第26話 ジャポネ、ジャポネ、ジャポネ
ドゴールは、肩に重苦しさを感じながら席についた。
会議室の空気は、鉛のように重く沈んでいた。長方形のテーブルを囲む閣僚たちは、それぞれ硬い表情を浮かべ、置かれた資料に目を落としていた。だが、誰一人、ページをめくる手は動かない。前世の総統地下壕もこんな景色が広がっていたんだろうなとドゴールは思った。
ベルリンへの招集がかかったのは、ロンメルとともにロンドン市街地へ部隊を突入させようとする寸前だった。前線の指揮所に突然現れたスコルツェニーSS大佐は、「お偉方は将軍のご意見を拝聴したいそうです」と告げた。一度は拒絶したドゴールだったが、スコルツェニーが示した出席リストを見て、考えを改めた。そこにはアドルフ・ヒトラーの名前が載っていた。
あの男と接触する千載一遇の機会を逃すわけにはいかない。ドーバー海峡を渡ったのは、そういう経緯があった。
部屋には軍人のみならず、文官の顔もあった。その大半が条約機構を牛耳るドイツ人だった。この会議が儀式的な平場ではなく、戦争指導の方針を決める非公式会合という性質を如実に表していた。フランス人の自分が居合わせているのが場違いに感じられた。
会議室の酸素濃度が薄くなってきたころ、ようやく扉が開いた。
「ヤッ、どうもどうも」
ハイル・ヒトラーの掛け声が上がる中、ドゴールは一九四五年に自殺したはずの独裁者を見つめた。記憶にあった姿よりも、ふっくらとした顔つきになっている気がする。ヒトラーは右手を軽く掲げた後、机の中央に座った。
「じゃッ、さっそく報告を頼む」
承知しました、とアルベルト・シュペーアが立ち上がった。目元には深いくまが刻まれていた。昨夜から一睡もしていないのが明らかだった。
「本日、お集まりいただきましたのは、今後の戦争遂行に関して協議するためです。皆さんご承知の通り、昨日、満州の大慶油田が何者かによって爆破されました」
シュペーアは出席者に確実に聞こえるよう一段と声を大きくした。
「同じタイミングで、イランのアバダン油田とルーマニアのプロイェシュティ油田に対しても攻撃がありました。いずれもパイプラインなどの設備に破損が生じており、復旧には相当の日付がかかるとみられています」
次いで、シャハト経済相が鷲鼻を尖らせながら意見を開陳した。いつものような余裕は感じられない。手は、わずかに震えている。
「ドイツ国内向けには三カ月分の石油備蓄はありますが、これが尽きれば、国内物流が止まります。燃料不足で電力供給は不安定になり、企業の生産も止まるでしょう」
ヒトラーは「石油生産量、即時七〇%低下」と赤字で書かれた資料をめくりながら言った。
「博士、合成石油はどうだ」
「IGファルベンの首を締めあげても、賄えるのは四分の一ほどかと」
「もっといけるだろう」
「閣下、国民車の普及で欧州中の石油消費量が増大しているのです」
二人の会話に甲高い声が割って入る。宣伝相のゲッベルスだった。
「それよりもまずは、今回の攻撃をソ連によるものと早急に声明を出しましょう」
ゲッベルスはロシア人に対する差別的な罵倒をまくしたてた後、言葉を続けた。
「連中はラインを完全に踏み越えました。腐った納屋は蹴り飛ばすべきです」
「確たる証拠もなしに武力行使すれば国際社会の反発を買うのはこちらだ」
外相のリッベントロップは腕を組み、眉間に深い皺を寄せながらゲッベルスに反論した。
「すでにソ連は、今回の事件をドイツの自作自演と喧伝している。下手に動けば、ようやく回復してきたドイツの国際的な信頼も地の底に落ちる」
「共産主義者の恫喝を受け入れろというのか!」
