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第11話 メッセンジャー

 池の畔で、空気を勢いよく切る音が響いた。

 ゴルフウェアに身を包んだヒトラー、いや、角栄はドライバーの素振りを繰り返していた。ここが軽井沢なら、さすが角さん、見事なスイング・・・と一山のギャラリーがお世辞を飛ばしそうなものだが、そばに控えるナチ党高官と警護隊員は珍しいものを見たような顔を浮かべている。

 それもそのはず。ドイツにおけるゴルフ人口は日本の5%未満。この時代、貴族趣味という位置づけで、どちらかといえばかつてのヒトラー氏が毛嫌いしそうなスポーツだった。

 独英和平成立後、角栄がベルヒテスガーデンにゴルフ場を整備してくれ、とシュペーアに頼み込むと、若き建築家は一瞬首を傾げた後、「総統にも息抜きは必要でしょうからね」とにっこり笑った。

 むろん、奇異の目を向けられかねないことは、角栄も分かっている。だが、英仏を打倒し、ドイツがナポレオン帝国並みの勢力圏を築いた今、総統官邸に持ち込まれる案件の量は常軌を逸していた。役所で処理すれば良さそうなものまで上がってきている。総統官邸主導の弊害極まれり、といったところだ。

 こりゃ、気晴らしをしなければ、鬱憤がたまって酒に溺れかねない。よぉし、魂の洗濯をするゾ。

 趣味のゴルフを再開したのはそういうわけだった。1週間ほど休暇をとると宣言し、ベルヒテスガーデンに逃亡。残務は副総統のルドルフ・ヘスに任せていた。

 スイングを繰り返すにつれて、ウェアに汗がにじむ。素振りの回数が3桁を超すと、角栄は腰に手を当て、空を仰いだ。

「うん、調子が出てきた。博士、お待たせした」

 ゆったりと歩み寄ってきたのは、経済相としてヨーロッパ経済を切り盛りしているシャハトだった。いつものスーツ姿ではなく、角栄同様、ゴルフウェアを着こなしていた。

 アメリカ生まれで英米通のシャハトは、何かと器用な男だった。その才能の中には、接待ゴルフも含まれている。他の党幹部は教養の乏しさが災いし、軒並みゴルフ経験がなかった。



 2人がコースを回るのを、苦虫を噛み潰したような表情で眺めていたのはゲーリングとゲッベルスだった。総統の取り巻きといえば俺たちだろう。いくら何でもシャハト爺さんといちゃいちゃしすぎじゃないか。古参党員同士、奇妙な共闘関係が生まれていた。特にゲーリングは経済分野の権限をシャハトに奪われていただけに、個人的な恨みもあった。

「何やら話し込んでいるようだが」

 むすっとゲーリングが呟くと、ゲッベルスは「グリーンの上は密談にはもってこいの環境のようだしね」と応じる。

「総統、またシャハトを使って何か仕掛けるつもりじゃないかな」

「どこに」

「たぶん、奴の生まれ故郷とか」

 宣伝相閣下の勘は妙に当たるんだよな。ゲーリングは顎から口元をぬぐうように撫でた。大任を任されそうなシャハトに疎ましさを抱くと同時に、憐れみも湧いてきていた。あの総統の下で勅命を与えられると、眼底出血やら過労でぶっ倒れる連中が続出している。ご苦労なことだ。もう俺はそこまで国に尽くすつもりはないさ。

 グリーンから白球が勢いよく空に舞い上がる。シャハトの一打だった。

「ナイスショット!」

 ヒトラーの掛け声に追従するように、ゲッベルスとゲーリングも間髪入れず同じ言葉を吐いた。言い終わった後、互いに違和感を覚えた。なんで英語なんだ。



 夕暮れ時になると一行は、小高い丘にある山荘ベルクホーフへ戻った。総統警護隊の詰め所を越えて、玄関をくぐった途端、ゲーリングたちは異変に気付いた。

 「ベルクホーフの女主人」といわれたエヴァ・ブラウンの出迎えもなく、山荘内には奇妙な静寂に包まれている。いつぞや訪れたときは、何人ものハウスキーパーや庭職人、料理人がせわしなく動き回り、リゾートホテルのような活気があったものだが、今や人の気配というものがない。

