりんの隣に立つにはあまりに似つかわしい、そうだろう?」
米白が脈絡もなく言葉を放つ。
もしかすると俺は独り言のように思考を言葉にして漏らしているのではないだろうか。
そう考えもしたが、どう見ても独り言を言っているのは米白の方である。クラスメイトからは白い目で見られているが、これも日常茶飯事である。
数秒の沈黙の後、校舎内では昼休みの終了を報せる鐘の音が響き渡った。体感的にはえらく長い昼休みであった。
「あっ、もうこんな時間。早速だけど明桜くん、午後の部活動体験にて仕事があるから準備ができ次第急いで生徒会室に来てね♪」
そう言い残し、別所はスキップしながら教室を出ていった。帰ろうとする俺を米白が引き止めた理由はこれか。
別所鏨。なんというか、存在が疲れる奴だ。それに合わせて周囲のオーディエンスもそれなりに散り、米白と俺の二人だけがその場に残った。
「米白、俺おまえのこといずれ嫌いになりそうだわ」
「それは困るなあ、ボクは明桜のことすこぶる大好きだっていうのに」
存在が疲れる奴、其の二。
「でも明桜の腑抜け具合、無気力性は問題かもね。運動神経は良いのに部活はやらないし、モテるのに彼女も作らない。華の高校生、何の為に費やしてるのさ?」
「何の為って、学生の本分は勉強。それ以外にあるかよ」
勉強もしてないけど。しなくても出来るし。
米白は弁当を片付け、椅子の向きを前方へと戻した。
「明桜次第だよ、それは」
どこか影のある笑顔で在り来りな台詞を吐く米白。
「あっ、いけない。ボクもそろそろ演劇部に顔を出さないとね。意地でも新入生を引き込まなきゃ。じゃあね明桜、また後で!」
米白は慌てた様子で教室を去っていった。全く騒がしい男だ。
気がつくとこの教室にはたった数人の生徒だけが残り、寂れた空気が漂っている。
かくいう俺もあまり呑気にはしていられない。生徒会室は本校舎の四階だったはずだ。俺は手ぶらで階段へと向かい、焦ることなくゆっくりと昇っていった。
四階には音楽室に視聴覚室、生徒会室と理事長室があり、他は全て空き教室となっている。何故理事長室を職員室のある二階に作らなかったのか。
いやそれだけじゃない、防音壁になっているとはいえ音楽室や視聴覚室なんて特に騒がしくなる教室をわざわざ生徒会室、理事長室と共存させているのはどういった了見だ。まあ俺は音楽の授業を選択していないので実際の音漏れ事情は知らないのだが。
生徒会室を示す吊り看板がある部屋の圧力たるやいなや、ラスボスの待ち構えるダンジョンへの入口のようでどうも気圧されてしまう。観音開き式になっている生徒会室の扉をそっと開き、隙間から部屋の中を覗いた。
「……広いな」
見るからに柔らかそうな、二人がけのソファーが二つ。それらに挟まれるように設置された白基調の机の側面には何かしらの模様が細かに彫られているのがわかる。脚がカーブを描いているのがなんとも高級そうな雰囲気を漂わせている。
そして更にその奥に位置するのが会長席な訳だが──俺は目を疑った。卓上にはぬいぐるみが陳列され、ラメシールが不規則に貼り付けられている。ひと世代前のギャルの携帯電話じゃないんだぞ。
ここでふと気づく。別所が見当たらない。生徒会室だったよな。
「お・っ・そ・い!!」
耳を劈く背後からの声に思わず耳を塞いだ。
「おお、どこに行ってたんだ」
「お手洗い!! アタシ急いでって言ったのに、明桜くん全然来ないんだもん。今回はいきなりの招集だったから許すけど、次はないからね」
そう言い俺を避けて生徒会室へと入っていった。そのまま会長席に尻からダイブし、ふんぞり返った態度をとる。
「まあ遅くなったのは悪かったよ」
ここで謝れる男が俺である。
俺は別所を追い、生徒会室への一歩を踏み出した。なにかいい匂いがする。アロマでも焚いているんだろうか。
「こっちよ、ここ」
別所が手招きするのは会長席の真横、椅子も何も無いところである。どうせならソファーに座って対面で話せば良いのに、彼女は会長席に座りたくて堪らないらしい。
「今からしてもらうことなんだけどね、ちょっとこれ見て」
別所が取り出したB4サイズの紙を屈んで覗き込む。その紙には表が印刷されている。野球部がグラウンドで十五、サッカー部もグラウンドで三十、男子硬式テニス部はテニスコート、四。その他数え切れないほどの部活や同好会の名が連なっている。
活動場所と、恐らく数字は所属人数だろう。以前米白が「今年の男テニは人数が少ないから結果を残さないと同好会落ちも有りうる」と話していたのを覚えている。
「今この時間から新入生と部活未加入者向けの体験会が始まるじゃない? このリストを見ながら各部の活動場所へ向かうの」
この莫大な量のなんせこの学校の部活動は五十を越え、同好会を含めれば現在百八の団体数になるらしい。煩悩じゃないんだからもう少し数を絞れないものだろうか。各部活の所属人数を確認するだけでも一苦労だぞ。
「巡回する目的を教えてくれ。時間が無いんだろ、端的に頼む」
当然だがこんな質問をする理由は俺が気になるからなどという庶民的発想によるものではなく、すべきことを明確にしておきたいだけである。
「おお、仕事ができる人っぽくていいね! アタシ達がわざわざ巡回する理由は公序良俗に反する不当な勧誘の防止よ。去年はダンス部が羽目を外したらしくてね。なんと部員の確保のために体を……おっと、これ以上は乙女の口からは言えないや」
なんというか、わざとらしいし白々しい。乙女という部分を強調したいが為だけに訊いていないことまで伝えたかのような。それに端的にと言ったはずだが。
「ああ、もうなんでもいい。じゃあ俺は文化系の部を中心に回るからあんたは体育会系の方を頼む」
文化系の部は部活棟に集中している上に空調が効いていて快適だからな、俺に任せろ。
「何を言ってるの、二人で一緒に回るのよ。分担なんてナシ」
掛けないメガネのレンズを磨きながら別所は言った。
「バカ言え、非効率にも程がある。絶対に回りきれないぞ」
俺達がすることは巡回であって校内を観光して回るわけでは無い。
「ああ、ごめん。巡回っていうのはただの口実。狙いはもっと別なの」
「はあ……?」
ここまでの会話は何だったんだ。
「前生徒会長にはそう指示されたんだけど。でも去年のダンス部の一件で大抵の部は大人しくなってるはずなのよ」
それならば一人でやってくれればいいのでは。得意げに立てた彼女の人差し指はあまりに細く、簡単に折ってしまいそう──否、折れてしまいそうだ。暴力はダメだよな、ほんと。
