第15話 同郷人
総統官邸の長い廊下を、狐顔の男が息を切らせながら走っている。
ラインハルト・ハイドリヒ――ドイツにおける秘密警察の頂点に立つ男は小走りのまま、総統警護隊の隊員にナチ式敬礼を飛ばす。普段の冷静さをかなぐり捨てた様子に周囲が呆気に取られる中、そのまま総統執務室になだれ込んだ。
部屋の主人は、来客対応用のソファーで鼻提灯を膨らませていた。そういえば、来客が途絶えるこの時間帯は昼寝だったか。いや、そんなことはどうでもいい。
「総統、一大事です」
「んが」
「んがではありません。起きてください」
肩をたたき続けると、やっとこさヒトラーの眼が開く。寝ぼけ気味のようだが、気にしている暇もない。耳元で一気に吹き込む。
「ヘス副総統が操縦する飛行機でポーランドから飛び立ちました。ソ連領内に向かっており、亡命を図った可能性があります」
それは事実だった。三〇分前、国家保安本部にはヘスの操るBf110が民間の飛行場から飛び立ったと通報があったのだ。事前の飛行届も出ていない。一体どこで操縦を覚えたのやら。奇行というほかなかった。
ただ、ハイドリヒは大方の予想もついていた。多くのナチ党幹部に共通する特性は、自分が何かしらの歴史的使命を帯びて生まれてきたという歪んだ確信を抱いていることだった。中でもヘスはとびきり自己意識が強いように見受けられた。恐らくは独ソ関係改善のため、スターリンに直談判でもすべく、単身でモスクワに飛んだに違いない。
ハイドリヒは目の前の男にこうした事実を伝えれば、癇癪を爆発させるに違いないと予想していたが、意外にもヒトラーはキョトンとしていた。眠り目をこすりながら、ヒトラーは漏らす。
「何だ、お前気付いちまったのか」
「は?」
「ヘスの飛行は俺の指図だ。騒がんでいいし、外にもこれ以上言うなよ」
そういってヒトラーは、話は終わりといわんばかりに手をひらひらさせた。言葉を失ったハイドリヒをしり目に、ヒトラーは再び寝ころぶ。
「それに、ソ連は中継地点なだけだ。行先は違うゾ」
◇ ◇ ◇
はて。この匂い、どこかで嗅いだことがあるな。
純白の海軍将官服をまとった男は、いがぐり頭を撫でた。外国人を接遇するために建てられた帝国ホテルには相応しくない香りだった。
うん、田舎の蔵に一時期、同じものがあった。そうだ、柏崎の親類から贈られてきた味噌樽と似ている。アレで母ちゃんが作った鯉こくは絶品だったなと、亡母の姿を思い浮かべる。
新潟南部・長岡出身のこの男の愛郷心は、並大抵ではなかった。海軍の要職についても、母校や恩師から講演依頼が来れば、万障繰り合わせて駆け付けた。
それは長岡という雪深いクニ独特の土壌もあったのだろう。長岡藩は明治維新で幕府方につき、賊軍となった。新政府のもとでは冷や飯を食わされたが、負けじと長岡人は一計を案じた。地元の政財界有志で独自の育英制度をつくり、家の家計事情によらずとも、優秀な子弟が東京の名門大学に通えるようにした。長岡人は銃をペンに持ち替え、いつのまにか新政府の重要な役職に就くようになった。
この男、山本五十六も貧しい武家の生まれで、そういう長岡の濃い地縁が出世の道を切り開いた。賊軍の藩士の子孫が、連合艦隊司令長官に就いているのは、長岡人にとって悲願ともいえる光景だった。
しかし、よくわからんな。
山本は今夜、参謀たちと横須賀の料亭で飲み明かそうかと思っていたが(彼はパインと呼ばれる馴染みの店によく出入りしていた)、海軍大臣の嶋田繁太郎からの電話でご破算に終わった。一軒付き合えと誘うならまだしも、十九時きっかりに帝国ホテルの指定場所へ行け、とは意味が分からない。理由を聞いても「俺に聞くな」とばかり繰り返すものだから、霧に包まれたような思いだった。
指定された部屋にノックして入ると、特徴的なヒトラー髭の外務大臣、松岡洋右がソファーに座っているのが見えた。外務省きってのヒトラーびいきで知られる人物だった。松岡と同席することを知らなかった山本は内心戸惑うが、おくびにも出さず松岡に目礼する。松岡も山本が現れたことに驚きつつも、「長官、これは奇遇ですな」とポーカーフェイスを浮かべた。
松岡に向き合う形で、ゲジゲジ眉の白人が座っていた。細身の男だが、どこか重圧感がある。うん、どこかで見た気がするな。ナチ式敬礼をかましてきたので、答礼している間に思考を巡らす。
