第12話 欧州改造論
どこまでも透き通った青が、地平線まで広がる。秋口に差し掛かろうというのに、地中海の温暖な気候は季節感を狂わせそうだった。
イタリア南部のアマルフィ海岸。ギリシア神話の英雄ヘラクレスが、愛する妖精の亡骸を埋めたとされる風光明媚な土地に、場違いな軍服の男たちが押し寄せていた。
「この美しい海を埋め立てて、アフリカと地続きにする。そんな物騒なアイデアがお国で出ていると伺いましたが」
サングラスをかけたベニート・ムッソリーニははち切れんばかりの笑顔を浮かべながら、探りを入れた。イタリア人は陽気な人種と聞いていたが、それにしても嫌味がない。この男が崇められるのも分からなくはないな、と角栄はワインをちびちびやりながら感じた。
「はは、山師の世迷言の域を出ませんよ。こんな海を埋め立てるなんて非経済の極みだ。断じて私は反対ですナ」
「それを聞いて安心しました」
ムッソリーニは親しげに角栄の肩を叩いた。職人のように大きな手だった。
「この海はイタリア人にとっての生命線ですから」
「私のクニも魚はよくとれますが、これほど波は穏やかじゃない。羨ましいばかりです」
「たしかに。地中海と北海はぜんぜん違う景色でしょう」
角栄は一瞬呆けた顔を浮かべた後、北海も裏日本も同じようなものかな、とあっけらかんと応じた。2人のやり取りを脇で見守るリッベントロップ、チアノ両外相は愛想笑いを浮かべるが、どこか不安の色がにじむ。
無理もない。ミュンヘンでの爆発事件以来、独伊首脳は没交渉になっていた。同盟国としては現場レベルでのやり取りはあったものの、この二大独裁者が顔を揃えるのは久々だった。
リッベントロップは肩をすくめた。イタリアがドイツに不信感を持つのもむべなるかな。イタリアは英仏との和平協議で蚊帳の外に置かれ、恩恵を大して蒙れなかった。なにせヒトラーが領土要求を放棄すると明言してしまっていたのである。ローマ帝国の再現を夢見ていたムッソリーニは、悲願だった北アフリカ植民地の獲得を泣く泣く諦めざるを得なかった。必然的に憤りはドイツに向かった。今回ヒトラーがイタリアに足を運んだのは、冷え切った独伊関係のテコ入れという意味合いが大きい。
「次の会談はエーゲ海を臨みながらやりたいものです」
「エーゲ海。あぁ、レスボスの海なんてのはずいぶん綺麗らしいですナ」
ひゅうと乾いた風が吹く。ムッソリーニはとぼける角栄に詰め寄った。
「我が国は近くギリシアへ軍を送り込むつもりです」
リッベントロップは唾を飲み込んだ。フランス戦で消化不良に終わったイタリアがギリシアを侵略しようとしているのは周知の事実だったが、かの国のトップが明言するのは初めてだった。ギリシア王家は英王室ともつながりが深い。イギリスが乗り出す可能性もある。ようやく鎮火した欧州に、戦乱の火だねが持ち込まれようとしていた。
角栄は微笑のまま切り返す。
「まぁそのぉ、それまた非経済的ですナ」
「経済的であるかどうかは関係ありません。これは我が国に課された使命ですから」
しばしの沈黙。ムッソリーニは畳み掛ける。
「しかし疑問なのは、お国が正当なる領土の返還を英仏に主張しなかったということです。第二帝国時代の植民地すら関心を示されなかった。奇怪というほかありません」
「まぁねェ」
日差しが強まっていた。角栄も胸元から取り出したサングラスをかける。アフリカの方向を指差しながら、つぶやいた。
「植民地は負債にしかなりませんから」
「負債ですと!」
「閣下もエチオピアでは独立運動に手を焼いていらっしゃるでしょう」
「鎮圧は時間の問題です」
「その貴重な時間とカネを国内投資に回してごらんなさい。ドカタとして言わせてもらえば、この海岸だってちゃんと開発すれば一大リゾート地になる。豪華客船を海外から呼び込んで、大勢の観光客を招けば外貨をたんまり稼げるでしょう」
断崖絶壁の急斜面から眼下に紺碧の海がきらめいていた。角栄は演説を振るう。
「もはや武力の時代は過ぎ去りました。これからドイツは欧州全土の国土開発に力を注ぎます。全ての道はローマに通ず、を現実のものとすることも我々の時代で可能です」
青い瞳を輝かせながら、角栄はがっしりとムッソリーニの手を握った。
「ぜひ同盟国としてイタリアのご助力もいただきたい」
この問いかけに、ムッソリーニは実にラテン系らしく大げさに反応してみせた。信頼回復の証といわんばかりに、両者は抱擁しあった。周囲はほっと胸をなでおろす。
もっとも、ムッソリーニとて政治家である。ヒトラーの面子を重んじ、ギリシア侵攻を延期することにしたが、諦めるつもりは毛頭なかった。独伊の覇権が確立された頃に、えいやとやってしまえばいい。会談後、チアノにこう漏らしていたという。ただ、東の脅威が高まる中、そんな好機は永遠に訪れなかったのだが。
