第29話 ハイル・カクエイ
一九四四年夏。
高高度を飛行する総統専用機は、雲海の上を滑るように進んでいた。窓の外には、夏の日差しが雲に反射し、柔らかな光が機内を包んでいる。角栄は厚張りの椅子に背を預け、静かに窓の外を見つめていた。向かいの席にはロンメルが座り、角栄の横顔を一瞥した後、やや遠慮がちに口を開いた。
「オヤジさん、残念です」
角栄はふっと微笑み、ロンメルに目を向けた。その表情はさっぱりとしたものだった。
「いいじゃないか。これで戦争が終わるんだから」
角栄たちは英国内戦の後始末のため、イギリス北部の街、カーライルへと向かっていた。すでに前線では両軍の戦闘は休止している。
第二次ロンドン沖海戦の結果、ソ連は英国から叩き出されるだろうと誰もが思った。北海ではUボートとポケット戦艦が猛威を振るうようになり、ソ連の脆弱な補給網をさんざんに打ち破った。地上ではロンメルとドゴールが先を争うように進撃し、スコットランドの首都エディンバラ陥落も秒読みのはずだった。
だが、一発の砲弾が全てを変えた。
一週間前、スコットランド沖に現れたソ連海軍の旧式戦艦「オクチャブリスカヤ・レヴォリューツィヤ」は、その古びた三〇センチ砲を北海目掛けて撃ちこんだ。砲弾は弧を描きながら、無人の海域に吸い込まれていく。
数秒後、ソ連を代表する物理学者イーゴリ・クルチャトフ博士の指揮のもと作り上げられた反応兵器は、設計通りに動作し、空を光で切り裂いた。爆弾が爆発した瞬間、太陽のように明るい閃光が雲間から漏れ、続いて圧倒的な衝撃波が海を走った。水面が一瞬静止し、その後巨大な柱のように水と蒸気が立ち上った。波は四方八方に広がり、沿岸部に迫る津波となって押し寄せた。
前線でも、この模様を多くの将兵が目にした。窓ガラスが震え、その光と音に驚愕する。空は赤く染まり、数分後にはきのこ雲が形成され、ゆっくりと空高く上昇していった。その光景は、核の破壊力を目の当たりにした人々の心に、深い恐怖と絶望を刻み込むものだった。
翌日、ソ連共産党の機関紙「プラウダ」の一面には北海での〝実験〟成功を謳う記事が掲載された。そこには、英国での内戦には一行たりとも触れられていない。だが、次は陸地で実験が行われかねないことは容易に想像できた。
角栄はほどなくして、水面下で休戦交渉に着手するよう指示を出した。スコットランドの共産主義政府の存続を認めることは、英国の分割を意味した。ただ、反応兵器の破壊力を目の当たりにした今、抗戦派のチャーチルですらも休戦に同意せざるを得なくなっていた。
「一つ、いいですか」
ロンメルの問いかけに角栄は小さく笑った。
「俺とお前の仲だ。遠慮無用だ」
では、といってロンメルは単刀直入に切り込む。
「オヤジさんの世界では、あの爆弾の威力は証明済みだったのでは」
「そうだ」
「なぜ作らせなかったのです」
角栄はじっとロンメルの目を見た。
「あの爆弾をこの時代の人間に預けたくなかった。それに、俺はアレが好かない。あの男もきっとそうだろう。だが、俺を倒すために悪魔と手を結んだというわけだ」
ロンメルはその言葉に静かに耳を傾けた後、問いを重ねた。
「しかし、ソ連が保有したとなれば、ドイツも保有せざるを得ないでしょう」
角栄は腕を頭の後ろで組んだ。
「まァ、その点はこれからアイツと話し合うさ」
そういって、角栄はふぅと長い息を吐いた。機体は徐々に高度を下げ始め、カーライルの大地が遠くに見え始めていた。
イングランドとスコットランドの境目には、ある古城がある。
カーライル城と呼ばれるその城は、ある時はイングランド人、ある時はスコットランド人、果てはジャコバイトと目まぐるしく所有者を変えたことで知られる。この日は、両陣営の前線に近いという理由で、英国内戦を巡る休戦交渉の舞台として選ばれていた。