ありゃ。これはずいぶんな大物だ。
俺の目が狂っていなければ、ルドルフ・ヘスじゃないか。ナチの副総統。このごろ、ちょいと精神を病んでいるという話を聞いていたが、外見上は溌剌そのものだった。
しかし、ヘスが訪日しているなんて話は新聞に一言も書かれていなかった。お忍びというやつか。それにしてもわけがわからない。
タヌキに化かされた思いでいると、先ほどの味噌の匂いが強くなっていることに気付く。部屋の片隅にまさしく古里でみた「みそ西」と書かれた味噌樽が見えた。視線に気づいたヘスは苦笑交じりに応じる。
「総統がこれをたんまり買ってこいと仰せになったもので。私の任務の半分はこれを母国に持ち帰ることです」
ヒトラーの腹心がなぜ越後の味噌を手にしているのか。まさかヒトラーが味噌汁を飲むわけでもあるまい。これは長岡出身の俺への何らかのメッセージと読み取るべきだろうか。ドイツ人は回りくどいことをするものだ。
「総統がそれほど新潟にご関心をお持ちだったとは知りませんでした」
かろうじて山本が捻り出した皮肉に、ヘスは無言で笑った。
いよいよ不思議な空間になってきた。味噌樽に、ナチスの副総統、GF長官、外務大臣。松岡も要件は知らされていないとみえ、不安げに黙り込んでいた。
口火を切ったのはヘスである。
「わざわざお二人にご足労おかけしたのは、総統よりご提案を預かってきているからなのです。これは打診があったこと自体も極秘でお願いします」
山本と松岡は二人で顔を見合わせた。何やら大事になりそうだ。そもそも山本は海軍における実動部隊の長でしかなく、本来は嶋田海軍大臣の方が場に相応しそうだが。懸念を先取りするかのように、ヘスはこう続けた。
「なぜコノエ首相やシマダ提督ではなく、お二人にお話しているかは、後ほどご説明しましょう」
「よろしい。とりあえず伺いましょう」
松岡がそううなずくと、ヘスは山本に膝を向けた。そして、さらりと言う。
「山本提督、あなたが部下に検討させているハワイ作戦、あれは即刻中止させてください」
その一言で、部屋が静寂に包まれた。松岡は呆気に取られていたが、山本の表情が強張っているのを見て、ヘスが日本海軍の何かしらの作戦を口にしたことに勘づいた。
「ほぅ。ハワイ! さすがは電撃戦を考案したドイツ人は、気宇壮大なことを考え付かれますね」
山本がうそぶくと、ヘスは打ち返す。
「航空母艦の集中運用による開戦劈頭一回こっきりの奇襲攻撃。マンシュタイン・プランに負けず劣らずの大構想ですな」
「あいにくと小官は何を仰っているのか分かりかねますが」
仏頂面の山本に対し、ヘスはにっこりと笑った。
「まぁ、お立場があるでしょうから、何も言いますまい。ともかく、お国が米国と戦端を開かれるのは勘弁いただきたいワケです」
ヘスの言葉で電撃が走ったかのように、松岡が突然立ち上がった。この男は興奮すると立つ癖があった。
「副総統、お言葉ですが、それは了見が違うというものでしょう」
私は海軍の作戦には一切関知していないが、と前置きしたうえで、松岡がまくしたてる。
「そもそも米国が輸出規制をチラつかせ、日本を干上がらせようとしているのですぞ。引くも進むもならぬとなれば、先手を打つのは国家として当然でしょう」
8割。この数字は、米国に対する日本の石油依存率だ。この国は仮想敵国としてきた米国に頼らなければ、国内の重工業があっという間に停止してしまう環境にあった。
目下、日米関係は緊迫の度を増していた。日本が企てた仏印進駐はドイツ側の反発で失敗に終わったものの、その試み自体が米国の警戒心を高めていた。米国務長官のコーデル・ハルは度々、日本への制裁として屑鉄や石油の輸出停止を口にし、それがまた日米間の亀裂を深めている。
なにもそれらの事情を知らないわけではありますまい。日本に文句をつけるのではなく、ホワイトハウスに赴くべきです。小柄な身を震わせながら熱弁する松岡に、ヘスは短く返した。
「問題は油でしょう」
「いかにも」
「総統はこう仰せです。万が一、米国が禁輸に踏み切った場合、アバダン油田のドイツ買付分を全て日本に譲渡すると。あそこからは御国の年間消費量の倍以上の石油が湧き出ていますから、十分おつりがくるのでは」
