第2話 ワン・ボール
角栄はきょとんとしていた。長い眠りから覚めたばかりで、頭のモヤは晴れていない。目はかすんでいる。今がいつなのか、自分がどこにいるのかもわからない。ただ、どうやら銃撃から一命を取り留めたらしい、ということだけは理解できた。本来なら胸を撫でおろすところだが、眼前の光景に戸惑わざるを得なかった。
病床に横たわる角栄を囲んでいたのは、娘や馴染みの秘書ではなかった。全員白人で、服装はまるで宝塚のようなけばけばしさだった。
ド派手な軍服を着た好色そうなデブは、角栄が意識を取り戻したのを見て何やら叫んでいる。その横に立つ陰険そうな鷲鼻のチビが、馴れ馴れしく抱擁しようとしてきたので押し返した。離れたところに控えている狐顔の金髪男は、全てを冷静に眺めていた。他にも軍服やらスーツやらを着込んだ男たちがずらりと並ぶ。
あまり知られていないが、角栄は、外人恐怖症の気があった。大蔵大臣時代にIMFの総会に行かざるを得なくなった時、「俺ゃ英語なんか喋れん」と周囲に泣きついた経験さえあった。
これはアメリカの嫌がらせか? アメリカが俺を拉致して、狂人だらけの病棟にでも連れ込んだのか。
「誰でもいいから、日本語を話せる奴を出せ!」
一喝すると、今度は男たちがきょとんとした。
チビが「ああ、まだ治っていらっしゃらない」と頭を抱える。デブは「総統、お気を確かに」とまた叫び出す。
ん?
こいつら、日本語を話しだしたぞ。いや、待て、発音が日本語じゃない。明らかに日本語ではないが、分かってしまうし、俺も話せる。
「お前ら、一体誰なんだ」
混乱する頭を無理やり切り替え、現状を理解しようと問い詰める。呼応するようにデブとチビがわめきだした。
「総統、ゲーリングでございます!空軍総司令官にしてプロイセン首相のゲーリングですぞ」
「わたくし、ゲッベルスのことは覚えていらっしゃいますでしょう」
言葉を失った。上野辺りで買った古軍服を着て、歴史上の人物になり切る――その手の好事家の存在は耳にしたことがあったが、こいつらはやけに芝居に入り込んでいる。まともじゃない。
「訳が分からん。目白に帰らせてもらう」
彼らを押しのけて、病室を出ようとする。壁にかけられていた鏡を横切った刹那、異物が目に入った。立ち止まり、数秒思考が沈黙する。待て、待て、待て。
こわごわと鏡をのぞき込む。
「・・・」
身長が10センチほど伸びていた。
「・・・・・・」
大蔵大臣時代に生やしていたチョビ髭が復活していた。
「・・・・・・・・・」
髪の後退具合も改善している。見事な7・3分けだ。
「・・・・・・・・・・・・」
目を何度もパチクリさせたが、一向に鏡に映る姿は変わらない。そこにいたのは、まぎれもなく、世紀の独裁者、アドルフ・ヒトラーだった。
キングサイズのベッドで、角栄は横たわっていた。鏡の前で、いくら頬をつねっても夢が覚めることはなかった。夢なら早く覚めてくれ。もうたくさんだ。角栄は坊主の類を信じないタチだったが、神仏に拝みたくなった。もしかして、罰があたったのか。ええい、誰に謝ればいいんだ。あの新宗教か。もう法華経を唱えるヒトラーなんて言わんから、日本に戻してくれ。
「総統はお疲れなのです。これらの言動は一過性の症状ですから、まずは休んでいただきましょう」
モレルとかいう医者が周囲をなだめた。医者というのにでっぷりとしていて、不快な感じがする。だが、この時ばかりは心の底から感謝した。
「頼むから出てってくれ」
角栄はモレルの言葉を継ぐように、しっしと追い払った。角栄ただ一人だけが取り残された。
病室は妙にだだっ広く、静寂が場を支配した。すると今度は無性に恐怖に駆られてきた。
俺は本当にタナカカクエイなのか。俺こそが狂人なんじゃないか。総理に成り上がるまでの立身出世は、全て胡蝶の夢だったんじゃないか。
ベッドのそばには、書類と、新聞が積み上げられていた。気を紛らわせるためにファイルを適当に開くと、「戦時体制の基盤としてのドイツ経済」と題された報告書が挟まれている。
ダス? イヒト? あぁ、こりゃドイツ語か。不思議とすらすら読めた。
角栄は数字で酒が飲めると周囲に語るほど、データ・ディレッタントの一面を持ち合わせていた。帰宅して仮眠をとると、深夜の2時、3時に目覚めて、資料を読み漁り、知識を蓄えた。日頃、演説やインタビューで細かい数字が流ちょうに出てきていたのは、隠れた趣味の恩恵でもあった。
食い入るようにページをめくる。最新のドイツの国内総生産はいい調子のようだ。しかし、総生産増加分の半分近くが軍事費に充てられていた。これではせっかくの景気も中折れしちまう。さらに、国家支出に占める軍事費の割合を見ると、思わず二度見してしまうような数字が書かれていた。この国は支出の約7割を軍事費につぎ込んでいた。ちなみに、角栄が首相をやっていたころの日本の防衛費はGDP比1%未満だった。
重工業を回すために不可欠な鉄鉱石や石油の調達量は、急速に減りつつあった(石炭を除いて)。合成ゴムや合成ガソリンの生産率も、目標値とやらを大幅に下回っている。
客観的にみて、この国の経済は奇跡が起きなければ、今すぐにも崩壊しそうな気配を漂わせていた。こんな国の指導者は大変だねぇとファイルを脇にやろうとしたところ、1枚の紙がはらりと落ちてきた。
そこには、「機密!」と注意書きされた上で、英仏や北欧、バルカン諸国の外貨保有高やら資源算出量やら記載されていた。書かれている内容は、無機質な数字の羅列に過ぎない。だが、角栄の脳細胞は一本の線をつないだ。
つまるところ、だ。この国は軍隊に一点張りして、対外収奪に乗り出そうとしている。恐るべき原始的思考! 冷汗が出るほどの非経済的思想! 角栄は言葉少なにつぶやいた。
「俺ならもう少しうまくやるがねぇ」
続いて新聞を読み始めた。日付は1939年11月30日。1面の見出しは「ソ連、フィンランドに宣戦布告」とな。また別の新聞を開くと、ドイツが申し入れた休戦をイギリスとフランスが拒否したとあった。そうか、このころはもう、欧州じゃ戦争が始まっていたな。
30年前か。30年前はちょうど何をしていたんだったか。徴兵検査で甲種合格した角栄は騎兵として満州で兵役についた。最初は古兵が苛めてきて辛かった。大勢が死んだノモンハンには動員されずに済んだのが、不幸中の幸いだった。
ふと、鏡を見た。仮に自分の精神がマトモで、田中角栄たる人格がヒトラーに憑依していたとする。このヒトラー氏は俺の知る歴史では、畳の上で死ねなかった。畳どころか燃え盛る地下壕で最期を遂げていた。このままいけば、俺は6年後に同じ結末を遂げることになる。
もう、そろそろ夢なら覚めてもいいんじゃないか。これは果たして夢か現か。覚悟を決めて確認することにした。
病衣に手を突っ込み、己の睾丸を握り締めようとする。そして、悲鳴をあげた。あるべき球体が一つしかなかった。勘弁してくれ、俺ゃこんな体じゃないぞ。
もはやこの状況を受け入れるしかなくなった。