第14話 聖者と俗物
ソビエト連邦外相、ヴャチェスラフ・モロトフは扉の前で大きく深呼吸をした。だが、繰り返せば繰り返すほど、全身に汗がにじみ出る。
もうかつてとは違うんだ。そう自分に言い聞かせるが、どうしても血なまぐさい記憶が蘇ってくる。
クレムリンの書記長執務室。この部屋で、あばたの男は数多の国民を凍土に送り込こむことを決めた。いや、シベリア送りならまだマシだった。記録にさえ残らず、人知れぬ間に銃殺されていたり、拷問で廃人になったりした数多の例をモロトフは知っていた。
「鉄の男」の機嫌を損ねれば、モロトフのような高官でさえも命は危うい。この部屋の前に立つと、そんな地獄のような時代が思い出されてくる。
「昔が忘れられませんか」
背後には、襟に星を付けた軍服を嫌味なく着こなす男がいた。
ミハイル・トゥハチェフスキー。四十七歳という若さにして、その天才的戦略家ぶりから元帥という頂きに上り詰めた「赤いナポレオン」。NKVDの一党が消滅した今では、スターリンの最側近と目されている。
モロトフはハンカチで汗を拭いた。
「トラウマのようなものです。頭では理解していても、なかなか」
「私も粛清リストに入っていたのですから、お気持ちは理解できます。ですが、コーバは変わりましたよ」
モロトフは何度も頷く。確かに、トハチェフスキーが愛称で呼んだ男は変わった。
三年前、執務中に意識を失ったスターリンは、植物人間状態となった。誰もが回復を絶望的だと思い始めていた一九四〇年の夏、スターリンは唐突に目を開き、おしめを替えている最中だった看護師は悲鳴を上げた。医師が奇跡的と評するほどに体調は戻っていったが、何より周囲を愕然とさせたのは人格の豹変ぶりだった。
「私はあまりに多くの罪を犯してきた。このような人間が政治に携わるのは許されるものではない」
スターリンは、病室に駆けつけたモロトフら党幹部にこう告げると、引退して田舎のグルジアに引っ込むと言い出した。
狼狽する党幹部たちを押しのけて、説得にかかったのはトハチェフスキーだった。衰弱しているスターリンに詰め寄り、「この状態で政府から去るのは無責任というものです」と喝破した。
それは、あながち、おべんちゃらというわけでもなかった。事実、一九四〇年当時のソ連の足元は揺らいでいた。
スターリンが意識を回復する一年前、NKVD長官のラヴレンチー・ベリヤは宙ぶらりんとなったクレムリンの主導権を握ろうと、目障りなトハチェフスキーら軍高官の摘発を試みた。首都モスクワに戒厳令を敷き、臨時書記長を名乗って敵対勢力の大粛清を図る。それはクーデター以外の何物でもなかった。
ただ、ベリヤという男は嫌われていた。自身の欲望の赴くままに、未成年の少女たち相手に性的欲求を満たしてきたベリヤには、当然ながら人望がなかった。
ゆえに、クーデターの計画が漏洩するのも無理はなかった。自身に捜査の手が及ぼうとしていたことを知ったトハチェフスキーは、即断即決でモスクワ軍管区司令官に電話を掛けた。ルビャンカ広場にあるNKVD本部に、第一モスクワ狙撃師団が突入したのはその三〇分後である。
銃撃戦の末、ベリヤは呆気なく死に、陰謀は開演前に幕を閉じた。押収された記録から、数々の捜査の違法性が明らかになったNKVDには非難が集まり、組織自体が解散された。
スターリンが目覚めたのは、そんな一大変革を経た後のソ連だった。
「要するに、ヤツは置かれた状況に適応して、生まれ変わったように演技しているだけではないか」
スターリンの変わりぶりに、そういう見方を示す党幹部もいた。真実は誰にもわからない。
ただ、未だ混迷の中にあるソ連において、スターリンという重鎮政治家の存在は不可欠、というのが、党内の共通認識だった。
トハチェフスキーやモロトフの必死の説得の末、引退を断念したスターリンは、身を粉にして理想の共産国家の誕生に尽力しようと働き始めた。意識を失う前の、異常なまでの猜疑心は嘘のようにかき消えている。恐怖ではなく徳の政治を目指そうとするスターリン。後世で呼ぶところの、「綺麗なスターリン」が誕生していた。