再び、山本と松岡は顔を見合わせた。ドイツが日本に石油を売るだと。もしそれが実現すれば、台所事情は一変し、米国との交渉をじっくりとやる余裕が出てくる。禁輸という米国のとっておきの外交カードは、単なる紙ペラになる。
「油に関しては、もう一つ。日独共同でのマンシュウの資源調査を早急に行いましょう」
「満州ですか。あそこはすでに満州国建国時に陸軍が油兆地調査を終えているはずですが」
石油に関して一家言ある山本が口を挟む。駐米武官の経験がある山本は石油の重要性を若くから主張していた。熱意を燃やすあまり、2年前には水をガソリンへ変えるという荒唐無稽な詐欺話に引っかかった思い出すらある。それだけに、満州に油田があるとは到底思えなかった。
ヘスは山本の思考を見透かすように畳みかけた。
「二十年前に死んだウィリアム・ノックスダーシーというオーストラリアの鉱山技師をご存じですか」
山本は首を振った。
「彼は若い頃、油田を探し当てようと世界中を巡っていたのですが、ハルビンとチチハルの一帯に、有望な油田が存在する可能性があると指摘しています」
「そんな論文は見たことがありませんが」
「先日イランが国有化したアングロ・イラン石油会社の内部資料です。彼はこの会社の創業者でした」
こういってはなんですが、かつて満州で行われた日本の油兆地調査はずいぶんといい加減だったそうじゃないですか。もう一度やり直してみたって、バチは当たらないでしょう。ヘスの問いかけに、山本は口をへの字に曲げた。
「なるほど、副総統、いや、ヒトラー総統はずいぶんと日本に気をかけていただいているようですな」
「えぇ、それはもう。ドイツ最大の親日家といっても過言ではないでしょうね。正直言って、総統がなぜお国にこれほど関心を示されているのか、私でさえ理解が及んでいないのです」
ヘスの表情に、初めて戸惑いというものが浮かんだ。おそらく、今の言葉は本心だったんだろうな、と確信した上で、山本は質問を重ねる。
「近衛首相の前に我々に話したというのは、つまり我々を首相への説得役に仕立てようということですね」
「ヤーともナインとも言いますまい」
「で、あなた方は我々に何を求めるのです」
「まず、眠れる巨人を目覚めさせないこと。満州での油田開発にドイツも参画させること」
「他には?」
「有事における日本海軍の欧州派遣を総統は求めています」
ヒトラーはまた欧州で戦乱を起こすつもりなのか。山本は怪訝に思ったが、ヘスの表情にはかすかに怯えがにじんでいた。これは泥棒に怯える金持ちの顔だ。ナチスを脅かす存在となれば、英米か、北の大国しかない。そういえば、ソ連は海軍拡張に勤しんでいるとも聞く。
「具体的にはどんなフネがお望みで」
ヘスが言いにくそうに日本の旧国名を発音したのを聞き、山本は頭を掻いた。本格的に防諜態勢を見直さなければマズいな。こうも軍機が筒抜けとは。
ドイツ人がどうして呉の彼女を知っているんだか。まだ産声さえ上げていないというのに。
一九四一年十二月。
土と大気以外の何もかもが凍てつく極寒の中、独石油大手ドイチェ・エルデールの採掘技師アウグスト・ディールはコサック帽を震わせていた。満州の冬は氷点下を軽々と下回る。
日本人の言うことを聞いて、新京で厚手の防寒着を買っておいて正解だったな。ドイツから持ってきた服じゃあ、今ごろ凍死しちまっていたに違いない。サイズがあまり合っていないコサック帽を深くかぶり直す。
少し離れたところで、採掘管が轟音を響かせながら地下へ地下へと進むのをどこか冷めた目で見ながら、ディールは煙草に火をつける。
それにしてもこんなところ掘っても本当に出てくるのかねぇ。
ふぅと紫煙を吹き出しながら、独り言をぶつぶつと言い出した。総統府の命令ではるばる満州まで来てから1カ月と少し。独日政府共同で進められている満州での油兆地調査に独側スタッフとして従事していたが、内心では調査の必要性に激しく疑問を抱いていた。第一、黒竜江省のこの一帯で有望な油田があるなんて話を、ディールはこれまで聞いたことがなかった。
「中世の日本には弘法大師という高僧がいましてね」
「ほぉ」
満州国お雇いのモンゴル人地質学者、李四光がディールの隣に座り込んだ。李は日本や英国で高等教育を受けた(ディールの目から見ても)一流の学者で、ディールとともに調査事業の責任者を務めていた。
