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mudai 日本語ver.

作者: hinatakoren
掲載日:2020/05/19

友達はいない。恋人もいない。職場へは行くが誰とも口はきかない。

休日は外へもめったに出ないのに、なぜあの日、あんな時間に、外へ出てしまったのか、今でも不思議に思っているし、今でも後悔している。


雨の降る黄昏時だった。

どうしてもオレンジジュースが飲みたくなったのだ。

普段だったらこんな夜中にジュースの一つくらい我慢するのに、その日はなぜか居ても立っても居られず、ふらふらと外へ出た。


コンビニを出て、高い塀と塀に挟まれた道を戻る途中、アパートの前に立つその人を見た。街灯が円く照らすあたりに棒立ちになり、こちらに背を向けて立っていた。袋が鳴った音に、彼は振り返った。逆光の中、顔だけがくろぐろとした影に覆われて、見えない。男は街灯のあかりの外へ出た。私の方へ歩みを向けた。手に持った袋を取り落とし、逃げよう、逃げないと、と思うのに、足は動かなかった。へたりこむ私の目に、刃物が見えた。おおぶりのナイフが握られていた。


ねえ、ここの人でしょう。


男は存外かるい調子で私に声をかけた。

さっき、出てくるの見てたんだ、そこの部屋の人でしょう。

男が私の部屋のドアを指し示す、そのナイフが濡れているのに気付いた。街灯を背にした男の、手や服や靴が、生臭く汚れているのにも気付いた。そして最後の一歩と踏み込むと同時に、男は私の前にかがみこみ、

「お姉さん、風呂貸してもらえないかい」


その、笑顔を、忘れられない。


断ることもかなわず、彼はずかずかと私の部屋へ入り、丁寧に靴を揃え、ナイフを持ったまま風呂場へ向かった。服を着たまま浴室へ入ると、シャワーの水音に混ざって、彼の笑う声が聞こえた。まるで堪え切れないみたいな、抑えた笑い声だった。通報しようか。……血だ。彼の服を汚していたのは血だ。鼻歌を歌いながら、彼は頭を洗っている。私は、浴室の磨りガラスの前で、袋も持ったまま棒立ちになった。通報しようか。でも部屋も顔も知られている。警察に行くのも億劫だ。関係者だと思われるのも面倒だ。とりあえず、……何も見なかったことに、してしまおうか。どのくらいそこに立っていたのか分らないが、しばらくして、彼は全裸で出てきた。

「わっ、ごめんごめん」

私はまた腰を抜かした。ごめんと言いながら彼は浴室へ戻り、顔だけ出して、タオルも貸してくれないかな、と言った。石鹸の匂いと湯気が充満した浴室のはずなのに、なぜか血なまぐさい気がした。

タオルを手渡しながら震えが止まらない。何をすれば、ただしくこの場を切り抜けられるのかまったくわからない。


死んだ方が楽かもしれない。


死んだように生きてきた。誰とも口をきかない日などざらにあった。毎日、電車に乗って、デスクについて、電車に乗って帰って、眠る。


2Kの片方、私がふだん生活している方の部屋に彼を通した。

慣れてしまって殆ど嗅ぎ分けない私の鼻と違って、彼の鼻は油絵の具の匂いに顔をしかめた。私は、彼の後ろ姿をじとりと眺める。服が乾くまでいさせてくれない?、まるで旧来の友人に頼むかのような調子で言いだしたのだった。風呂からあがり、タオルで水気は拭いたものの、着ていたものはすべて風呂場で洗ってしまったのだという。私はもう何かを考えるのをやめてしまっていて、彼にすんなり大きめのTシャツとジャージを貸した。季節は秋、寒がる彼に毛布まで与えた。

そして今、彼は私のベッド下の床ですやすやと眠っている。

血生臭い空気をまといながら、しかし私の鼻はすでに、その臭いを嗅ぎとれなくなりつつあった。


自らが招き入れた男の存在と、部屋の空気や私が、一体になって混ざり合って沈んでいく。

沈んでいく。


でもこの世界に底はないのだ。


私が目を覚ました時、男はいなくなっていた。

外が騒々しい。

顔を洗おうと洗面台に向かうと、開けっぱなしの浴室に、雑に転がるナイフが見えた。動くのも面倒になり、昼間まで寝ていると、チャイムが鳴った。しつこく何度も鳴らされる。苛立ってドアを開けると、警官がふたり、こちらを覗きこむような目をして立っていた。浴室の扉を閉めておけばよかった。

「昨晩、この近所で事件があったんですが、何か不審な物音や人物などに心当たりはありませんか?」

警官の片方が、人当たりのよい声音で言った。のこる片方が、じっと私の顔や、しぐさや、部屋の様子などを見ているような気がする。

「…いいえ。家から出なかったので」

私がそう答えると、存外あっさり、そうですか、お時間とらせました、またお伺いするかもしれませんがご協力お願いします、と警官は去っていった。また来るのか。きっと彼もまた来るだろう。忘れていった凶器を取りに私の部屋まで来るだろう。私はまたそれを黙ってまねきいれ、億劫さに負けて、彼からもう逃げることもせずに、すべて受け入れるのだろう。隣のアパートが封鎖されていた。黄色のテープが張られ、一日中警官が出入りしていた。


会社へ行く。帰る。誰に見せるわけでもない絵を描く。そして油が乾くと、また上から色を塗り、別の絵を描く。その繰り返しに、きっと私の心はもう死んでいた。死んで冷えて、乾いた粘土細工みたいに弾力も失っていた。でもきっとどこかで、私はそれを破壊したかったんじゃないか。私を微塵に砕いてくれる何かを求めていたんじゃないか。煮詰まった願いが歪んで、結果彼を引き寄せたのだとしたら。


