第19話 レール
アドルフ・ヒトラーが口元の歪みに気付いたのは、寝起きがけに歯磨きをしていたときだった。
顔の右半分がどうにも痺れ、満足に動かない。朝飯を食べ終えたらモレル博士を呼ぶか、と思案する。
過去にも、同じ症状を抱えたことがあった。
オイルショックによるインフレで、列島改造計画にストップをかけざるを得なくなった直後、顔面神経の麻痺が生じた。首相在任中はついぞ完治しなかったが、あれさえなければ、ロッキードももうちょっとうまく弁明できたと思うのだが。
さて、今回は何がストレスのもとなのか。言語化を避けてきたが、思い当たる節はあった。
角栄はソファーで寝そべり、朝刊を掲げる。前世と変わらず、毎朝、大抵の大手紙には目を通す習慣を続けていた。
高級紙フランクフルター・ツァイトゥングの一面には、ロンドン市長が無防備都市宣言を断念したとの記事が載っていた。同紙のロンドン特派員は市街戦に持ち込まなければ時間を稼げないほど、英国側が追い込まれているとの軍高官による談話を報じていた。フランス沿岸の街には自家用ヨットで脱出した英国難民が殺到していると聞く。
ページをめくれば、ベルリン=ミュンヘン間で開通したばかりの高速鉄道の写真が目についた。赤を基調とした流線型の車体の先端には、黄金のライヒス・アドラーが配されている。走行中の威風堂々たる車体を映した一枚は、思わずため息が漏れるほどインパクトが効いていた。
要するに、俺のいた世界では存在しなかった光景が、いたるところで現れていた。
新聞を脇にやり、大きく伸びをした。自然と長い長いあくびが出る。
悩みは、簡潔だった。
かつては俺が行き先を知っているレールを歩めば良かった。だが、ダンケルクに戦車の群れが突っ込んだ瞬間から、景色は一変した。未知の世界で、覇権国家の指導者として選択をし続けなければいけない。
角栄という政治家の行動様式は、極端なまでの経験主義に基づいていた。昔はよく、天下国家を語ろうとする若い議員相手に、田んぼに入らずばコメは分からないと叱咤していたものだ。しかし、入ったことのない田んぼでどう米を作れというのか。皆目見当がつかなかった。
ドアを叩く音がした後、メイドが朝食を運んできた。この国ではなかなかありつけない香りが鼻腔を刺激する。山盛りの白米と、湯気が立った味噌汁、それに口が曲がりそうなほど濃く味付けられた塩鮭が、純白のマイセン製陶器に並べられている。
まずは汁物から。箸でかき回し、ぐいっと飲む。そういえば、副総統のヘスが持ち帰ってきた郷里の味噌で仕立てさせたものだった。
約9千キロ離れた田舎の景色に思いを馳せながら、ため息をつく。
「どーしょば、こまったて」
お国言葉を直せば、一体どうしたものか、という意味だった。
ベルリン中心部から20キロと少し。ヴュンスドルフという村の民家の前で、キューベルワーゲンが止まった。駆け寄ってきた将校がドアを開け、「お待ちしておりました」と声をかける。
「マンシュタイン閣下はすでにご到着か」
手袋と外套を外しながらエルヴィン・ロンメルが尋ねた。将校が肯定すると、ロンメルは歩調を早めて民家に入った。コンクリートづくりの螺旋階段を下り、地下へと潜る。最下層に着くと、ロンメルの姿を認めた歩哨が敬礼し、鋼鉄製の扉が開いた。
そこには外見からは想像できないほどに、広々とした地下空間が広がっていた。壁面には巨大な地図盤が取り付けられ、ベルリンを中心に同心円状に電灯が填められている。観客席に当たる位置には無数の座席が並び、男女のオペレーターが整然と座っていた。
「マイバッハに踏み入るのは初めてだったか」
まるでサイエンス・フィクション小説のような光景に呆れていたロンメルの脇から、マンシュタインが声をかける。マイバッハとは、国防軍最高司令部の指揮所を意味する秘匿名称を指していた。敵の空襲から逃れるため、地上の外見は民家に擬態している。
