第5話 計算機付き戦車
総統閣下、なんだか変じゃない?
官邸に詰めているスタッフはみんな口をそろえて噂している。もう10年近く秘書を務めているヴォルフおばさんやシュレーダーおばさんだって、総統がミュンヘンから生還されたお姿をみたとき、目を丸くしていた。
いつものベンツから降りてきた総統は、頭に包帯を巻かれてはいたけれど、お元気そのものだった。玄関で出迎えた我々相手に、ひょいと手を挙げて笑顔を振りまくぐらいには。
でも、なんだか、他人に絶対的な距離を感じさせる威圧感みたいなものがなくなっていた。総統はもともと、我々女性には優しかったけれど、以前は冷たく当たっていた軍人や官僚にも親しげに接するようになった。
一体なんでだろう。普通、殺されそうになったら、むしろ性格は険しくなるものじゃないかしら。あまりにも不思議だったから、医務室でうたた寝していたモレル先生に聞いてみた。
先生はでっぷりとしたお腹を撫でながら、「ユンゲさん、人の精神は何に宿ると思いますか」と聞き返してきたから困っちゃった。「心臓?」と答えると、モレル先生は優しく笑いながら私の頭を指差した。
「総統はね、あれだけの爆発で脳みそを強く揺られたんです。ヒムラー閣下が今も意識が戻らないほどの大爆発ですよ。そんなものに巻き込まれれば、精神が多少混濁することだって、そりゃあるでしょう。御安心なさい。いつかはきっと元に戻りますよ」
「でも、やっぱり変じゃないかしら。扇子なんかこれまで持っていらっしゃらなかったわ」
いつの間にか、総統は日本風の扇子を常に携帯するようになっていた。もともと暑がりではあられたけれど、官邸は空調がしっかり効いているというのに、そこかしこであおぐものだから、周りはびっくりしていた。
「うーん、これはあなたにだけの秘密ですよ」
先生は私の耳元でささやいた。先生も疑問に思って閣下に尋ねたら、爆発の後遺症で体温の調節が上手く利かなくなったんだ、と漏らしていたんですって。それで、副官に扇子を買いに行かせたとか。
「しかしまぁ、変化も悪いことばかりではないでしょう」
それは認めざるを得なかった。閣下の趣味が変わったのは言動だけじゃない。これまで健康を理由に菜食主義を貫き、食事に同席する古参党員たちを苦しめてきたけれど、生還してからは「人生観が変わった」といって肉食を再開された。
この一大ニュースを誰よりも喜んだのはコックたちだった。彼らはこれまで野菜を駆使した独創性あふれるオリジナルメニューを量産していたが、さすがにネタ切れに達し始めていた。それに、ここだけの話、総統用の料理には最近、鶏ガラでとったブイヨンが入っているのを私は知っていた。
先生にお礼を言って、部屋に戻る。そうだ、今日は総統に大切なお客様が来られるから、午後は秘書室で待機しておかなきゃならなかったんだ。さぁ、仕事だ、仕事。
母さんは職場環境を心配してくれているけれども、そこらへんの会社で事務員をやっているより、ここでの仕事はずっとスリリングだし、給料もよかった。
だんだんとユンゲの脳裏から総統への違和感は消え始めていた。官邸の他の職員たちも、噂話を何日も引きずれるほどのゆとりは持ち合わせていなかった。
総統という仕事は、自民党幹事長並みに殺人的な忙しさだった。ひっきりなしに訪れる来客を次々と処理しなければいけない。午前中だけで平均20~30組が押し寄せる。平均して面会時間は5分から10分。戦時だというのに、いや戦時だからこそ、独裁者の求心力は高まっていた。
もっとも、目白で同じぐらいの陳情客を毎日さばいていた角栄にとって、それほど負担ではなかった。普段は日々のスケジュールを淡々とこなしていたが、この日は違った。午後の面会予定は一件しか入れていなかった。角栄は己が呼んだ男の到着を、今か今かと心待ちにしていた。
「総統、お久しゅうございます」
言葉とは裏腹に、突き刺すような冷たい声色を発したのは、ライヒスバンク前総裁のヤルマール・シャハトだった。シャハトは昨年まで経済相を兼ねていたが、異様な軍事費増に歯止めをかけるようヒトラーに直訴した結果、ゲーリングにその職を奪われていた。今は無任所大臣を務めているが、高い名声を買われての形式的地位に過ぎなかった。