彼はその日の夜中に私の部屋を訪れた。

律儀にチャイムを鳴らして、昨日と同じ邪気を含まぬ笑顔で、

「忘れものをしたんだ。あがってもいいかい?」

と首を傾げた。私は再びこれを招き入れる。

災厄だと分っているのに、今日は自らの意思で招き入れた。


「これ、ありがとう」

彼は丁寧にたたんだジャージを差し出した。

黙って受け取り、その顔を見た。

テレビが点けっぱなしになっていた。

朝からずっと、隣のアパートで起こった殺人事件の報道ばかりだ。

「これ、あなたでしょう」

私が彼に対して発した初めての言葉だった。

「そう、君、俺のこと誰にも喋ってないんだね」

殺さなきゃいけなかったかもって考えてたんだけれど。

「―――殺さないで」

「殺さないよ、だって誰にも喋らないだろう?」

彼の言葉に邪気はなかった。

「なんで殺したの」

彼は優しく笑うだけで、何も答えない。


「暁さん、おはようございます」

「生田さん。おはようございます」

「昨日のニュース見ました?例の、連続殺人」

翌日、制服に着替えて給湯室でお湯を沸かしていると、生田さんと行き会った。ここ数日、市内で続発している殺人事件が、4件目にしてとうとう同一犯の可能性が高いと報じられたのだった。そして、私の隣家で起こった殺人事件も、その可能性があるとワイドショーでは騒がれている。

「久寿ノ木町って、暁さんの住んでいる辺りじゃない?お互い気をつけましょうね」

朝の会話にしては、ひどく生臭い会話だと思った。私は大げさに眉を下げ、生田さんもね、と言った。しゅんしゅんという小さな音を立てながら、やかんのお湯が沸く。換気扇の音がうるさい。

……うるさい。


自宅に戻る。部屋の電気がついていなくて安堵する。パチン、と電気を点けると、部屋の中に見知らぬ人間のにおいが充満している。窓を開ける。窓の下、あの隣家にはまだ黄色いテープが巻かれている。

「おかえり」

私は、そのまま窓から落ちてしまうかと思った。あまりの驚きで。

「……い、いたの」

そっと窓を閉め、カーテンを不必要なほどぴっちりと閉じる。男は、私が普段絵を描くのに使っている小さな部屋の真ん中で、胡坐をかいて座っている。

「これ、君が描いたの?」

男は、私の言葉は無視して、後ろに無造作に積まれている数枚のキャンバスを見ながら言う。すごいね、なんか、怨念たっぷりって感じだ。そう言っておかしそうに笑う。

「怨念?」

「描いては潰して、潰して描いて、これが感情のはけ口なんだろう?そんなに生きていくのしんどいかい」

そう言って、描きかけの一枚をつーっとなぞった。まだ乾ききっていない絵具が、男の指にべっとりとつく。

「もしかして、死にたいのかな?確かにこんな絵を描く人、きっと死んだほうがずっと楽になれると思うなあ、俺も」

男は、そう言って自分の頬に手をあてる。あくまでにこやかな顔に、黒い絵の具の汚れが傷跡のように残る。男は立ち上がり一歩前に出る。私はその分一歩下がりたかったのに、足をほんの少し浮かせた瞬間、男がすごい速さで二歩、三歩と距離を詰めたから、結局逃げることもできず、

「本当にかわいそうだね!」

と嬉しそうに言う男に抱きすくめられる。

「本当はずっとこうされたかったんだろう?わかるよ。…杏ちゃん」

およそ生きているとは思えないくらい冷えた体だった。

「……なんで、名前……」

「一日中、やることなくて暇だったからね」

男の手が、私の臓器を探るように背中をまさぐる。肩甲骨、脇腹、腰。シャツの裾がたくしあげられて、生の膚にかさかさと乾いた男の手のひらが冷たい。私の膚ばかりがやわらかく、男の手のひらに吸い付いていく。背中のファスナーが、まるで膚を切り裂くように下ろされる。悲鳴みたいだ。私は他人事のように思う。気づけば男は、私の顔をじっとのぞき込んでいる。男の大きな、底なしに暗い目に私の顔が映っている。

「ねえ、俺の名前も呼んでよ」


俺の名前は、累。


「―――……累……」

「そう、いい子だ」

笑うと鋭い犬歯が覗く。


―――ピリリリ

毎日7時半に設定しているアラームが、いつも通り鳴り響く。眠れた気はしないが、壊れた体を軋ませながら起き上がる。会社に行かなければ。……体中が痛い。累の姿はなかった。支度をして家から出ようとして、ぞっとする。鍵がちゃんと閉まっている。知らぬ間に、この部屋の合鍵、作られてしまった。

よほど体調が悪そうに見えたのか、経費申請を回してきた営業にまで、大丈夫?と聞かれてしまうしまつだ。大丈夫ではない。深く考えるのもばかばかしく、私はいつものように感覚を閉じて、ただやり過ごすように一日を終える。


「おかえり~」

「……なんで……。合鍵返してください……」

帰宅すると、累がにこにこと奥の部屋で私を出迎えた。

「つれないなあ。そんなに俺が嫌い?」

「……。違います。迷惑。人殺しを匿うつもりはな―――」

顔を掴まれ、私はドンと腰をついた。爪が頬に食い込む。裂けるように痛む。

「はいはい、わかったわかった。本当に馬鹿なんだな、君は。じゃあこうしよう、君は俺に脅されて、暴力の支配下にあって、抵抗もできずに止むを得ず俺を蔵匿した。こんなの説明してあげなくても理解してくれると思ったんだけどな。それでいい?それでいいなら、そういうことにするけど」

そう言うと、累は私の顔をつかんでいた手を離すと、反対側の手で襟首をつかみ、大きく振りかぶった。―――殴られる!