執務室に入ると、書類仕事をしていたスターリンが顔を上げた。激務の連続でその頬はややこそげ、かつての恰幅ぶりは影を潜め、聖人のような風格さえ醸し始めていた。
「同志、あまり根を詰めすぎないでください」
「ナニ、書類仕事に働きすぎなんて言葉は当てはまらないさ」
スターリンは鈴のように笑った後、秘書に紅茶を運ぶよう指示した。三人はソファーで膝を詰める。秘書が出て行ったことを確認すると、スターリンはぽつぽつと話しだした。
「君たちだから言うが、どうもフィンランドでまた武装蜂起の動きがあるらしい」
それを聞いたトハチェフスキーの顔が曇る。
スターリンの〝覚醒〟後に決行されたフィンランドへの解放戦争は、ソ連の圧勝で終わった。トハチェフスキーの指揮する赤軍は瞬く間に国境を越え、首都ヘルシンキを陥落させると、現地の共産党を召喚して革命政府を樹立した。
ただ、NKVDの解体で治安維持に支障をきたしていることもあり、フィンランドでは散発的に反動勢力の武装蜂起が続いてきた。相手方には、名うての狙撃手がいるらしく、何人もの士官が射抜かれる被害も出ている。
「軍を増派しますか」
トハチェフスキーの提案にスターリンは首を横に振った。
「現地政府にゆだねるべきだろう。我々がよき社会像を示せれば、自然と人心はこちらになびく。あとは時間の問題だ」
一気に弾圧して芽を摘んでしまえば、統治もやりやすくなりそうなものだが。モロトフはそんな思いを抱いたが、すぐに考えを取り消した。いかんいかん。これでは昔のコーバではないか。
スターリンは話題を変えた。
「ところでモロトフ、イギリスの空気はどうだった?」
モロトフは先月の一九四〇年十二月に、英ソ親善のため、イギリスを訪問したばかりだった。むろん、親善訪問とは名ばかりで、ドイツ相手に一敗地に塗れたイギリスの実情を探るのが狙いなのは誰の目にも明らかだった。
「物価が乱高下して商店にも品物が十分に届いておりませんでしたね。ロマノフ帝政時代を思い出す景色でした」
「イランの石油国有化、あれも遠因だろう」
「そうでしょう」
英国の勢力圏と見なされていたイランが昨月、英国資本の石油会社を国有化したことは、英国植民地中で話題となった。英国保護国のエジプトではスエズ運河の国有化論が浮上し、その他の植民地でも英国の影響力を廃絶しようという機運が高まっていた。植民地の治安情勢が悪化すれば、農園や鉱山といった一次産業の生産効率は下がるし、物流も滞るのは当然だった。
モロトフは報告を続ける。
「英国共産党からはミルクの援助を求められました。飼料不足で乳製品全般の価格も高騰しているようで、特にそういう要望が党員から多いようです」
「お安い御用だ。党勢拡大の良い機会でもある。商工人民委員会にも私から働きかけよう」
「ありがとうございます。我々に警戒気味の英政府も、もろ手を挙げて受け入れるでしょう。ついでに彼らが赤旗を掲げてくれれば最高なのですが」
そういってモロトフは一笑いした後、トハチェフスキーがニコリともしていないことに気付いた。トハチェフスキーは失礼、と断った上で「ミルクだけ、というのも寂しいのでは」と差し込む。
モロトフが言葉の意味を理解できずに、スターリンに視線をやると、最高指導者はまたそれか、と頭を抱える仕草をしていた。どうやら二人の間では、すでに話し込んでいたテーマらしい。
「ミハイル、その話は勘弁してくれ」
「いえ、この好機は活かすべきです」
「今の私は武威ではなく、思想で共産主義を広めたいのだ」
「思想を弾圧する動きに対抗するためには、相応の武器が必要です」
議論は平行線をたどる。途方に暮れているモロトフを見かねて、トハチェフスキーが種明かしをした。
「つまり、スペインでやったような手法を再現したいと提案しているのです」
モロトフはギョッとする。ソ連は一九三六年に起きたスペイン内戦で、大量の義勇兵を送り込み、共和派を支援した。しかし、今、トハチェフスキーが口にしている企ては全く別の物事だ。軍事力をもって外国政府の転覆を図る。企てが露見すれば、ソ連に向けられる国際的非難は想像を絶するだろう。
「同志スターリン」
トハチェフスキーは懇願する口調でにじり寄った。
