大混乱の騎士団
ミスト砦を落とすための王国騎士団本陣。
そこでは指揮官の聖女・フローラの金切り声が響き渡っていた。
「そこの奴隷。さっさと準備して、早く杖を持ってきなさいよ」
あの女が耳障りな声で叫ぶのを、私──リリアナは、苦々しい思いで聞いていた。従属紋を通じた命令に逆らうことも許されず、私はフローラに杖を手渡した。
フローラの身の回りの世話をするのが、今の私の仕事だ。
屈辱としか言いようがなかった。
あの日、アリシア様を助けようと立ち上がった特務隊の面々は、従属紋を施された上でフローラの所有物として扱われた。私たちは人間としての尊厳をすべて奪われ、日々、罵倒されながら奴隷のようにこきつかわれた。
中でも副官だった私の扱いは、一番、苛烈なものであった。
「杖の準備をするだけで、どれだけかけてるのかしら~? いつになっても使えないのね~」
「も、申し訳──」
「そこに這いつくばりなさい。愚図には、身体に刻み込んであげないと分からないものね~」
嗜虐的な笑みを浮かべ、フローラが鞭を手にする。
ただの言いがかりだ。
ひざまずく私の背中を、フローラはぐりぐりと踏みにじった。
勢いよく鞭が振るわれ、背中に焼けるような痛みが走る。
「ごめんなさい、フローラ様。ごめんなさい、フローラ様……」
「その目、最高に好き~! 最高に無様で、最高に惨めね~。尊敬する人を殺されて、そんな相手に必死に許しを求めて──ねえ。今、どんな気持ち?」
フローラが、私の顔を覗き込んで囁いた。
──おまえなんかに、屈してたまるか!
──今に見ていろ……!
フローラを油断させるため。
私は、できるだけ従順に奴隷を演じてみせた。
哀れに鳴いてみせた。
従属紋には表立っては逆らえないからだ。
反抗したところで、今は何の意味もないからだ。
表面だけは従順に。内心では常に牙を研ぎながら──チャンスがくる日を、私はいつまでも待ち続ける覚悟をしていた。
***
その時は、思っていたより早く訪れた。
「敵襲! 敵襲です!」
「我が部隊の野営地が、魔族の襲撃を受けています! その数──二千以上!」
「はあ!? そんな部隊、どこから現れたって言うのよ!」
次々と飛んでくる伝令。
野営地に魔族の奇襲あり。それは突如として現れた魔族の兵に、王国騎士団が良いように翻弄されているという知らせだった。
フローラに求められた役割は、所詮はお飾りの指揮官である。
刻一刻と変わりゆく戦況に対応するなど、出来るはずがなかった。
無論、フローラの代わりに実質的に指揮を取る者も存在していた。
しかしフローラに与えられた権限は、その声を上回ってしまうのだ。権限だけは保持しているお飾り聖女──それは明白な王国軍の綻びであった。
「フローラ様、落ち着いて下さい」
「ああ、もう煩いわね。奴隷の分際で!」
「差し出がましい真似をして、申し訳ございません。この戦いには、フローラ様の進退がかかってます。もしものことがあれば、フローラ様が責任を取らされるかもしれない、と心配で──」
私は、フローラの危機感を煽るだけ煽っていく。
たとえお飾りであっても、その行動には責任が付きまとうのだ。フローラの不安を逆なでして、暴走を誘っていく。
「な、なら! どうすれば良いのよ!?」
「何もない場所から、二千の兵が生まれるはずがありません。誤報に決まっています──大方、何かと見間違えたのでしょう」
「そう、そうよね。そんなこと起こるはずがないものね……」
「ええ。明らかな誤報に慌てて取り乱しては、聖女の名前に傷が付くかと思われます。指揮官たる者、ドッシリ構えていなくてはなりません。それに、もし何かあっても、フローラ様の力で敵を一掃すれば良いではありませんか」
騎士団の混乱っぷりは本物だ。
野営地が襲撃を受けているのは事実。すぐにでも情報を整理して事に当たらないと、取り返しの付かないことになるだろう。
そんな本心をおくびにも出さず、私はフローラを心配するような表情を作り出す。
──内心では、あざ笑いながら。
果たしてフローラは、その言葉にあっさりと飛びついた。
「最高指揮官の聖女・フローラの名のもとに命じます。混乱は誤報──ただちに原因を各自の判断で取り除きなさい」
「な、フローラ様!?」
危機を前に見て見ぬフリをする最悪の指示だ。
しかし上官の指示は絶対。まして相手は、シュテイン王子のお気に入りの聖女様だ。彼女の機嫌を損ねれば、後でどんな目に遭わされるか分からない。
保身を考え、誰もがあっさりフローラの意見に従う意を示した。
そうしてフローラの無責任な言葉が、野営地に届けられることになる。
重要な情報の意図的な隠蔽。
それは王国に弓引く行為に他ならなかったが、私としてはアリシア様を誅殺した国に未練はない。上等だった。
──それにしても、なんで野営地に奇襲を……?
