第28話 目標八〇キロ
ときは二ケ月ほどさかのぼる。
夜の闇が静かにフランス北部の田舎を包んでいた。冷たい風が麦畑の上を吹き抜け、遠くにある町の教会の鐘が小さく鳴る音が聞こえる。村のはずれに住む農民、ピエールはランプの光で古びたテーブルの上に広げた新聞を読んでいた。記事には独仏に支援された英軍がロンドンを奪取した話が書かれている。
そのとき、家の外から地鳴りのような音が聞こえた。大地がわずかに震え、牛たちが不安そうに啼く。ピエールは耳を澄ませた。それは近づいてくる列車の音だった。しかし、この音は普段聞き慣れた貨物列車や旅客列車の音とは違い、重々しく、鈍い金属音が混じっていた。
「今夜は遅い時間に列車が走るのか」
彼は呟きながら、窓辺に立った。遠くの鉄道線路を見下ろす小高い丘の上に家が建っているため、夜の闇の中でも線路の様子をうっすらと捉えることができた。
高い鉄道橋を横切るその影が視界に現れると、彼の心臓は跳ね上がった。深紅に彩られたその列車は、今にも地上から飛び立ちそうな速さで線路を駆っていた。ピエールはその場に立ち尽くし、信じられない思いで目を凝らした。
列車の先頭に掲げられた黄金のライヒス・アドラーが鈍い光を放った。欧州改造計画の成果物たる、ブライトシュプールバーンをやや縮小させた発展形だった。無数の車両が連なり、その車両には何か異様なものが覆われている。刹那、強風が覆いをあおり、中の一部が確認できた。巨大な鉄の塊――それは、砲身や砲塔の部品のようだった。問題はその砲身が、分割されているというのに規格外の大きさだということだ。ピエールは積み荷が放つ禍々しさに息を呑んだ。
「モン・ディユー……」
彼は思わず呟いた。その声は風にかき消され、誰にも届かなかった。
列車はすでに姿を消し、周囲には再び静寂が訪れた。しかし、それは以前の穏やかな静けさではなく、重苦しい残響だった。ピエールはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて顔を叩いて、家へと歩き始めた。彼は、すでに寝入っている妻や息子に今見た景色を伝えないことを決めた。厄介ごとには巻き込まれないのが一番だ。
◇
春の北海は、冬の嵐が嘘に思えるほど穏やかな表情を見せる。
赤衛義勇艦隊――言うまでもなくソ連海軍の主力――を率いるゴルシコフ提督は、旗艦ソビエツキー・ソユーズの艦橋で仁王立ちしていた。艦橋の窓越しに広がるロンドン沖の暗灰色の海原は、波が低いにもかかわらず、どこか不気味な静けさをたたえていた。
「レーダー室より艦橋。大型艦を捕捉。真方位二二五度方向に複数の反応を探知。感度上昇中。敵艦隊らしい」
レーダー室からの報告は、艦橋にいる全員の耳を刺し、瞬間的に沈黙を生み出した。ゴルシコフは椅子から立ち上がり、鋭い視線を向ける。
「確認を繰り返せ」
次の報告はより詳細になった。
「敵艦隊、大型艦一隻を先頭にティルベリー港の方角に向かっています。進路を変える様子はありません」
どうやら、モスクワが送ってきた情報は本物だったらしいな、とゴルシコフは思った。ヒトラーが日本人の艦隊に乗ってロンドンへ向かうところを襲撃せよ、と指示を下された当初、ゴルシコフは正直言って半信半疑だった。モスクワはヒトラーが自身を「騎兵隊」に見立てる政治的効果を狙っていると説明したが、ゴルシコフからしてみれば、飛行機で渡ればいいところをあえて危険を冒す理由が分からなかった。
だが、実際に日本人の軍艦が現れたとなれば、受け入れるしかない。ヒトラーが乗っているかどうかは分からないが、現場としては命令に従って撃沈さえすればいい。
「海上に複数の漂流物を確認」
若い士官の報告に、ゴルシコフは眉をひそめる。
「機雷か」
「いえ、爆発の恐れはなさそうです」
ゴルシコフは小さくため息をついた。頭の中は、欧州一の独裁者を仕留めるための算段でパンクしそうで、細かいことに構う余裕はなかった。
「無視して進め」