「かといってだらだらと無為な時間を過ごすのも、皆の規範となるべき生徒会にとってふさわしい行動とは言えないと思わない? つまり今からすることは巡回という名の挨拶回りよ!」
「……ん? 挨拶ならさっき集会でしただろ」
果たしてあれが挨拶と呼べるのかはわからないが、彼女の持つ知名度は挨拶そのものを必要としないレベルである。
「違うよ、挨拶するのはキミ。確かに明桜くんは学内ではアタシに次いで有名だけど、ちゃんと話したことがない子っていっぱいいるでしょ」
そりゃあまあ、一人一人相手してたらキリがないからな。いや待て、それなら俺も集会で壇上に立たせてくれれば良かったんじゃないか。
「それと、アタシのファンが嫉妬でキミを攻撃しちゃうかもしれないからね。ほら、アタシにはいわゆるガチ恋勢って人も結構いるからさ」
嫌味を節々に織り交ぜるやり方はこの女の神経と人格を疑う他ない。
しかし彼女の言うこともわかる。良くも悪くも別所鏨は学内のアイドルとされている。生徒会室というある意味プライベートな空間で異性と二人きり。何も起こらないはずもなく……などという頭がドピンクな人達による危険察知センサーが働いてしまうわけだ。
「そう、これは新生生徒会が快く活動していくための部活訪問会なの! さあさあ、好感度稼ぎっ、レッツトライ!」
やかましい。
「あ、そうだ。回る部についてだけど、全部じゃなくていくつかの部に絞るから。オーケー? うじうじ言うよりもまずは行動だよ! 行くよ!」
別所が俺のベルトを握り駆けていく。無論俺も引きずられるように廊下を走る。いや廊下は走るな。
偉大なる生徒会長様による基本中の基本を無視した行動に呆れ返る。
真っ先に向かったのは音楽室。あまりに静かだが本当にここで部活動体験などしているのだろうか。
「ここは軽音部の活動場所だから、美雨軸さんが部長ね」
別所は音楽室特有の金属製かつ分厚い扉に耳を当て、目を閉じた。彼女には何かしらが聴こえているようで、足でリズムを取っている。しばらくそれを続けて満足したのか、その重い扉をゆっくりと引いた。
「今気付いた怖気付いたただ君に恋焦がれていたっ!」
たった数センチの隙間から爆音が廊下へと響き渡る。不快な音では無いが、脳が揺れるような音量だ。音漏れしていないことがどう考えてもおかしい。
「あっ、待ってストップストップ! 一旦やめ!」
マイク越しの女子の声が聴こえた後にピタリと音が止んだ。
別所が暗い音楽室の中へと入っていく。俺もとりあえず着いていく。音楽室の内部はライブハウスのように改造されており、至る所にアンプやスピーカーに繋がるコードが敷いてある。観客席の埋まりはまずまずといったところか。いや待て、部活動体験なのにライブを開いてどうするんだよ。
「ちょっと困るなあ、演奏中にドアを開けられちゃあ」
スピーカーから放たれる声の主は当然ながらステージ上にいた。金髪グラサンのマイクを握りしめてこちらを見下ろす女子がその人だ。どこか浮いていて似合わないサングラスを外して口を開いた。
「誰かと思えばべしょりんじゃん。もしかして私らの音楽をっ──」
彼女は抱えているエレキギターをピックで雑に鳴らした。
「──聴きに来てくれたのか?」
からの決めポーズ。顔を覆い隠すように右手を被せた中二のセンス、嫌いじゃない。
「いやいや、巡回だよ。美雨軸さんはちゃんと新入生を呼べてるかなーって」
まさかこの長身のパツキンが部長なのか。
別所は観客へと手を振る。観客のほとんどが女子なのにも関わらず黄色い声が飛び交う。俺が男子に同じことをしてもこうはいかないだろうな。
「ふん、余計なお世話だ。私のギターセンスでみんなイチコロだからな」
口にするなよそんなこと。
「ん? 鏡谷明桜もいるじゃねえか」
唐突に美雨軸さんの興味が俺へと向いた。当然俺のことは知っている。何故なら俺の顔が良いから。
「ああ、どうも初めまして鏡谷です」
一応先輩だろうから敬語を使っておこう。
「丁度いい。ちょっとステージに上がれ」
この流れで何させる気だ。
「アピールチャンスだよ、明桜くん」
別所はいきいきと小声で囁く。アピールどころか断頭の可能性すらあるというのに呑気な。
大人しく壇上に上がると、観客席からまたもや黄色い声が聴こえる。恐らく俺の顔を初めて拝んだのだろう。あまりにもイケメンなもんだからびっくりするよな。当たり前だ。
自賛に浸っていると、突然美雨軸さんはこちらに向かって頭を下げた。何事かと俺も俺以外も注目した。あろう事か美雨軸さんはそのまま手を伸ばして、腐るほどに聞き飽きたあの台詞を吐いたのだった。
「鏡谷明桜! 私と付き合ってくれ!」
マジか。こんな人前で。
「ぶ、部長! 今そういう時間じゃないです!」
ドラム担当の男子による突っ込みが音速で刺さる。おう、もっと言ってやれ。
「残念ですが、お気持ちにお応えすることは出来ません。初対面ですし、俺今彼女作る気ないんで」
あまりにも地獄のような空気なのでやんわりと断った。普段ならもっとばっさり、諦めのつく言葉を選ぶのだが公開告白となれば話は別だ。俺も鬼じゃないからな。
「つまり今彼女はいない訳か……いいか。自分に正直になって、よーく考えてくれ。私はな、Eはある。何がとは言わんが、Eだ」
「部長! 新入生の前で謎のカミングアウトはやめてくれませんか!? 新入部員が減ります!! 仮に増えてもフクザツなキブンです!!」
めげないどころじゃない。これは恐らく相当前から俺を認知していたのだろう。仕方ない、彼女には悪いが奥の手を使うか。
「そうっすね、じゃあ勝負しましょう。俺と美雨軸さん、どちらがこの観客を沸かせられるか。先輩が勝ったら付き合ってもいいですよ」
「明桜くん!? Eに釣られちゃった!?」
別所が失礼な驚き方をした。口で否定せずとも俺が勝てば良いだけなので放っておこう。
「先輩からどうぞ、期待してますよ」
「私も舐められたもんだな。よーく見とけ、私の高等テクをなあ!!」
美雨軸さんはギターを背に回し、その状態でギターを弾き始めた。背面弾きというやつだ。
観客からは大きな感嘆の声が漏れる。例に漏れず俺も見入った。
決して単純じゃない複雑な運指だ。俺はギターは触れたことがないのでコードだとかは詳しくないが、かの有名なビートルズのあの曲だろうということは俺でもわかる。
十数秒に渡って弾いた後、大きな拍手の中で彼女は不敵な笑みを浮かべて目を合わせた。
「さあ鏡谷明桜、おまえの番だ」
若干不安になってきたがやるしかない。俺の魅了七奥義の内の一つを解放しよう。