◇ ◇ ◇
絢爛とした「鏡の間」に、オリエンタルな香辛料の匂いが充満する。
パリ郊外にそびえたつヴェルサイユ宮殿。ドイツに破滅的な結果をもたらした条約が議論された舞台に、次々とカレー皿が並べられていた。
昼食にカレーを選んだのは、アドルフ・ヒトラーその人だった。彼によれば、カレーは人数に応じて配分量を調整しやすく、短時間で胃に収まる。そして食べ飽きない。つまりは会議に打ってつけのメニューというわけだった。ちなみに未来の日本で長期政権を築いた政党の部会でも同じ光景が広がっていた。
招集がかかった各国の都市政策の専門家は、ヒトラー流のもてなしに困惑しつつも、スプーンを手に取った。カレーなんか食べたくはないと思った出席者もいたのだろうが、席を蹴るわけにもいかなかった。なにせ、この会議で、欧州の未来図が決まるかもしれないのだから。
「欧州改造計画」――ヒトラーが近年持論として唱え始めたこの構想を肉付けし、本格始動させる。会議はそのために開かれていた。すでに要点をまとめた紙が配布され、専門家たちは熟読していた。
「交通網の整備の重要性はね、誰も否定しやしませんさ。ですがね、まずは社会資本の蓄積を優先するべきでしょう。戦争で地方へ流出しちまっているんだから」
パリ大学から出席したさる教授が、会議の席上、こう訴える。彼の祖国は住民投票でドイツへの帰属が決まったエルザス=ロートリンゲンを除いて、領土の割譲を迫られなかった。一時はパリを含む北部一帯のドイツ統治、それに伴う臨時政府のヴィシー遷都――という悪夢も囁かれていたが、実際には休戦協定締結後、ドイツ軍はフランス人が首をかしげるほどお行儀よく撤退していった。
結果的に、フランス政府はペタン元帥を首相に抱いた対独融和主義者で構成されつつも、ある程度の言論の自由が許されていた。教授が戦勝国相手にずけずけとモノを言えるのは、そういう事情もある。
「いえ、ですからそれでは手遅れになってしまうというのが総統のご懸念なのです」
悠然と立ち上がったのは、帝国首都建設総監を兼ねるアルベルト・シュペーアだった。彼は会議でドイツを代表する立場にあった。
「手遅れ。ハッ、何が手遅れなのか」
「パリ、ベルリン、ローマ、ロンドン。将来、各都市への一極集中が起きればどうなるか。産業は大都市に集中し、職を求める若者も地方から流出する。首都栄えて国滅ぶる、です。都市の過密を政治の力で是正するのは困難だからこそ、均衡ある発展は重要なんですよ」
「じゃあ世界首都計画はもういいのかね、シュペーアさん」
フランス人教授の強烈な皮肉を受け、若き建築家の顔は引きつったが、彼はこう返した。
「かまいませんとも。それすらも内包したのが総統のご計画です」
この場ではスンと答えてみせたが、シュペーアは自身が手塩にかけてきた「ゲルマニア計画」の無期限停止をヒトラーに告げられた後、仕事場で半狂乱になり、模型を破壊していた。
「ベルリンに新造駅舎一つ建てるのにかかるカネで、田舎に立派な駅が5つはできる。なァ、シュペーア君、ベルリンを肥えさせるのはもういいだろ」
ヒトラーの主張に頭では反対できなかった。それをアンタが言うのか、と突っ込みたい感情は湧いたが、例の事件後に人格がコロリと変わっていたことを鑑みると、受け入れるほかなかった。彼は権力者におもねる術を学んできたからこそ、この地位を築いていた。
イタリア人の老教授が独仏のやり取りに横槍を入れた。
「ちょっと質問なんだがね、高速道路網を西ヨーロッパ中に整備して、都市と田舎の格差を解消すると言うお題目は分かる。だが、財源はどうするんだ。道路というのは、歩道はまだしも車道となれば手入れしなければ急速な勢いで劣化するんだぞ」
シュペーアは待ってましたとばかりに打ち返す。
「各国で目的税をガソリンにかければよろしい。その税収は全て道路事業に用いるとすれば、受益者負担の観点からもイーブンというものです」
「増税ねぇ」
会場からため息が漏れる。生活の足である車に税をかければ国民がどういう反応をするか。戦災の記憶が濃厚な今、万々歳で迎える向きは乏しいだろう。
「みなさん、あまりデメリットばかり突くのはよしましょうや」
ウィーン訛りの独語を話すのは、汎ヨーロッパ主義者で知られるクーデンホーフ=カレルギー伯爵だった。カレルギーはナチスからの迫害を恐れて一時はアメリカへ亡命していたが、今では居を戻し、完璧に宗旨替えしていた。
「道路、鉄道網のつながりが隣国同士で密接になれば、国境を越えた人的交流も盛んになる。次第に国境すらも無意味なものになっていくでしょうぞ」