「いずれ英国がドイツに屈し、枢軸陣営入りするような事態となれば、いよいよヨーロッパでドイツの覇権が確立されます。そうでしょう、外相」
「まぁ、実際、ロイド・ジョージは親独派と言われておりますが」
「そうなってしまっては、取り返しのつかないことになります。ファシストは後顧の憂いなく、いつでもソ連に襲い掛かれるようになるのです」
トハチェフスキーは凍えるような声色で言い放った。スターリンは苦悶の表情を浮かべ、黙り込む。そして、観念したように漏らす。
「同志ミハイル、私は軍事には疎い。この国をこの地上で生き長らせるためには、君の意見に耳を傾ける必要があるのかもしれんナ」
ウーム、何だか、大変なことになってきたぞ。モロトフがすすろうとした紅茶は、すでに冷め切っていた。
◇ ◇ ◇
ソ連首脳部が重大な政治的決断を下そうとしていたほぼ同時刻、ベルリンの総統官邸は例のダミ声で活気に満ちていた。
役所の高官や、ナチ党古参党員、さらには各国の大使クラスまでが待合室でぎゅうぎゅう詰めになっている。目的はもちろん、ヒトラーに会うためだ。
ヒトラー自身のアイデアで、応接間は一度に大人数を接遇できるように大改造が施された。上座にヒトラーが座り、長机の両際の椅子に来訪者は並ぶ。ともすれば主従関係があからさま過ぎて、おごりさえも感じられるスタイルだった(むろん、この男の持つカリスマ性はそんな懸念を抱かせなかった)。
面会時間は一組三分。長くて五分。慌ただしいが、文句を言う人間は誰もいない。来訪者の要望に対して、ヒトラーの答えは常に簡潔明瞭だった。
総統個人秘書のマルティン・ボルマンが呼び込むと、先頭に座っていたドイツ国鉄総裁のユリウス・ドルプミュラーは部屋に入った。
ヒトラーは奥座に座り込み、扇子を慌ただしく羽ばたかせていた。ドルプミュラーに気付くと、よぉと右手を挙げる。
「総裁、高速鉄道の進捗はどうだい」
「車両の小型化にはメドが立ちました。来月には試運転が始まるとの報告を受けています」
ヒトラーはニッと笑みを深める。
「そりゃあ良かった。久々に良い話を聞いた。高速鉄道は地域開発の優等生だ。これまでは人口の多いところに駅を置いていったが、これからは発想を丸っと変える。レーゲンスブルクやミュンスターのような地方都市にこそ、高速鉄道を走らせる。産業も移転して、必然的に均衡ある発展が実現するってぇワケだな」
ドルプミュラーはヒトラーの講釈にうんうんとうなずく。ヒトラーは欧州改造論をぶち上げて以降、鉄道に異様な熱意を燃やすようになった。かつてのヒトラーは巨大建造物としての駅舎や列車に興味を示していたが、ロジスティクスの視点での鉄道には全くの無関心だった。それは内政におけるドイツ国鉄の地位低下さえも引き起こしていたので、総統の心情変化はドルプミュラーとしては歓迎すべきものだった。
それにしても、総統、やけに鉄道に詳しくなったな。戦車の次は、こっちにハマったか。ドルプミュラーがそんな思いを巡らせていると、ヒトラーが水を飲もうとしていた。わずかな面会時間で、ヒトラーに要望をねじ込むならこの瞬間しかないことは、ナチスドイツ高官にとっての常識だった。
「ところでぜひご相談したいことがありまして」
「ん」
「つまりは収益性の話です」
ドルプミュラーは説く。ヒトラーの「我が改造」で書かれているように高速鉄道を田舎に走らせたとて、大都市に比べて人は少ないのだから、当然乗客は少ない。赤字も覚悟せねばならないが、その点はどうお考えか。
ヒトラーはあっけらかんと言う。
「ナニ、田舎路線で儲ける必要はないさ。いいか、ベルリン=パリ、ベルリン=ローマ区間は黙って走らせたって、ドル箱路線になる。そっちの上がりを回せばいいだけだ」
「トータルで赤字になってもいいと」
「かまいやせん。地方発展のための種銭だと思えば安いもんだ。目先の損ばかり気にしていちゃあ、商売なんかできやせんよ。収支なんてものはシャハトに任せていればいい」
それにナ、とヒトラーは声を潜める。
「将来、欧州中に高速鉄道網が敷かれたとき、東西を行き来するためには、地理上、必ずドイツを通過せにゃあならん。ここで通行料を分捕ればいい。ドイツは欧州の心臓部なんだから、その利点を生かす手を打たねば、冥途のビスマルク爺さんも泣いてしまうわねぇ」