 ヒトラーはこの光景を気にせず、汗ばんだシャツを脱いで上裸になっていた。バスルームに向かおうとするヒトラーを制止して、ゲーリングは尋ねた。

「あの、総統、これは一体」

「ん、お前らも飯の前にひとっぷろ浴びろよ」

「いや、そうではなく」

 戸惑い気味のシャハト、ゲーリング、ゲッベルスを見渡して、ヒトラーはようやく合点がいく。

「言っていなかったか。合宿だから自活が基本だ。気兼ねなくやるために使用人は全員帰した。ブラウン嬢もな」

 シャハトが合いの手を入れる。

「つまり、林間学校(フェリーンコロニー)ですか」

「まぁ、そういうことだ。上げ膳据え膳ではホテル暮らしと一緒だ。飯炊きも掃除も自分でやってこそ、魂が洗われるというものだ。不自由だからといって使用人を呼び戻したら承知せんからナ」

 そう言い放って、ヒトラーはシャワーを浴びに行った。残された3人はエラいところに来てしまったと、顔を見合わせた。


 このオジサンたち、何をしているんだろう。

 ベルリンでの仕事を終え、合宿に途中合流したシュペーア戦時生産庁長官は、厨房に立つ空軍元帥、宣伝相、経済相を見て、土産に持ってきたモーゼルワインを思わず落としそうになった。ヒトラー肝いりで設置された戦時生産庁も、戦争が終わって民需への移管が主な業務となり、総体的な仕事量は減っていた。

「おいッ、シュペーア君も1品作れ。遅れてきたんだから、とびきりうまいもんだぞ」

 厨房の支配者は総統だった。大雑把にネギやシイタケを刻んでいる。料理好きというわけではないのだろうが、最低限生きるためのすべは学んでいる。そういう手つきだった。

 そのわきで、ゲッベルスが神経質に牛肉をハンマーでたたいていた。シャハトは分量を正確に測りながら鍋に調味料を注いでいる。この老人が料理に臨むと、何やら怪しげな科学実験の様相をていする。

 ゲーリングは二つのフライパンを器用に扱っていた。卵を片手で割って、目玉焼きを作りつつ、横のコンロでアスパラガスを炒める。覗き込んできたシュペーアに「俺のはビスマルク風アスパラソテーだ」と諳んじた。「軍人だからな、若いころは何でもこなしたよ」とくたびれた様子で続けた。こんなことなら総統に付き合わず、自分の山荘に閉じこもっていればよかった、という嘆きの色が浮かんでいたが。

 1時間ほどですべての品が仕上がり、それぞれが食卓に自慢の品を並べた。ゲーリングの一品の他、ヒトラーは日本風牛肉の煮込み(すき焼き)、ゲッベルスはシュニッツェル、シャハトはキャベツのスープ(コールズッペ)、シュペーアはアウフラウフ(グラタン)だった。それぞれの個性が強すぎて、メニューの統一性などあったものではなかった。

「それでは、まずは俺から一言」

 なみなみに手酌で(ドイツに御酌という文化はなかった)注いだビールを手に、ヒトラーは立ち上がる。総統の奇行に疲れ果てていた高官たちも、ピシリと背筋が引き締まった。

「先の戦勝は、諸君の貢献があってこそだった。欧州最強の陸軍国と海軍国をまとめて倒すなんてのは、我々が最初で最後になるだろう。よくやってくれた」

 ヒトラーは拳を握りしめ、唸りを上げた。

「しかし、まだ、危機は去っていない。真の脅威はアメリカである。30年前に我々にとどめを刺したのは、新大陸の存在だった。だからこそ、独米協調を断行せにゃあならんッ!」

 段々とビールの泡は減り始めていた。

「戦争に勝って、俺にしても今が一番力の強い時だ。命がけでやれば何でもできる。俺の力が弱まればそれもできない。ルーズベルトはモンロー主義を掲げて当選した男だ。その点では信用できるし話もつけられる。そこで、シャハト博士に俺の特使としてアメリカへ飛んでもらうことにした」

 指名を受けたシャハトは、周囲に一礼する。

「手土産はどうするのです。アメリカ人からしてみれば、我々は仇敵です」

 何も聞かされていなかったゲッベルスは鋭く問いかけた。ヒトラーはビールを一口あおり、意を決するように宣言した。

「俺の責任のもとで、博士にはある打ち出しをしてもらう。これにウンと言ってもらうため、今回諸君を呼んだんだ」


 ◇ ◇ ◇


 1940年10月27日。ニューヨーク証券取引所の周囲にはデモ隊が押し寄せていた。「ヒトラーのバンカーは帰れ」と書かれたプラカードとアメリカ・ユダヤ人委員会の旗がシャハトの視界に入った。

 シャハトが取引所で演説することは、米国政府と取引所、マスコミ関係者のみに通知されていた極秘情報だったが、どこからか漏れていたようだった。やむを得ないだろうな。この国はまともな民主主義国家なのだから。人の口に戸は立てられまい。