城内の大広間は、歴史の重みを感じさせる荘厳な空間だった。天井にかかる大きなシャンデリアが蝋燭の光を反射し、部屋全体に暖かな光を投げかけている。壁には過去の戦いを描いたタペストリーが飾られ、どっしりとした木製の長テーブルが中央に置かれていた。
ヒトラーと、英国全権のチャーチルは先に着座していた。
「いかがですか」
チャーチルは手持ち無沙汰のヒトラーに葉巻を差し出した。二人が思い思いに紫煙をくゆらせているところに、ザッザッと集団が廊下を歩く足音が聞こえてきた。ほどなくして扉が開く。
集団の先頭に立っていたのはソ連首相のヨシフ・スターリンだった。遅れてトハチェフスキー元帥、モロトフ外相、スコットランド共産党の面々が入ってくる。
スターリンはヒトラーを見つけると、目を皿のように見開いて凝視し、対するヒトラーは軽く右手を上げた。スターリンはわずかに会釈した後、ヒトラーの真向かいに座った。欧州を二分する独裁者が顔を揃え、室内に緊張感がみなぎる中、交渉は静かにスタートした。
冒頭は事前に事務方が打ち合わせていた事項を確認していく作業から始まった。
捕虜の送還と、英国本土への外国兵員・外国兵器の配備禁止については早々に合意が得られた。休戦ラインに関しても、ハドリアヌスの長城沿いに引くことで一致をみた。
ただ、反応兵器の扱いを巡って難航した。反応兵器を化学兵器や生物兵器と同様に使用、生産禁止とするよう求める独英に対し、ソ連側は強硬に反発した。日が暮れても、議論の終着点を見出せなかった。明日に交渉は延期かと思われたとき、ヒトラーはスターリンとサシでの会談を申し入れた。スターリンは一瞬躊躇った後、「よろしいでしょう」と応じた。
人払いがなされ、がらんとした部屋には、二人だけが残された。窓を通じて吹き込んでくる夜風が寒い。しばらく沈黙が場を支配した。
まず、口火を切ったのは角栄だった。
「お互い、遠いところまで来たよなぁ、福田君」
スターリン――福田赳夫は眉間に皺を寄せながら、ため息交じりに言う。
「角さん、相変わらずだね」
いきなり本音で話し合うわけにはいかんか。角栄は小手打ちから始めることにした。
「いつの間にアカに転向したんだ」
福田は肩をすくめた。
「それを言うなら、角さんこそ立派にアドルフ・ヒトラーを演じているじゃないか」
「そういうな。俺だってマシになるよう努力したんだ。それをご破算に追い込もうとしたのは君だぜ」
福田が言い返す間もつくらず、角栄は続けざまに繰り出した。
「キミが英国に戦乱を仕掛けなければ、欧州改造に専念できたんだぞ」
「それが問題だというんだ」
「なぜだい」
福田はポリポリと首の後ろの辺りをかく。
「欧州改造、確かに結構だ。三〇年も未来の都市政策を先取りすれば、経済成長のテンポを一足飛びにも二足飛びにもできるだろう。だが、角さんが生き長らえらせようとしている国は、ナチスドイツだ。アンタの弁舌で多少変容しているかもしれないが、やっぱり、ナチスドイツなんだ」
角栄はその言葉をただジッと聞き続けていた。確固たる信念を持って、福田は告げた。
「だからこそ、このカラダになってからも、アンタを止めるのが天の声だと信じて行動してきた。角さん、もう引退してくれ」
「総統を退けと?」
「そうだ」
「それなら、安心しろ」
角栄の意外な反応に、福田は一瞬、あっけにとられた。何を言っているのか理解できない様子だった。その隙を見逃さず、角栄は用意していたカードを示した。
「ソ連が反応兵器を廃棄すると確約すれば、俺は田舎に引っ込む。もともとそのつもりで、ラジオ放送も収録済みだ」
