第10話 越山
その一報が届いたとき、角栄はバターを塗りたくったライ麦パンをかっくらっていた。慌て気味の従兵を手で制し、林檎茶を流し込む。
かつて総統の朝食といえば、ゲーリングやゲッベルスといった側近を集めて賑やかなものだった。手が尽くされたベジタリアン料理をつつきながらのお喋りは、独裁者にとって数少ない息抜きの時間だったのだろう。
だが、角栄はこの習慣を改めた。
「仕事に臨む時にフルコースをちんたら食っているやつにロクなやつはいない」と公言し、わずかな時間で粗食を取るようになった。もっとも、粗食といっても大口を開けて人一倍のパンは食うし、ミルクもグビグビと飲むといった具合で、年齢に見合わぬ健啖ぶりだったが。
「ん」
従兵が震える手で渡した紙に目を通した途端、角栄の眉間に皺が寄った。作戦室に、獣のような唸り声が響く。
将軍連中が不安そうな視線を向けていることに気付いた角栄は、政治家らしく顔を作り直した。そして、今日みた夢でも語るように話し出した。
「まぁそのぉ、英仏が一撃かましてきた。グデーリアンと連絡が取れんらしいナ」
作戦室は水を打ったような静けさに包まれた。総統の言葉は、単に1つの軍が撃破されたことを意味するわけではないと、この部屋にいる誰もが理解していた。
西方侵攻作戦の主兵たるグデーリアン装甲集団の心臓部が射抜かれた。大博打の雲行きが、怪しくなり始めていた。
臨時総統大本営は沼地の近くに建設されたこともあって、この時期はどうしようもなく蚊が繁殖していた。角栄は弾くように扇子で蚊を追いやった。何ヶ所か刺されている。苛立たしげにその痕を掻きむしった。
海岸まであと15キロの距離に迫っていたグデーリアン装甲集団は、英仏軍の夜襲で司令部が壊滅していた。グデーリアンはMIAとなり、総統大本営も蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
A軍集団のルントシュテット司令官は事態を収拾すべく、参謀長のマンシュタインを前線に派遣したと報告してきた。同時に、「快速部隊の進撃停止」を求めてきている。
どうしたものか。角栄は辺りを見渡した。
「ただなぁ、包囲網が打ち破られたわけではないだろ?」
「とはいえ、その一歩手前なのは事実です」
陸軍総司令官のブラウヒッチュは怯えた表情で漏らした。「グデーリアン隊の統制を取り戻すまで、いかなる攻撃も不可能です」と続ける。その横から、ゲーリングが「その時間は空軍が稼ぎましょう」と胸を張った。
角栄は、黙りこくって聞いている。
「次の攻勢に向けても戦車をいたずらに消耗するわけにはいきません」
「敵の再襲撃もあり得るかもしれません。ルントシュテットの言うように、まずは足元を固めましょう」
将軍たちは言いたい放題を言って息を入れた。角栄は両手を頭の後ろで組み合わせ、椅子に背中を預けた。
「言いたいことは、よくわかった。しかし、もうひと踏ん張りのしどころじゃないか。山頂に登って朝日を望もうというときに、バテたからといって一休みするのは愚か者のすることだ。山のテッペンで飲むコーヒーが一番うまい。なぁ、無理は承知しているが、一緒に山を越えてくれヨ」
やわらかい口調ではあったが、そこには有無を言わさぬ覚悟が込められていた。ブラウヒッチュは言葉を失う。ゲーリングは「私は総統に従うだけです」と肩をすくめた。
「英海軍が出港準備を整えているという情報も上がっています」
背後から声を上げたのは、これまで発言の機会がなかった海軍のレーダー元帥だった。
「海路で撤退する準備とみていいでしょう」
「海軍で阻止はできんか」
角栄の疑問に対し、レーダーはやや皮肉を交えて答えた。
「100%は無理です。わが海軍は英海軍と真正面から殴り合うように作っていただいておりませんので」
再び、作戦室は静まった。要するに選択肢は残されていなかった。
「となれば陸で叩くしかないな」
そうつぶやいた角栄は壁に掛けられた地図に歩み寄り、ある一点を拳で叩いた。この港湾都市の名前は、かつて満州で従軍していた角栄でさえも耳にしていた。
「敵の集結地点はダンケルクとみていい。ここが我々のゴールだ」
「ウソだろ」
戦勝気分に酔いしれていたドゴールは、野営地で総司令部からの入電を聞き、呆れさえ覚えていた。彼の師団がさんざん撃破したはずのグデーリアン装甲集団――敵の指揮車が炎上したのを彼は目視していた――が、半日も経たずに行動を再開したなどと。
前世では、3分の1以下の被害で前進を2日も止めたじゃないか。なぜアドルフ伍長は臆病風に吹かれない? まさか、ドイツにも転生者はいるのか。ええい、くそったれ。味方も忌々しい。老いぼれのウェイガンめ、敵はどこへ行くかだと。あの街に決まっているじゃないか。
「オイ、追撃するぞ。次は立ち直れないようにしてやる」