角栄はシャハトのてっぺんからつま先まで素早く一瞥する。
しわ一つないスーツに丸眼鏡、髪は短く丹念に揃えられている。齢は60過ぎだが、眼光の鋭さは人をたじろがせるものがあった。幼少期にアメリカで過ごしたこともある知米派でもある。1920年代の絶望的なハイパーインフレを解消せしめたその手腕。随分とプライドは高そうだが、なるほど、確かにこれは人物だ。
「シャハト先生ッ、わざわざご足労いただいてしまって申し訳ない。外に出かけようとすると、なにぶん護衛やらで道中大騒ぎになるもんでね」
ヒトラーはズンズンと歩み寄り、不審げな表情を浮かべるシャハトの手を無理やり握った。
シャハトはヒトラーの使者から面会の目的について「経済問題の相談」としか聞いていなかった。それに、数ヶ月ほど前に(元の人格の)ヒトラーと最後に会った時は、経済政策の見解の相違から怒鳴り合いの喧嘩をして別れていた。
挨拶も早々、角栄は先制パンチを叩き込む。
「先生に謝らにゃならんことがある。第2次4カ年計画は大失敗だったと痛感している」
ヒトラーは1936年に、4年以内に戦争に突入できうる自給自足の体制を整えなければいけないと表明した。
4カ年計画では資源の自給自足を図るべく、人造石油や合成繊維の生産拡充に多額の予算を割いたが、見るべき成果は乏しかった。当時の技術水準では、投じるコストに対して生成量が少なすぎた。誰の目から見ても、計画最終年の1940年に自給自足を実現するのは不可能だった。
帝国はダンツィヒを求めて戦争に見切り発車したが、先の大戦よりも経済状況は悪かった。英仏と開戦したことで、海外からの原材料輸入の道はほぼ閉ざされた。それでもこの国の重工業が動いているのは、陸続きのソ連から輸入できているからだ。
ただ、それもスターリンの胸三寸次第で、あっという間に干からびてしまう。
「このままじゃ、戦争の勝ち負け以前に国が土台から腐り落ちちまう」
「それで、総統は何を求めておられるのです」
「もう一度、経済相としてこの国の経済を切り盛りしてもらいたい」
予想外の申し出に、シャハトは目を丸くした後、警戒心を露わに聞き返す。
「ゲーリングはどうなりますか」
「彼はいい男だが、結果がこれではナ。経済分野からはパージせにゃならん」
シャハトは眼鏡をハンカチで拭き始めた。注意深く言葉を選んでいる様子だった。
「しかし総統、私は貴方の始めた戦争には今でも反対ですよ。お役には立たないと思いますが」
今すぐこの席を立ちたい。そんな感情がシャハトの顔からは窺えた。
「先生のね、気持ちはよーく分かっとる。いまさら泣きついてきて、どうしろっていうんだという怒りも分かる。だがね、アンタは私と同じく1918年を体験した大人だ。国が瓦解していくのを無視して、自分だけの人生を幸せに謳歌できるようなタチじゃない。そうだろ?」
シャハトは顔を強張らせた。角栄の耳には、シャハトが英国に亡命を企てているとの情報も上がっていた。
「それに、戦争に負けりゃ国土が分割されることだってありうる」
「イギリスやフランスはそこまでは」
「違う違う。スターリンが必ず襲いかかってくるさ。条約なんぞ、かの国にとっては紙切れに過ぎないのは身に染みている」
シャハトは眉間にしわを寄せて黙り込む。フィンランドやバルト三国に襲いかかったソ連の行動様式からして、否定するだけの材料を持ち合わせていなかった。
ちょっと見てくれ、と言ってヒトラーは模造紙を広げた。
「これはまだ私案だが、省庁の再編を図ろうと思っとる。4カ年計画庁は段階的に廃止して、経済省と軍需省に機能を吸収させる。肝は両省にまたがる形で新設する『戦時生産庁』だ。ここにとびきり優秀な軍人と官僚を集めて、各種兵器の生産技術の改良と無駄の節減、合理化を推進する」
「それはまた何とも」
無謀だ、とは言えなかった。きっとゲーリングは怒り狂うだろうが、この国において、総統が発した言葉は必ず実現されなければならない神託同然だった。
さて、どうしたもんかな。シャハトは長広舌を振るうヒトラーを眺めながら思案にくれていると、彼の額に汗がにじみ出ていることに気付いた。いや、額どころではない。よく見れば、シャツもじっとりと汗ばんでいる。