まぁ、心配せずに大いに励んでくれや、と一声かけると、ヒトラーは手元のベルをチーンと鳴らし、「次ィ!」と吠えた。
ドルプミュラーと入れ替わりで入ってきたのは、濃い眉毛が特徴的な副総統のルドルフ・ヘスである。その顔には怯えが潜んでいる。扉が閉じようとした寸前、待合室からボルマンがヘスに軽蔑した視線を送っているのが見えた。
困ったものだ。
角栄は唸った。戦争が終わって時間もできたので、役所の人間関係を頭に入れようとしたところ、イの一番で知らざるを得なかったのが、この二人のいざこざだった。
ヘスはもともとナチ党の創設メンバーで、ヒトラーの側近というべき人物だった。「我が闘争」の口述筆記を務めたのもヘスだったし、人目につかないところではヒトラーとは互いに「君」と呼び合う間柄だ。
何よりも彼の強みは国民的な人気の高さだった。海千山千がひしめくナチ党内にあって、ヘスは比較的温和な人柄で知られた。ドイツ国民にとって、親しみやすいナンバー2というのがかつてのヘスだった。
ところが、彼の部下についた太っちょのボルマンは、あまりに実務面で優秀すぎた。ヘスはもともと精神的に不安定なところがあり、たまにとんでもないヘマをやらかすのだが、そこにつけ込むかのようにボルマンは職権を拡大していった。結果として、今やヘスは副総統とはいうものの、名ばかりの存在となっている。
――というのが、複数の女性秘書との雑談を通じて知った知識だった。書類に書いていないディープな人間模様を知るには、事務方をくすぐるのが手っ取り早いことを角栄は肌身で知っていた。かつて、角栄事務所では、周囲の政治家にママと呼ばれた優秀な女性秘書が、この手の情報を根こそぎ引っ張ってきたものだった。
さて。ヒトラーに呼び出されたヘスの態度は、今まさに死刑宣告を下されんとする被告人そのものだった。かつてのヒトラー氏は、ボルマンの甘言もあり、ヘスを遠ざけようとしていたきらいがあり、それがまたヘスのノイローゼを悪化させていた。
「なぁ、君、ちょっと一杯やろうや」
そういって角栄はショットグラスにオールドパーを注ぐ。
「ありがたくいただきます」
ヘスは一舐めした。まるで怯えた子犬のような仕草だった。
「ちょいと仕事を任されてもらいたいんだがネ」
角栄の呼びかけに、ヘスは意外そうな表情を浮かべた。戦争中、放っておいた俺に一体何を、という顔だった。
「わたくしにできるものでしたら」
「来月、日本に飛んでもらえるか」
「日本ですか」
君はよく突拍子もないことを言いだすんだよなぁ、とヘスは内心で呟いた。日本ね。締結直前だった三国同盟を破談に終わらせ、日本が欲したインドシナ進駐を全力で拒否したのは、君だったじゃないか。おかげでオオシマとかいう駐独大使は引責辞任する羽目になり、独日関係は冷え込んでいた。
「ヘス、お前にだけ打ち明けるがナ。何も俺は日本を敵対視したいってわけじゃないんだ。機関車があらぬ方向に飛び出そうっていう時に、石炭をくべてやるのが真の友人がすべきことか。正しい方向にレールを敷くべきだってのが、俺の思いなんだネ」
「はぁ」
ヘスは困惑顔で言った。そんなに君は日本好きだったっけ。
「だけども、最近の日本じゃドイツへの反感が高まっているらしい。誤解を解くためにも、君に総統名代として出張ってもらいたいってワケだ」
そういって、角栄はヘスの杯にオールドパーを注ぎ足した。ヘスはそれほど酒が強い方ではなかったが、友人の振る舞い酒を断る無粋さは持ち合わせていなかった。
モルトの甘みを舌で転がした後、思い切って問いかけた。
「君」
「ウン」
「それは、副総統としての僕への命令かい。それとも」
角栄は間髪入れずに切り返す。おいおい、何を言い出すんだ。そんな調子じゃ困るゾ。
「これは戦友の君以外に頼めないんだから、こうして来てもらっているんだ。日本でどうしてもやってもらいたいコトもある。どうか引き受けてくれ」
ほろ酔い気味のヘスは、短く、ヤーと頷いた。
【あとがき】
頒布予定の夏コミまでに完結させたいと思っていましたが、どうも厳しい気がしてきました。
面白かったらいいねなどよろしくです(・3・)