俺は髪をかきあげて、観客へ小さな投げキッスをした。
「キャアアアアっ!!」
音楽室に響いたその声は黄色い声どころかもはや悲鳴と思われかねない甲高さだ。切り裂くような声に限りB級ホラー女優といい勝負が出来るんじゃないか。大量殺人鬼を題材にしたスプラッター映画を撮る際は是非とも招待したい。
なんとも回りくどいので言い方を変えようか。その声量は背面ギターへの声を遥かに上回った。
「……俺の勝ちでいいですか、先輩」
沸かすという言葉の曖昧さを逆手にとった、単純にずるくて姑息な手だがこれも真剣勝負故。結局勝負は勝った方が勝ちなんだよ。
心底悔しそうな美雨軸さんを見ていると不憫でならない。彼女の何が不憫って、その振られた姿を俺だけでなく別所や部員、新入生にまで見られているからな。威厳が、うん。
「やっぱり私じゃ釣り合わないのかっ……!!」
膝をついて絶望する美雨軸さんに、ドラムの男子が駆け寄る。
「部長のギターは彼に負けず劣らず魅力的ですから。ねっ、べしょりん!!」
慰めるのは逆効果じゃないかと思う反面、この悲哀に満ちた空気感を変化させようとしてくれていることに感謝していた。今最も言葉を発してはいけないのは俺だろうからな。
そして別所にそのバトンは渡されたわけだが。
「当たり前じゃん! アタシでも背面弾きじゃあのクオリティは出せないよ? たぶん……」
たぶんとか言うな。確かに褒めてはいるが、その裏には別所のハイスペックさが滲み出ている言い回しである。悪意は無いんだろうな、というか無いと思いたい。
その言葉のおかげか、それともその言葉のせいか、何だか知らんが美雨軸さんはよれよれになりながらも立ち上がった。
「……振られたこの気持ちを糧に、演奏するよ。タイトル、『遠吠え』」
またしんみりしそうなタイトルの曲を。本当にセットリストに入っていたのか疑わしい選曲だ。ドラムの男子も慌てて定位置へと走っていく。俺は壇上から降りてもいいよな。
「明桜くん、次行っくよー」
えっ、このまま行くんですか?
別所は大きく手を振ってアピールする。この熱量が続くのならばむしろ置いていってほしい。
「は・や・く!!」
そしてまたしても俺は引き摺られるわけだ。新入生の方々に手を振られながら……いや曲を聴いてあげてくれ、演奏中だぞ。とりあえず軽音部はクリアした。一つの部に何分使ってんだよマジで。
「結構時間使っちまったな」
襟元を掴まれて散歩されながら呟いた。
「誰のせいでこんなに時間使ったと思ってんのさ。それに好感度どころか軽音部員からの顰蹙を買いかねない行為だよあれは」
アクシデントに対応しただけに過ぎないのだが、別所はあまりお気に召さなかったらしい。いや俺悪くないよな。
「今からは巻きで、爽やかに挨拶して終わり。体験の時間内に終わらなかったら……そうだね、生徒会室のデコレーションでも頼もうかな」
ええ、まだ煌びやかにすんの?
後出し情報やめようぜほんと。間に合わなかったらドンマイで良いだろう。
あとそろそろ服を引っ張って連れ歩くののやめてくれませんかね、廊下だって普通に生徒がいるんだよ。恥ずかしいよ俺は。
「飼い主が嫌いな犬はこんな気持ちで散歩されてるんだろうな……」
「え、明桜くんアタシのこと嫌いなの?」
別所は俺を掴むその手をようやく緩めた。俺はバランスを崩して尻もちを着く。
一丁前にショックを受けるんじゃない。真面目な顔されると俺もどうしていいかわからなくなるだろ。
「少なくとも好いてはいないな。自己中心的だし」
ズボンについた埃を払い落とす。
「あっ、わかった、あれだ、ツンデレってやつだ? もう、明桜くんも可愛いとこあるねえ」
そのアホメガネをかち割ってやろうか。顔と学力と体力だけの女が図に乗りやがって──いや、十分図に乗っていいスペックだとは思うけれども。それでもだ。
「言っておくが、少なくともあんたよりは全然美雨軸先輩の方が魅力的に感じたぞ」
「へぁぬ!?」
別所がアイドルらしからぬ声を出した。動物園で聞いたことのあるような……あれだ、仔馬のくしゃみがこんなんだった。
「い、いやー確かに? 美雨軸さんのギターは? アタシと張り合えるレベルだし? でも? でもアタシはそれ以外では割と大差つけてると思うなー? ほら、美雨軸さんの学力は三年生じゃ下の方だけど、アタシは学校一だし? 美雨軸さんを下げるわけじゃないけど、アタシはなんでも出来ちゃうし?」
何故節々に疑問符のつくような喋り方をするのだ。俺には好感度を稼げだのと言っていた癖に自分の好感度の話になると動揺しまくりだな。いや、むしろ好感度ばかりを気にしているからなのだろう。
「失礼を承知で言うが、結構負けてると思うぞ。例えば……」
「身長とか胸とか言ったらチョークスリーパーだよ!! それもただのチョークスリーパーじゃないよ、超チョークスリーパーだからね!!」
「蝶々……何?」
危ないまた地雷踏むところだった。しかし胸はともかく身長は女子高生の平均程度だと思うが、何故そんなに気にするのかね。胸はともかく。いやそれよりもっと重要な部分があるだろう。
「その辺は置いておいても、なんつーか可愛げがないというか、存在にリアリティが皆無なんだよ。偶像崇拝の域にいる、ある意味ではあんたの言うようにアイドルだな」
きっと別所に恋することは壁画の中の天使に想いを寄せているようなものだ。
俺は俺に絶対的な自信を持っている。だが、それでも彼女には負けている。学力も、人気も、立場も。俺は霧のかかる水平線の向こう、あるかどうかもわからない陸地を目指して海を泳ぐような努力はしない。海の先の世界を想像しているだけの方が気楽で、ずっといい。
「……明桜くんでもそう思っちゃったか」
別所は笑顔を浮かべた。思い切りの良さに欠けた苦笑い。散々別所をヨイショしたが、俺は別所に敗北を味わえど恋い慕うようなことはない。自由奔放、更には破天荒な彼女とは性格が合うはずもない。破天荒、と言うと本来褒め言葉なのだろうが、良い意味ばかりを抱えているとも思えないな。
「いやそれだけじゃない。例えば根本的な人間性が……」
「ああもういいよ、十分。ここから近いのは演劇部と……文芸部もだね。演劇部は米白くんがいるとこだ、行こう」
別所はどことなく寂しさを纏う背中で俺の先を走って行った。廊下は走るな。
背を追い辿り着いた教室は本来空き教室で授業では利用されていない教室である。演劇部がこんなところで活動しているだなんて今まで知らなかったな。
