第25話 はかりごと
ロシアには、ダーチャという文化がある。
古くはピョートル大帝が功績を挙げた家臣に別荘を下賜したのが始まりだ。ただ、ソ連では異なる意味合いを持っていた。スターリン体制初期、食料の配給が十分とは言えない中で、市民は自給自足のため、郊外にセカンドハウスを求めた。この菜園付き別荘に当てはめられた名称がかつての〝ダーチャ〟だった。スターリンによる第二次ネップで、食糧事情が改善しつつあるとはいえ、市民生活に欠かせないものとしてダーチャはソ連に根付き始めている。
当のスターリン自身も、いくつかのダーチャを所有していたことで知られた(むろん、この独裁者にとって菜園は嗜好的なものだったが)。そのうちの一つ、モスクワ郊外の鬱蒼とした森に立つ木造の建物に、2人の男が膝を突き合わせていた。
「せっかくの息抜きでしたら、ソチに行かれた方がいいでしょうに。あそこなら使用人も大勢おりますし」
トハチェフスキーの言葉に、家主は胸を張った。
「なに、我が輩はまだ連邦歴27歳だ。保養地で暇をつぶすほど老いぼれちゃいないさ」
シャツのボタンをいくつか外し、リラックスした様子のスターリンは客人に紅茶を押しやった。少量のジャムが混ぜられており、紅茶の渋みとの組み合わせがよく合った。しばらく、紅茶をすする音ばかりが部屋に響く。スターリンは暖炉に薪をくべながら言った。
「それでミハイル、ここまで押しかけてきた用件はなんだい」
トハチェフスキーはスターリンの眼を見つめた。
「英国についてです」
「ソユーズ級が大活躍したのだろう。良かったじゃないか」
スターリンは一等賞を取ってきた我が子を迎える表情でまなじりを下げた。
「ソビエツキー・ソユーズ」「ソビエツカヤ・ウクライナ」「ソビエツカヤ・ベロルーシヤ」「ソビエツカヤ・ロシア」。ソビエツキー・ソユーズ級の4隻は、ソ連の年間予算の4分の1もの巨費を投じて完成した。帝政時代以来ぶりの戦艦建造にもかかわらず、大過なく就役させられたのは、いくつもの幸運が重なった結果だった。
中でも、シベリアに追放されていた造船技師やエンジニアが、スターリンの〝改心〟を機に、海軍に復職したのは大きかった。巡洋艦や駆逐艦の自前建造で蓄積されたノウハウが失われずに済んだし、再びスターリンの機嫌を損ねまいと彼らは必死になって働いた。さらに、英国鹵獲艦から最新鋭の射撃管制レーダーを移し替えたことで、戦力的にますます磨きがかかっている。
人民の血と汗の結晶。そして、共産主義の優越性を証明する存在として、4姉妹は海に君臨していた。
「彼女たちの暴れっぷりには目を見張るものが確かにあります。しかし、私が申したいのは陸です」
トハチェフスキーは言葉を続ける。英本土の戦況は今のところ一進一退ですが、長期戦となればドーバー海峡越しに補給できる敵の方が有利です。何か、策を講じなければじり貧になります。
スターリンはうなずいた。
「そりゃあそうさな。で、君はどう考えているんだ」
トハチェフスキーは一瞬ためらい、そして、覚悟を決めた表情で告げた。
「同志スターリン、私の本心は全面開戦です。いま、この瞬間に赤軍が西進を始めれば、まず間違いなく西ヨーロッパを制覇できます」
スターリンは血相を変えた。その眼には鋭さが宿る。
「おいおい、君まで変なことを言いだしてはお手上げだよ。陸軍大国同士が戦争したら、どれだけの死者が出るのか……」
「今の同志がそうおっしゃるのはよく理解しています」
トハチェフスキーはスターリンが言い切る前に引き取った。絶好の機会を前に、軍人としては口惜しいですが、それが同志の意思ならば私は従います。
そこでです、とトハチェフスキーは言った。
「同志好みの次善の策を用意しました」
「教えてくれ」
「つまり……」
トハチェフスキーはスターリンの耳元で囁いた。それを聞き終えたスターリンは、あご髭を撫でながら言った。
