第4話 すき焼き
「ドイツ国防軍最高の頭脳」の男は、黒鍋をじっと見つめていた。給仕係が薄切りされた牛肉を手際よく焼き、黒々とした割下を注ぐ。芳ばしい香りが2人しか入らない個室に充満する。
掘りごたつに座るエーリヒ・フォン・マンシュタイン中将は目の前の男が小筒――銚子を掲げる仕草をしたので、恐縮しながら猪口を突き出した。トクトクトクと清流のように透き通った液体が注がれる。
「まっ、今日は気軽にやろうや」
ヒトラーは手酌で注いだ酒を舐めるように飲んだ。マンシュタインは恐る恐る口に含んだが、なかなかイケる味だった。
マンシュタインがヒトラーとの面会を希望したのは、西方侵攻作戦をめぐる提言のためだった。ツテをたどって総統副官のルドルフ・シュムントに相談すると、怖いぐらいにとんとん拍子で実現した。指定された会合場所がなぜ日本料理屋なのかは、マンシュタインの知謀を持ってしても、推しはかることはできなかったが。
不慣れなドイツ人向けなのだろう、ナイフとフォークも置かれていたが、ヒトラーは器用に箸を操ってすき焼きをつついた。マンシュタインも見よう見真似に挑戦するが、肉を掴もうとしても空を切るばかりだった。
「士官学校でナイフとフォークの使い方は教えても、箸は習わんわな」
ヒトラーは愉快そうに笑った。総統がユンカーに好まざる感情を抱いていたのは有名だった。それゆえにマンシュタインはヒトラーなりの皮肉かと構えたが、あまりに嫌味なく明るく笑うものだから、つられて苦笑した。
素直に降参し、ナイフとフォークに持ち替えて牛肉を口に運ぶ。
それにしても、ヒトラーの姿は日本通というより、まるで日本人そのものにマンシュタインの目に映った。
「総統が日本食をかようにお好きだとは知りませんでした」
「手を携える相手を知るには、まずは胃袋から、ってのは鉄板だろ」
ヒトラーは大口を開けて、溶き卵に浸した肉をペロリと平らげた。
日本とは防共協定の締結で、このところ距離が急接近していた。さらなる関係強化に向けて、水面下では軍事同盟締結に向けた交渉さえ進んでいるとも聞く。ただ、マンシュタインとしては、隣国イタリアはともかく、遠く離れた日本との連携がどれほどの威力を発揮するのか疑問も抱いていたが。
「君はなかなかイケる口だな。女将、もう1合。次は熱燗がいいな」
杯が乾く暇もなくヒトラーが注ぐものだから、飲まざるを得ないだけだったが、マンシュタインに拒否権があるわけがなかった。女将が遠のいた隙に、ヒトラーはマンシュタインにささやいた。
「ここは肉が美味いんだがな、ギンシャリがいかんのだよな。日本から運ぶ間に古米になっちまうんだ。ただ、ハイドリヒに調べさせたが、ベルリンの和食屋では一番マシらしい」
ヒトラーも冗談を言うのか。そんな新鮮味も覚えたが、彼は至って真面目な顔だった。
もしかして、本当にゲシュタポをミシュランの調査員扱いしたのか。考え始めると頭がおかしくなりそうだったので、思考から振り払った。
ひとしきり具材をやっつけると、頃合いを見て鍋が下げられた。食後の緑茶が供され、給仕役は襖を閉めて退室した。
今しかない。マンシュタインは本題を切り出した。
「総統、『黄の場合』についてご提案があります」
「おぅ」
ヒトラーの目がキラリと光る。
「目下の軍備状況は――空軍を除けば――フランスを叩くにはあらゆるものが不足しています。まともなやり方では皇帝の二の舞になります」
言い切った途端、マンシュタインの額に汗が噴き出した。彼は目の前の男が責任を負うべき戦争計画の失態をあけすけに指摘してしまっていた。すでに、国防軍将校が軍備の瑕疵について意見を表明することは、総統指令で禁じられていたにもかかわらず、である。
しかし、マンシュタインとしては口にせざるを得なかった。そうでもなければ、自らの生殺与奪を握る独裁者相手に、非プロイセン的なご注進など試みるはずもなかった。
耐えきれない沈黙が場を支配した。口をへの字に曲げたヒトラーはじっとマンシュタインの眼を見つめ、「続きを」とだけ呟いた。もはや退路は断たれた。マンシュタインはここぞとばかりに地図を広げた。
この時、マンシュタインは西部侵攻作戦の一翼を担うA軍集団参謀長の地位にあった。