戦車兵用のジャケットを羽織り、下士官に命じると、戦車に飛び乗った。まだ大した距離は離れていない。取り返しはつくはずだ。このままじゃ、歴史が変わっちまう。しかも、余計に悪い方向に。
出動の号令をかけようとした瞬間、西方の空から逆ガル翼の機体が向かってきていることに気付いた。距離が縮まるにつれて、機影がはっきりと視認できるようになる。フランス戦車兵の天敵。前世でも散々やられたスツーカの群れだった。グデーリアン隊の仇討に駆けつけたのか。
ドゴールたちの存在に気付いたスツーカは、急降下の態勢をとる。悪魔の金切り声のようなサイレン音が鼓膜を震わす。
戦車隊が直前まで停車していたことが災いした。いくらアクセルペダルを踏みこもうとも、そう簡単に勢いを出せるものでもない。
投弾、爆発、投弾、爆発、投弾、爆発――
衝撃で頭を強く打ち付けたドゴールは、頭部から血を流しながら、外の状況を確認しようとハッチを開けた。何両もの戦車が炎上、擱座していた。ドゴールの乗車も足回りから異音が鳴るばかりで、前へ進まなくなっている。
してやられたか。唇を強く噛みしめ、ドゴールはスツーカの後姿を恨めし気ににらんだ。
◇ ◇ ◇
曇天の下、汽笛が鳴り響く。海岸に向かって雑然と列を成した英仏将兵は、駆逐艦に乗り込む戦友たちを無表情で見守っていた。
ダンケルクの浜辺は、混乱を極めていた。ひっきりなしに兵士たちが海岸に到着しており、雪だるま式に膨れ上がっていた。そもそも、英仏の間でどの船にどれだけの兵士が乗るか、という取り決めがなされていなかった。イギリス兵はフランス兵が英国船に乗ろうとするのを阻んだし、それに怒り狂った兵士が発砲する事案も起きていた。
「おぉ、神様」
BEF総司令官のゴート卿は砂浜に仮設された司令部から嘆いた。几帳面さで知られる彼には珍しく、カーキ色の士官服はくたびれている。50半ばであるはずの彼の肉体にしても、相次ぐ敗戦で精気を失っていた。
ダンケルクに包囲された連合軍を海上輸送する「ダイナモ作戦」は発動されたが、あまりにも時間が足りなかった。そもそも、フランス軍はBEFが大陸から撤退することに納得していなかった。ガムランの後を継いだウェイガン将軍は、パリ方面の防備を固めるため、ダンケルクを拠点にできるだけ長く抵抗することを望んでいた。指揮系統の混乱を正すには、2、3日必要だろうが、その時間をドイツ人が与えてくれるだろうか。
指揮所から、英駆逐艦「グラフトン」が横づけしている桟橋で、一団が騒ぎだしているのが見えた。双眼鏡でのぞき込むと、乗船列に割り込もうとしたフランス軍の将校が英兵士にたこ殴りにされている。
ゴート卿は下士官に制止するよう怒鳴ろうとした直後、1発の砲声が響いた。ダンケルクの市街から聞こえてきたのは、英軍の2ポンド砲の発射音だった。ゴート卿の血の気がさっと引く。海岸にいる誰もが市街の方向に振り返っていた。
2ポンド砲は対戦車砲だぞ。誤射であってくれよ。
ゴート卿の願いを打ち砕くように、激しい戦闘音が続いた。乗船の待機列から悲鳴が上がる。
やつらが、来た。
「戦闘準備!」
あらゆる指揮系統を無視して、ゴート卿は叫んだ。呼応して幕僚が「ドイツ軍来襲!」とスピーカーで怒鳴るが、兵士たちの歩みは遅い。思考停止した蟻の群れのように、茫然としている。塹壕でも掘っておくべきだったか。いや、もう何もかも――。
こんな気分になるのはギムナジウムの徒競走で一番になったとき以来だろうな。
ロンメルは浜辺を埋めつくさんとする数えきれない敵の姿を眺めながら、そんな感想を抱いた。彼の率いる第7機甲師団は、アラスの防戦とダンケルク市街への強襲ですでに大隊長が2人死んでいる。戦車の稼働率も半分近くまで落ちていた。だが、ここまでたどり着いた。
全てあの男がこの絵を描いたのかな。ロンメルはぼんやりと夢想する。いかんいかん、また意識が飛びそうになった。これだけは言っておかねば。咽頭式マイクに語り掛ける。
「我が師団はこれより海岸に突入する。弾薬尽きるまで戦闘継続せよ。戦車、前進!」
結果から言えば、海岸での大虐殺は起きなかった。ドイツ戦車隊がダンケルクの浜辺へ乱入して程なくして、麾下の将兵がひき肉になる前にゴート卿が白旗を掲げることを決意したからだ。
この戦いで捕虜となった人員は30万人超で、この中には外征可能な英陸軍のほぼ全ても含まれている。一方のフランス軍は、1870年のセダンと同じ規模の兵士が捕虜となっていた。
もはや誰もドイツ戦車の進撃を止められなくなった。数日後、フランス政府はドイツとの休戦交渉入りを発表した。英国政府からも水面下で打診があった。
この結果に越後の馬喰の倅は、「よっしゃよっしゃ」と高らかに笑うばかりだった。
【あとがき】
プロローグまでようやく辿り着きました。お付き合いくださり、ありがとうございます。
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