第27話 さぁ働こう
冷たい夜の風が高い石壁を吹き抜ける中、一台の黒いメルセデス・ベンツが門をくぐり抜けた。車の前照灯が石畳を照らす。
ラインハルト・ハイドリヒは後部座席で黒い革手袋をはめた手を弄った。青い瞳は夜空に溶け込むヴェヴェルスブルク城を見つめている。
城の中庭に車が止まると、運転手が素早く降りてドアを開けた。ハイドリヒは背筋を伸ばして立ち上がり、重々しいブーツの音を響かせて城内へと向かった。
彼を迎えたのは、金髪、碧眼、長身を兼ねそろえた選りすぐりの親衛隊員たちだった。整然とした敬礼の中を進むハイドリヒは、一切の感情を表に出さない。彼の背後では巨大な門が音を立てて閉じられ、外界から完全に隔絶された。
城の内部は異様だった。
壁の至るところに不気味な文様が刻まれ、天井には黒い太陽が彫り込まれていた。ハイドリヒは靴底で石畳を叩きながら、一歩一歩ゆっくりと奥へ進んだ。
廊下の途中、彼は短剣を手にしたザクセン王ハインリヒ一世の彫像の横を通り過ぎた。その彫像の目は奇妙に生気を持つように見え、ハイドリヒは一瞬だけ視線をそらした。何か無言の力がこの場所全体を支配している感覚が脳裏をかすめる。しかし、ハイドリヒは表情を変えずに歩き続けた。
やがて、城の北塔に到着した。二人の親衛隊員が無言で扉を押し開けると、冷気が流れ出てきた。その奥には広大な円形の部屋が広がり、壁にはルーン文字の入った古びた石版が並んでいた。部屋の中央には石造りの台座があり、その上には蝋燭が不気味な赤い光を放ちながら揺れている。
台座の向こうには、黒いローブをまとった人物が立っていた。フードを深く被り、その顔は影に隠れて見えない。ハイドリヒはその場で直立して声を上げた。
「ハイドリヒ、ただいま到着しました」
ローブをまとった人物は微動だにせず、静寂が部屋を包み込む。蝋燭の炎が不規則に揺れ、壁に映る影が踊るように動く。その沈黙は重苦しく、時が止まったかのように感じられた。
やがて、ローブの人物がゆっくりと手を上げ、フードを下ろした。その顔が現れると、ハイドリヒは短く息を呑んだ。
ミュンヘンでの爆発テロ以来、長らく植物人間になっているはずの男が、そこにはいた。
◇
スコットランド北部の炭鉱跡。風は冷たく、標高の高さを感じさせる空気が肌に突き刺さる。
眼下には、広がる谷間と遠くの町が小さな点となって見えるだけで、周囲の景色はほとんど雲に隠れている。ここに足を踏み入れる者は少なく、遠くの世界とは隔絶された場所に、特殊な任務を与えられた男たちが詰めていた。
赤軍参謀本部情報局の暗号解読班は、かつて炭鉱の管理棟だった建物を改装し、英国における通信傍受の拠点として活用していた。建物のてっぺんにはアンテナがいくつも立ち、タイプライターのカタカタという音、無線機のノイズ、地図を指でたどる音が部屋を満たしている。壁には島全域の詳細な地図が貼られ、赤いピンが敵の進撃状況を示していた。
班長のアンドレイ・ヴィクトロヴィッチ中佐は、煙草をもみ消しながら、昼飯を食べている間に積みあがった決裁待ちの報告書に目を通し始めた。早くも吐き気を催す量だった。ソ連軍が英国の暗号解読拠点「ブレッチリー・パーク」を制圧した際、大量のデータを収奪できたことで、ソ連の情報収集能力は格段に向上していた。ブレッチリー・パークに出入りしていた数学者の残した資料をもとに、暗号解読班がドイツ軍の暗号機の解読にこぎつけたのも大きい。
敵はロンドンを奪還し、さらに北上の構えを見せている。戦闘が激化するにつれて、通信量は増加の一途をたどっていた。
机の上には今しがた運び込まれたドイツ軍やイギリス軍の無線通信記録が山積みになっている。その中で、アンドレイの目を引いたのは、数時間前にベルリンから発信された通信の一行だった。
――ヴォルフがアルビオンへ向かう
アンドレイはその文面を何度も読み返し、眉間に深い皺を寄せた。文中のいくつかの暗号単語は、解読チームが苦心して拾い上げたものだった。〝ヴォルフ〟はヒトラー自身を指す可能性が高い。そして〝アルビオン〟はイギリスを意味する暗号として何度か使用されていることが確認されている。