李はディールが手渡した煙草をうまそうに吸い込む。ベルリンから大事に運んできたアメリカ煙草の味は抜群だった。このところの独米関係の改善が奏功し、ドイツへの米国製品の流通量が増えている。
「日本各地にある名湯のいくつかは、この弘法大師が杖をついたところを掘ったら湧いてきたという伝説がありますね」
「その弘法大師とやらは君みたいに地質学者だったのかい?」
「いえ、ただ、当時から水脈を掘り当てるというのは、宗教的な行為だったんでしょう。総統閣下もそういう神通力をお持ちならありがたいのですが」
ディールは苦笑した。
「勘弁してくれよ。それに、これだけの機材を持ち込む坊さんなんかいないぜ」
実際、今回の調査にかけるドイツ側の熱意は尋常ではなかった。ドイチェ・エルデールのみならず、フランス政府を半ば脅迫して国際石油資本の一角たるフランス石油会社も調査に参画させていた。さらには旧アングロ・イラン石油会社の社員や機材も投入された結果、現場は独仏英の出身者が顔を揃え、国際色豊かな様相を呈している。技術的に立ち遅れている日本側は、人手と土地、さらには馬賊対策に関東軍を貸し出しているだけだった。
「実際のところ、今回の調査の根拠はどうなんです」
李は利口そうな双眼をきらりと光らせる。
「アングラ・イラン石油会社の極秘資料の噂のことか」
「そう。満州油田の存在を指摘しているという。そういう物証がなければ、ドイツとしてもアジアくんだりまで調査団を派遣しないでしょう」
「どうだかねぇ」
とはいったものの、ディールは内心眉唾だと思っていた。そんなものがあれば、英国人はきっとどんな手を使ってでも、日本政府に強引にねじ込んで満州の開発に参画しただろう。アングロ・イラン石油会社の連中に聞いても、そんな紙を見たことがないと首を横に振るばかりだった。恐らくはペテンだろうと確信に近いものを抱いている。
「まぁ、でも、油にかける総統の熱意は本物だろうな」
ディールのつぶやきに、李は応じた。彼は英字紙を読み解けるだけに、欧州事情にも多少通じていた。
「総統肝煎りの高速道路網の敷設計画、アレで自家用車の普及率が上がって、ドイツのガソリン消費量は右肩上がりなんでしょう」
「ガソリン価格の上昇が止まらず、シャハトが悲鳴を上げているらしい」
「だからこそ、ドイツにとっても新たな油田の掘り当ては生存圏確立に必須ということですか」
レーベンスラウム。仰々しいが、実際その言葉を当てはめるのが適当なんだろう。ベルリンから遠く離れた地にいても、ヒトラーがドイツを資源貧国へ逆戻りするのを病的に恐れているのが手に取るように分かった。石油が足りなくなれば、ヒトラーが推し進めている欧州改造計画はあっという間にワイマールのような狂乱物価を引き起こすに違いない。そうなれば、欧州におけるパクス・ゲルマニカも終わりの始まりになるだろう。
「まァ、これまで神がかりであらゆる困難を突破してきた総統閣下だ。きっと今回も的中するさ」
2人がはき出す煙ばかりがもうもうと満州の空に立ち上る。そろそろ、日が沈みかかっていた。現場に目をやれば、作業班長がスピーカーから終業を告げていた。夜は軍閥崩れの馬賊がよく現れる。早いうちに宿舎に帰らなければいけない。
こんな調子じゃ、いつまで経っても祖国に帰れないな、とディールが自嘲したところに、1人の若い日本軍士官が駆け寄ってきた。
彼はディールと李のどちらに報告するか逡巡した末に、2人に聞こえるように「近くの農民から苦情が来ました」と声を張り上げた。李が聞き返す。
「内容は?」
「我々が掘り始めてから、井戸が使い物にならなくなったと」
「水が湧かなくなったのか」
「いえ、何かが混じって飲めるものではなくなったらしく」
李とディールは顔を見合わせた後、その士官に農民のもとへ急いで案内するよう伝えた。怒り憤懣の農民を札束でなだめ、井戸を掘り返す。
吉報がベルリン、東京へもたらされたのはおよそ三時間後だった。満州国皇帝溥儀は枢軸陣営の石油事情を一変させたこの発見を大いに喜び、のちに大慶油田と名付けた。
副鼻腔炎っぽい症状にかかりました。耳が聞こえづらく地味につらいです。
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