別所が後方の扉をノックして返事を待たずに入室する。俺も続いて入室するが、とても部活動中とは思えない妙に静けさに気を張りつめてしまう。だがこれは生真面目さ故に意図して作られた静寂ではない。仕方なく発生してしまったものであると、閑散とした教室を見回して理解した。
この教室にいたのはたった二人だけだったのだ。新入生向けに置かれたであろう三つの椅子も誰かを待っているかのようにその席を空けている。
初めに口を開いて静寂を打破したのは案の定別所だった。
「べしょりんが様子を見に来たよー……って言いたいところだけど、まさかの見学者ゼロ?」
わざわざ「まさかの」とか付けるな。可哀想だろう。まあしかし百八もの団体があればそりゃこういうトコも何処かしら出てくるよな。恐らく部員の一人であろう男子生徒が俯いたまま話し始めた。
「うちの部活、もとよりたった五人しかいないのに二人風邪ひいて欠席してるんですよ。おかげで新入生にちょっとした劇を披露する予定がそれも中止するしかなくなって。SNSでその旨を発信した結果誰も来なくなっちゃったのさ。この非常時に米白はどっか行っちまうし……」
そういえば米白の姿が見えないな。あの教室の隅で体育座りしている人はそもそも女子だし……何より米白がこういう時に落ち込んでいる姿を想像出来ない。
「あちゃー、それは災難だ。特に演劇部って五人中二人が三年生だから部の存続に直結するもんね」
そう聞くと事態の深刻さがよくわかる。ここで新入生をスカウトしておかなければ後がないわけだ。別に年度始めではなくとも部活動に入る生徒はそれなりにいるだろうが、それも同級生による勧誘が割合の多くを占めるはずだ。こうやって絶望の最中でうなだれる彼らの気持ちも大いに理解出来る。だが体験会で劇を披露するとは、軽音部に続き体験会の体を成していないな。体験会とは口実でしかないのだろうな。
「どうしたものか……来年から俺が部長のはずだったのに……」
大きなため息とともに演劇部員の彼はふらふらと倒れるように椅子に座り込んだ。彼は相応な落ち込みを見せているが、俺にはなんとなくどうにかなるような気がしている。多分なのだが。
地に落ちたムードをリバーシのようにひっくり返しに来たのは、案の定あの男であった。
「一年生いっぱい連れてきたよー!! その数なんと二十人!!」
廊下から顔を覗かせた米白がいつにも増して大きな声を出す。後方には恐ろしい数の新入生が群がっていた。男女半々くらいだろうか。
先程まで全力で諦めムードだった演劇部員の彼は抱きつく勢いで米白へと走っていく。
「米白!! 俺はおまえならやってくれるって信じてたぞ!!」
まさに抱きつこうというその寸前で米白は屈んで彼を避けた。嫌だったんだな、おまえは俺に抱きつくくせに。
「いやもう本当に楽な作業だったよ。学校一の美男美女が主演を務める演劇と銘打ったらすぐに人が集まっちゃって」
「ちょっと待て米白」
思わず米白の台詞を遮る。学校一の美男美女、それが誰を指しているのかなど考えるまでもない。その予想が仮に外れていたとすれば俺は大きな声で米白を痛烈に批判するだろう。
「待たないと駄目かな。そろそろ状況を呑み込めている頃だと思って戻ってきたつもりだったんだけど」
「ああ、ある程度はな。だけども俺が劇に出ることになっているなんて知らん。大体なんでおまえは俺らがここにいること前提で動いてたんだ」
思ったことが全部口に出る。これ以上俺を好き放題に扱われてたまるかという気持ちと、米白に対する恐怖が混在する。
「ボクは勘が冴えてるのさ。っと、今大事なのはそこじゃないんだ。お願いだよ、未来なき演劇部のためを思って協力して、この通りっ」
米白は頭を下げて頼み込むが、流石に無茶だ。今そこに新入生が待機している状態で練習するわけにもいかないし、ぶっつけ本番で演じきれということだろう。
「断る。俺らは責任を取れないし、時間もないんだ。そうだろ、別所」
振り返り別所の方を向くと、別所は必死にボロボロの冊子を読み漁っていた。当然今この状況で読むってことは、劇の台本だ。
ふざけたことに、別所はやる気らしい。
「まさか、今から台本覚えて演じる気か。冗談だろ」
「冗談なわけないじゃん。台本からして二十分程度の劇だろうから、頑張れば覚えられるよ。でもこのストーリー、救いがないね。暗すぎない? 誰が書いたの?」
「あー、文芸部の人だよ。ボクはこの台本、嫌いじゃないけどね」
平然と会話する別所と米白を見て、俺は腹が立った。何に対しての怒りか明確でないが、確かな苛立ちだ。
「覚えられるかどうかじゃなくて、俺はやらないっての」
俺が再度意志を表明すると、別所は眉間に皺を寄せた。
「ちょっと明桜くん、一ヶ月は真面目に生徒会として仕事をするって言ったじゃん」
別所は少し語気を強くして言い放った。しかし俺も好きかって言われて黙ってはいない。
「演劇に出ることが生徒会の仕事だって? アホか、むしろ生徒会の仕事をサボってるだろ」
「生徒の手助けをするのも生徒会の仕事だよ!! アタシ知ってるんだからね、明桜くんに演技経験があること!!」
俺は固まった。
何故彼女はそんなことを知っているのだろうか。調べたのか。何かしらの手段で。
じゃあもしかすると、あの事も。いや、知ってたからってなんだって言うんだ。
「今そんなことは関係ないだろ。大体、演技経験があったってぶっつけ本番で成功するわけないだろ」
「別に明桜くんならやろうと思えば、頑張れば出来るでしょ?」
俺の言葉に割り込んだその台詞に何か、プツンときた。チープな表現だが、これ以上に適した言葉はないと思えるほどだった。
「頑張れば、だって?」
思わず舌打ちが出る。米白は若干顔が青ざめる。
「俺にだって出来ないことはあるんだ。お生憎別所と俺は違うんだよ。それを頑張れば、だって? 馬鹿も休み休み言えよ」
段々とヒートアップしていく不満を思う存分にぶちまけた後、俺はガス欠の如く息切れを起こしていた。汗もふつふつと湧き出てくる。米白の方を見ると気を利かせてくれたのか廊下への扉を閉めてくれていた。
沈黙の流れる中、別所は怯むことなく再度反論に出た。
「何それ。要はやりたくないからやりません、ってことじゃない」
反論……ではなかったな。諦め、呆れ、蔑み──そんな目で俺を見る。
「ごめんごめん、喧嘩しないで。第一ボクの我儘でしかないんだから、明桜が断る権利だって当然あるんだよ。ほら、裏方のボクがその枠に回るよ。明桜には悪いけどちょっとだけべしょりん貸してね」