「まっ…待って!」

ぴた、とその腕が止まる。

「あなたもちょっと考えたら?私が怪我して出勤したら、誰かがおかしいって気づくよ」

累はその腕をゆったりおろすと、それもそうだなあ、と言って、またにこにこと笑った。

「じゃあ、これからもよろしくね」

そう言うと、振りかぶっていたほうの手で、それはそれは優しく私の頬を撫でた。爪を立てられていたところが、じくじくと痛む。本能的に、これ以上怯えているところを見せるほうが悪手だと思ったから、努めて冷静に、挑戦するように言ってはみたものの、体中の震えが止まらない。こんなに鮮烈に生死を意識したことが、これまでの人生にあっただろうか。そうだ、死んだほうが楽だと思いながら毎日仕方なく生きていたけれど、この男が前に立つととたんに、死にたくない、生きていたいという、今まで感じたこともない衝動が沸き上がってくる。知らないもう一人の自分が縋りついてくるみたいに。私は、黙々と食事をする目の前の男をじっと観察する。むしろ人好きのするような柔和な顔立ち、大柄で丈夫そうな体つき、軽妙な語り。なんでこんな人が人殺しなんか、と思うとともに、こういう人こそ壊れているものなのかもしれない、とも思う。

「なんだい、人のことじろじろ見て」

いやらしいなあ。累はおちょくるように言った。

私は無視する。ちら、と視線を流せば、絵を描くのに使っている部屋に、最初の夜に累が着ていた服が干してある。最初の夜に累がもっていた凶器は、ない。

「杏ちゃん、料理うまいんだねえ!どれもこれもおいしいよ」

おいしい?これが?私には、塩気のある粘土みたいだ。

「せっかくなら恋人にでも食べさせてあげればいいのに」

そして累は、おしょうゆある?と言った。私が答える前に立ち上がると、流し横の調味料入れから醤油を持ち出して、先ほどおいしいよと言った私の料理に、なみなみと注ぐ。浸るほどに。黒々とした液体が、その中に浮かぶ平凡な煮物たちが、今は見知らぬものに見えてくる。累はそれを変わらずにこにこと口へ運ぶ。口を開くたび、その口内の赤さとか、歯の白さとかが、現実離れした鮮やかさで視界にちらつく。

「っ…」

私は思わず立ち上がって、流しに嘔吐した。

「あらら、大丈夫?」

累は私の背中に手を置いて、やさしくトントンと撫でる。左手で私の背中を撫でながら、右手で私の口元に触れる。かわいそうに。心底憐れむような声でそう言うと、吐瀉物をゆすいでもいない私の口に唇を寄せる。―――気持ち悪い、強く胸を押して累を突き飛ばすと、私はもう一度嘔吐した。


その日の夜中、累が音もなく出ていくのに気づいた。


累が姿を消して、十日がたった。

大家に言って家の鍵を変えようかとも思ったが、知らぬ間に家探しをされていたくらいだ。実家や職場まで控えられているだろう。逆撫でするようなことは何もできないと思った。私はもうこんなにも諦めてしまっている。

「なんだか最近、暁さん、ずっと体調悪そうねえ。大丈夫?」

今日も、生田さんが優しく声をかけてくれる。彼女は三ヶ月ほどまえに経理部に配属された派遣社員で、穏やかな性格と丁寧な仕事ぶりで誰にでも好かれる人だ。私のような人間にも優しくしてくれる。

「ちょっと、いろいろと悩むことがありまして。」

「あらあら、あんまり思いつめないようにね。ほら、考え事とかしながら夜道歩いて帰ったりすると、注意力散漫になって危ないって聞くし。最近物騒だものね」

ちょっと、おしゃべりなところが私には合わないけれど。


累が姿を消して五日ほどたったころ、私はとうとう、あれは夢だったのではないかとすら思い始めていた。けれど、夜中妙に眠れない日、久しぶりにキャンバスの前に座って、そこにくっきりと累の指のあとが残っているのを見た。そうだ、あの夜は確かにあった。じわっ、と腹の底から痛みと異物感が染みだしてくる。こうこうと明るい、キッチンの蛍光灯を背にして覆いかぶさってきた大きな影、ぬるぬるとまとわりつく他人の汗、ただただ空虚にやさしい声、そのわりに一方的な……、そういうすべてが異物感として蘇ってきて、私は振り払うように筆を振るった。累の指のあとに、白の絵具を執拗に執拗に執拗に塗り重ねて、ペインティングナイフでまったいらに均して、そして私はまた、耐えがたい吐き気を覚えた。


その日から、今日までほとんど眠れていない。テレビでは連日、連続殺人事件の話が手を変え品を変え報道されている。

―――社会に対して絶望した人間の通り魔的犯行でしょう。―――

―――いや、世間を震撼させることで自己顕示欲を満たしたい人間の仕業だ。―――

―――実は5人の被害者には共通点があったのでは?―――

電車に乗っても、お昼に食事に出ても、インターネットを開いても、どこかで聞いたような推察や、勝手な物語が、下世話に展開されている。隣のアパートで起きた殺人事件も、連続殺人の5件目として報道され始めていた。

6人目は私かもしれない。私は、他の被害者と同じように、ワイドショーで丸裸に剥がされていく自分を想像した。


ほら、今夜も眠れない。

布団に潜り、みじろぎもせず、濃い紺色に浸された部屋の中を、息をひそめるようにして見ている。少しでも動けば、音を立てれば見つかってしまう。―――何に?カーテンや、電球や、ドアや、室内干しの洗濯物が、どれも死んだふりをして私の様子をうかがっているような気さえしてくる。それらは今にも動き出して、