視線に気づいたヒトラーは「こりゃ失敬」と苦笑した。「先生に断られたらタマランからね。私も必死なんだ。お見苦しいのはご勘弁いただきたい」と頭を撫でる。
シャハトは思わず「かわいいな」と思ってしまった。あふれ出す稚気、とでもいうのだろうか。この俺を引き込むために、全身で訴えかけている。そこまでしてもらうというのはゲルマン男児にとって、なかなかの誉じゃないか。
まぁ、もう一度くらい手を貸してみるか。ほだされてしまう当たり、シャハトも意外と純情なところがある男だった。
巨人の胃袋みたいだな。ヒトラーお抱えの建築家、アルベルト・シュペーア帝国首都建設総監はマリーンフィルデ工場の屋内を視察しながら、そんな感想を抱いていた。
ダイムラー・ベンツ社の総利益4分の1を叩き出すに至ったこのドル箱工場では、数千を超える労働者たちが活気良く動き回っている。戦車から軍用トラック、装甲車まであらゆる軍用車両が次々と生み出されていく。まさしく生き物の如く工場は胎動していた。
「彼女たちの働きぶりは目を見張りますよ。男どもにとってもいい薬になりますわ」
案内役を務める工場長はこう解説した。それを機嫌良く反応してみせたのはヒトラーだった。
「そりゃそうだ。田舎に帰れば父ちゃんなんかより、母ちゃんの方が100倍働いているもんさ」
ヒトラーが打ち出した労働政策の転換には、自身も一役買っていただけに、シュペーアは少し鼻高だった。「女性を家に閉じ込めておく余裕は我が国にはありません」。そうささやくと、ヒトラーは目を丸にした。
「何ッ。女が働いとらんのか」
やや直截すぎる物言いながら、気付きを得たヒトラーの行動力は凄まじまかった。労働配置総監を官邸に呼びつけ、労働要件の見直しを命じた。女性労働に関する党のイデオロギーはこれまでヴァイマル共和政期から後退し、「家庭へ帰れ」というものだったから、突然の方針転換に党内からは反対意見も相次いだ。しかし、ヒトラーに言わせてみれば、「細かいこと言っている間に国が滅びちまうぞッ」ということだった。
抵抗勢力を次々と突破する様は、シュペーアから見て、まるで計算機付き戦車の如くだった。
「製造効率も向上していると聞くが」
シュペーアが水を向けると、工場長は周囲の作業音に負けじと大声で応じる。
「お役所なんて邪魔するばかりと思っていましたが、実際のところ効果は出ていますよ!」
「シュペーア君の手柄でもあるナ!」
ヒトラーの賞賛をシュペーアははにかんだ笑顔で受け止める。
ヒトラー肝煎で新設されたばかりの「戦時生産庁」の初代長官は、シュペーアが就任していた。シュペーア自身は周囲に「総統の気まぐれ」と謙遜していたが、実際は熱心に自身を売り込んだ結果だった。
経緯はこうだ。例の爆発事件後、なぜかヒトラーは世界都市ゲルマニア構想を煙たがるようになっていた。これまでは嬉々として2人で建築談義に洒落込んでいたのに、今や話を持ち出すと「ベルリンばかり肥えさせてどうすんだッ」と怒り出す始末だった。
新たな話題を提供せねば、総統のお気に入りではいられなくなりそうだな。空気を読むのが得意なシュペーアは、建築業界のコネと知識を総動員し、新たな地位を築くことにした。
総統がシャハトをカムバックさせ、軍備のネジを巻きなおそうとしているのは、総統官邸に日ごろから出入りするシュペーアの耳に入っていた。幸い、シュペーアは図面に線を引くだけが能ではなかった。35歳という若さにして、ヒトラーとさしで話せる立場にいるのは、灰色の脳細胞に恵まれているからでもあった。
「企業の自己責任制を導入すべきです」「アメリカのフォード・システムには見るべきものが・・・」「英国では女工は当たり前になりつつあります」
ヒトラーはシュペーアの提言に耳を傾けるうちに、ある日突然、「君が戦時生産庁を指揮してみるか」と漏らした。
「しかし、私は若輩者ですが」
「トシは関係ないさ。俺だって39歳で最初の大臣をやったんだ」
総統が首相に就いたのはそんな年だったかな。とはいえ、受け入れるのはやぶさかではなかった。シュペーアという男、飄々としているように見せかけて、出世欲にかけては人一倍のものがあった。そうでなければ妬みと怨嗟の楼閣たる総統官邸でここまで生き延びられるわけもなかった。