「あの男には一番、効き目がある手だな」
スターリンの背後で暖炉の火がひときわ大きく燃え上がった。
「海軍に、この種の任務に打ってつけの部隊があります。敵地に押し入り、証拠を残さずに立ち去ることに特化した連中です」
トハチェフスキーの言葉を聞いたスターリンは、目尻の深い皺がさらに刻まれた。胸の奥から絞り出すような乾いた笑い声は、長年の権力に裏打ちされた威圧感を持っていた。
「成功すれば、欧州経済は全治1年といったところか。ぜひやってくれたまえ」
◇ ◆ ◇
1944年4月。
一年の半分は氷点下となる満州であっても、春はうららかな空気で満たされる。
五芒星の金属星章をフロントグリルに光らせた車が街道を疾走していた。五芒星は帝国陸軍を表す。陸軍の兵卒が運転しているが、助手席で長々とあくびをしている男は軍関係者と思えない気の抜けようだった。
鼻の下にチョビ髭を生やしているので、40代とも50代ともみられることもあったが、男はまだ30にいかぬ年だった。軍隊経験者が放つ独特の老成感に、娑婆で有象無象とやりあってきた貫禄が合わさり、仕立ての良いスーツも嫌味なく着こなしている。
また、満州に渡る日が来るとはナ。
黒竜江省に出張していた田中土建工業の田中角栄社長は、だだっ広い草原に山脈が横たわる雄大な景色を眺めた。田中は4年前まで、上等兵として満州で兵役に就いていた。内務班での生活は、あまり思い返したくない記憶として刻まれている。もっとも、ノモンハンで古兵が駆り出された後は、事務能力の高さを上官に買われて、一目置かれるようになった。肺炎にかかって本土に除隊されなければ、それなりに偉くなっていたかな。いや、残っていたら、ドカタに打ち込めなかったか。
田中土建工業はもともと一建築事務所に過ぎなかったが、今では飯田橋に本店を構え、年間施工実績で全国50位に入るほどの規模に成長していた。理研所長の大河内正敏伯爵は田中を気に入っていて、理研関連の仕事を優先的に回してくれていた。
今回の満州での仕事も、大河内の推薦で発注されたものだった。朝鮮の大田に理研の工場を建てる仕事を終えたばかりで、ちょうど人手にも余裕があった。
田中を乗せたくろがね四起は、検問所を越え、巨大な採掘リグが立ち並ぶ大慶油田基地の一角にとまった。北の寒冷な原野だったこの一帯は、油田の開発に伴って集落ができ始めていた。いずれは100万人都市に発展するポテンシャルがあるといわれている。
「生産量を増やすために、これから採掘施設の拡張を予定していましてね。田中さんには作業員向けの宿舎をつくってほしいんです」
満鉄の担当者は建設予定地でこう説明した。南満州鉄道は、帝国日本にとっての満州経営の出先機関だった。鉄道会社が油田開発とは一見似つかわしくないが、満鉄とはそれすらも任されてしまうほどの存在だった。
「ほら、英国で独ソがやりあっているでしょう。欧州の消費量が増えそうだから先行投資というわけですわ」
「こりゃ、景気がいいですナ」
そのおこぼれを預かれるのだから感謝しなければいけないか。田中にとって、箱モノをつくるだけならお手の物だった。大体の収容人数を聞き、ざっとした建築イメージを描く。
「ちょっと測量させてもらっても」
満鉄の担当者は口をぽかんと開けた。
「社長自らですか」
「もともとドカタですから。今でも現場で資材を担ぐことだってありますヨ」
田中は内心で、こちとら二代目の若旦那じゃないんだぞ、と付け加えた。スーツに土埃がつくのも厭わず、測量道具を組み立てて土地を計測する。新潟から上京したての頃は、生きていくためにとび職やら図面引きやら何でもこなしたものだった。
田中は機器を操りながら考えた。今回の仕事が順調にいけば、満鉄からの仕事を受注できるようになるかもしれないな。満州に支店を構えるのも手か。