現行の作戦計画では、オランダ・ベルギーに攻めかかるB軍集団が主兵を担う。マンシュタインが所属するA軍集団はB軍集団の南部に配置され、助攻役だった。C軍集団は残るルクセンブルクからスイスにかけての長大な国境線の防衛に当たることになっていた。
「言ってみれば今の計画はシュリーフェン元帥を墓場からたたき起こして書かせたようなシロモノです。ドイツ人は四半世紀経っても進歩しないのかと後世の歴史家に失笑されかねません」
マンシュタインは教師が生徒に教えるような、独特の尊大さをにじませながら語り出した。この辺り、やはりユンカー出身者だった。
「彼我の絶対的な戦力差を埋めるには、奇道しかないでしょう」
「具体的に言ってみたまえ」
「攻勢の主軸をA軍集団に切り替え、機甲戦力を極限まで集中させます。突破口はここです」
マンシュタインはすき焼きの飛沫痕でにじんでいた独仏国境の一箇所、アルデンヌの森林地帯を指差した。まともな自動車用道路が整備されていないアルデンヌへの進撃は困難というのが軍事上の「常識」だった。その発想をあえて逆さまにすれば、アルデンヌには双方大した兵力を置かない。到達さえできれば、戦わずして戦線の空白地帯を突ける、というわけだった。
「アルデンヌからドーバー海峡まで貫通できれば、カンネーを越える史上最大の大包囲が完成します」
英仏連合軍はB軍集団を主力と考え、オランダ・ベルギーの救援に向けて前進する。一方で、ドイツ軍の真の主力たるA軍集団はアルデンヌを抜け、連合軍の後背を刈り込む。双方の行動が相乗効果を生み、巨大な〝回転ドア〟が生じることになる。
ヒトラーは興味深そうに鼻をかき始めた。
「発想は面白いが、アルデンヌは本当に突っ切れるのか」
「わが軍きっての装甲部隊の専門家であるグデーリアン将軍に確認したところ、可能との返答を得ています」
マンシュタインとグデーリアンは陸軍大学校の同期だった。もともと親密な仲というわけではなかったが、この構想を現実可能な作戦計画にするには彼以外の相談相手は思いつかなかった。
「ただ、そうはいってもアウトバーン並みの道幅とはいかないだろ。隘路に大量の車をぶち込めば、金魚の糞みたいに渋滞しちまう。そこを空襲されればコトだぞ」
「対空砲部隊を先行して展開させますが、基本的には夜間に走り抜ければよろしいでしょう。敵も夜はまともな精度で空爆なんかできやしません」
その後もいくつかの技術的なやり取りがなされたが、いずれにもマンシュタインは即応した。その姿を見て、ヒトラーは笑みを深め、「よっしゃ」と膝を叩いた。
「こりゃあ一生に一度の大博打だな。フランスがこちらの意図を察すれば、この作戦はうまくいきゃあせん。ひらひらと飛んできた偵察機に見つかっただけでもポシャっちまう」
ヒトラーは猪口をグイとあおった。マンシュタインは静かにヒトラーの表情を伺った。
「しかし、もともと勝ち目の薄い戦なんだ。お互いに一生は一回。死ねば土くれになる。地獄もヴァルハラもヘチマもない。マンシュタインくん、一丁やってみるか」
ヒトラーの赤銅色の顔は火照り、生命力に満ち溢れていた。この男はいつから、これほど他人をワクワクさせる表情をするようになったのだろうか。今は国家存亡の危機だぞ。マンシュタインは内心毒付いた。だが、彼自身も気品ある顔を悪童のように綻ばせていた。
マンシュタインはほてった顔で総統の車列を見送った。ヒトラーは番頭や給仕係の一人一人に心付けを渡して去っていった。マンシュタインの軍服にも、分厚い封筒が入っている。
ヒトラーは部屋を出る直前、待機していた秘書を呼び出すと、まるで積み木のようにライヒスマルクの束をポンと積み、マンシュタインに押しやった。
「何かと苦労しているだろう。これで部下を飲みに連れていってやれ」
食事どころか優にフォルクスワーゲンは買えるだろう、という金額だった。あけすけに受け取るのもどうかとためらっていると、「勘違いするなよ。そんな端金で天下の国防軍将校が買収されては困るゾ」とヒトラー。それでは、と応じてありがたく頂戴した。
やはり、例の事件で人格が変わったというのは本当なんだろうか。国防軍内には根強い反抗分子がいるとマンシュタインは小耳に挟んでいたが、(今の総統を前にして抗えるものかね)とヒトラーよろしく鼻をかいた。