福田の瞳孔が開く。動揺する心を落ち着けて確認した。
「単に辞めるだけじゃあ無責任ですよ」
「分かっている」
角栄は、放送の内容をとつとつと語った。聞き終えた福田は、永遠にも思える長さの唸り声をあげた。そして、机から乗り出し、角栄に顔が触れそうなほど近寄って確認する。
「欧州改造への未練はないんだね」
「俺がいなくなって止まるようならばそれまでのことだ」
「二言はないと」
「ないッ」
「では、和平協定の秘密条項として、今ここで証文を交わしても構いませんナ」
「もちろん、いいだろう」
ここで、保証人としてリッベントロップ外相とモロトフ外務人民委員が協議に参加した。福田と角栄が書き上げた証文の内容を見て、リッベントロップとモロトフは血相を変える。そして、互いの上司に詰め寄った。
「〝アドルフ・ヒトラーは休戦協定成立以後、政界を引退する〟ですと。総統、いけません」
「同志スターリン、こんな一筆で反応兵器を手放すのは合理的ではありません」
だが、二人の独裁者はその制止に耳を傾けず、証文にサインした。動揺の色を隠せないモロトフとリッベントロップに対し、角栄は言う。
「君たちが和平成立の証人だ。秘密条項については墓場まで持って行ってくれよ」
続けて福田が宣言した。
「ただ今の会談で独ソが合意に達したことを踏まえ、明朝、改めて休戦交渉を再開する」
賽は投げられた。リッベントロップとモロトフは途方に暮れたまま、部屋を出ていく。再び、角栄と福田だけが部屋に残された。
すっかり夜はふけていた。窓越しに空の隙間から黄金色の満月が見えた。
角栄は、ずいぶんと肩が軽くなった気がした。アドルフ・ヒトラーを演じ続ける日々にようやく終わりが見えてきた解放感だろうか。福田に屈する格好になったのは、まァ、小癪な感じもするが。
「角さん、引退したらどこに行くんだい」
福田は、言葉のトゲがずいぶんと薄れた声色で言った。勝者の余裕というやつか。まるで総裁選の時とは立場が真逆になっちまった。
「田舎に帰るといっただろ」
「ボヘミアに?」
「馬鹿を言わんでくれ。俺の田舎といえば、新潟しかないさ」
それもそうか、と福田は頷いた。第三帝国の初代総統をこの時代の日本政府が受け入れるだけの器量を持っているのか、少し疑問にも思ったが、言葉には出さなかった。
夜風が寒くなっていたので、角栄は窓を閉めようと壁際に近づいた。
その時、机の下に書類鞄が残されていることに気付いた。鞄は不格好に膨らんでいた。随行団の誰かが置き忘れていたものだろうか。
直後、鞄からまばゆい光が飛び出した。思考が追いつく間もなく、強烈な爆風が襲い掛かり、角栄の意識は途切れた。
◇
ベルリン郊外のアウトバーンを、メルセデス・ベンツが静かに疾走していた。車内は厚い防音材に包まれ、エンジンの振動すらほとんど感じられない。その静寂の中で、ハインリヒ・ヒムラーとラインハルト・ハイドリヒが隣り合って座っていた。
「ライニ、君は私の信仰をあまり好ましいと思っていなかったな」
「いえ、私は閣下のあらゆる行動が国家の利益に資するものであると信じておりました」
ヒムラーは静かに笑った後、厳かに語り出す。
「ミュンヘンでの爆発事件から目を覚ましてから、私は真の意味で霊界に接続できるようになった。そこで、私は未来の世界を垣間見たのだ」
ヒムラーが一千年以上前の人物、ザクセン王ハインリヒ一世と〝交信〟しているのは親衛隊内では有名な話だった。もっとも親衛隊員の大半はそれを胡散臭く見ていたが。
「未来ですか」
いまだヒムラーの言葉を信じられないハイドリヒだったが、その目には微かな興味が宿った。
「その未来に、我々の勝利があったのですか」
ヒムラーはゆっくりと首を振った。