 時計を確認すると、演説までまだ時間があった。読みかけだったニューヨーク・タイムズを手に取る。1面は、一時は重度の風邪で重体と発表されていたスターリンが奇跡的に回復したとの一報だった。主義主張は違えど、独裁者という人種は、みな等しくしぶといのか。妙におかしく思われた。

 思いを巡らせていると係員から呼びかけがあり、シャハトは取引所のホールに向かった。会場前方には所狭しとメディアが並び、連続して焚かれるフラッシュで汗がにじむほどだった。欧州大戦後、初めてアメリカの土を踏んだドイツ高官の姿に、アメリカ社会は興味津々といった様子だった。

 司会に促され、シャハトは文句のつけようのない英語でしゃべり出した。話題は戦災で傷んだ欧州経済の復興から始まり、「インベスト(欧州に)ヨーロッパ(投資を)!」と力を込めると、「ファシストの手先が何をいいやがる」とヤジも飛んだ。だが、負けじとシャハトは話し続けた。アウェーなのは十分承知していた。ここに来るまでに、撃たれても仕方ないとも思っていた。家族に心配されながらも、海を渡ってここまで来たのは、ある贖罪のためでもあった。

 演説文は最後のページになった。

「人種問題は我が国における長年の課題でしたが、いまやヨーロッパは平和を取り戻し、安定と復興の時を迎えつつあります」

 人種! 勘の良い記者の一部がざわめき始める。メモをとる速度が加速する。それに合わせるように、シャハトは踏み出した。

「社会の団結を取り戻すため、ヒトラー総統はニュルンベルク法を廃止する方針を固めました」

 演説途中だったが、感情を爆発させたように記者の一人が立ち上がり、質問を差し込む。

「つまり、人種を問わず市民権が与えられると」

「左様」

「特定人種を対象とした公職の追放は」

「むろん、廃止される」

「それはいつからか」

 シャハトは一瞬言いよどんだ後、この世に悪なんてものは存在しないかのような笑顔で返した。

「私の認識では、総統は直ちに、遅滞なく、と仰られました」

 会場内のどよめきが止まらなくなった。事の重大さに気付いた何人かの記者が周囲を突き飛ばして本社へ一報を入れようとしていた。

 シャハトはその光景を超然と眺めながら、次の訪米ではもう少し歓待を受けられるかな、と夢想した。

 そして、同時に思う。本筋からいえば、外交はリッベントロップ外相が担うべきだが、総統は私を指名した。実際、リッベントロップの小僧じゃ、党幹部の色が濃すぎて、アメリカへのメッセンジャー役なんかこなせなかっただろう。総統、なかなか人を見る目があるものだ。シャハトはふふんと鼻の下を撫でた。年に見合わない自尊心の高さがこの男の原動力だった。



 ラジオ中継を聞いていた角栄はシャハトの一言を聞いて飛び跳ねた。()()()、だと。あの爺さん、ボケたか。法的な手続きにはちょいと時間がかかると、ゴルフ場で念押ししておいたじゃないか。難しい事柄だからこそ、穏便に進めなければならんというのに。

 そして、ピンとくる。そういえばシャハトがかつて可愛がっていた秘書はユダヤ人で、一連の措置で公職追放されたと聞く。シャハトは秘書を守り切れなかった。時期を早めたのは、あの聡明な老人なりの抵抗かな。うん。まァ、アメリカに与える衝撃は大きくなっただろうからヨシとするか。多少のアドリブは許容範囲だろう。

 どん底にあった対米関係の改善と、国内における人種問題への対応。どちらも角栄にとっては急務だった。ヒトラーとナチスがドイツに浸み込ませた差別感情は根深く、すぐに変わるものではないと理解している。ただ、やりようはあるはずだ。

 為せば成る。角栄は、上杉の殿様が残した名言を反芻した。

 そして、同時に胸の高鳴りを感じていた。そろそろ外交も落ち着いてきた。ようやく腰を据えてアレに手をつけられるな。

 壁に貼られた欧州地図を見上げて、にんまりと笑う。さァて、こりゃ、大仕事になるゾ。

【あとがき】

角栄を描いた「スピーチ」という舞台が5月にやるそう。軽井沢での合宿は山本皓一カメラマンの本に詳しいです。「素顔の田中角栄」というタイトルで文庫化もされています。

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― 新着の感想 ―
アメリカ生まれで英米通のシャハト? アメリカ生まれ?
なんてことだ。シャハトが発した言葉は、我々の世界線でいうところの「ベルリンの壁崩壊」を告げたあの歴史的一言ではないですか。素晴らしい展開!
[一言] スターリンさん風邪ですか、お大事に(すっとぼけ)
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