彼は椅子を後ろに引き、班員たちに声を張り上げた。
「全員、これに関連する通信文を拾い集めてくれ。ヒトラーの行動を割れるかもしれない」
一瞬、部屋の中が静まり返った。その後、班員たちは一斉に記録用紙をあさり始めた。
アンドレイの心臓は高鳴り、冷や汗が背中を伝った。この情報が事実ならば、モスクワに報告を上げる必要がありそうだ。そのためには、もっと精度を確認しなければいけない。
◇
モスクワ・クレムリン宮。
スターリンが巨大な円卓の中央に座り、周囲には最高幹部が顔を揃えた。机の上には最新の通信記録と分析結果が並び、緊張感が漂っている。
「同志諸君」
スターリンが低く響く声で会議を開いた。
「われわれは来週、ヒトラーがロンドンを訪問するという情報を掴んだ。それも、空路ではなく海路だ」
続けて、GRUの情報局長が詳細な分析結果を報告した。ヒトラーはフランスのブレスト港でフネに乗り、テムズ川河口に位置するティルベリー港に入港。あとは陸路で電撃的にロンドン入りを目指すという行程だった。
資料をざっと読んだフルシチョフが鼻をつまみながら言う。
「危険を冒してドーバーを渡る構図で、英国民の歓心を買うのが狙いでしょうか。あぁ、ロンドン沖といえば英独の軍艦が沈んだ海域ですな。あえて横切ることで海軍の健在ぶりを見せつける魂胆か。いずれにせよ、ずいぶん芝居っ気が強いですな」
「あの男はそういう人間だよ。演出が政治だと勘違いしている」
スターリンは深く頷いた後、情報局長に尋ねる。
「ロンドンでの行程は判明しているか」
「英国メディアに潜伏している諜報員が、バッキンガムで宮中行事が準備されていると報告してきています。おそらく、ヒトラーはジョージ六世と謁見する可能性が高いかと」
モロトフが口を挟んだ。
「その場で共同声明を発表することが考えられますね。軍の増派や兵器の追加提供を手土産にするのではないでしょうか」
さらに割って入るようにフルシチョフが椅子を少し前に引き寄せ、熱っぽく発言した。
「これは二度とない機会です。フネごと沈めてしまえれば、ヒトラーを抹殺できます。海軍を派遣すべきです」
「どうかな、同志提督。君の艦隊は任務を遂行できるか」
スターリンが鋭い目で海軍人民委員のクズネツォフを見た。クズネツォフはやや緊張した面立ちで言った。
「もちろんです。ソユーズ級はファシスト海軍のいかなるフネよりも優位に立っています」
「それは、大和よりもか」
思わぬ問いかけにクズネツォフは動揺した。スターリンが出した軍艦名は意外なものだった。ビスマルクは今もドック入りしているとはいえ、なぜ、ティルピッツではないのだろう。
「ヤマト。ヤポンスキーの新型戦艦ですか。ヒトラーはそのフネに乗るのですか」
スターリンは腕を組んで言う。
「あの男は役に立つものは親でも使うよ」
「なるほど。ヤマトは確かに脅威ではあります。ですが、ソユーズ級四隻を集中投入すれば、確実に撃破できるでしょう。主砲についてもソユーズの四〇センチと同クラスのようですし」
部屋の空気が熱を帯びる中で、モロトフが挙手して再び発言の機会を求めた。その顔は強張っており、お追従でないのは明らかだった。
「少しお待ちください。仮にヒトラーの殺害に成功した場合、指導者を失ったナチスが暴走する可能性があります。全面戦争に発展しかねないと考えますが」
スターリンはモロトフの言葉をジッと聞いた。そして、ゆっくりと姿勢を正し、低く、しかし明確な声で話した。
「君の懸念は理解できる。しかし、あの男がいる限り、枕を高くして寝れる日は永遠に来ない。この世界の秩序は崩壊し続ける。選択肢はないよ」
スターリンの有無を言わさぬ迫力を前に、フルシチョフは俯きながら小声で「異議なし」と答えた。モロトフは一体何がスターリンをここまで突き動かすのか疑問に思いつつも頷き、他の幹部たちも次々と同意を示した。スターリンは目を細めながら問いかける。