そして、それだけの仕事も果たしている。軍需生産総指数はシュペーアが長官に就任した時点を100とすると、まもなく200に達しそうになっていた。生産の規格化・定型化、企業への権限移譲――ヒトラーの庇護の下で進めたシュペーアの改革は、着実に実を結びつつあった。
かくして、「軍備の奇跡」の立役者として、シュペーアは今回の視察にご相伴預かることになった。
一団はヒトラーを中核に、早く役所に帰って仕事がしたいという面立ちのシャハト経済相、権勢を削がれて不愉快そうなゲーリング航空大臣。最後方では、ゲッベルス宣伝相が、撮影班を率いる女映画監督と何やら言い争っている。
「マンシュタインくん達に言わせてみると、とにかくコイツらを一台でも多く寄越せ、だとさ」
ヒトラーがコンコンと叩いたのは、組み立てを終えたばかりのIII号戦車だった。
機甲師団と一口に言っても、ドイツ軍の実態はかなりお寒いものがあった。砲塔に機関砲を取り付けたI号・II号戦車が全車両の3分の1を占めており、これでは到底フランス軍の戦車に対抗できなかった。併合したチェコスロヴァキア製の軽戦車も組み込むことで、多少状況は改善していたが、きたる西方作戦の発動までに切り替えを進める必要があった。
「総統、そろそろ」
「んッ」
シャハトの耳打ちで、ヒトラーは歩みを再開した。
工場前の広場には、100人ちょっとの作業員が整列していた。一行はそのままひな壇にぞろぞろと上る。
「それでは、これより叙勲式を執り行う」
シャハトが厳かに宣言すると、優秀な製造成績から選び抜かれた男女5人が前に並び出た。銃後で支える彼ら彼女らを前線の兵士同様に表彰することで、労働意欲を向上させるとともに、志願労働者も増やす――。ヒトラーの発案で急遽実現した視察のトリを飾る祝典だった。一部始終を宣伝省が撮影し、全土の映画館で「ドイツ週刊ニュース」として上映される手筈になっている。
ヒトラーは二十歳前後の青年に2級戦功十字章を手渡しつつ、出身を尋ねた。青年が緊張した面立ちで返答すれば、ヒトラーはすかさず「そうか、君はミュンヘンか。あそこはアルプスから吹き下ろす雪が厳しいだろ。雪国の人間は辛抱強い。だから優秀な職人も生まれるんだナ」と肩を叩く。
それを一人一人にやるものだから、時間はかかってしょうがないが、効果はテキメンだった。ひな壇に戻ると、叙勲者だけではなく、他の作業員も感激した面立ちでヒトラーに視線を向けていた。おもむろにヒトラーは語り出す。
「みなさーんッ! 最高の兵器を持つ最高の兵士が敵を倒すわけであります。その兵器を生み出す諸君が、前線の兵士と変わらぬ重責を担っていることは言うまでもありません」
撮影班のカメラがここぞとばかりに駆け寄る。
「雪解けまでには戦車を1000両、あと1000両ご用意いただきたい」
ヒトラーは握り拳を天に掲げた。
「今でさえ昼夜問わず働いている諸君は、何を抜かすと思われるかもしれない。しかしッ、これはヒトラーの為ではない。堅い装甲を持つ戦車が前線に届けば、銃弾でたおれる兵士の数が減る。塹壕で銃を握る若者たちのために、どうか力を貸してほしい」
沈黙を破ったのは叙勲を受けたばかりの青年だった。「当然です、総統閣下!」と叫んだかと思えば、続けてお決まりの敬礼文句を唱えた。残りの作業員も熱気とともに追従する。100人超のハイル・ヒトラーの合唱は地響きとなり、ヒトラーの足元を揺らした。
――やれることはやったかな。角栄は鼻をかいた。恥ずかしそうにするときの彼のくせだった。後は野となれ山となれ、だ。歓声を背に、角栄は工場を後にする。
空に目をやると、曇天の中、空軍機が編隊を組んで西へ向かおうとしていた。
作戦発動は、間近に迫りつつあった。
【あとがき】
最近、シャハトを題材とした邦訳バンドデシネ「第三帝国のバンカー ヤルマル・シャハト」が出ています。重訳とのことで、訳に?の部分もありましたが、内容自体はすこぶる面白かったです。
書き溜めていた分を出し切ったので、更新が遅れるかもしれません。
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