ゲッベルスは机で拳を叩いた。その衝撃で書類とコップがかすかに跳ねる。二人は机越しに火花を散らした。
ヒトラーはそれらのやり取りを聞きながら目を閉じて一呼吸した。頭をわずかに後ろに傾けたその姿勢は、思考の深淵に入り込んでいる証だった。
「お前ら、力み過ぎだ」
ヒトラーは静かに目を開け、ゆっくりと立ち上がった。手をたたいて、「メシにしよう」と呼び掛ける。
出席者に配給されたのは、竹の葉で包まれた三角状の物体だった。一同が手を付けかねている中で、ヒトラーは包みを器用に解き、中に入っていた大きめのライスボールにガブリと食らいついた。
「腹ごしらえした方がいい考えが浮かぶもんだ」
先ほどまでのいさかいが嘘だったかのように、出席者はヒトラーの見よう見まねで食べ始めた。ナチスの幹部たちが一斉にかぶりつくさまは、あまりにも異様だった。ドゴールは隣の席のロンメルに小声で尋ねる。
「あなた方はいつもこんな調子ですか」
ロンメルは口いっぱいに白米をほおばりながら頷いた。何を聞いてきているのだ、と無邪気な顔をしていた。まともなのは自分だけか。頭がおかしくなりそうだったので、ドゴールも黙っておにぎりを食べ始めた。
五分後、腹が膨れていた出席者の表情は少し緩んでいた。それを見計らって、ヒトラーは話し始めた。その声は、部屋全体を引き締めるような響きを持っていた。
「諸君ッ。いいかッ、何度も言うが政治は結果だ。たとえ、舌を噛み千切りたくなるような状況でも、一つ一つ課題を棚卸ししていけば光も見えてくる。これから一カ月、休んでいる暇は一瞬たりともないッ」
一人一人の顔を見渡しながら続けた。
「リッベントロップ、合衆国から石油を輸入する算段をつけてくれ。シュペーアはシャハト博士と協力して備蓄配分を見直して、物流と電力供給への対応を最優先にするように。トート、トートはいるか。よし、お前の部下を油田設備の復旧に回せ」
矢継ぎ早にヒトラーが指示を出す最中、少しお待ちください、とシュペーアは資料の一ページを突き出した。スカンジナビア半島から英本土、そして、大西洋にまたがる太い楕円――ソ連海軍の活動範囲が描かれていた。
「しかし、総統。合衆国から輸入するとなれば、大西洋のシーレーンを確保する必要があります。まずはともかく、ソ連海軍の跳梁跋扈を止めなければ」
ヒトラーは深く息をついた。
「わかっとる。問題はソユーズ級だ。あの化け物さえ沈められれば、頭痛の種はなくなる。所在をつかむ必要があるが……」
重い沈黙に包まれたところで、ドゴールは初めて声を上げた。彼の祖先には遠縁ながらドイツ人の血が流れており、ドイツ語を話すことができた。
「暗号を使えばよろしいのでは」
一同が不審がる中で、ドゴールは続ける。
「あなた方の使っているエニグマ。英国での経験から判断するに、すでにソ連が解読している可能性があります」
ドイツ人がざわめく中で、ただ一人冷静さを保つヒトラーはドゴールの目を見据えた。言わんとすることをすでに理解している様子だった。
「それを逆手に利用すると」
「えぇ。上手くいけば、ロシア人を誘い出すことも可能でしょう」
「しかし、それにはいいエサを考えなければいけませんな」
ヒトラーは興味深そうに鼻を鳴らし、扇子を勢いよく広げた。視線はドゴールに吸い寄せられるように止まっている。その瞬間、ドゴールは立ち上がり、ヒトラーに語り掛けた。
「閣下、少し二人でお話できませんか」
ヒトラーは一瞬だけ黙った後、「よろしいでしょう」と頷き、休憩を宣言した。