深夜2時。角栄は総統官邸の自室で寝そべりながら、「戦車に注目せよ」を食い入るように読んでいた。軍事愛好家になるつもりはなかったが、軍人、それも将軍という人種を相手に話すには、浪花節だけではなくそれなりの軍事的素養も必要だと判断していた。
室内には大量の軍事書籍が乱雑に積まれていた。元の人格の蔵書から引っ張り出したものもあれば、総統官房の職員に買ってこさせた書籍もある。ドゴールの「職業的軍隊を目指して」、ロンメルの「歩兵は攻撃する」、リデル・ハートの「近代軍の再建」・・・などなど。
自学自習が得意な角栄は健康増進のためにゴルフを始めた時も同じ手を使った。新宿の紀伊國屋に若い秘書を走らせて「3貫目分」のゴルフ本を支配人に用意させた。仕事の合間にひたすら読み耽り、3か月後に打ちっぱなしに出ると、周囲を驚嘆させる腕前を発揮した。
ウン、安保はあんまりやってこなかったからなァ。でも、勉強は得意だから、どうにかなるだろ。
オールドパーの水割りをチビチビとやりながら、ページをめくる。元いた時代と変わらぬオールドパーの味は、自分が角栄であることを再確認させてくれる貴重な命綱だった。
それにしても、助かった。ずるりとソファーに寝そべる。危ねぇ危ねぇ、今から負けるようじゃしょうがねぇ。
マンシュタインから面会の申し出が来るまで、実のところ角栄は頭を抱えていた。
有馬記念や菊花賞なら1等の馬を覚えているだけでいい。だが、どうにも戦争指導というのは当たり馬券を予想するのとは違うようだった。
角栄はナチスドイツがフランス第三共和国を破った歴史は知っていても、その実現手段が分からなかった。いずれ参謀本部がとんでもない秘策を持ち出してくるに違いないと大口を開けて待っていたが、彼らが出してきたのは平凡極まりないシュリーフェン・プランの焼き直しだった。素人目にも史実のような大勝は望めないとわかった。こりゃだめだ。
一体どういうことかとブラウヒッチュをそれとなく詰問してみると、そもそも、ドイツ軍は1939年になるまで、西方侵攻作戦をまともに作り上げていなかった。ヴェルサイユのくびきで一度解体されたドイツ軍は、欧州最良の軍隊たるフランス軍と戦えるように設計されてこなかったのだ。将軍連中は1943年までフランス侵攻は無理だと泣きついた。
それじゃこの国はもたんだろッ。角栄は将軍たちを怒鳴りたくなったが、この狂乱の事態を招いたのは、元の人格であることを思い出して必死に怒りを抑え込んだ。チョビ髭とその一党は神がかりで戦争に突入しやがった。祖国で決定的な敗戦を肌で知る角栄にとって、許しがたい事実だった。国の指導者のすることじゃねェ。
冷静に見てみれば、侵攻に時間がかかればかかるほど、英仏の軍備は増強され、ドイツは不利になる。すでにアメリカがフランスに爆撃機を提供すると発表していた。英仏はその広大な植民地から大量の兵力を動員しようとしていた。
がっぷり四つで戦えるのは、1年が限度だろう。短期的な決戦で英仏の戦意を喪失させなければ、ドイツは泥沼の消耗戦に突っ込んで負ける。まるで「半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる」と吐いた連合艦隊司令長官になった気分だな。角栄は自嘲した。
ブラウヒッチュたちはマンシュタインの案にさんざん反対するだろうが、押し通すつもりだった。それに、そこまでやってもまだ赤点だ。単に歴史を再現するだけでは、地下壕行きの未来は変わらない。さらなる一手をどう打つか。
さあて、これがなかなかの難題だぞ。明日からまた忙しくなるナ。
本をベッドの脇にやる。窓を閉じようとすると、日本と変わらぬ三日月が見えた。深夜のベルリンの空気は、目白よりも冷たかった。
【あとがき】
角栄の好物は、秘書の早坂茂三氏の著作によると、「ウナギ、天ぷら、すき焼き、いなり鮨」の4つだったとか。選挙戦で地方の応援に入った際、高級ホテルでステーキを出されたが、食べられないので塩鮭入りのお握りを作らせた――というエピソードもあり、偏食の気もあったよう。なお、戦中のベルリンにも日本料理屋はありましたが、味の方は評価が分かれていたようです。
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