ソユーズ四姉妹は腹を空かせた肉食獣の如く、単縦陣で日本艦隊目掛けて突撃した。ロジェストヴェンスキーの借りをここで返してやる。ゴルシコフは窓越しに暗い海を睨み続けた。その視線の先にはまだ何も見えない。だが、目を凝らせば、敵戦艦の巨大な艦影が海霧の向こうに浮かび上がるような錯覚を覚えた。
敵戦艦に対して有効射程距離に入ったとの報告を受け、ゴルシコフは砲戦開始の号令を下した。「ソビエツキー・ソユーズ」の前部甲板に閃光が走った。基準排水量六万トンの巨体が痙攣するように震えた。「ソビエツカヤ・ウクライナ」以下も続けて主砲を発射し、海面におびただしい発砲炎が咲く。
三六発もの四〇センチ砲弾が大和に向かって降り注いだ。これだけの数だ。夾叉どころか初弾命中も期待できるかと皮算用していたところで、ゴルシコフは不思議な音を耳にした。
頭上を通過する特急列車のような唸りが響く。大気を切り裂く飛翔音。考える間もなく、ソビエツキー・ソユーズ近くの海面が大きく盛り上がり、直後、水柱が空高く上がる。
「なぜだ」
ゴルシコフは唖然とした表情で呟いた。敵戦艦はまだ発砲していないんだぞ。どこからこの弾は来たんだ。
「レーダー室、いや、見張り、爆撃機の姿はないのか」
ゴルシコフがそう叫んだ直後、先ほどの飛翔音よりも禍々しい音が迫ってきた。黒い巨大な影が前方の海面に着水したと見えた瞬間、海水の壁が出現した。どこまでの高さがあるのか見えない。艦橋はスコールに巻き込まれたように一面、水飛沫で覆われてしまっていた。
一体何が起きているんだ。将来のソ連海軍総司令官の座に最も近いといわれてきたゴルシコフですらも、目の前の光景を理解できなかった。
砲弾が飛び交う海面をよく目を凝らせば、黒い波間に小さい点が浮かんでいることに気付けただろう。
それは、He115から放たれたドイツ軍の音響監視装置、ソノブイだった。海中を通る敵艦のエンジン音やスクリュー音を高感度の水中マイクロフォンが拾い上げ、リアルタイムで観測データを地上に送信していた。音波の伝播速度と到達時間を計算すれば、音源と各ソノブイの距離が分かる。三角測量の要領で、複数のソノブイが送信した位置データを同心円状に描けば、敵艦の推定位置が出てくるという代物だ。
原理自体は合衆国の沿岸測地測量局が一〇年ほど前に開発した無線音響測距法を応用したものだった。角栄から列車砲の戦力化を命じられたシュペーアが、こんなこともあろうかと音響学の専門家やクルップ社の技術者を動員して急場ごしらえで完成させた射撃管制システムだった。
ロンドン沖合から約八〇キロの地点、フランス北部のカレー湾岸には、鉄道の操車場かと見紛う景色が広がっていた。八〇センチ列車砲「グスタフ」「ドーラ」が並び、滑空砲仕様に改造されたクルップK5列車砲が一〇両展開されている。それぞれの列車砲は、専用のターンテーブルに設置され、素早く方向を変えられるようになっていた。給弾用のクレーン車輛がすぐそばに控えており、重量数トンにも及ぶ砲弾をスムーズに装填できる体制が整えられている。射程距離を延長するため、砲弾は矢に近い形状のペーネミュンデを採用し、その全ての砲口が北海を向いていた。
「弾着しています」
防波堤に設けられた臨時指揮所では、ヘッドホンを外した若い技術将校が興奮気味に報告した。彼の目の前には、数十台の解析装置が並び、それぞれのソノブイから送信される音響信号が青い光点として電子盤に表示されていた。
「敵艦隊、なおも健在。旗艦の推定座標を更新します」
通信士が、ソノブイから送られてくるデータを指揮車両へと送信する。指揮車両内は白熱の計算作業に包まれていた。観測員たちは計算盤に目を走らせ、弾道の修正値を求めた。列車砲が本来想定していない動態目標――しかも、八〇キロ先の海上にいる移動する戦艦相手に砲弾を命中させるのは、ソノブイを用いた射撃管制があっても至難の業だった。
「現在の目標速度、二二ノット。南南西に針路を変更」
観測班長が声を張り上げる。その横で弾道計算機に向かう技術士官たちが、砲の角度と装薬量を微調整していた。
