第6話 墓参り
角栄は黙々と墓石を磨いていた。木桶を使って器用に水をかけ、雑巾で汚れを拭く。小春日和でそよ風が心地良かった。縁もゆかりもない土地だが、無心に掃除をしていると、ふる里に戻ったかのような感覚を覚える。
磨き終えると、墓石の刻印がよく見えるようになっていた。
「汝等、何事を為すにも人に仕えるためではなく、主に仕えるために行え」
聖書か何かの引用だろう。角栄は宗教に頼るのは葬式の時だけでいいと公言していたが、周りの信心を否定するほど器量が狭い男でもなかった。お国の戦国武将も信心深かったなと思い出しながら、そっと手を合わせた。矛盾するようだがこの男、一大事に臨む前には、故人の墓を参るという習慣も持ち合わせていた。
一筋の風が吹き、草木の揺れる音が耳をくすぐる。菜の花の香りが春の訪れを感じさせた。
「あのう」
振り返ると、あどけなさを残す金髪の少年が立っていた。リュックサックを背負い、脇には紙を挟んだ木板を抱えている。
「おじさんは、この人に詳しいんですか」
「ん……」
「歴史の勉強で地元の人を取り上げなくちゃいけなくて」
はて、と角栄は戸惑ったが、自分の身姿を顧みて苦笑する。汗で髪はボサボサになっていたし、上着も羽織っていない。それに、表の日程上はこの時間、シュレスヴィヒ・ホルシュタインの兵営視察に出かけていることになっていた。今の俺は幽霊みたいなものか。
「まぁ多少はねぇ」
「この人はウチの村だけじゃなくて本当に国中で知られているんですか」
「そりゃあもう有名さ。ハンブルクにゃ剣を持ったデカい銅像もある。その名を冠した軍艦もキールにはあるぞ」
「へぇ」
軍艦と聞いて、少年の目はキラキラと輝いた。巨砲を乗せた軍艦が少年心をくすぐるものがあるのは万国共通らしい。角栄自身、身内の不幸がなければ一時期は海軍に入隊したいと思っていた。あまり周囲には明かしていなかったが、少年時代の夢は巡洋艦の艦長だった。
「興味があるなら、その軍艦の写真を送ってあげよう」
小さな視線に急に敬意が入り混じるようになった。
「本当ですか!」
「蛇の生殺しはせんよ。わしゃできることはできるというし、できないことはできんというさ」
子供はゲンキンで結構。名前と住所をメモに書き留めている間、少年は墓石をジッと眺めていた。その横顔は、歳に見合わず妙に大人びていた。
「この人はフランスとの戦争に勝ったんでしょう」
「そうだね」
「今回も、きっとそうなるよね」
言いにくいことをズバリと聞いてくるものだ。いや、俺がこんな年の頃は天下国家のことなんぞ考えてもいなかった。この年にして戦争を意識せざるを得ないというのは、不幸なものだな。少年の肩をポンと叩く。
「大人の一人として約束するさ」
じゃ、家に帰っても父ちゃん母ちゃんの言うことはよく聞くんだぞ、と言って別れを告げる。フリードリヒスルーの小丘にある墓所を出ると、副官のシュムント大佐が待ち構えていた。渡されたタオルで汗を拭く。
「もうよろしいので」
「うん。ビスマルク爺さんには仁義を切っといたよ」
「では、参りましょう」
2人を乗せた車が動き出す。角栄は鉄血宰相の墓所を振り返った。アンタのやり残した仕事は引き継ぐよ。
丘から少年が手を振っているのが見えた。窓から身を乗り出して、大きく手を振り返した。
◇ ◇ ◇
翌5月10日の夜更け。アドルフ・ヒトラーの姿は独仏国境沿いのミュンスターアイフェルに設けられた臨時総統大本営にあった。国防軍最高司令部の将校たちも、後を追うように陸路や空路で続々と現地入りしていた。
防空壕に設けられた会議室は、静かな熱気に包まれていた。ゲーリングはブラウヒッチュと新設を急がせた夜間戦闘航空団の展開方法について議論していた。贅肉がやや落ちており、空軍と経済の両トップという二足の草鞋を履いていたころに比べると、憑き物が落ちたようなさっぱりとした顔だった。