「いや、帝国は瓦解していた。廃墟と化したベルリンには赤旗が翻り、総統も、私も、君も生きてはいなかった」
車内に冷たい沈黙が流れた。ヒムラーの声がさらに低くなる。
「私はこの未来を知って、すぐさま行動に移らなければいけないと決心した。歴史を変えるため、ヴェヴェルスブルク城に身を隠してアーネンエルベの蒐集物を漁り、人体と人格を分離し、入れ替える手法を確立したのだ」
ハイドリヒの中で、数々の違和感が溶ける思いがした。
「血と鉄の観点で選ぶならば、フリードリヒ大王やビスマルクが適任だろう。だが、現代は民族を鼓舞できる弁舌も持ち合わせていなければならない。霊界からは陰気なカエル面の女も提示されたが、個人的に気に入らなかった。悩みに悩んでいるところで、私はルーン文字とカナ文字には共通点がみられるという報告を思い出した。君も知っている通り、日本人は我々が名誉アーリア人として認定した数少ない民族の一つだ」
ヒムラーは口元を醜くゆがめて続けた。
「私はゲルマン民族の未来を守るため、大ドイツに東洋の力を取り込むべきだと判断した」
ハイドリヒは問いかけた。
「総統を今操っているのは、どんな日本人なのです」
「名をタナカカクエイという。私の狙い通り、ドイツはありえたかもしれない崩壊を逃れつつある」
ハイドリヒは静かに尋ねた。
「確かに欧州は大ドイツのもと管理・運営される体制となりました。その点ではカクエイなる日本人の貢献はあったでしょう。ですが、かの人物によって、ドイツは我々が望んでいた国家体制から逸脱し始めています」
「あぁ、それは否定しない」
ヒムラーは軽くうなずいた。
「だからこそ、カクエイに警告を与えて軌道修正させるべく、私は残っていた権能で、二人の人物を現世に呼び込んだ。だが、それは無駄な努力だった。依り代から人格を再分離する手法は見つかっていない。結局は実力行使せざるを得なかったのは極めて無念だ」
実力行使、の言葉にハイドリヒは即座に反応した。
「作戦は決行されたのですか」
ヒムラーの目は狂気に輝く。
「先ほど、休戦交渉の会場に潜入した隊員から、爆破成功との報告が上がってきた。どうやらスターリンも巻き添えになったようだが」
「総統はもうお亡くなりになられたのですね」
「総統もヴァルハラで見守ってくださるだろう。ゲルマン民族の未来を守るためには仕方がなかったのだ」
車内は再び静寂に包まれた。ハイドリヒは、ヒムラーの言葉を分析しつつ、内心で計算を巡らせていた。
車はベルリン市街へ入り、親衛隊本部に滑り込んだ。巨大な黒い鉄扉が、重々しい音を立てて開く。ヒムラーとハイドリヒは、一切の喧騒を遮断した暗い建物の中へと足を踏み入れた。一列となって待ち構えていた親衛隊の将校たちは、五年ぶりに姿を現したヒムラーに驚きつつも敬礼を送った。その大半が親衛隊以外では食ってはいけそうにない陰険もしくは粗野な面構えの男たちばかりだった。
「閣下、全ての準備が整っております」
ゲシュタポ局長のハインリヒ・ミュラーが敬礼しながら報告した。
ヒムラーは冷たく頷いた。
「よろしい。諸君、我々はここから秩序を回復する」
彼らは地下の作戦室へと向かい、重厚な木製の扉を開けると、広い円卓が迎え入れた。机上には地図が広げられ、部屋の隅には最新鋭の通信機器が並んでいた。
「総統はボリシェヴィキの陰謀によって亡くなられた」
ヒムラーは机に手を置き、鋭い目で居並ぶ面々に告げた。
「これからは私が帝国を導く。まずは政府機能の完全掌握だ」
「我らは閣下のご指示のもと、迅速に行動いたします」