「気圧、気温、風速を修正値に反映。偏差プラス四度。確認」
砲手たちは砲身の角度をゆっくりと修正していく。その動きは、列車砲全体の重量感と相まって、まるで鋼鉄の巨人が目を覚ますようだった。
ソノブイの情報は途切れることなく更新されていた。リアルタイムのデータが無ければ、この射撃は成り立たない。目標が移動するたびに、新たなデータが送られ、計算が更新されていく。
「フォイヤ!」
大地が震え、音波の衝撃が周囲に広がる。砲兵たちは一斉に耳を塞いだ。そして、八〇センチ列車砲の砲身は鈍くうなりを上げ、砲弾が青空を裂いて飛び出した。その振動は地面を揺るがし、数キロ先でも爆音として響いた。続いてクルップK5の砲撃が始まった。発射音は八〇センチ列車砲ほどではないものの、連続的な射撃が周囲の空気を震わせた。
砲弾は空を駆け、目標へと向かう。すべての者が息を呑んでいた。
「弾着まで一五秒」
観測班長が時計を睨む。その時間は永遠にも思える。砲弾は波間に閃光を放った。偵察機からの無線が響く。
「目標近辺に着弾。至近弾。次弾の修正を提案」
データは再びソノブイから更新される。修正値が伝えられ、列車砲は再び動き出した。
ゴルシコフが事態をようやく把握したのは、観測機から大陸側より発射炎が連続しているとの報告を受けてだった。どんな魔法を使ってここまで砲弾を飛ばしてきているんだ。
「卑怯だ」
ゴルシコフは思わず口走った。止むことのない水柱に、艦橋の空気は冷え込んでいた。まだ被害は出ていないが、それは時間の問題だと誰もが感じていた。
「どうされますか」
艦橋の空気を代表するかのように、参謀長がゴルシコフに伺いを立てた。明らかに義勇艦隊は敵の罠に嵌まりつつあった。
ゴルシコフは一瞬思案した後、顔を前方に向けた。そして、大和を見据えて言う。
「砲撃を続けろ。我々が全滅してもヒトラーさえ殺せればいい」
だが、ゴルシコフの気迫を打ち崩すように、強烈な衝撃が唐突に襲いかかり、彼と艦橋要員を壁や床にたたきつけた。鈍い爆発音が艦の後部よりとどろく。クルップK5から打ち出された砲弾は、ソビエツキー・ソユーズの後部甲板をうがち、水上機格納庫を破壊した。火花と煙が甲板を覆い、炎が瞬く間に広がっていく
「応急処理班、消火作業を急げ!」
頭から血を流した艦長が叫んでいた。ゴルシコフは起き上がりながら考えた。一発当たってしまったということは、マズい。敵が正確に義勇艦隊の位置を捕捉し始めたということだ。つるべ打ちされれば、深刻なダメージを負いかねない。ゴルシコフが転舵の指示を出そうとした瞬間、先ほどの着弾をはるかに上回る、そのまま天国へと誘ってくれそうな衝撃が、全艦を揺るがした。
山口多門は素早く双眼鏡を構え、ほんの少し前まで戦艦だったフネを見た。
敵の二番艦、おそらくソビエツカヤ・ウクライナと呼称されるソユーズ級は、列車砲――それも八〇センチの直撃弾を食らい、左舷に大きく傾斜していた。重量約七トンの凶器は甲板をやすやすと貫通。艦底近くまで突進した後、信管を作動させ、推進軸を破壊し尽くした。一目で沈没は免れないとわかるほどの被害状況だった。
これで、敵の戦艦は残り三隻。二番艦の惨劇を目の当たりにしても、敵の指揮官は作戦を中止するつもりはないようだった。降り注ぐ砲弾を潜り抜けながら、大和目掛けて突進し続けている。
「長官、本艦の射撃はいかがしますか」
大和艦長の森下信衛大佐は早く撃たせてくれ、というニュアンスを込めて山口に尋ねた。
すでに義勇艦隊は大和の有効射程に入っている。撃とうと思えばいつでも撃てるだけの準備は整えていた。だが、列車砲の射撃管制の肝であるソノブイの観測が乱れかねないため、地上班から許可が下りるまで、大和は射撃を封じられていた。