別室に移動すると、そこには簡素なテーブルと、二脚の椅子が置かれていた。ヒトラーは少し椅子を引いて座り、ドゴールにも着座を勧めた。ドゴールは軍服の胸元を几帳面に整えてから、ドイツ語で語り掛けた。
「率直に伺います」
片眉を上げたヒトラーに対し、ドゴールは畳みかけた。
「貴方は誰です。貴方が、この世界の創造主か」
この言葉を聞いた途端、ヒトラーは電撃を浴びたように目をカッと見開いた。押し黙ったまま、ドゴールをつま先からてっぺんまで何度も確認する。先ほどの作戦会議よりも、ずっと深刻な表情をしている。一分ほどの沈黙の末にヒトラーは口を開いた。
「将軍、アンタも別の世界から来たのか」
「質問はこちらが先だぞ」
「分かった。俺から手札を見せよう」
そういって、ヒトラー、いや、角栄は率直にこの世界での歩みを語った。話を聞くにつれて、ドゴールの貴族的な顔立ちが崩れていく。最後は唖然の二文字だけが刻み込まれていた。
「つまり、なんだ。私が死んだ後の日本の首相だというのか。その人格がヒトラーを動かしていると」
対する角栄はあまり動じていなかった。かつて同じ問答を、銃を突き付けられながらしたことがあった。
「そうだ。ウン。トランジスターの商人の弟子といったところだ」
ドゴールは顔を両手で覆った。トランジスターの商人。たしかに、前の世界で日本の首相が来仏した時、フランスで日本製のトランジスターが売られていることを自慢げに紹介するものだから、側近に対して全く同じ陰口を叩いたことがあった。
おぉ、ジャポネ、ジャポネ、ジャポネ。東洋の島国の人間がヒトラーに入れ替わるだと。私が学生時代に書いて懸賞金を取った戦争仕立ての小説よりも荒唐無稽に過ぎるぞ。
気勢を削がれたドゴールに対し、角栄は形勢逆転と質問を飛ばし始めた。
「さぁて。俺は話したぞ。アンタはどこの何兵衛なんだ」
ドゴールはぽつぽつと語り出した。大統領退任後、田舎に引きこもって回顧録を書いていたある日、いつものように寝付いたら、この世界に来ていたと。唯一、転生の直前の記憶にあるのは、瞼に浮かんだ黒い太陽。そして、言語不明瞭なドイツ語の奏でだった。
角栄は猛獣に近い唸り声をあげる。
「俺と事情が違うな。本人が若返ったというわけだ。しかし、法則が分からん」
「元の世界に戻る方法は知らないのか」
角栄は呆れ声を上げた。
「そんなものが分かったらとっくに帰っとる」
二人は長い溜息をつく。ドゴールは天井を見上げて漏らした。
「ほかにも、同じ境遇の人間はいるものか」
「将軍。アンタの存在を知った今なら、思い当たるのが一人いる」
「ヨシフおじさんか」
「そうだ」
「スターリンは、我々のどちらのケースなのやら」
「それは大体の見当がついてきた」
ドゴールは飛び上がった。
「何ッ」
「スターリンが俺たちみたいな存在だと仮定すれば、たぶん、今回のやり口から察するに、前世で俺とやり合った奴だ」
「ジャポネか」
「ウン。貧乏神みたいな奴だ」
角栄の私情を聞き流しながらドゴールは思った。ドイツとソ連の指導者の中身が日本人だと。勝手に争ってくれ。俺を巻き込むな――と叫びたくなったが、本音を押し殺して言う。
「では、その男にも話を聞かんといかんな。そのためには、休戦交渉の場に引きずり出す必要があるが」
角栄はチョビ髭を面白そうにいじり出した。
「スターリンがあの爺さんなら、先ほどのアンタのアイデアに絡めて、一つ、良い手が浮かんだ」
角栄は膝を叩いて立ち上がり、そして高らかに宣言した。
「俺がエサになろう。あの男なら、きっと食いつく。俺を殺すために何でも差し向けてくるはずだ」
「しかし、釣り竿はどうする。下手すれば、竿ごと飲み込まれるぞ」