「よろしい。まずは国防軍の協力を確保し、反乱の芽を摘む。国政の混乱を避けるため、障壁となりうる党・政府幹部を拘束してもらう。抵抗するならば射殺して構わない。明朝には私が総統官邸に入り、ラジオを通じて総統就任を宣言する」
ヒムラーはそう言いながら、机上の地図を指でなぞった。
その時、部屋の片隅に置かれていたラジオからホルスト・ヴェッセル・リートが流れ始めた。ヒムラーはラジオを一瞥し、不快そうに顔をしかめた。
「誰がこんな場所にラジオを置いた。消せ」
だが、曲のさわりが終わると、アナウンサーが「ただいまより、重大なる放送があります。全国民は直ちに傾聴願います」と告げた。
次の瞬間、豪放だが、どこか親しみのある声が聞こえ始めた。
『……皆さんッ!』
室内の空気が凍りつく。ヒムラーは表情を硬直させたまま、顔色だけがどんどんと青ざめる。
『わたくしが、アドルフ・ヒトラーであります』
「総統の声だ」
ハイドリヒは呆然と呟いた。
『今しがた、カーライルの地で英国内戦にかかる休戦交渉が完了しました。思い返せば、この五年間、欧州ではどこかしこで戦乱が続いておりました。親、子供、親類を失った人間は少なくないッ!我々はようやく手にした平和を決して手放すわけにはいかんのであります』
「どういうことだ」
ヒムラーは声を震わせ、ラジオに近づいた。
『この反省を糧に、これからの欧州では国境の垣根を取っ払っていく必要があります。欧州自体が一つの家族となれば、殺し合いの起きようがないッ。せいぜい、兄弟げんかぐらいで可愛いもんだ。その未来のためには、まず、このドイツが率先して他国との協調を深めていくための道を切り開かなければなりません』
ハイドリヒは無意識のうちに拳を握りしめた。ヒムラーの耳元でささやく。
「閣下、この放送は録音では」
ヒムラーはハッとした後、叫び出す。
「スコルツェニーの部隊を放送局へ回せ!」
ラジオの声は続けた。
『私はここに、国政改革の大方針を示します。第一に、党・政府幹部の定年制を導入いたします。任期は三年とし、連続で合計二期までと制限をかけることで、老壮青が活躍できる環境を整えます。よって、わたくしは、速やかに総統の職を辞し、国民の皆さんの投票で、次期総統を選んでいただきたいと考えております』
親衛隊幹部は一同絶句した。言及こそないものの、ヒトラーが辞めるとなれば、他の幹部たち――ゲーリングもゲッベルスもヘスも、無論のことヒムラーも表舞台から引かざるを得なくなる。
『第二に、一九三三年に制定した政党新設禁止法を廃止します。我が党は多様な言論の確保の擁護者となり、あるべき議会政治への回帰を図ります。わたくしは、政治的遺言として、次期総統に対して速やかなる総選挙の実施を求めるものであります』
「国がめちゃくちゃになるぞ」
誰かがうわごとのように漏らした。
『そして第三に』
ヒムラーはゆっくりとラジオを見下ろし、肩を震わせた。
「まだあるのか!」
『親衛隊、武装親衛隊の諸君の貢献によって、我が国は穏やかなる平時へと移行しつつあります。行政の一層の効率化を図るため、両組織の解散をアドルフ・ヒトラーの名において命じます。なお、希望する者については、引き続き、公務員としての職を当てがうものとします』
ラジオの声は一拍置いた。
『この放送が公職者としての私の最後の言葉になるであろうと思われます。以下、所感を申し上げさせていただきます』
親衛隊幹部たちはまるでそこにヒトラーがいるかのようにラジオに見入った。
『いま、欧州には、緊急に解決すべき課題が山積しています。たとえ、反発を招いたとしても、改革の方針を示した理由はここにあります。国の前途に思いをめぐらすとき、私は一夜、沛然として大地を打つ豪雨に、心耳を澄ます思いであります。ドイツが一日も早く、新しい代表者を選出し、一致団結して難局を打開し、国民の負託に応えることを望みます。それではどうかみなさん、御達者でッ!』