「―――」

音もなく、鍵が開いたのが分かった。玄関の扉がゆっくりと開く。外の空気が這うように流れ込んでくる。ぎし、とキッチンの床が軋む。一歩、二歩、三歩。動悸の音がうるさい。

「……杏ちゃん」

ドアを開けて、累は布団にくるまって息を止めている私の枕の横に手をついた。ぽたり、と私の顔に、生ぬるいものが垂れて落ちてきた。

「ただいま」

ぽたり。

もう一滴落ちる。眼球だけを動かしてその姿を見る。殆ど真っ黒の影の中に、ぽっかりと空洞のような口。ゆるく弧を描いて、もう一度ただいまと言った。白目が、青いほどに白い。部屋の空気が一度に重くまとわりつくようなものに変わった。

『…どう、累…。』

「あー、疲れた疲れた。」

そう言って体を起こすと、私に背を向けて着ていた服を脱ぎ始める。はじめの夜の血の匂い。背中がきんと冷えた。

―――ダメだ、これは……、

『累、ねえ、もしかして、また、』

ん?と累は首を傾げてこちらを振り向く。ああ、その顔。はじめの夜と同じ。顔の半分がべっとりと黒い血をかぶっている。髪の毛の先から、またぽたりと一滴落ちた。

「お風呂借りるね」

同じ夜を繰り返すみたいに、私は拒むこともできず、まるで最初から死んでいるみたいに、瞬きひとつできず、その裸の背中がバスルームに消えていくのをじっと見ることしかできない。その手に握られたナイフの刃先が濡れて汚れているのを。バスルームのドアが閉まって、私はようやく息を吸った。そしてしっかりと布団をかぶる。嘘だ、嘘だ。あれはまた一人殺してきた。今更になって全身が震え始める。本当に恐ろしいとき、人間は臓器から冷えるのか?何をどうしても、もう体温は戻らないような気さえした。

「はー、タオルありがとう。いい加減寒い季節になってきたねえ。」

そう言いながら、ぺたぺたと裸のまま歩いてきて、累は私のベッドに腰掛けた。そして、湯冷めした手で私の顔を触った。

「汚しちゃったね、ごめん、ごめん。」

変わらず朗らかに言う。そして私の布団に潜り込む。冷え切った脚が蛇のように絡まる。

「あら…死んだふりしなくてもいいんだよ?」

累は重たい腕で私の頭を抱え込むと、ぽんぽんと優しく撫でる。なんで?なんでこの人、何事もなかったみたいに。感覚を閉じて真っ白に塗りつぶしていた頭の中に、ニュース、新聞、ワイドショー、生田さんの声、噂話、身勝手な推測、死んでいった人たちの物語が蘇って流れ込んでくる。5人目の被害者はまだ若い男子大学生だった。涙声でマイクに向かう、モザイクのかかった祖母の、ちぎれるほど握り合わされた震える両手。耐えられずにぎゅっと目を瞑る。

『お願い…殺さないで…。』

「なんだ、その話か。急に。殺さないって言ってるじゃないか。」

『違う、これ以上誰も殺さないで。』

「……へえ、なんで?」

累は頬杖をついて、頭を上げてこちらを見る。

『怖い。』

「俺が?」

『違う、変わっていくのが怖い。』

「ふーん。考えておくよ。」

累はそう言うと、また私の頭を抱えた。私がその見知らぬ体臭に怯え、固まっているのに、累はしばらくするとすやすやと寝息を立て始めた。また腹の底が痛む。どうしてこんな災厄をまねきいれてしまったのか。気づかずにさえいれば、自分の世界の汚く歪んだところ、この男のようなバグに気を取られることなく、粛々と過ごしていけたのに。それこそ、死んだように、感情を閉じて。この歪んだ世界から這い出た時、私が私のままでいられるかどうか、甚だ自信が無い。


翌朝、私は久しぶりに、目覚めた。要は、眠れたということだ。……きっと、疲労が限界だったのだ、と自分に言い聞かせる。ゆっくりと起き上がる。横をちらりと見れば、累の裸の上半身が薄い早朝の明るさにぼんやりと照らされている。ふと視線を足元に落とすと、ベッドの下の床に乾いた血のこびりついたナイフが転がっていた。思わず凝視する。

「それで俺を殺そうと思ってる?」

思わず息が止まる。

『……そんなこと考えてもいない。』

口がからからに乾いて、ほとんど声が出なかったが、何とかそう答え、背中から腕を絡めてくる累を避ける。全身の皮膚が粟立つのがわかる。これをもう外に出してはいけない、私はそう思って、職場に急病で有給を取りたいと連絡を入れた。真面目に働いてきたかいあって、特段詮索されることなく、課長は

「なんなら明日も休んでいいから、しっかり体調を戻すんですよ。」

と言いさえした。電話を切って、私は二人掛けの食卓について、にこにことお茶を飲んでいる男に視線を戻す。

『あなたを外に出すわけにはいかない。』

「あはっ、一日中、杏ちゃんが相手してくれるってことかな?」

何してくれるの?累は屈託なく言う。怖い、怖いのは、この男は常に笑ってはいるが、それが下卑た笑いでもなければ、邪悪な気配もない、ただひたすらに子どものような笑顔なのだ。それが、底知れなくて怖い。全然別のしくみの中で生きているみたいだ。