そんな皮算用をしていると、東から間延びした発破音がした。
田中が通ってきた検問所の方角から聞こえた。それも一発ではない。複数だった。
測量を中断して田中は声を張り上げる。
「関東軍が演習でもしているんですか」
満鉄の担当者も困惑した様子だった。
「えっ。そんな話は聞いていませんが」
銃声は、止むどころか時間が経つにつれて増えていった。この基地で何かが起きている。いったん避難しようと、測量機器をくろがね四起に積み込んだところで、馬の群れが駆けているのが視界に入った。
馬上には男たちが跨っていた。男たちは作業員の待機所に手榴弾を投げ込み、逃げ惑う人々の背中に短機関銃を乱射する。惨劇に巻き込まれまいと、田中と満鉄の担当者はくろがね四起の車体下に身をひそめた。
噂に聞く馬賊か。しかし、馬賊は関東軍の警備が行き届かない満鉄の沿線外側しか出没しないというのが常識だった。関東軍が部隊を配備している基地に攻め込んでくるなど常軌を逸している。いったい、何が狙いなんだ。
運転手はすでに姿を消していた。満鉄の担当者は怯えた表情で言う。
「車で逃げましょう」
田中はふぅふぅと深呼吸した。兵役時代も前線には駆り出されなかった。人間を撃った経験はないし、撃たれたこともない。溢れ出る汗をシャツの端で拭っていると、生まれたばかりの長女の顔がぼぉっと浮かんだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。
「動いた方が目立ちますヨ。ここでしのぐ方が賢明です」
田中たちが隠れている間に、銃声は止んだ。一帯を制圧した馬賊は、油田基地の最深部へ走っていった。迷う様子はなく、何があるのかを知っているかのようだった。それを見た満鉄の担当者は「まさかまさか」とうわごとのようにつぶやく。
「あの方向には何があるんです」
「油井です」
「馬に油を飲ませるつもりですかネ」
田中の冗談に、満鉄の担当者は笑う余裕はなかった。怯えた表情で車の下から這い出ようとする。引き留めようとする田中に対して、彼は言った。
「離してくれ。あんたも巻き込まれたいのか」
その瞬間だった。昼間だというのに、ひときわまばゆい閃光が地上を走った。田中は何が起きたかわからないうちに、猛烈な風圧に襲われた。砂利が混じった突風は痛みすら感じる。田中はただただ無力に、耐えることしかできなかった。
ひとしきり風が収まってから目を開けると、周囲の景色は、一変していた。
身をひそめていたくろがね四起も、満鉄の担当者も、どこかに吹き飛んでいた。油井の方向から巨大な火炎の塔と、空を覆いつくさんばかりの黒煙が立ち上る。かつての巨大なポンプと配管網は無残にねじ曲がり、地面には瓦礫の山が広がっていた。
火炎の放つ熱で田中の全身から汗が噴き出した。田中は煤まみれのシャツで汗をぬぐった。持病のバセドー病で、ただでさえ汗っかきだというのに。こりゃあ参ったな。
どうやら、新たな宿舎は当分必要なさそうだった。田中は実入りのいい仕事がおじゃんになったことを悔いるとともに、目の前の光景が世界経済に何を引き起こすのかを考えた。
ここで産出された石油は日本のみならず、ドイツ、いや、ヨーロッパ経済すら支えていた。素人目にも、復旧にはえらく時間がかかりそうだ。さて、満州からあふれ出ていた石油が途絶えたとき、ヒットラーが急激に推し進めたモータリゼーションは欧州で何を引き起こすのだろうか。ウン、たぶん、ろくなことにはならねェな。
【あとがき】
史実においても、角栄は兵役時代、満州に駐屯していました。将来の総理も、ブロマイドを見つかって古兵から殴られたりと、当初はさんざんだったよう。しかし、ただでは起きないのが……という具合で、元毎日新聞記者の馬弓良彦氏が書いた「戦場の田中角栄」という本に詳しいです。
あと数話です。面白かったら、感想や高評価していただけるとありがたいです。