第18話 祝宴
初夏のモスクワは白夜を迎える。
日が沈んでも昼間と見紛う明るさが続き、街中では散歩をする人々の姿があった。空模様の陽気さと鏡合わせのように、この国の政治的中枢たるクレムリンもいつになくにぎやかさに包まれていた。
シャンデリアで照らされた大広間では、いたるところで乾杯の音頭が上がり、食べ切れない量の食べ物と酒が並べられている。一際盛り上がっているのは、恰幅のいい童顔の男を囲む一団だった。
「元帥、わが軍がそろそろロンドンに迫っていると聞きますが」
フルシチョフという名の第一書記が、童顔の男に向かってにやけ顔で尋ねる。
「えぇ。スコットランドの同志諸君が日に日に前進しているようです」
トハチェフスキーはフルシチョフの言葉をやんわりと訂正した。微笑をたたえているが、目元は微動だにしない。おだやかに諭すように続ける。
「あくまでわが国は中立です。参加しているのは義勇兵ですから」
「失礼、そうでしたな。しかし、建前はどうであれ、艦隊を丸ごと捕獲してみせたのはお見事でした。あれを考案したのは貴殿と漏れ聞こえてきますよ」
「噂話には尾ひれがつくものです」
多くを語らないトハチェフスキーの反応に、フルシチョフは「さすが、我らが元帥」と追従した。周囲からも拍手が沸き起こる。
うすら寒い光景とはいえ、事実、スカパフローの一件はそれだけの反響を呼ぶにふさわしい戦果をもたらしていた。
短期的には、ソ連からスコットランドへのシーレーンの確立。英国はアジアやアフリカといった植民地から残存艦隊をかき集めているが、反攻に乗り出す余力は失われている。この合間を縫って、ソ連は次々に「義勇兵」を増派していた。
そして、長期的には、中小国並みの沿岸艦隊だったソ連海軍を外洋艦隊へ脱皮させるだけのフネと技術の獲得。軍務に忠実な英国水兵が自沈させた数隻の艦を除けば、英主力艦隊がほぼほぼ無傷で手中に収まっていた。時間がかかるとはいえ、これらを戦力化することができれば、ヨーロッパにおける軍事バランスは一変する。陸のみならず海でもソ連は大国の地位を築き、隣国ドイツに優位性を確保できる。
フルシチョフは問いを重ねる。
「鹵獲艦船群の戦力化はいつぐらいになりそうでしょうか」
「それは専門家に聞きませんと」
そういってトハチェフスキーは、黙々とウォッカをあおっていた海軍人民委員のクズネツォフ提督に話題を振った。クズネツォフは肉屋の親父のような面長な顔をほてらせていた。スターリン最側近のトハチェフスキーに比べて、クズネツォフはあまり重用されていなかったので、二人には微妙な距離があった。
「あれだけの数です」
クズネツォフは酒臭さを漂わせながら嘆息した。
「正直、船員が全く足りないし、本国に持ってくるだけでも大作業です。それに、ソユーズ級4隻の就役と同時並行ですからね。一部の主力艦だけに絞ったとしても、まともに動かすには来年まではかかるでしょう」
フルシチョフが口を挟んだ。
「元英国水兵を募集してはどうです。転向する者も多少はいるでしょう。優秀な人間には、ソビエトへの移住を認めてやってもいい」
「なるほど、現地で早速打診させます」とクズネツォフが丁寧に返すと、フルシチョフは満足そうに腹を揺らした。クズネツォフは内心で、ソ連への強制移住なんて条件を付ければむしろ人が減りそうなものだが、と思ったが、言葉には出さなかった。
一団の会話が途切れたのは、会場の喧騒が静まり返ったことに気付いたためだった。あばたの男が姿を現した途端、誰もが自然と背筋を伸ばした。畏れと敬意が一緒くたになった空気が場を支配する。
ヨシフ・スターリン。齢60を超えた老身ながら、足取りは矍鑠としていた。例の豹変以降、こうした酒席に姿を現すのは久々だった。人が変わったように執務室に閉じこもり、黙々と仕事に打ち込む日々を朝から晩まで続けた結果、肥満体形は失われた。帝政時代、資金集めのために銀行を襲撃して回っていた青年時代の精悍さを取り戻している。
「遅れてすまなかった。穀物市場の報告を受けていてね」
スターリンは遅れて入ってきた商工人民委員のミコヤンの肩を優しく叩く。
市場。
スターリン体制下において消滅したはずの二文字を、会場にいる誰もが平然と受け入れていた。
1940年に意識を取り戻したスターリンが真っ先に取り組んだのが、第一次五カ年計画の自己批判だった。五カ年計画は重工業部門で一定の成果を収めたものの、農業の集団化には失敗し、地方で飢饉さえ引き起こした。こうした失敗をスターリンは党大会で率直に認めた上で、経済政策の転換を打ち出した。
それは一定の税を納めることを条件に、部分的な経済活動を認める市場原理の再導入だった。後に第二次ネップと呼ばれるこの政策は、かつてスターリン自身が批判した主張だっただけに、国内外で驚きをもって受け止められた。党内では動揺も生じたが、NKVDが消滅し、トハチェフスキーを頂点とする赤軍がスターリンに絶対的な忠誠を誓っている今、歯向かえる存在はいなかった。
何よりも異論を封じたのは、実際に第二次ネップが始動して以降、ソ連経済が活気を取り戻しているという現実だった。ツナギを着た労働者が我が子のねだりに応じてアイスクリームを買ってやれる。そんな光景が街でみられるようになっていた。そして、余剰の民需は軍需に転用され、特に海軍の増強に向けられている。