米白が仲裁するような形で別所との間に割って入った。
別所がやる気なら、別所は好きにすればいい。別所だけが勝手に手助けするんなら俺は文句を言わないさ。
「ダメ、アタシは明桜くんとじゃなきゃ出ないから」
折角米白が妥協案を提案したというのに、別所は有無を言わさぬ形で却下した。
「やっぱりボクじゃだめかぁ。いや、でもまあ勝手なことを言ったボクが悪いから仕方ないか」
冷静に考えれば確かに米白が一番悪いな。適当言って新入生さえ連れてこなければくだらん諍いもなかっただろうしな。
「何も意地悪で言ってるんじゃなくて、狭い教室とはいえ音響も照明もなしじゃグダグダになるでしょ。台本見る限り登場人物は四人だから、あそこの隅っこの女の子も演者。明桜くんが出るしかないの」
別所は体育座りを継続中の女子部員を指差す。確かに音響と証明がいないのは致命的かもしれないが、それでも劇という体裁を保てるだけマシだろう。意地を張って何も出来ないよりはいいじゃないか。
俺を蔑むような視線で見る、静かな女子。居心地が悪い。
そう感じていたところに、別所はあろう事か頭を深く下げて言った。
「明桜くん、お願い。他はなんでもいい、この劇だけは出て。出てくれるなら生徒会を辞めたっていい」
別所は驚くことに生徒会からの解放を交渉材料に差し出した。あれほどまでに力技で加入させておいて、随分とあっさり手放すつもりらしい。
まあ、悪い取引では無い。俺より演劇の方が価値が高いというのは癪ではあるのだが。
俺は二つを天秤にかけた。今さえ我慢すれば、解放される。迷いがないと言えば嘘になるが。
「そこまで言うならやってやる。ただ出来は期待しないでくれ。所詮は付け焼き刃だ」
俺は米白から乱雑に台本を受け取り、隅から隅までにかけてじっくりと読み始めた。その中、別所の「そういうとこじゃんか」と呟く声を聴き逃さなかった。
確かに別所の言うように劇のストーリーは見ていてあまり心地良いものでは無かった。
仲の良い男女四人組による恋愛物語。友情と恋愛、どちらを取るべきかそれぞれの人物が葛藤する。ありがちと言えばありがちな青春ドラマ群像劇であるそしてただ一人、友情を捨てられず恋愛に振り切れなかった主人公、ナナトだけがひとりぼっちになる哀しいエンディングを迎えるのだ。
一人だけ分かたれた進路だとか、堕落していくナナトに救いなんてものは無い。あるのは友と好きな人を失ったことによる憂いのみ。
脚本の出来云々以前にどう考えたって脚本のチョイスを間違えている。新入生を迎えるムードにはどうも適さないだろう。
「よりによって振られる役かよ……」
生憎このナナトという人物には感情移入が難しそうだ。自分が振られる姿など想像出来ない。どう演技しようか。
そんなことに頭を悩ませていると、米白が舞台セットの準備を終えたのか俺の方へと近づいてくる。
「ごめん明桜、あと何分欲しいかな? 新入生達を廊下で立ち往生させるのもそろそろ可哀想だから、出来れば早めにスタートを切りたいんだ」
まだ読み始めて数分しか経っていないのに、鬼畜と言うべきか優しさの欠片もない。別所については既に台本を置いて、準備万端と言わんばかりに肘を伸ばしている。
「あと五分……いや、三分。三分くれ。観客はもう中に入れていい」
要所だけは確実に押さえる方向にシフトするか。主役と言えど常に舞台に立っている訳では無い。合間合間に台本を確認すれば何とかなるだろう。
ただこの台本を読めば読むほどに米白の「学校一の美男美女が主演」という売り文句は丸い卵も切りようでなんとやら、言った者勝ちに感じる。
結局演者四人ともが実質的に主演のような構成になっているのだから。
糸に通した洗濯バサミで布を挟んだだけの簡易的な舞台幕の裏へと台本を読みながら歩く。
「衣装は? 着替えなくていいのか。登場人物は皆学生みたいだが」
隣で深呼吸する男子部員に問う。少なくとも彼と逆の袖にいる女子部員は普段の制服のままなので大丈夫だとは思うが。
「サイズが合わないからそのままで良いよ。俺らも統一するから」
それはどうも。
「あと一分で開演でーす! なーんと、あの生徒会長べしょりんと副会長がゲスト出演してるよー!!」
米白が幕の向こうで廊下に向けて叫んでいる。幕の隙間から教室内の様子を確認すると、いつの間にやらオーディエンスの数が倍ほどに増えている。これよりまだ増やす気か。椅子の数が絶対に足りないどころかスペースが足りない。既に椅子のない、舞台から一メートル以内の床に座り込んでいる人がいるくらいだった。
扉を閉める音がした後に、米白によるナレーションがスピーカー越しに流れた。
「これはとある高校生達の青春譚……」
公演はつつがなく進んでいく。意外にも台詞は間違えることなく完璧に覚えられている。自信がなかった訳では無いが。懸念点があるとすれば……いや、いいか。考えない方が良い。
演技なんて何年ぶりだったかも覚えていないが、体は覚えているらしい。ほとんど無意識の領域だ。
散々俺は俺を褒めたが、案の定別所は俺なんか目も当てられないほどの迫真の演技をする。演劇部員と遜色のない、下手すればそれ以上の演技だ。彼女の迷いのないその挙動一つ一つを中心に舞台という世界が創り上げられているんじゃないかと錯覚するほどだった。──頭のメガネさえ外していれば言うこと無しなのにな。掛けないのなら演技中くらいは外せ。
そして物語は佳境を迎える。部員達の演じる二人は無事恋を実らせて友から離れた。そして残された俺の演じるナナトが喧嘩中の別所演じるユイに意を決して告白するシーンだ。
「……今になって、何か話すことがあったかしら」
別所の冷酷な台詞とその瞳。演技なのか本気なのか、今の俺には判別がつかない。先程まで無邪気な人物だったはずなのに、変貌具合が恐ろしい。
雨の効果音も相まって、不穏な空気感を漂わせている。
「ある。だって僕はユイのことがっ」
「言わせないわよっ!!」
別所の怒声が空気を揺らす。ピリピリと耳が悲鳴をあげるように痛む。
「自分ばっかり! 私の気持ち、知ってたくせに!! ずっと、ずっと、待ってたのに!!」
彼女は大粒の涙を流し、俺の傍へと一歩踏み出す。間近に迫る彼女に、思わず唾を飲む。演技であることを一瞬忘れてしまう。
「あ……」
観客の一人と目が合った。おぞましいあの視線が蘇る。すっと血の気の引いた感覚がした。
駄目だ、台詞が。脳に刻み付けたはずのそれがはらはらと舞い崩れるような音がする。
その目が嫌だ。何を考えているのか、俺には分からない。
憧憬か? 憎悪か? 落胆か?
