第9話 カタストロフ
「こんな訪仏になるとは思ってもいませんでした」
5月21日零時。月光に照らされたエリゼ宮の一角で、チャーチルは鷲鼻のポール・レイノー仏首相と固い握手を交わした。レイノーは気丈に微笑をたたえて見せたものの、顔は隠しようもなく土色だった。
フンッ、これは、ずいぶん危ないな。
チャーチルは葉巻に火をつけながら、同盟国の指導者を値踏みした。レイノーが前任者と比べて気骨ある政治家であるのは間違いないが、激流のようなドイツ軍の進撃を前に、精神の均衡が崩れつつあるのは明らかだった。なにせ10日ちょっとで国が滅びようとしているのだ。このままいけばレイノーは、後世の人間に泉下のナポレオン3世と同一視されかねない立場にあった。
「凱旋門でも案内して差し上げたいところですが、なにぶん」
「なに、クラウツを叩きのめした後、ゆっくりお邪魔するとしましょう」
チャーチルは流暢なフランス語で応じた。そして、本題を切り出す。
「ドイツ軍の包囲網が完成するのはいつでしょう」
「明日、いや、今日中には、と報告を受けています」
言い終わると、レイノーは何度も咳き込んだ。ストレスの影響だろうか、持病のぜんそくが悪化しているようだった。レイノーが水を飲んで呼吸を整えたのを見計らって、チャーチルはつぶやく。
「では、今回の作戦が最後の反撃ですな」
レイノーは力なくうなずいた。チャーチルがダウニング街を抜け出して、ドイツ軍が迫りくるパリへ足を運んだのは、このためだった。両国に残された戦略予備を捻出した共同攻勢。目標は敵主力のグデーリアン装甲集団。結果次第では、戦況を一変させられるかもしれない。少なくとも、敵の足は食い止められると両国の参謀本部が結論を出していた。
「フランクリン少将はすでにアラスへ進撃しています。歩兵2個師団に第1機甲旅団。そちらはいかがですか」
「第4機甲師団を向かわせています」
その名を聞いて、ほぅ、とチャーチルは目を広げる。
「アルデンヌで一時敵を食い止めたとかいう、例の師団ですか」
「えぇ。師団長は癖がありますが優秀な男です。夜襲へ切り替えるよう上申してきたのも彼でした」
わずかだが、レイノーの言葉に力がこもった。
まだ、この男――いや、フランスは死んでいないな。チャーチルは嬉しさを覚えながら、紫煙を勢いよく吐き出した。と、同時に(それはそうと海軍への待機命令を出さねばならんな)とそろばんを弾いた。40年以上、政治家としてのキャリアを持つ彼は、万が一、大英帝国が大陸から叩き出されることになった場合、兵士たちの生還率が自身の支持率に直結すると肌で理解していた。
◇ ◇ ◇
フランス北西の都市アラス近郊では、闇夜に紛れて、大小さまざまの戦車がうごめいていた。その中の一両、ルノーD2中戦車のハッチから、革製のジャケットを着込んだドゴール大佐は身を乗り出し、前方を睨んでいた。
シャルル・ドゴール。身長1メートル90センチの長身に、気位の高さを証明するかのような厳かな顔。ドゴール家は没落したとはいえ、古文書を紐解けば13世紀まで遡ることができる名家だった。教師だった父のアンリは息子を礼儀正しく育てることに熱心だったし、一族の多くが王政への哀愁を捨てきれなかったこともあって、彼がどこか他人を寄せ付けない、貴族的な雰囲気を漂わせるようになったのも無理はなかった。
満月の明かりにかざすと、LIP社製の四角い腕時計は正確な時刻を刻んでいた。時刻は5月21日の午前3時。たったの10日程度で、祖国がここまでズタズタに引き裂かれるとはね。何度見ても身震いする。機甲屋としてのドゴールの理想を体現したかのようなヒトラーの軍隊は、ドーバーへ脇目も振らず突進している。
戦車の扱い方にかけては、ドイツ人はべらぼうにうまいとドゴールは認めざるを得なかったし、心の底からドイツの機甲屋たちがうらやましかった。私が7年前に機甲部隊の充実を議会に求めたとき、政治家たちが認めていてくれれば。いや、せめて昨年の時点で戦車の集中配備をダラディエが決断していれば、戦況は違っただろうに。
もっとも、戦車の数という点ではフランスはドイツを上回っていた。個々の車両を見ても、装甲や火力などのスペックで優れており、実際にたった1両のフランス戦車が10両以上のドイツ戦車を虐殺した事例もあった。
ただ、運用方法がドイツ軍のそれとはまったく違った。フランス軍上層部が戦車を歩兵の支援兵科という地位に押しやり続けた結果、3000両以上の戦車は細切れにされて分散された。いわば、フランスは3個の鉄球が入った袋を1000用意したが、対するドイツは1000個の鉄球入りの袋を3つぶら下げて殴りかかってきている。
とはいえ、だ。無策でこの瞬間を迎えたわけではなかった。
ポーランドの劇的な崩壊を目にした後、軍上層部や政治家連中は考えを改めざるを得なかった。どうやら口うるさいドゴール君の主張は、耳を傾けるべきものがあるようだと。そうした好機を見逃さず、ドゴールは猟官運動にいそしんだ。よもや、私以外を新編の機甲師団長に充てないでしょうな。こうした脅迫が功を奏し、念願の第4機甲師団長のポストを手に入れていた。
古くからの友人のレイノーが首相に就任すると、軍全体の機甲師団再編にも口を突っ込めるようになった。同僚たちから「将来出馬するつもりか」と陰で揶揄されるほど活発にロビー活動を展開した結果、ドゴールの部隊は全軍的にみても装備面でかなり充実していたし、シャール2Cのようなオモチャも配備されるに至った。
きょうは21日、か。ドゴールはこの国における男の子の通過儀礼として、ナポレオンに関する書籍を読みふけったことがあった。あぁ、そういえば「フランスのアイアース」が死んだ日だな。
131年前のこの日、ドナウ河畔で始まった戦闘で、ナポレオンはカール大公の軍勢に敗れ、最も信頼した部下のジャン・ランヌを失っていた。
不吉だろうか。いや、そうでもない気がするな。どうみたって今の我々はグランダルメというありさまではない。むしろオーストリア軍がお似合いだ。ならば。
夜空が突然、昼間のように明るくなった。打ち上げられた照明弾はゆっくりと煙をたなびかせながら地上に落下していく。
「英軍か」
部下の応答を待つまでもなかった。静寂から一転。銃砲の発砲音と男たちの唸り声のハーモニーが平原に響き始めた。
どうやら司令部から連絡のあった英軍のアラス攻勢が始まったようだった。
ルノーD2に備え付けられた無線の性能は旧式と比べ物にならないほどに良好だった。無線機越しに指示を出す。
「状況は最高。我々も、これより突撃する」
伸びきったドイツ軍の車列に向かって、これまでのうっ憤を晴らさんとばかりに、フランス戦車の群れが襲い掛かった。さて、ドイツのアイアースは誰になるかな。うん。少なくとも前世よりはマシな戦いぶりを演じられるかな。夜襲なら小うるさい空のサイレン音も鳴り響かないだろう。
角栄とはまた別の転生――2周目の生を受けていたドゴール大佐は、猛禽類のような笑みを深めた。
【あとがき】
風邪ひきました。続きはまた来週末に。いつも読んで下さりありがとうございます。誤字指摘も大変助かります。