『……なんでも。』

「……へえ。」

ほんの少し、笑みが薄くなる。人間を相手にしているわけではないから、どの言葉が逆鱗に触れるか、まったくわからない。ぴんと張った針金の上を歩かされている。

「でも俺、差し出されると食欲無くすタイプなんだよね。」

累はそう言って、テレビを点けた。遠くのほうで、パトカーと救急車のサイレンが聞こえる気がする。

―――人目の被害者の……

チャンネルを変える。

―――きょう未明、細波町の住宅街で女性が倒れているとの通報があり、病院に運ばれましたが死亡が確認されました。状況から警察は殺人事件とみて捜査を続けています。

次のニュースです。―――

私はもう、これもあなたがやったのかと聞くこともできない。

「なんでもやってくれるなら、俺の絵でも描いてよ。」

累はさして興味もなさそうに言った。


制作部屋の電気を点ける。しらじらしい蛍光灯が、ちらちらっと2回瞬いて、2秒後、部屋の中を恥ずかしいくらいの白さに曝す。真ん中に、私が塗りつぶしたばかりの真っ白なキャンバス。

「あれ、あの絵、潰しちゃったの?」

悪くなかったのに。累はにこにこと言った。

『……座って。』

「はいはい。」

あ、脱いだほうがいいかい?そう言いながら笑う累を無視して、私はキャンバス越しにその顔をじっと見る。鉛筆で、その輪郭をゆっくりと下書きしていく。……また、遠くでサイレンの音が鳴っている。キャンバスから累のほうへ視線を戻す。累のガラス玉のような目が、そこだけぽっかりと世界に穴が開いたみたいに、私を見ている。私はゆったりと持ち上がってくる吐き気を抑えながらまた鉛の先をじっと見る。


でも結局こうなる。私は、早々に飽いた累に組み敷かれながらぼんやりと蛍光灯を見つめている。

「かわいいね杏ちゃん。一生懸命で。」

「そんなに俺をここに留めたいのかな?」

「かわいいねえ。」

床に押し付けられた腕の骨が痛い。累は、私の鳩尾から鎖骨の間につうと指を滑らせると、のどの下のやわらかいところをぐっと押した。私は耐えきれず咽る。累はそのくぼみに舌を這わせる。累の肩のむこうに、まだ白い描きかけのキャンバスが見える。累が動くたび、体中が脈打つ一つの臓器になったように感じる。

『―――痛い、』

「そりゃそんなに力んでたら痛いよ。」

力抜いてくれないと。

『―――いやッ…』

「ああもう、動くなよ。」

俺を外に出さないんじゃないの?杏ちゃん。

そんなんじゃ俺すぐ飽きてしまうよ?

累は変わらず、子どものように無邪気な顔で、空洞の口をぽっかり開けて笑い、私を見下ろしている。視界のすべてをゆっくりと塞がれる。ぬるい、血なまぐさく脈打つ舌が入ってくる。この、化け物め……、私の目じりからはつうと涙が滑り落ちる。


―――ピンポン、

唐突にインターホンが鳴った。累が私の口を上から両手で押さえ、静かにして、とささやいた。

―――ピンポン、

もう一度鳴る。

ドアの前に人の気配がある。

―――不在か?

―――平日だしな。

複数の男の声がかすかに聞こえる。多分以前ここに来た警官だ。累に抑えられている口元から、ダラダラとよだれがこぼれる。

「……知り合いかい?」

気配が去って、しばらくして累は問うた。知らない、と言おうとしたが、累の目に射貫かれて、これは嘘を言ってもばれてしまうだろう。

『あなたが隣のアパートで人を殺した次の日、ここに来た警察官。』

「そうか、痕跡でも残したっけな」

興が褪めたのか私の上から退くと、そういうことなら、杏ちゃんの頑張りに免じて、しばらくここから出ないことにしてあげるよ、と言った。

「俺、そっちが満たされていれば、殺したい欲求も抑えられるから」

どこまでも侮辱して踏みつけにしてくるこの男に、私は口答えひとつできない。なぜなら、死にたくないから。この男に口答えをして抵抗して、惨たらしく殺されたくないからだ。昨夜累が持ち帰った凶器はまだ床に転がっている。乾いた小さな血痕もそこら中に見つかる。この男の前では、死にたくない私が縋りついてくるのだ。

『本当に?約束してくれる?』

「もちろん。杏ちゃんを俺の好きにさせてくれるなら」

そう言って、累は私に顔を近づけた。鼻と鼻が触れるくらいの距離で、まつげとまつげが絡まるほどの近さで、「飽きるまではね」と言った。


細波町で殺された6人目の被害者は、まだ16歳の少女だった。この一連の事件の被害者の中で一番若く、初めての未成年だった。

「……オイ、お前、大丈夫か?」

あれから数日、「絶対に家から出ない」という約束の代償として、居ついた累に引きずり回される夜が続いている。あまりにもひどい顔をしていたからか、ある日、とうとう初めて会う営業にさえ、体調不良を指摘されてしまった。

『……大丈夫です』

「いや、大丈夫な奴の顔じゃねーだろ」

経費申請を出しに来たその営業は、私のつっけんどんな態度に苛ついたのか、乱暴に経費申請の用紙をデスクの書類ケースに投げ入れると、手をついて顔を覗き込んだ。綺麗な顔の人だ、と思った。きらきらした目。

―――累みたいな。

私はとたんに吐き気に襲われる。

―――楽しそうに私を転がす累の目も、無邪気にきらきらと光るのだ。

「って、オイ!」

私はそのまま、吐き気をこらえながらずるずると椅子から落ちる。その人は、慌てて私の体を支えると、「コイツ、医務室へ連れていくぞ!」と言って、それから私はふわっと宙に浮いた。