「同志クズネツォフ、我々の艦隊はいつ出撃可能か?」
「二四時間以内に準備が整います」
「素晴らしい」
スターリンが力強く締めくくった。
「同志諸君、さぁ働こう」
◇
空は重い灰色の雲に覆われ、時折、切れ目から薄い光が漏れ出す。
旭日旗を掲げた軍艦の艦首が海面を切り裂き、巨体の象徴たる波紋が後方へと広がった。
――厄介なお客だな。
山口多門遣欧艦隊司令長官は、戦艦大和に現れた客人に目をやりながら思った。
艦橋の一角で、アドルフ・ヒトラーは扇子を羽ばたかせながら、鋭い眼光で海の彼方を睨んでいた。期待と焦燥が入り混じった表情を浮かべ、頬は微かに紅潮している。ブレスト港を出港して以来、彼は一言も発せず、ただ海を見つめ続けていた。
できればあてがった部屋でおとなしくしていてほしかったが、ヒトラーに「艦橋を視察したい」といわれれば、拒否する言葉を山口は知らなかった。
山口は制服の胸元を直し、ゆっくりとヒトラーの側に進み出る。
「まもなく北海に入ります」
「ン、ありがとう」
ヒトラーの声は低く、落ち着いていたが、確かな自信に満ちていた。
山口は目の前の男の精神状態を疑わしく思った。大和を中核とした遣欧艦隊は並みの相手であればねじ伏せられるだろう。だが、いま、我々が挑もうというのは、四隻もの四〇センチ砲搭載艦だ。一、二隻と刺し違えるのは朝飯前としても、四隻ともなれば、苦戦を免れないように思えた。
ドイツ人は、陸からの長距離射撃で支援すると伝えてきていたが、山口はその言葉を信用していなかった。都市に砲弾を撃ち込むならまだしも、一〇〇キロ先の動態目標を正確に射抜ける技術を山口は聞いたことがなかった。第一、そんなことが可能になれば、戦艦なんて艦種は不要になるではないか。結局は、この大和と帝国海軍が大立ち回りを演じるほかない。
――まァ、なんとかなるだろ。
二人の脇では、身長の高い主計中尉が艦橋要員に戦闘糧食を配っていた。スマートな顔立ちの中尉は、山口に竹皮に包まれた握り飯を手渡した後、ヒトラーをチラリと見て思案顔をした。果たしてドイツ人に配ってよいものか、赤門出の頭を振り絞っている様子だった。
視線に気付いたヒトラーは、「俺ももらうよ」と言って、握り飯をむんずとつかんだ。かと思えば、その手は空中でピタッと止まり、ヒトラーは中尉の顔を食い入るように見入った。
「キミッ、生まれはどこだ」
中尉は手を震わせながら答える。
「はッ。群馬です」
その答えに、ヒトラーは感嘆と唸り声の中間の声を上げた。
「やはり上州か。いい面構えをしている」
ヒトラーは中尉の肩を叩いた。緊張気味の中尉は電撃に打たれたように跳ね上がり、わずかに声を絞り出した。
「お口に合えばよろしいのですが」
「いただくよ」
そういってヒトラーは握り飯にがぶりと食らいついた。狭い艦内で運びやすくするため、定番の三角形ではなく、長方形にならした平べったい形をしていた。添えられているたくわんもシャキシャキとかみ砕き、瞬く間に平らげる。
「中曽根中尉、他の者にも配ってやれ」
山口の助け舟でホッとした顔を浮かべた中尉は、見事な海軍式敬礼して立ち去った。ヒトラーはその背中を、目を細めて見送った。
「友軍機が通過します」
観測員から報告が上がった。艦橋の視線が空に向かう中、ヒトラーもツァイス製の双眼鏡で覗き込んだ。バルケンクロイツを掲げた水上双発機He115の編隊がロンドン沖へと向かっていた。機雷敷設の任務によく充てられていた機種だった。腹部には円筒の筒をぶら下げており、水生生物が卵を抱える様を思わせた。
ヒトラーは上機嫌に口笛を鳴らし始めた。山口は、そのメロディーが内地で最近流行している「湯島の白梅」のメロディーに聞こえて仕方がなかった。気がおかしくなりそうだったので、あまり深く考えるのを止めた。
【あとがき】
ブックマークが3千件を超えてちょっぴりうれしいです。
ありがとうございます。
明日のコミケでは、紙媒体に加えて、何かペーパーでも頒布しようと思います。
ご興味があれば東ポ-30b「敗兵院工房」まで。