「それで我々は一同、パクス・ゲルマニカのお先棒を担ぐってワケか」
熱に浮かされたように語り込むカレルギーにヤジが飛ぶ。顔を赤くしたカレルギーが反論しようとした瞬間、周囲の視線が別の方向に向いていることに気付いた。
一人の男が扉の前に立っていた。ドイツの一団が雷に打たれたように立ち上がり、お決まりの文句を言う。西ヨーロッパを制覇した独裁者はいつものように右手を軽く上げ、柔和な笑みを浮かべた。
「議論の邪魔をしてしまったかな。見学させてもらえればと思ってね」
ヒトラーはシュペーアからこれまでの経過の説明を受けた。席上で一波乱があったことをさっとつかむと、全体を見渡して一席打った。
「皆さん、私の持論である欧州改造論にさまざまなご意見が出ることは甘んじて受け入れる」
ヒトラーは聴衆の反応を確かめるように一拍入れた。わずかな空白は場に緊張感をもたらす。いつもの手だった。
「ただネ、これがドイツだけのためのモノだと思われたらたまらない。いわば、欧州を極楽浄土にする処方箋。そういうものを諸君の知恵を結集して作りたいと考えているんだ」
机を拳で三度叩いて続けた。
「都市の空気は自由にする、という言葉は今や過去のものだ。いまのベルリンを見てごらんなさい。地下鉄は混むし、車の渋滞も馬鹿にならない。庶民は郊外の狭苦しい公共住宅から1時間や2時間かけて職場に向かい、家に帰ればカアちゃんも子供も寝付いている。亭主は一人寂しくメシを食う。これがヒトとして幸せな生き方といえるかッ」
聞き入っていた何人かがうなずいた。卑近な例だからこそ身に染みるものがあるのだろう。すでに都市の過密化は西欧諸国で社会問題化しつつあった。
「景色をがらりと変えるには、まず交通網の整備が最優先だ。道ができれば、街が形成され、企業も移転していく。地方なら家と勤め先の距離も短くなる。亭主は30分ぐらいの通勤時間で会社に着く。まだ日の明るいうちに帰宅して、チーズでビールを一杯やってから、子供を連れてクリスマスマーケットに行くこともできるようになる」
物語を読み聞かせるように一気に言い切った後、ヒトラーは一人一人に視線を合わせて語りかけた。
「そんな生活、わけぇ連中にさせてあげたいでねぇですか」
ヒトラーは会場を見渡して、とどめの文句をそらんじる。
「諸君は欧州きっての秀才代表であり、都市政策などの専門家ぞろいだ。私は素人だが、塹壕で銃弾をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。一緒に仕事をするには、互いによく知り合うことが大切だ。われと思わん者は誰でも遠慮なく総統官邸に何でも言ってくれ。できることはやるし、できないことはやらない。しかし、責任は全てこのアドルフ・ヒトラーが取る。以上!」
ぱちぱちと拍手が起きる。パリ大某教授はさすが当代一流の扇動家だな、と皮肉ろうとした瞬間、自分も場に飲まれて無意識のうちに手を叩いてしまっていたことに気付いて苦笑した。
「水は低きに流れ、人は高きに集まる」
3か月後に発表された「欧州改造論」と題されたその本は、中国の古典から引かれた一文より始まっていた。各国メディアは、これをどう評価すればいいのか戸惑った。欧州全体のグランドデザインを実学的に描いており、とてもマインカンプと同じ著者とは思えなかったからだ。
この当時、都市の過密対策や農村への回帰を主張する学者はいたが、本で打ち出された「均衡ある発展」というモデルは目新しいものだった。それだけではない。欧州の主要都市をくまなく結ぶ超高速巨大鉄道網を小型化した欧州高速鉄道網の敷設。都市と農村をつなぐ高速自動車道の建設。企業の地方移転を推進するための補助金制度の創設――。地域間の格差を解消するためのあまたの処方箋は、ブレーンたちによる肉付けの努力もあり、説得力があった。
何より、これを書いたのはアドルフ・ヒトラーその人である。欧州ではいまや、ヒトラーが白いといえばカラスも白くなる、そんな状況にあった。独裁者の頭脳をのぞき込もうと、欧州改造論が売れに売れるのは当然の帰結だった。
この本の読者の一人には、クレムリンの住人もいた。外務人民委員会が翻訳したものを読み終えたヨシフ・スターリンは、側近のトハチェフスキー元帥にこう語りかけた。
「これはあまりに魅力的すぎるナ」
「危険ですか」
トハチェフスキーは上司の言いたいことを機敏に察した。
「この本の一部でも実現すれば、ファシストが未来永劫欧州を導きかねないね」
「とあらば」
「うん」
2人は無言でうなずきあった。モスクワでは初雪が降り始めていた。