……気持ち悪い。

この人の体温が、……他人の体臭が気持ち悪い……。


『う……』

「起きたかよ」

目を覚ますと、医務室だった。聞きなれない声にはっとして体を起こす。壁掛け時計を見ると、せいぜい15分ていどしか眠っていなかったようだが、丸一日眠った後のような妙に頭の冴えた感じがした。

「いきなりぶっ倒れてんじゃねえよ、風邪なら休んでろ!」

さっき私を抱えてくれた営業の人だろう、なぜか綺麗な顔をゆがめて怒っている。私はとっさに謝る。

『す、すみません、』

そしてその人はごそごそとベッドのわきから私の通勤用の鞄を引っ張り出して、おなかの脇にドンと置いた。

「もう、帰れ。経理の課長には言っといた」

『え、あなたが?』

「わりいか?マトモな奴の顔色じゃねえ!家帰って、寝ろ!暁杏!」

『…どうして、名前』

「ああ?同期だろうが」

…こんな同期、いたっけ、という私の顔を察したのか彼は、「鹿目だ!鹿目弦!」と言った。

『…あ、中部営業所の』

「そうだ!9月にこっち戻ってきたばかりだ!一年目の集合研修ぶりだから、忘れてたことは許す!」

そう言ってまた、綺麗な顔を歪めて怒ったような顔をする彼を見て、なんとなく私はそれを眩しいと思った。こんな普通の、きらきらした目の人、今の私が直視したら、目が腐り落ちてしまう。


『大丈夫ですから。一人で帰れますから』

「うるせえ。そんなフラフラ歩く女、一人で歩かせられるか!」

鹿目君は、私の鞄を勝手に持ち、ずんずん歩いていく。

「っつうかよォ、お前んとこのヤツに頼まれたんだよ」

聞けば、課長と生田さんがここしばらく休みと体調不良が続く私を心配したらしく、ちゃんと家に帰るよう言ってきかせてくれと、鹿目君に頼んだのだそうだ。おせっかいな。私は思わず苛立ったが、鞄を抑えられていては仕方がない。吐き気は収まったが、依然貧血のようなふらつきは残っている。鹿目君は「ここで待ってろ」と言って、さっさと社屋を出ていったかと思うと、タクシーを捕まえてエントランスのすぐわきまで誘導する。そして私の鞄を放り込んで、

「ホラ。乗れ」

と言った。

『……はい、』

私は黙って乗り込む。

「ちゃんと帰れよ!そんで寝ろ!!」

鹿目君はそう言うと、バンとドアを閉めた。

『……あ、家まで送るってくれるわけではないのか』

私はぽつりと、間抜けに呟いた。なんとなくおかしくなって顔が緩む。なんだか久しぶりに、まともに人に口をきいてもらった気がする。課長も生田さんも、私のことを気にかけてくれていたんだ。私は、もうずいぶん久しぶりに開いていなかった心のひきだしが開いたような、そこからほわほわとしたあたたかなものが漏れ出ててくるのを感じた。

『……ッ……』

しかしそれにかぶせるように、みぞおちのあたりに不快感がわいてくる。きりきりと痛みさえする。抑えようもなく震えて冷えていく手は、そのほわほわとしたあたたかいものではどうしようもなかった。

「おかえり。ずいぶん早かったね」

そう、こんな化け物のいる家に、戻らなければならないから。

「ヒドい顔色。そんなんじゃ、誰かにおかしいと嗅ぎつけられちゃうぜ?」

累は私の顔をぐいと掴んで引き寄せた。私と同じくらい冷えた冷えた手だ。

鹿目君のような、あんな熱い体なんてこの人は持っていない。抱えてくれた鹿目君の体温を、気持ち悪いと思ってしまったことを思い出す。私はとうに、この男のような、死んだ肉の体になってしまったからだろう。熱くて眩しくて、耐えられない。


「お前、今日もろくに寝てねえだろ」

それから、何かにつけ鹿目君は私の席に来るようになってしまった。生田さんがあらあらという目で見ている。

『鹿目さん、用事がないなら』

「用事ならあるぜ!ホラ、物品購入依頼票!」

『……取引先名と、金額をここへ』

何かにつけ用事を作って、私の席に来る。

「つーかよ、同期なんだから敬語やめろ」

『私は誰に対しても敬語です』

「あァ!?じゃあ俺にだけ敬語やめろ」

『なんでですか……。ハイ、これですね。コピーとったら原本私まで戻してくださいね』

紙束を持ってコピー機へ向かう後ろ姿を見ながら、私はまたほわほわとした気持ちが沸き上がってくるのを感じた。

「お前、前より元気にはなったけどよ、全然顔色はよくなんねえな」

私に原本を渡しながら、鹿目君は言う。

『もともとです』

私はそれを後ろのキャビネットに仕舞うために立ち上がった。……最近は、立ち上がるたびに貧血でふらつくし、ひざがしっかり立たないような気がする。その様子を目ざとく見ていた鹿目君は、またその綺麗な顔をゆがめて「長引くなら病院行けよ!」と言った。

「元々じゃねえことくらい、知ってる」

俺は記憶力が良いんだ、と言い添えて、彼はのしのしとフロアを出ていった。


家に帰れば、累が食卓に座ってテレビを見ていた。テレビでは、相変わらず依然糸口のつかめない連続殺人犯の話題をだらだらと流している。

―――3人目の被害者と6人目の被害者には共通点があった、ということですね。

―――共通点というほどのことではないですが、彼女たちは同じSNSサイトで同じグループのメンバーであったことが捜査の中で判明したんですよ。

―――グループ?