昔見たことのあるその目が俺の全てを呑み込んでいくように。
何か、何か言え。演技を続けろ。そう思えば思うほどに頭は真っ白になる。
どんな表情で、どんな佇まいが正解だろうか。話の流れはどうだったっけ。時間もない。失敗したら演劇部はどうなるんだ。米白はがっかりするのか。
別所は俺を見限るのか?
やばい。やばい。やばい。
段々と思考が脳の容量を圧迫していく。
考えれば考えるほどに沼に沈んでいく。
「……何も言わないのね」
沈黙を破った別所は俺の胸ぐらを掴んだ。
動けないでいる俺を見かねてのことなのか、台本を変えてきた。
「わかんない……わかんないよ……私はナナトが好きで、嫌い。私の悩みを親身になって聞いてくれるのも、誰にだって優しいところも、大好きで、大っ嫌い」
淡々と即興の演技を続ける別所。
何故彼女は戸惑わない。こんなにも堂々といられる。
一瞬でも俺と彼女が同等だなんて思っていたことが恥ずかしいくらいに、別所の背中は遠く見えた。
別所の台詞は予定とは大幅に変わっていた。ユイの中で揺れ動く、複雑な恋心を作り上げた。
本来は相手にせず突っぱねて振る場面だった。その後俺は舞台上で一人にならざるを得ない。
別所はそれを避けるために台本を変えてまで二人の物語に仕立て上げるつもりなのだ。
「ナナトの声だってもう聴きたくない。なのに、どうして……」
別所は拳を震わせながら俯いて涙を流す。寂しげに取り繕った背中を天に向けて、本当に雨に打たれているかのように。
次は俺の番だ。俺がするべきことはなんだ。考えることをやめるな。別所が作った時間を活用しろ。
スピーカーからの雨の効果音がまるで止まったかように、静寂が耳を鳴らす。
別所は「俺の声を聴きたくない」と言った。これは台詞を忘れた俺の為だ。だが今口を開くのは悪手だ。俺は余計なことは言わない方が良い。
俺がユイならばどうして欲しいか。選択を拒み続けたナナトをどうすれば許してやれるのか。
簡単なことだ。言葉でなく行動で。それしかない。
俺は一歩踏み込んで別所を──
強く、抱き締めた。
別所の涙を溜めた、ビー玉のようなその瞳がより大きくなる。
別所の身体の感触なんてものは感じる余裕もない。観客の声も気にしない。舞台袖であんぐりと口を開いて呆然としている男子生徒だって、どうでもいい。
五秒か、もっと長かったかもしれない。それだけの時間を抱擁に費やすも、別所は抱き返すことは無かった。
もしや、俺は選択を誤ったのか。
「バカ……今更……なんで……」
別所の涙が俺の肩を濡らす。演技とは思えぬその涙の量には感心する他ない。
「初めから……それが……それだけが欲しくて……」
とても強引なやり方。最後は別所に全てを押し付けるなんて、酷い話だ。
だが俺たちは理解している。観客が求めているのは憂鬱に浸るナナトでは無いということ。そして高校生なんて恋愛ビトだらけだということを。
ハッピーエンドとは言えずとも、せめてロマンティックな結末を。
俺だってそう思ったんだから責められることはないよな?
「ああ、気づいちゃったな」
別所の強ばった顔がほんの少し緩んだ。俺は不安に惑わされながら息を飲む。
このまま二人は結ばれて幕引き。面白いかと言われれば全然そんなことは無い。いや、そんなことを言っている余裕なんてものは本来全くもって無いのだが、元の脚本に勝手に手を加えている以上はどうしても気にしてしまう。当然俺は演劇の脚本なんて書いたことがないし、即興でストーリーを織り成せるわけもない。
どうすればこの演劇を普遍的なものから昇格させられるだろうか。この観客らが後に語り草にできるほどの鮮烈なワンシーンが欲しい。
言葉でも、どんでん返しでも、なんでもいい。別所ならきっと──
突然、唇を塞がれた。
付けた覚えのない、蜂蜜のようなリップクリームの香り。ただ触れた程度の感覚。しかしその柔らかな唇を感じてしまった以上、それは接吻以外の何物でもなかった。別所の突飛な行動に思わず腰が抜けてしまった。その絵面の間抜けさは鳥獣戯画の一幕のような躍動感と共に映っただろう。
騒然とする観客席と、唖然とした表情の演劇部員二人がこちらを見つめている。
別所は朱色に頬を染めて、俺に背を向けた。そして雨上がりの空でも見るかのように顔を上方に向けて語り始めた。
「私も、ナナトに未だに恋してるんだ」
別所という人間には躊躇がない。それは絶対的な自信から来るものだ。
そう決めつけてしまえばそれまでだ。だが俺は彼女の何を知っているのだろうか。俺よりも頭が良くて、俺よりも人気があって、俺よりも運動神経が抜群で。
それが別所鏨の全てか?