「滅多に沈みそうもないフネがある」
「どこに」
「ブレストに泊まっているじゃないか、一隻」
ロンメルは険しい表情で作戦計画をじっくりと読み込んでいた。
数時間前まで出席者がひしめいていた総統官邸の会議室は、今やロンメル一人となっていた。ロンメルはちらりと腕時計を確認した。本来はちょうど今ぐらいに飛び立つシュトルヒで英国の前線へ戻っているはずだった。
にもかかわらず、ロンメルが居残っているのは総統に直談判するために他ならない。時間調整のため、この部屋で暇を潰していた。
「死に急ぐようなものだ」
銀色のタバコケースを開きながら、ロンメルは低く呟いた。ドゴールとの密談後、角栄が準備を指示したソビエツキー・ソユーズ級戦艦を誘引するための作戦。危険を恐れないタチのロンメルですら、あまりに投機的に見えて仕方がなかった。
腕組みをしながら悶々とするロンメルの背後から声がかかる。
「ロンメル閣下、総統がご面会されるとのことです」
総統執務室の扉を開けると、角栄は机の上に海図を広げてじっと見つめていた。冷たい雨がガラスに叩きつけられる音が響く。
「どうした」
角栄は振り返り、短く問いかけた。ロンメルは一歩前に出た。
「オヤジさん。今度の作戦、考え直してくれ」
ロンメルの声は落ち着いていたが、その中には緊迫感が滲んでいた。
「あまりにも危険だ。なにもオヤジさんが乗り込む必要はない。影武者を使えばいい」
角栄は、身内の人間にだけ見せる穏やかな顔を浮かべた。
「俺も命がけでやらなきゃ、アイツは騙せない。本物の俺が乗り込まない限りは、必ず綻びが出る」
「だが、万が一、フネごと撃沈されたらどうするんだ」
角栄は口角を上げた。
「その時は海を泳いで渡るさ」
そして、角栄は椅子から立ち上がり、ロンメルに向き合った。顔は、近付けば火傷しそうなほど火照っていた。
「あと三カ月すれば、石油が枯渇しちまう。それまでにソ連に痛撃を与えにゃあならん。だが、短期決戦、望むところだッ。もともと、この戦争を長く続けるつもりはなかった」
ロンメルは一瞬沈黙した後、負けじと聞き返す。
「しかし、です。ソ連の戦艦を誘き寄せたとして、肝心の矛はどうするのです。大軍を待ち構えさせるわけにもいかんでしょう」
「それは、色々と考えてある。さっきもシュペーア君と話した」
「シュペーア大臣ですか」
「ウン。アイツは芝居っ気も強いが、器用なやつだな。俺の世界で政治をやっていたら、『三角大福シュ』と呼ばれていただろうに」
「はぁ」
気勢を削がれたロンメルは、珍妙な顔を浮かべた。角栄は頭を掻きながら小声で言う。
「まァ、安心しろ。俺が北海で藻屑になっても、時計の針を逆戻りさせるようなことにはさせない」
ロンメルは深く息を吸い込み、「そろそろ前線に戻ります」と告げた。そして一歩下がり、敬礼をしてから呟いた。
「私はオヤジさんがつくる世界をもう少し見たいのです」
角栄は心底楽しそうに笑った。
「俺は悪人だよ。そろそろお前みたいな善人が舵取りをした方がいいかもな」
ロンメルは何も答えずに総統官邸を後にした。
飛行場に向かう車の窓からは、冷たい雨が降り続けるベルリンの夜空が見えた。
【あとがき】
裏話ですが、一気に最後まで書き上げています。
もうエタることはないです。ちょこちょこ投稿していきます。
冬コミの2日目に本作を頒布予定です。紙媒体の方では、先に結末を読めます。
ご興味があれば東ポ-30b「敗兵院工房」まで。
BOOTHもやっています。
https://invalides.booth.pm/items/6425824