敵の狙いはなんだろう。
どう行動するのが、もっともフローラに不利に働く?
私は、考える。
王国騎士団は、魔族の大軍の接近に気付かなかったとでも言うのだろうか。
あり得ない話ではないが、さすがに考えづらいだろう。
いつの日か「ミスト砦の魔族が守りに専念している」と、報告が上がっていたのを思いだす。こちらに攻め入って来る者すらおらず防戦一方で、落とせるのは時間の問題だとも。
兵力はこちらが圧倒的に多い。守りに専念していても、勝てるはずがない。
それにも関わらず、魔族が遅滞戦に移行した理由は──
「……援軍?」
そうとしか考えられない。
突如として姿を現した方法は分からないが、王国軍は援軍が駆けつけるまでの時間をまんまと与えてしまったのだろう。
夜中に奇襲をかけるのは、きっと魔族軍の作戦の一環だ。
それならば次は、何をする……?
「一気にカタを付けるなら──狙いは、本陣?」
野営地に堂々と攻め入った狙いは、指揮系統の混乱だろう。
その上で一気に決着を付けるのならば、敵は必ずここを狙ってくる。
それならば、私がやるべきことは。
「聖女様、お下がりください。魔族がここまで攻め入ってくるやもしれません」
近衛の1人が、フローラにそう提案した。
シュテイン王子の近衛が、念の為にとフローラに付けられたのだ。
真っ当な意見であったが、それは困る。
フローラには、魔族が攻め入って来るまでここに居てもらう必要がある。
……私もタダでは済まないだろうが、自殺禁止の従属紋がなければとうの昔に命を断っていた身だ。今更、命など惜しくはない。
「フローラ様、ここに残るべきです」
「黙れ、薄汚い奴隷風情が! 口を挟むな!」
近衛が怒鳴りつけてきたが、私は無視してフローラの前に跪く。
卑屈に。従順に。あたかもフローラが功績を上げることを願っている忠実な下僕のように。
「フローラ様。前線が混乱しているときこそ、指揮官はドッシリと構えているべきかと存じます。馬鹿らしい誤報に振り回されて本陣を下げたなど、王国に戻ってからフローラ様が笑い者にされてしまいます」
「そう……かしら?」
「聖女・フローラ様は、戦場でも勇敢に戦った。その報告こそが、シュテイン王子を一番喜ばせるかと存じます」
「……分かったわ」
思ったとおりだ。
私の言葉を、フローラはあっさりと受け入れた。
この期に及んでフローラは、王国に戻ったときの評価だけを気にしているのだ。
「それにしても、悪い奴隷ね~。主人の行動に、我が物顔で口を挟むなんて~」
「ひっ。申し訳ございません……」
「これは、お仕置きが必要ね~」
落ち着きを取り戻したフローラは、嗜虐的な笑みを浮かべて私を眺めた。自らの提案を跳ね除けられた近衛までもが、不機嫌そうに私を睨みつけている。
下手に決定に反対しては、自らが罰せられるかもしれない。結果、忠言はせずに、私に八つ当たりしようと決めたのだろう。
あまりにも理不尽な扱いだった。
それがフローラの"奴隷"の日常であった。
「薄汚い奴隷が! 調子に乗ってるんじゃねえぞ!」
「今夜は、まともに寝られると思うなよ!」
近衛が数人がかりで、私に襲いかかる。
「ごめんなさい、お許しください。フローラ様──」
フローラの機嫌次第で振るわれる私刑は、もはや日常の娯楽となっていた。
愉悦を滲ませ、フローラは許しを請う私を嘲笑う。
──今に、見ていろ
精々、今は良い声で鳴いてやろう。
でも、あなたはきっと、ここで死ぬ。
その時まで、精々、笑っているが良い。
***
敬愛する聖女を奪われたリリアナの復讐の牙。
どのような目に遭わされても、決して心は折れず。
それは奴隷に落とされてからも、ずっと隠れて研ぎ続けてきた刃だ。
──そうしてその牙は、ついにフローラに届かんとしていた。