ソ連経済の好調ぶりを受け、時の人を表紙に据えることで知られる米国のタイム誌は、スターリンを数年ぶりに採用した。誌面でさる経済評論家は、回復後のスターリンを「マルクスの右脳にケインズの左脳を縫合したフランケンシュタイン」と表現した。
スターリンは赤ワインが注がれたグラスを一舐めする。
「随分甘いネ」
はて、とミコヤンも飲む。キンズマラウリというグルジア産のワインだった。スターリンはこの地方の生まれだ。
「同志のお好みの銘柄のはずですが」
「そうだったか。久々に飲んだものだから舌が忘れていたな」
カカカッと笑ってごまかし、スターリンは頭を掻いた。そして、外務人民委員のモロトフに話しかける。話題はイギリス内戦におけるソ連の介入への各国の反応だった。国際社会に対してソ連の立場を中立と言い張るため、政治的技巧を凝らし続けてきたモロトフは疲労の色をにじませながら答えた。
「大使館を閉鎖して退去していったのは英国のみ、アメリカも日本も形だけの抗議だけです」
「ドイツはどうかい」
「あの国は少し、厄介です。リッベントロップが訪ソを打診してきていますが、まず間違いなく撤兵の要求でしょう。アチラ側のイタリア、フランスも同様に強硬な態度です」
スターリンは深く頷き、杯と質問を重ねる。
「連中が介入してくる気配はないか」
「国防軍の中には強硬派もいるようですが、総統は庭いじりを優先したい意向と聞きます。ただ、ここにきて先の戦争での捕虜を一気に送還し始めていますから、態度の注視は必要かと」
二人の会話に、割り込んできたのは酩酊顔のフルシチョフだった。「今やドイツ恐るるに足らず!」と道化のように叫んだ後、「同志トハチェフスキーが軍を率いれば1カ月でベルリンまでたどり着くのでは」と気勢を上げた。
だが、反応は冷えたものだった。
スターリンは即座に眉を顰め、「バカモノッ」と一喝した。フルシチョフの表情が見る見るうちに青ざめていく。周りに助けを乞うが、誰も視線を合わせない。トハチェフスキーは軽蔑のまなざしを送っていた。
怯えたフルシチョフを見て、ため息をついたスターリンは「いやしくも政権与党の人間が、戦争を軽々しく口にしてはならんヨ」とたしなめる。そして、周囲に言い聞かせるようにこう続けた。
「どんな体制のもとであっても、一人の生命は地球より重いのだ」
スターリンが英国の思想家の格言を引用したことにすぐさま気付いたのは、日常的に外国人とやり取りするモロトフとミコヤンぐらいのものだった。二人は以前のスターリンからは到底出なかっただろう台詞に、思わず目を見合わせた。
スターリンは恐縮し切ったフルシチョフの肩を叩く。
「まぁ、同志フルシチョフの言わんとすることも分からんではない。ナチスの支配からヨーロッパは解き放たねばならんのは事実だしな」
「とはいえ、です」
会場が水を打ったように静まり返る中、あえてモロトフが問いかけた。かつてのスターリン相手であれば、こんな行動には出なかっただろう。だが、モロトフは今のスターリンが議論を好むことを知っていた。
「現在のドイツの国民生活はヴァイマール時代よりはマシでしょう。新型の鉄道が走り、車の普及率も右肩登りときた。今のヒトラー、あれはもはや以前と別物ではありませんか」
貴方のように、とはモロトフは言わなかった。まるで親独派のようなモロトフの発言に対して、スターリンは好々爺とした態度で応じる。
「いや、モロトフ君。それは違うな」
「なぜです」
挟まれる格好になったフルシチョフは二人のやり取りを無言で聞き続ける。
「むしろ今のヒトラーの方がかえってタチが悪いさ」
「はて」
会場の多くが疑問符を浮かべる中、脇からトハチェフスキーが差し込んだ。
「ニコライ二世が賢帝であれば革命が成ったかどうか、ということです」
スターリンはトハチェフスキーに向かって頷いた。そこには二人にしか通じない信頼がにじんでいた。スターリンは髭を撫でながらトハチェフスキーの言葉に続けた。
「失敗から学び、癇癪を起こさず、大衆的なヒトラー。あんなものが歴史に存在してはならない。あんなものが存在すれば、ナチスドイツが生きながらえてしまう。あの男は自分がしでかしている重大さに気付いていないのさ」
ひとしきり言い終えると、スターリンは腰に手を当て、再びカカカッと高笑いした。
「まァ、急ぐ必要はない。やがてヨーロッパがスターリンを必要とするときが来る」
この一言で、会場に笑いが広がり、明るさが戻ってきた。
「それにしても、今日は何の祝いだったかな。ミハイル、君が主催と聞いたが」
用件を知らされずに呼ばれていたスターリンは、眼をパチパチとさせる。すかさずトハチェフスキーは給仕係に向かって手を叩くと、巨大なケーキが運ばれてきた。
子供一人はすっぽりと埋もれそうな巨大なケーキ生地の上には、こんもりとキノコ型に生クリームが盛られていた。それは特定の元素に中性子を衝突させることで引き起こされる物理現象を象ったものだった。
トハチェフスキーはスターリンに向かってご報告があります、と伝えた。全てを理解したスターリンは続けるよう促す。
トハチェフスキーは高らかに宣言した。
「科学アカデミーの調査団がタジキスタンでウラン鉱の発掘に成功しました」
【あとがき】
毎週更新しないと年内完結に間に合わないことが判明しました。キーボードをぽちぽち打つ日々です。
ソ連話は一休みして、次はドイツのお話。
ところで冬コミに受かりました。2日目東ポ-30bの敗兵院工房で私と握手!
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