―――そうなんです。彼らは、

「おかえり、杏ちゃん」

累は私がテレビ画面を凝視してるのを知ってか知らずか、唐突にブツンとチャンネルを切り替えた。

「昼、昨日の残りの煮物を食べてからちょっと腹の調子悪くしちゃってさあ」

そしてけたけたと笑う。

『……ごめんなさい、ちゃんと冷蔵しておけばよかった』

「まあ全然大丈夫なんだけどねえ」

私はついとコンロのほうを見る。昨日の残りの煮物が、まだ少し残っていた。

『今日はおなかにやさしいものにするね』

ガシャン、とそれを捨てて、勢いよく水を鍋に流し入れる。

「杏ちゃんは優しいねえ!」

累はいつもの、さして興味もない風な空っぽの笑顔で言う。


洗い物をしていると、後ろから累が絡みついてきた。ちょうど包丁を洗っていたときだ。

後ろでは、終わりかけのドラマの挿入歌が流れている。気にも留めたことがなかったが、テレビではワイドショーのみならずフィクションでさえ毎日毎日、罪もない人が死ぬ話ばかり流している。

『ちょっと、あぶな…』

「杏ちゃんさあ、なんだか最近、ちょっと元気だね?」

しばらく私の手元を眺めていた累は、そう言って私のへそのあたりを服の上から撫でる。

拗ねるような口調なのに、まるで心臓を握られているみたいな、致命的な秘密を知られてしまったかのような気持ちになる。私は反射的にびく、と肩を震わせてしまう。

「外に、何か楽しいことでも見つけたかい」

ブラウスのボタンを一つ二つと外しながら、累は私の頭の上に顎をのせて続ける。

「もしかして、男でもできた?」

女の子が様子を変えるときってだいたいそうなんだよねえ。そしてブラウスの隙間から、じかに私の膚に触れた。

「ダメだよ。杏ちゃん」

俺が外に出てしまってもいいの?

ちゃんと俺の相手を一番に考えないとダメだよ。

『…待って、今包丁持ってるから、危ないから』

累は、腹のあたりをまさぐっていた手をブラウスから抜くと、包丁を持つ私の右手に重ねた。

『ど、累?』

「死にたくない、って言ってたね。…今もそう?」

累は、私の腕ごと包丁を持ち上げ、私の胸のあたりに刃先を向けた。

『やめて、お願い、…死にたくない』

頭の上で、なんとなく笑ったような気配がした。しばらくしてゆっくりと私の手をもとの位置に戻すと、ゆっくりと私の背中から離れ、ゲホ、と累は咳をひとつ零す。

「すごいね、杏ちゃん。俺全然飽きる気がしないよ」

その夜、いつものように磨り潰されながら、ゆっくりと私の首を締め上げる累の顔に、私と同じような青黒い隈が浮かび始めているのに気づいた。

「殺さないよ」

息ができなくて暴れる私の体を全体重で抑えながら、累はほんの少しだけ力を緩めてささやく。放してほしくて、私は累の手首を掴んだ。びくともしないその腕を。ギシ、とベッドが軋む。

「ねえ、俺の子供を産んでよ」

累は再び手に力をこめる。なんでそんなにこの人の手は冷たいんだろう。死んだ肉同士、重ね合わせても、何も生まれないよ。息ができないから、声が出ないから、私は心の中でそう答える。


カーテンの隙間から細く朝日がのびて、まぶたをしつこく刺すから目を開ける。まだ普段の起床時間まで1時間ほどある。首が、寝違えた日の朝のように凝り固まって痛む。横では、いつものようにうつぶせで累が眠っている。私はゆっくり起き上がって、洗面所に向かう。

『これは…ひどいな』

首にはくっきりと赤く累の指のあとが残っている。困った。これでは制服が着られない。私は、とりあえずまだ秋口には気の早いハイネックの薄手ニットをかぶって、『……まあいいか、怪我したことにして私服勤務させてもらえば』気を取り直して朝の支度を始めた。いつものように髪の毛を下ろしていると、襟にひっかかってうっとうしいので、後ろでひとつに結ぶ。

「なんか、今日杏ちゃんおしゃれしてない?」

目を覚ましたらしい累が、からかうように言った。

「やっぱり男―――」

『あなたが首にこんなことするからでしょう』

ぐい、と襟を伸ばして見せてやる。それを見て、アハハ、ごめんね!と累は笑った。珍しく、本当に楽しそうに。

『…昨日の残りは冷蔵庫に入ってるから、適当にあっためて食べて。今日も絶対、外に出ないで』

念押しするように言って、私は家を出る。

「はいはい」

累はベッドの上から動かず、そう言って頭を掻いた。


今日は月初、経理部が一番忙しい日である。私は部長に、怪我をしてしまったから終日私服で業務をしたい旨許可をとって、午前中はばたばたと過ごした。最近、暁は災難続きだなあ、と部長はのんきに言った。日頃の行いが悪くて、と私は応じた。