マンシュタインは教本を読み上げるように解説を始めた。
「この壁は各地のヴァルツブルク・レーダーの情報をもとに、敵機が侵入した地域を電灯で点滅させる。侵入した敵機の数や機種は横の電光表示板に表れて、視覚的に捉えられるわけだ」
「優れた代物ですね」
慎ましやかなロンメルの表現に、マンシュタインは特に感情を示さずに応じた。
「次の戦争のやり方はずいぶん変わることになるだろう」
自室で話そう、といってマンシュタインは廊下を歩き出した。電熱対策なのだろう。室内は地下だというのに空調がよく利いていて、ひんやりとした冷気がロンメルの肌をくすぐった。
マンシュタインの髪には白いものが混じり始めていた。つい、雑談を持ちかける。
「総長代理の仕事はどうです」
「最近、ルントシュテット総長は推理小説にご熱心でな」
マンシュタインは口元をわずかにゆがめる。
「探偵になったつもりなのか、あらゆる報告に対して疑い深くなってしまった。ご進講も時間がかかるよ」
今年からOKW総長を務めたカイテルの後任に、西方作戦でA軍集団を率いたルントシュテットが据えられていた。ヒトラーの信奉者という一点のみで重用された前任者に比べ、ルントシュテットは高潔な人格で国防軍将兵からの人気が高かった。その人事に合わせて、マンシュタインは総長代理に就任した。マンシュタインはかつてA軍集団で参謀長としてルントシュテットを補佐した経緯がある。
この二人に共通するのは、たとえヒトラー相手にでも直言を辞さない胆力の持ち主であるという点だった。ルントシュテットは戦前、ヒトラーに「貴殿の外交姿勢は戦争を引き起こしかねない」と自重を求める手紙を送ったし、マンシュタインは西方侵攻作戦の見直しを直訴してみせた。ロンメルは個人的にルントシュテットと水が合わないと思ってはいたが、前任者よりははるかに適任者と認めざるを得なかった。マンシュタインに関しては、その有能さを改めて言及するまでもない。
マンシュタインの自室は最低限の調度品のみが配され、殺風景だった。卓上には英国の地図と拡大鏡が無造作にあった。壁にかけられた大モルトケの肖像画がこちらを冷たく見下ろしていた。
「ハイドリヒの耳もここには届いていない」
気楽にいこう、とマンシュタインはロンメルと向き合う形で座った。一装甲師団長として呼ばれたわけではないのは明らかだった。運ばれてきた熱い珈琲を無言ですすった後、まず、マンシュタインが口を開いた。
「今の状況をどうみている」
「それは」
言いよどむロンメルに対し、マンシュタインは問いを重ねた。
「この瞬間にソ連軍が国境を越えてくればどうなると思う」
ロンメルは神妙な顔をしてみせた。
「たぶん、1カ月やそこらで赤旗が議事堂に翻るでしょう」
「敵軍の群れに戦車で突っ込んだ男の台詞とは思えないな」
「この答えでは落第ですか」
「新たなルーデンドルフが生まれる可能性もあるじゃないか」
マンシュタインは諧謔味たっぷりに語る。骨の髄までプロイセン・ユンカーの男にしては、珍しかった。
要は30年前のタンネンベルクの会戦と同程度の軍事的大勝利でも起きなければ、到底勝ち目はないという自虐らしかった。それだけ、追い詰められているということか。
実際、国防軍がそれだけ弱体化しているのはロンメルも肌で感じていた。一時は300万を超えた兵力は、西方作戦終了後、急ピッチで動員解除が進んでいる。東部国境地帯でのソ連との正面戦力比は1対3に落ち込んだ。むろん、ドイツが少ない方だ。
「イワンはロンドン観光に熱を入れているようですが」
ロンメルはトルコ葉の煙草に火をつけた。部屋にもうもうと紫煙が立ち込める。本題はどの辺りかなと思考を巡らせる。
「連中、まだあの島すら回り切っていないでしょう」
仮にスターリンが欧州全土の革命を計画しているとしても、英本土を攻め落とすまで対独侵攻を見送るはず、というのが参謀本部の見立てだった。そこにはソ連建国の立役者であるスターリンが、二正面作戦の愚を犯したカイザーの二の舞を演じるわけがない、という先入観も混じっていた。