山口は苦笑しながら「大和の出る幕はないかもしれんな」と言った。このまま順調にいけば、大和は一発もタマを撃たずに撃滅できるかもしれない。実際、敵艦隊には直撃弾が続いている。爆沈したソビエツカヤ・ウクライナ以外にも、旗艦ソビエツキー・ソユーズは甲板が炎上しており、回避行動を取っていた。ほぼ垂直に近い形で砲弾を食らった三番艦ソビエツカヤ・ベロルーシヤも、前檣楼が傾き、黒い煙を上げている。無傷なのは旗艦をかばう形で先頭に躍り出た四番艦ソビエツカヤ・ロシアぐらいなものだ。
だが、山口は自然と唇を痛くなるほど噛みしめていた。
口惜しい。大和に撃たせてやりたい。
そんな思いで身がよじれるほど葛藤していたところ、観測員が声を上げた。
「味方の弾着が乱れています」
「なんだと」
確かに、水柱が敵艦隊から大きく外れるようになっていた。見当はずれといってもいいほどだ。二発、三発とそれが続いているのを見て、山口は異常を察した。列車砲の射撃管制に何かが起きている。ソ連艦隊も遠からず気付き、混乱から回復するはずだ。
山口は即座にドイツ側の作戦計画が破綻したと判断した。事情を確認している暇はない。通信士に向かって呼び掛けた。
「地上部隊に本艦の射撃許可を要請しろ」
通信士が「了解」と応じた直後、艦橋に佇んでいたヒトラーは海戦が始まって以来、初めて口を開いた。
「いや、提督、構わんッ」
振り向いた山口に向かって、ヒトラーはこくりと頷いた。
「責任は俺が取る。存分に撃ちたまえ」
その言葉に山口は目をかっぴらく。総統閣下のご印籠とくれば、ドイツ人も文句は言えまい。
「感謝します」
そして、山口は、森下艦長に射撃許可を出した。
待ちに待ったという顔の森下は間髪入れず、「発射始め!」と叫ぶ。分厚い装甲に覆われた司令塔のスリットを通じて、一、二番主砲が発砲した強烈な光が飛び込んできた。続いて、轟音と振動がつま先から頭のてっぺんまで駆け上る。発砲の瞬間、山口はヒトラーが赤子のように無邪気に笑っているのが見えた。
この瞬間、戦艦大和を中核とする遣欧艦隊は戦闘に突入した。
「たかが一隻の戦艦で何ができる」
ゴルシコフは大和の発砲を見て、舌なめずりした。ソビエツキー・ソユーズは列車砲の砲弾を四発被弾していたが、致命傷ではなかった。大型弾が直撃したソビエツカヤ・ウクライナはどうしようもなく不運だったというだけだ。
ゴルシコフは極めて冷静に戦況を理解していた。一〇分ほど前から敵の射撃が乱れに乱れている。これまで逃げる一方だった日本艦隊が歯向かってきたのは、何らかの事情で地上部隊による長距離射撃が不可能になったために違いない。
この戦場にいる人々が知る由もないが、ソノブイの音響データが正確に送られなくなったのは、艦隊決戦が引き起こす騒音がドイツ人研究者の想定よりもはるかに大きかったためだった。もっとも致命的だったのは、ソビエツカヤ・ウクライナの爆沈で、彼女が死の際に放った轟音と衝撃波が、いくつかのマイクロフォンを故障に追いやった。これによって、各列車砲に提供される座標推定の精度が低下し、アウトレンジでの攻撃が不可能になっていた。
厄介な陸からの攻撃さえなければ、数を活かして主導権を握れる。ゴルシコフは全艦に指示を出した。
「距離を縮めて敵の戦艦を撃て」
その瞬間、大和が放った九発の砲弾は、先頭を走っていたソビエツカヤ・ロシアに降り注ぎ始めた。水飛沫の位置から判断するに近弾だ。ゴルシコフは舌打ちした。ヤポンスキーめ。接近しているとはいえ、良い腕をしている。
次弾でソビエツカヤ・ロシアに複数の命中が出た。第一砲塔と第二砲塔の間に黒煙がもうもうと吹き上がる。だが、ソユーズ級は水線部には最大四二〇ミリの重厚な装甲が張り巡らされている。かすり傷程度だろうとゴルシコフは気にも留めなかったが、通信士の悲鳴で顔色を変えた。
「ソビエツカヤ・ロシア、第一、第二砲塔が旋回不能です!」
「なぜだ」
ゴルシコフは死人のように顔色を白くした。そして、憎たらしいほどに吠え続ける大和を双眼鏡で凝視した。大和が主砲を発射するたびに、ソユーズ級に被害が生じていた。
額から流れ落ちる汗が目に流れ込んだ。痛い。思わず顔をしかめる。
あれが四〇センチ砲だと。ヤポンスキーのペテン師野郎め。やりやがったな。