「でも決して両想いではないんだよ。だから──」
きっと俺は演技をしていた。まるで照れて赤くなった顔を隠すかのような演技を。
「恋が愛に変わったら、唇の責任、取ってね。約束だから、ね?」
別所のその台詞が終わったタイミングで舞台の灯りが消える。そして袖の部員達によって幕が閉じていく。拍手が鳴り止むまでの十五秒間は、ただ別所の背を見つめて過ごした。
幕が完全に閉じきった時、緊張の糸が切れたのか俺はその場に仰向けで倒れ込んだ。とにかく疲れた。溶けた蝋燭になった気分だ。
幕越しに米白の声が聴こえる。何を言っているかまで聞き取る余力は無いがどうせあいつの事だ、最後のひと押しと言わんばかりに新入生らを口説いているんだろう。
「お・つ・か・れ・!」
そんなウィスパーボイスとともに俺の顔を見下ろしてきたのはまあ当然別所だった。俺はこれほどまでに疲弊しているというのに、この女はピンピンしてやがる。
「すまん、完全にやらかした」
「ふっふーん、アタシの助力に感謝してよね?」
別所はやれやれと言わんばかりに首を横に振った。
言われずとも感謝してるさ。
「ああ、ありがとう。でもそれはそれとして、なんのつもりだ、最後の接吻は」
「え? 嬉しくなかった?」
別所は平然と答える。嬉しいか否かで判断するな。
「せめてフリだけとか。やりようはあっただろ」
「そんなの、嘘っぽい演技になるでしょ。やるならきっちりやらないと」
きっちりやったら俺の身が危なくなるだろ。曲がりなりにも別所とキスをしたという事実はあまりにも重荷だ。
「その反応はまさか、ファーストキスだった? 明桜くんのことだから慣れたことだと思ってたんだけどなぁー、びっくりだよ〜」
他人を推測及び偏見で語ることはお控えください。
いやびっくりじゃねえよ。デリカシーのなさに俺の方がびっくりだわ。
「無理矢理はノーカウントだろうが」
「いやキスはキスでしょ」
人の心がないのか。まあ別所の主張に関わらず、俺のファーストキスは別所ではないが。
「そうだね、アレはこれからの期待を込めた約束の口づけ、ってことじゃ駄目かな」
別所はおちゃらけたような口調でそんなことを口にした。今どき少女漫画でも耳にしない単語に違和感を覚えざるを得ない。
「それはどういう──」
「べしょりん、明桜、お疲れー!!」
問いかけようとしたタイミングで米白が幕を開いた。教室には既に新入生の姿はなく、代わりと言ってはなんだが米白の右手には大量の書類が握られている。
「あ、米白くんお疲れさまー。ごめんね、勝手なアドリブ加えちゃって」
「いやいや、べしょりんのことは信頼してるからね。初めから心配してなかったよ。それより見てよこれ。入部届にサインしてくれた人数、なんと二十人越え!! 多分あの中からあと十人は入部すると見たよ」
米白の持つ書類は記名済みの入部届だったらしい。あんな劇でその数の入部希望者が出るとは。多分何人かは俺たちが演劇部員だと勘違いしてるんだろうな。
「鏡谷くん! べしょりん! おつかれー! そんでもってありがとう!」
未だに名前も知らない男子部員が感謝の言葉と共にハグの姿勢に入った。まあ当然のようにそれを避ける訳だが、あまりにもデジャブ。どうやら彼は誰にでも抱きつく男らしい。
「俺は感謝される言われは無い。むしろ足を引っ張った側だ。すまない」
謙遜ではなく本当に嫌々引き受けた上、台詞をド忘れするなんて、責められたっておかしくはない。それにも関わらず礼を言わせてしまうというのもなんだか狡いというかお門違いというか、さすがに人が良すぎるのではないだろうか。
とにかく素直には受け取れない言葉だった。
「なんだかんだ協力してくれてるわけだからね。それに、演技も悪くなかったし、結果オーライさ」
米白はつまらないお世辞は言わない。その言葉はありがたく受け取っておこう。二度と演劇には出たくないけどな。
ふと壁にかかった時計を見る。まだたった二つの部活動にしか訪れていないのに、五限目が終了しようとしている。
全く、うちの生徒会長は生粋のアホの子らしい。当初の予定を切り崩し、俺という人材を諦めてまで他人に力を貸そうとは。お人好しと呼ぶには些か強引さが目立つけれども。
彼女にとってはこれが正解なのだろう。
「別所、そろそろ行くぞ」
そう言って俺は壇上から降りて、教室の扉を開いた。
俺は背の向こうにいる別所の顔など微塵も気にしないことにした。もしかしたら口だけの男だと思われたかもしれない。とにかく、カッコつけた以上は振り返らないものだ。
「え……ちょっと待って!? 置いてかないでよ!?」
嬉々とした声で俺の背を追う足音が聴こえる。
もしかすると俺は別所に乗せられてしまったのか?
彼女の思惑通りに、俺はこの生徒会副会長の座を立ち退かない選択をしてしまったのではないか。
邪推しようと真実はわからない。だが、隣を歩く別所が目を細めて笑いかけてきた時、その笑顔が嘘で無いと思いたかった。
「あのさ、明桜くん」
別所は口角を下げぬままに喋り始めた。俺はその声に反応して別所の目を見る。二人の歩幅は少しだけ小さくなった。
「アタシはキミの選択をどう捉えたらいいのかな」
質問の意図がわからない。無論、その問いに対する答えも然り。
「あんな素っ頓狂な演技しておいておめおめと辞められるわけないだろ」
半分本当で、半分嘘。気持ちの全てを正直に言えるほど俺は覚悟出来ちゃいなかった。
ただの部活動の、たかが知れているスケールの舞台上で、紛れもなく俺は別所に救われた。彼女が俺を見て何を感じとったのかなんて知る由もない。知らないけれど、あの瞬間に感じたものは──
微かな劣等感と、確かな羨望。
彼女と出会わなければ知ることなどなかったかもしれない。だから、諦めるつもりでいた。そう言い聞かせていたはずだった。別所だから仕方ない、なんてみっともない言い訳を繰り返して。
全く、俺もすこぶる単純な男だ。自身に対して呆れ返る。だがここで逃げてしまったなら、俺は一生自尊心の一部が欠けたまま過ごすことになるだろう。
「へえ、思ったよりも素直なんだね」
嬉々とした表情で、俺の顔を覗き込んだ。
あれ、なんだか顔が熱いな。気がついた時には目だって逸らしてしまっている。
「じゃあアタシが生徒会長になった理由とキミを生徒会に入れた理由も話しておこうかな」
どうでもいいといえばどうでもいい。だが改めて話題を振っている以上何かしらの意味があるのだろう。多分、恐らく、きっと。
「俺を選んだのは俺が多方面において抜きん出て優秀だったからじゃなかったか。そして性根を叩き直すだとかなんとか」
「それも間違いじゃないよ。そうだなあ……アタシってカワイイじゃん?」
何の話ですか?