周囲の将軍たちは、総統の口が開くのを今か今かと待ちわびている。西方侵攻を開始するか否かは、2つの呼称で決められていた。延期は「アウクスブルク」、決行は「ダンツィヒ」だった。
ただ、彼らの主人は、この部屋に入ってからというもの、目をじっと閉じて微動だにしなかった。ただ、右手のみがせわしなく動き、扇子が汗ばんだ風を送っている。
――この手で、決断してもいいものか。角栄は若い議員によくこう語っていた。
「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り、日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなァ」
あの戦争の結末を知る俺が、開戦の号令を出すなんてのは、あまりにナンセンスではないか。勝ち戦だろうが負け戦だろうが人は死ぬ。せめてこの国がポーランドに突っ込む前だったら、非戦の道を探れたかもしれないが。隣国を蹂躙し尽くした今、もはや英仏の戦争指導者たちは、ドイツを地上から消滅させるべき対象として認識していた。
唐突に、角栄は総裁選に出馬する直前にしたためた2枚の書を思い出した。
<軀如春牛飲野水 心似巨巌砕大濤>
いわく。春のうららかな日差しのなか、田んぼで水牛が水の中でのたりのたりと水を飲む情景を見る己の心のうちには、大波が巨岩に砕け散る激しい情景が思い浮かぶ。
もう1枚には、こう書いた。
<歳如流水去不返 人似草木争春栄>
いわく。歳月は水が流れるように、もう二度と戻らない。草木は、春の暖かさのなか、先を争うように萌え盛って伸びる。人も草木と同じように栄達を求め、争いのなかに入っていく。
流れには、抗えないか。
「諸君ッ、各部隊に伝達」
角栄の口元に視線が集まる。数秒の間、周囲の空気が止まった。
角栄は扇子をパタリと閉じ、つぶやいた。
「ダンツィヒだ」
◇ ◇ ◇
朝見た景色でも、真夜中に見直すと、表情は一変するものだ。
風防越しには、街灯で淡く浮かび出されたドイツの古都ザールブリュッケンを一望できた。古くよりドイツとフランスの間で奪い合われてきたこの都市には、季節外れの降雪のような景色が現出していた。
今日も積んでいるのが爆弾じゃなくて良かった。フランス空軍のモーリス・ウェルベック少尉は十字を切って天に感謝した。
彼が操るアミオ143――フランス軍で最も醜い爆撃機と呼ばれた異形の機体からは、数千枚のプロパガンダビラがばら撒かれていた。
もっとも、爆弾ではなくビラを積んでいるのは、共和国の博愛精神の発露というわけではなく、ドイツ空軍による報復爆撃を恐れてのことだった。宣伝省による巧みな演出も作用し、こと空軍に関して、ドイツは英仏を上回っているとの定評があった。この奇妙な戦争の間、ウェルベックがいまだに爆弾を投下せずに済んでいるのは、そうした両国のにらみ合いの結果でもあった。
フランス側の手口を熟知したドイツだけあって、地上からの対空射撃はやる気がない。悠々と定期任務を終えると、ウェルベックは機首をフランスに向けた。ビラを放出して身軽になったこともあり、速度は増している。
アミオ143は胴体部が古めかしい二層デッキ式で、羽根のついたゴンドラとも形容すべき外見だった。むさくるしい男どもより、お姫様を乗せている方が打ってつけじゃないかな、と思う。人を殺すような見た目じゃないのは確かだ。