大海蛇が絡み合うような海戦を眺めながら、角栄は子供のころの夢が叶ったなぁ、と思った。
家族の事情で海軍入隊は諦めたが、かつてはスマートな海軍、それも巡洋艦の艦長になりたいと志していたものだった。もっとも、いま、自分が乗り合わせているフネは、巡洋艦なんかよりはるかに大きいけれど。
ソビエツキー・ソユーズとソビエツカヤ・ベロルーシヤは、いまだに戦意を失っていなかった。砲口に閃光がきらめき、巨砲が大和に迫り来る。鼓膜を突き破るような音と衝撃に、角栄はジッと耐えた。
森下はすぐさま被害状況の確認を命じた。士官の一人が高角砲座の一部が破壊され、火災が発生したことを伝えた。
どうにも海戦というものが分からない角栄は、ちらりと山口の顔を窺った。視線に気づいた山口は、荒々しい笑顔を浮かべた。
「ご安心ください。戦艦はこれしきで沈みません」
お返しと言わんばかりに、大和はソビエツキー・ソユーズに向かって撃ち返した。第九斉射でソビエツキー・ソユーズの後部甲板を抉ったかと思えば、次の砲撃で予備射撃指揮所をスクラップに変えた。一方の大和は、操艦の名手と謳われた森下の指揮のもと、被弾を最小限にとどめていた。
決定打となったのは、ソビエツキー・ソユーズの手前に水柱を上げた九一式徹甲弾だった。ゴルシコフが外れたと安堵した直後、着水のショックで先端の尖った風帽が外れて水中を直進。艦底近くの舷側を突破して、水密区画を幾重にも食い破った後、炸裂した。帝国海軍が密かに研鑽を重ねてきた水中弾効果によって、ソビエツキー・ソユーズの艦内に大量の海水が流れ込む。
こうなっては巨艦といえども、どうしようもなかった。ゴルシコフはソビエツキー・ソユーズの乗員に総員退艦を命じた後、航行可能な残存艦艇に対して撤退を命じた。
◇
曇り空の下、ロンドン近郊のティルベリー港には異例の興奮が渦巻いていた。戦争に疲弊した英国市民たちは、久々の希望に胸を踊らせ、港を埋め尽くしていた。
プリンス・オブ・ウェールズを沈めた、憎きソ連艦隊に痛撃を与えた戦艦。復讐を成し遂げたというだけではない。ソビエツキー・ソユーズ級戦艦は二隻沈み、残る大破相当の二隻も再び戦場に出るまでに、かなりの時間を要するのは明白だった。北海の制海権をソ連は失ったも同然だった。
ティルベリー港には早朝から人々が集まり、波止場や桟橋、さらにはその周辺の建物の屋根まで人で埋め尽くされていた。小さな子どもを肩車する父親や、海軍の制服を誇らしげに着る退役軍人、旗を振る女性たち。皆がひと目、大和の入港を見届けようと息を潜めて待っていた。
「見えたぞ!」
誰かの叫び声があがると、人々の視線は一斉に海へと向けられた。灰色の霧の向こうに、巨大な艦影がゆっくりと現れる。被弾の跡は痛々しかったけれども、菊の御紋の輝きは失われていなかった。
人々のざわめきは歓声に変わり、波止場では拍手が湧き起こった。
大和は、曳船に導かれながらゆっくりと港へと進む。その甲板には、帝国海軍の士官と乗組員たちが整然と並び、凛とした姿勢でイギリス市民に敬意を示していた。
波止場には、チャーチル前首相の姿もあった。彼は特徴的な葉巻をくわえながら、桟橋で待ち構えていた。
目当ての人物は、ほどなくして姿を現した。
アドルフ・ヒトラーは観衆に向かって右手をヒョイと上げた。そして、大和から英軍のカッターに乗り移り、桟橋でチャーチルと対面した。波止場にはイギリス海軍の儀仗兵が整列し、軍楽隊が「ドイツの歌」の演奏を披露している。
今度は、チャーチルの方が先にヒトラーの手を握った。
「ようこそ大英帝国へ、総統閣下」
ヒトラーは疲れがにじんでいた顔を、瞬時に稚気あふれるスマイルに切り替えた。そして、がっしりと握り返す。
「まぁそのォ、英国は意外と遠かったですナッ」
【あとがき】
ご無沙汰しています。残り2話となりました。
製本版を下記で頒布しています。残り10部ほどです。
https://invalides.booth.pm/items/6425824