「あーうん、そうだな。うん、キューティーキューティー」
「ちゃっ……茶化すなっ!」
怒った別所に後頭部を引っぱたかれる。決して軽くない音がした。
「痛っ!? バカ、メガネひん剥くぞ!!」
「はーいそれセクハラ! メガネだって衣類の内!!」
「セクハラって……仮にも不意打ちで接吻決めた奴がぁ!?」
中身の無い馬鹿馬鹿しい言い合いの途中、別所は息を整え、またもやにこやかな表情を浮かべて口を開いた。
「……真面目な話、アタシっていくらでもモテちゃうわけ。それはいいの。でも、いつの間にかアタシはアイドルになってた。そう、誰にとってもアタシは高嶺の花なんだよ」
今まで見てきた彼女の人格とは大きくかけ離れた台詞に大きな違和感を覚えた。別所は自らその『学園のアイドル』という立ち位置を作り上げたのではなかったのか?
「まあみんなから持て囃されるのは気持ちいいんだけどっ」
別所は大きく伸びをする。同時に小動物の鳴くような声が漏れる。
望まずとも拒まずといったところか。名声には貪欲なところがなんとも別所らしい。
「それが俺とどう関係あるんだよ」
俺は別所の求めているであろう問いを投げかける。無論俺個人としても気になるところだ。別所の笑顔に混ざる神妙や顔つきが嘘でないことを祈る。
「でもまあモテるだけで、本気で告白された事なんて数える程しかないの。四……五十くらい?」
別所は右手の指を折りながらゆったりと話す。その単位の人数を片手で数えるのは無理があるだろうと言いたくなったが必死に堪えた。
「みんな思っちゃうみたい。自分じゃ釣り合わない、だからファンとして、観客として好きでいようって」
当然だ。別所に釣り合う人間などそうそういないさ。何か一つでも勝ることが出来れば話は変わってくるだろうが、生憎別所は何においても他人に引けを取らない。むしろ彼女の持たないものを探す方が難しいのだ。
「それでも玉砕覚悟で突っ込んでくる子も中にはいるけど、そういう人って大抵諦めで、ダメ元で言ってるんだよね」
別所も別所で面倒な性分を抱えているらしい。だが、俺は内心では驚いている。これではまるで別所が彼氏──恋人を欲しているようではないか。
学園のアイドルとしての一面と、単なる美少女もとい乙女としての一面。サイコロの裏面のように、共存することなど無いと思っていた。どうやら俺が思う以上にこの賽の造りは複雑らしい。
不可思議な世界へと足を踏み入れた俺を微塵も気にすることなく、彼女は説明を続ける。
「でもアタシ閃いたの! 釣り合う人がいないなら育てればいいじゃない! 他の誰でもない、アタシ自身の手で!」
無茶苦茶だ。あまりに無茶苦茶。職人が弟子を取る感覚でものを言うな。
「その場として相応しいと考えたのが生徒会ってわけ! どう、アタシのパーフェクトな恋愛プランは!?」
待てや。
「そのために俺は生徒会に!? ふざけんな、タコ!!」
「たっ、たた、タコ!? あのね、いい? 一緒に生徒会で過ごせば明桜くんは百パーセントアタシに惚れるわ!! キミはそれまでにアタシに釣り合う人になるの!!」
彼女は本気だ。最悪の決定事項の連続に思わず顔が歪む。
「少し気を許したらこれか!? 返せよ! 俺の純粋な憧憬を返せよ!」
俺の哀しみに満ちた叫びは廊下で反響し、俺自身を慰めるかのように返って来る。
「まあ、その気にならないなら仕方ないわね。どうやらキミはアタシのメガネに適う相手じゃなかったってことで」
別所はメガネの角度を調整しながら煽り文句を口にする。その挑発に易々と乗るのは癪だが俺にもプライドがある。
「……上等だよ、むしろあんたの方を惚れさせてやるぜ。……そして告白してきた暁には──全力で振ってやるよ」
俺が別所に惚れるのが先か、別所が俺に惚れるのが先か。今この瞬間、俺たちのプライドと青春をかけた戦いの火蓋が切られたのだ。
「冗談のセンスはあるんだ、明桜くん。ほら、あそこの教室が文芸部。時間もないし、早く行こ?」
俺の発言が冗談に格下げされたことはさておき、ようやく俺たちは文芸部の教室へと再度足を進め始めた。
考える。あんなことを口走ったものの、俺は本当に彼女に惚れることは無いだろうか。
そもそも今まで本気で人を好きになったことなどないのに、何をもって惚れないなどと断定出来ようか。確かに感じたあの憧れがいつか、恋なんてものに変わるのかもしれない。
俺はいつまで働きアリ側なのか──
「失礼しまーす!」
文芸部の扉を開けてとんでもない声量で挨拶する別所。どこかたくましく思えたその背中に、答えがあると嬉しい。
感傷的なムードに一人浸っていたのだが、俺はどこか聞き覚えのある男の声で一瞬にして現実へと引き戻される羽目になった。
「第二回、性癖王決定せぇぇえん!!」
俺は、慢心していた。この高校は別所という人間が全てだと、あらゆるものを司っているなんて考えていた。あまりに浅はかだった。
演劇と同じだ。この高校も、別所一人だけが主演じゃない。想像以上に曲者揃いのこの舞台で、生徒会として奮闘していく羽目になるのだろう。そんなことをこのイカれた雰囲気を醸し出す教室を目の当たりにしてようやく理解した。
そうだな、敢えて言葉にしよう。この高校は、想像以上に頭のネジが外れていて、空想以上に破天荒な女のいる、まるで誰かの思い描いた青春の偶像のような世界だ。