ウェルベックは軍隊から足を洗ったら、物書きになりたいという願望があった。そういえばサン=テグジュペリ先生も現役復帰されたらしいな。あれだけの名声を得て、また軍務に戻るというのは並大抵の覚悟じゃない。どこの部隊に配置されたんだろう。帰投したら確認するか。あわよくばサインを貰いたい。ウェルベックは彼の作品を待機場でページが擦り切れるほど読んでいた。
ザールブリュッケンを離れてからは、月光以外の光源はなくなった。ただ暗闇ばかりが地表を覆う中、機体は時速300キロ超で飛び続ける。ウェルベックの指は操縦桿の動きと調和し、主翼はちょうど手を伸ばしたような感じとなる。エンジンは心臓の鼓動とリズムを取る。
異変に気付いたのは、国境を越えて間も無くだった。
ベルギーとの間にまたがる鬱蒼とした森の一部が、蠢いていた。風は大して吹いていないはずなのに。
搭乗員にデッキから視認するよう伝える。機体をアルデンヌに近付けた。中立国との国境を侵犯することも構わず、方向舵ペダルを踏んで距離を詰める。
部下からの報告を待つまでもなかった。踏破不能とされてきた森には、点々と灯りが並んでいた。それに照らされるように、車輌の群れが遥か彼方まで列を成している。ベルギーが持ちうる装甲兵力の規模ではないのは明白だった。それにこれは、偵察や陽動なんて規模じゃない。
操縦桿を握る手に汗が滲み始める。ドイツ人は何てことを考えるんだ。「アルデンヌの森を通り抜けるのは不可能である」と我らがペタン元帥は仰られていたが、今やその言葉は滑稽でさえあった。現実には、大軍が突進しているじゃないか。
しかし、まだ手遅れではない。明らかにドイツ軍は無防備だった。森をくり抜いて整備された道路は貧弱極まりないもので、すでに戦車が数珠つなぎとなって渋滞している様子も窺えた。夜が明けてから空爆すれば、ひとたまりもないだろう。
「基地に報告だ」
機内の騒音に負けじと無線士に怒鳴る。偵察が済めば、鈍足機でこれ以上の滞空はゴメンだ。フットバーをギュッと踏み込むと、機体は横滑りしていく。踏み込みがきつかったのか、少々勢いが出過ぎていた。
興奮が冷め始めるとともに、ウェルベックの頭に疑問が浮かんだ。あれだけの大軍なのに、なぜ連中は対空砲を1発も撃ってこないんだ。
その答えはまもなくやってきた。風防の前を、赤い曳光弾が踊りながら過ぎ去った。
まずいぞ。恐怖感で胃がせり上がり、すっぱい胃液が上ってくる。混乱を抑え込みながら周囲を見渡す。
闇夜に紛れるように、大きな鉄十字の入った複数のドイツ機が後ろについていた。さんざん部隊で教え込まれてきたので、すぐ識別できる。
夜間戦闘用に整備されたメッサーシュミットBf110だった。機首には2門の20mm機関砲、長い透明フード、そして直線のテーパー翼。こちらも機銃を撃ち返し始めたが、Bf110は軽々と旋回して避けていく。戦闘機相手に爆撃機が空中戦でかなうはずもない。せいぜい射線をかき乱すぐらいだ。
操縦桿を右に大きく倒す。横滑りを始めようとした時、何かが胴体に叩きつけられる音がしたかと思うと、機内でつんざくような爆発が起きた。何千という破片が空中にばら撒かれた。いくら操縦桿を動かしても、機体はいうことを聞かなくなっていた。
猛烈な勢いで地上がどんどんと近づく。叫びを上げる暇もない。
あぁ、神様、どうか我らの一報が届いていますように。うだうだ言わずに小説を1本でも仕上げりゃ良かったな。ウェルベックはもう一度、虚空に向かって十字を切った。
【あとがき】
目白御殿が全焼したというニュースを聞き、角栄は遠くなりにけりと感じました。
さて、爆撃機のくだりは実際にあった光景で、偵察機がアルデンヌの森を走破する戦車を報告していたにも関わらず、フランス軍の対応は遅れました。ペタンの言葉も書籍から引用しています。バイアスの恐ろしさたるや。
面白かったら評価や感想を下さるとうれしいです。