マンシュタインは「どちらにせよ」と前置きした上で、こう続けた。
「仮に英国が赤く染め上がれば、いよいよ我々は不利になる。100年前に似たような光景があったな」
「四方八方から押し潰された大ナポレオンの帝国の如く、ですか」
「たぶん、スターリンはアレクサンドル皇帝ほど寛容じゃないだろう」
そういって、マンシュタインはロンメルの眼をじっくりと見据えた。
「総統は内政家としてのみ歴史に名を残すつもりなのかね」
ロンメルは押し黙る。なるほどね。そういうことか。俺に、軍の窮状をどうにかしろというのか。
「せめてもう20個師団残してもらわなければ、東方の守りを保証しかねる」
「ルントシュテット総長もそう考えていると」
「否定はしない」
厄介事を持ちかけてきたな、という戸惑いをロンメルは隠さなかった。
確かに、あのヒトラーと腹を割って話せるのは俺ぐらいなものだろう。軍の内部でも、俺たちの関係の深さはよく知られていた。だが、そんな搦め手までマンシュタインが使うというのは、いささか意外だった。
「私としても今の総統を好いているのだ。だから、貴様に頼んでいる」
マンシュタインは飲み干したカップを音を立てて机に置いた。それは用件を話し終えたことを意味した。
敬礼して立ち去ろうとするロンメルの背に向けて、マンシュタインは思い出したかのように漏らした。
「そうだ。総統にマンシュタインが久々にスキヤキを食べたがっていたと伝えてくれ。あれは随分美味かった」
◆ ◇ ◆
車窓の景色が、映写機を早回ししたかのように次々と変わっていく。
先週、正式開通したばかりの高速鉄道は、計画通りの快速ぶりを発揮していた。ベルリン中央駅からミュンヘン駅までの600キロを約4時間で結ぶ。これは従来路線に要する時間の半分以下で、営業運転での平均時速に関する世界記録を更新していた。
お召列車として借り上げられた客車は、あるコンパートメントを除いて人気がなかった。その一室には、二人の男がひざを突き合わせていた。
「スツーカのような音でも奏でるかと思っていましたが、意外と静かなものですね」
ロンメルは興味深そうに車内のあちこちに視線をやる。それを見守る角栄は得意げに口元を緩めた。
「車体とレールに秘訣があるわけだナ。気密構造を取っているので騒音が入り辛い。レールはツナギ目が少ないモノを使っているので、ガタンゴトンと鳴らない」
愛おしそうにシートを撫でる。彼が発表した「我が改造」は都市と地方の均衡ある発展を主張したものだが、その根幹を支えるのが高速鉄道による移動時間の短縮だった。
「物事には熟慮断行もヘチマもない。脳味噌を悲鳴が上がるまで絞り切れば、短時間でもこれだけのものは仕上がるということだ」
角栄は得意げに鼻を鳴らした。
後世では、高速鉄道の誕生はナチスの功績、と称えられることもあるが、これは正確性を欠く表現といえる。実際には戦前、国鉄が「空飛ぶハンブルク人」と呼ばれた最高時速160キロの高速鉄道をベルリン=ハンブルク間で運行していた。ヒトラーはこうした高速鉄道をドイツのみならず、欧州中の大都市に(時に押しつけがましく)敷いて回ったというのが実態に即している。
「ゲッベルスに一働きしてもらって、これの提灯記事を書かせるつもりだヨ」
角栄は悪戯を考え付いた悪童のように顔をほころばせる。
「英米の記者諸君はさんざん俺の悪口を書いて儲けているんだから、少しはお返ししてもらっても構わんだろ」
角栄は扇子をいつもの調子で羽ばたかせた。ロンメルは、国土政策を語るときの角栄の目の輝きが、かつてのヒトラーが戦車や戦艦に向けたそれと重なって見えた。
家族の近況などのたわいのない世間話をした後、ロンメルは「オヤジさん」と切り出した。
「なんだ、お前、いつからそんな呼び方するようになったんだ」
角栄は目を丸くした。