余韻を残して、放送は終わった。
「閣下、どうなさいますか」
ハイドリヒは冷静を装いながらも、内心では異様な状況に動揺を隠せなかった。
ヒムラーは深呼吸し、冷静さを取り戻そうと努めた。
「構わない。我々の計画に影響はない」
だが、その言葉とは裏腹に、ヒムラーの瞳には恐怖が宿っていた。周囲の幹部にも伝染している。
やられた。ハイドリヒは椅子に座り込んだ。あのオッサンを喋らせたらいけないんだ。夜中の放送だから何人聞いたか分からんが、明日の各紙朝刊にはデカデカと載るだろう。そしたら、もう、終わりだ。
ちらりとヒムラーを見た。魂を抜かれたように突っ立っている。あぁ、クソ、ハインリヒおじさんに賭けたこと自体が自分でも信じられない。
たまらず、声を上げた。
「新聞の印刷工場を止めましょう。まだ、手の打ちようがあります」
だが、ヒムラーは何も答えなかった。答えられるだけの余裕がなさそうだった。ハイドリヒの呼びかけの後は続かず、沈痛な空気ばかりが広がる。
コイツらはもう駄目だ。俺がやるしかないとハイドリヒは電話機に手をかけた。その瞬間、遠くからローター音が聞こえ始めた。窓越しに、軍用ヘリが親衛隊本部の中庭に止まるのが見えた。
ヒムラーたちが動くよりも早く、迷彩服姿の武装親衛隊員が部屋になだれ込んできた。遅れて、指揮官がゆったりと入ってくる。頬に傷のある男。スコルツェニーSS大佐は満面の笑みを貼り付けていた。
「大佐、私は放送局へ向かうよう指示したはずだが」
生気を抜かれた様子のヒムラーは、喉から声を振り絞った。
「いや、大佐。先ほどの命令は撤回する。印刷所工場に行ってくれたまえ。手あたり次第、印刷を直ちに中止させるのだ」
ヒムラーの言葉を笑顔で聞き入っていたスコルツェニーは、しばらくして返す。
「閣下、それはもう無理というものです」
「なんだと」
「クーデターを成功さえしてくれれば従いました。ですが、あの放送が流れた時点で負けです。残念ながらお付き合い出来かねます。私には大事な部下が大勢いるのです」
そして、スコルツェニーが軍靴を揃えると同時に、武装親衛隊員が銃口をヒムラーやハイドリヒに向けた。ヒムラーが何か言おうとした直後、スコルツェニーは右手を掲げる。何も恥じることはないと言わんばかりに。
「ハイル・ヒトラー! 反動主義者に死を!」
ナチスドイツの根幹を成していた親衛隊幹部は、多数の銃弾を身に受けて死亡した。スコルツェニーは、それらの遺体を一つ一つ確認して、事務的に拳銃で頭を撃ち抜いていく。遺体の一つには、北欧系の狐顔の男もいた。
スコルツェニーは中庭に出ると、シガレットケースから煙草を取り出して口の端にくわえた。吸い込むというより不機嫌に噛みしだく。葉タバコの苦みが舌を伝った。
たぶん、次の総統はクーデターの試み自体をなかったことにするだろうな。スコルツェニーは思った。もしも爆破テロが親衛隊による犯行だとバレれば、ソ連は怒り狂って例の新型爆弾をドイツ中にばらまくだろう。つまり、俺が成した仕事は歴史から消えなければいけない類のものなのだ。
そうだ。ほとぼりが冷めるまで部下を連れて南米に逃げよう。リオは地上の楽園だというじゃないか。グラマラスな美女と戯れながら余生を送るのは悪くないな。
かくして、親衛隊によるクーデターの試みは未遂で終わり、この国は新たな段階に踏み出し始めた。
【あとがき】
残りはエピローグだけとなりました。来週辺りに更新します
↓BOOTHで書籍版を頒布しています
https://invalides.booth.pm/items/6425824