「マイン・ヒューラーの方がいいですか」
「いや、勘弁してくれ。好きにしろ」
苦笑いする角栄に、ロンメルは一転して真剣な表情で問いかける。
「オヤジさん、国を亡ぼすつもりですか」
「どうした、いきなり」
「軍縮のやり方が手荒すぎるし、英国内戦を傍観しているのも理解できない」
「うん」
「英国が共産化すれば、二正面でドイツは外敵を抱えることになる。今の軍備では到底、まともな地上戦は不可能です」
「そうかもしれんな」
師団の増強を求めるロンメルを前に、角栄は目を閉じた。無視しているわけではない。人の意見を真剣に聞くときの、彼なりの癖だった。
車窓からは中世風の城壁がみえていた。列車がライプツィヒを通過しているようだった。列車の速度が緩やかになっている。
角栄は市街に視線をやりながら言う。
「戦争で死ぬのは地方の出身者が多いことを知っているか」
お前もシュトゥットガルト出身だから分かると思うが、と前置きして続ける。
「地方じゃ十分な仕事もない。まともなメシにありつくために軍隊に入る奴らがわんさかいる」
ロンメルは、目の前の男をじっくりと眺めた。顔の右半分は麻痺している。肉体的には50半ばのはずだが、心労が祟ったためか、この3年で顔に刻まれた皺がどっと増えていた。
「だから、俺は軍隊が嫌いだ」
近親者に戦死者を出した経験がある人間独特の、厭世観を漂わせながら角栄は言う。その顔に、ロンメルたち軍人への嘲りや憎悪はなかった。ただただ、若者を死地に送り込みたくはないという苦悩だけが浮かんでいた。
「ドイツ人は確かに戦争が巧い。だが、どんな戦巧者でも勝利は永遠には続かない。国民を守るためにも、過剰な軍備は省くべきだ」
「オヤジさん、思いは分かります」
ロンメルは頷いてみせる。
「ですが、隣国が刃を研いでいるような状況であれば、指導者が果たさなければいけない使命というものもあるはずでしょう」
角栄は数秒の間、黙った。会話が途切れ、コンパートメントに静寂さが訪れた。高速鉄道のわずかな走行音が、やけに小うるさく聞こえた。
観念したかのように、角栄はぽつりぽつりと話しだす。
「おそらくだが、俺のような存在があの国にもいる」
「本当ですか」
角栄は自分がいた世界とソ連が異なる道を辿っていることを説明した。ロンメルは眉間に皺を寄せて角栄に詰め寄った。
「なおのことソ連への警戒が必要になるのでは」
角栄は否定も肯定もせず、「俺だって無策というわけじゃないさ」と懐から一枚紙を取り出し、ロンメルに手渡した。
「各国への根回しの最中だが、近々、これを立ち上げるつもりだ」
タイプライターで打たれた文書のタイトルには、「汎ヨーロッパ条約機構私案」とあった。ロンメルは食い入るように流し読みする。第三国からの攻撃に対する多国間の集団防衛の枠組みの確立。戦時には、加盟国の部隊は指揮下に入る。至急検討すべき課題として、即応部隊の発足が明記されていた。
プロの軍人の視点からすれば、課題を論おうと思えば無数に浮かんだ。
「こんなもの、できますか」
角栄は頭の後ろで腕を組んで、会心の笑みを漏らした。
「お前、俺を誰だと思っているんだ」
ロンメルは心の中で悪態をついた。あぁ、この男の微笑みを見ると、なぜか、判断力が落ちてしまう。どんな荒唐無稽なことでも成し遂げられると思ってしまう。
1時間後、一行はミュンヘン駅に到着した。プラットフォームには、大勢の群衆が待ち構えていた。客室から出る間際、角栄はロンメルに告げた。
「それとな、お前にも共犯者になってもらうぞ」
この言葉に複数の意味が含まれていたことを、ロンメルは後々、知ることになる。
【あとがき】
オールドパーを切らしたので、近く買いに行こうと思います。
氷をギチギチに詰めて、炭酸で割ると、たまらないうまさです。
いつも、誤字等のご指摘ありがとうございます。大変、感謝しています。
面白かったらいいねや感想よろしくお願いします。