昼休憩も残り20分ほどになって、私はようやくひと区切りつけて伸びをする。ここ最近、食欲がないせいで、ほとんどお昼に食事をしていない。

「おい、暁杏」

不意に、いつもの声で名前を呼ばれた。

「お前、昼食ってねえだろ」

そんなんだからフラフラすんだよ、と言って、鹿目君はポンとおにぎりを置いた。そして、何か違和感があるような顔をして、そのきらきらした目で私をじっと見る。

「…お前、なんで今日私服なんだ?」

しばらくして、違和感の元凶に気づいた様子で言った。

『…怪我をしてるから』

「怪我ア!?」

『大声出さないでくださいよ…』

「なんだよ、転んだのか?食わねえからフラフラしたんだろ!」

くわっ、とまた怒った顔をして、強引におにぎりの包み紙を剥くと私の手のあたりにのせた。

『おなかすいてない…』

「食え!バカか!」

『やだ、気持ち悪くなる…』

「食わねえから気持ち悪くなるんだ!」

ぐいぐいと口に押し付けられるおにぎりをかわしていると、不意に鹿目君が動きをとめた。

「お前、その首の」

はっ、と私はとっさに首をおさえる。

「見せろ、それ」

『やめて、なんでもない、ただの…』

けれど、遠慮もデリカシーもない鹿目君は、私の襟首をぐいと掴んで、私が襟の下にかくしていた傷を見た。

「これ…、」

誰に、と言ったところで、課長や他の課員が戻ってきて、鹿目君はぱっと手を離した。

『なんでもない、おにぎりありがとう、ありがたくいただきます』

私はこれ幸いと立ち上がって、小走りで女子トイレに駆け込んだ。バン、と個室のドアを閉めて、ドアにもたれかかる。ひざががくがくと震えている。私はそのまま、便器に向かって思い切り嘔吐した。朝から何も飲み食いしていない胃から、辛い辛い、苦い苦い胃液がほとばしる様に出る。


その日一日、鹿目君の再度の来襲に怯えびくびくして過ごしたけれど、結局彼は来なかった。

「暁さん、今日はもう上がっていいよ。怪我もしてるし、今日もあんまり体調よくないでしょう」

課長がいたわるように言うので、私はおとなしくそれに従う。お手洗いに立つ回数が多いのも、もしかして気を使わせている一因かもしれない。

『お先に失礼します』

「おう、気を付けてな!彼氏そこで待ってるみたいだし送ってもらいな!」

『え…?』

課長がそう言ってフロアの入り口を指差す。仏頂面の鹿目君がイライラと立っていた。

「おい、ツラかせ」

『……イヤです』

「うるせえ」

そう言って鹿目君は私の手をぐいと掴むと、ずんずん歩く。エレベーターに二人で乗って、ようやくもう一度口を開いた。

「お前、その首、誰にやられたんだ」

『…あなたには関係ない』

「関係なくねえ!同期だ!」

暑苦しく彼は言う。仕方なく私は芝居がかって答えた。

『…他人じゃないですか。…はあ、そんなに人の秘密を暴きたいですか?これは私が副業でいかがわしい店で働いてるときに、客に首を絞められてついた痕ですよ。なんでそんなこと、あなたに話さなきゃいけないんですか』

ポン、と音がして、エレベーターは1階に着く。鹿目君は、絶句してそこから動かない。エレベーターの扉がゆっくりと開く。

「う、嘘だ」

そして絞り出すように言った。

『嘘じゃありませんよ』

そうだ、八割方本当だ。私は社員証をかざしてゲートを出る。まだ19時前、エントランスにはたくさんの人がいる。自動ドアが、絶えず開いては閉じ、開いては閉じ、している。何人かとすれ違いながら、私は追いついてきた鹿目君をじろりと見た。胃のあたりが痛み始める。

『私に何を期待してたのか知らないけど、まともな人間じゃないし、うろうろされると迷惑―――』

そこまで言ったところで、私は立ち止まった。慌てて追ってきた鹿目君も、私の後ろで立ち止まる。

「あ、暁?」

ギュウッと視界が狭くなる。手足がしびれるように冷えて、腹の中の怪物がどくどくと脈打つのを感じる。

『どうして、』

「おい、どうした、」

鹿目君の声がずっとずっと遠くのほうで聞こえる気がする。私の視界が、エントランスホールのわきのベンチ一点にまで狭まったところで、その人は、ゆったりと立ち上がった。

「やあ、杏ちゃん、迎えに来たぜ」


喉が狭い。うまく息を吸えない。立ち止まったまま動けない私を訝しんだ鹿目君は、ばっと累を見た。

「お前、誰だ」

累はそれを無視して言った。

「杏ちゃん、帰るよ」

私は声に引き寄せられるように、夢遊病者のように彼に向かって歩き出す。鹿目君が警戒するように私の前に立った。

「……お前か?」

鹿目君は、少し私を庇うようにじりっと後退する。

「お前が暁杏の首を締めたのか?」

鹿目君が私の名前を呼んだ。そこで初めて、累は鹿目君を見た。そしてそのガラスのようにきらきらした目が、鹿目君が首から提げている社員証を見る。

「誰?……鹿目?変わった名前だね?あっ、もしかして杏ちゃんの元気のもとって君かな?」

そして、覚えたよ、と言った。―――それは、ダメ!それは私への明確な脅迫だった。

「杏ちゃん、帰らないのかい?…帰らなくていいのかい?」

最後警告だ。私は鹿目君をドンと突き飛ばして、累のもとに走っていく。

「おい、暁!」

鹿目君が大声を出すから、周りがざわざわし始める。そのまま追いかけてきて、私の腕を掴んだ。

「おいおい、君が何なのか知らないけど、あんまり乱暴なことをするのはやめてくれよ」

累は掴まれたほうの腕を引くように、私の肩を抱く。指が骨に食い込む。累の顔を正面から見た鹿目君は、ぞっとしたようにその手を離した。そして、はじかれたように引き返していく。なんだなんだとざわめく人達の視線が、はや足で館内に戻っていく鹿目君に集中した。

「…?なんだったんだろうね?まあいいや、帰るよ杏ちゃん」

累は、妙に平板な声でそう言って、私の肩を掴んだままぐいぐいとロータリーに並ぶタクシーの列へ押し込んだ。


「杏ちゃんさ、」

タクシーの中で、累が口を開いた。

「ここ数日、いつにも増してずっと体調悪そうだったよねえ」

そのひんやりとした指を、私の指に絡める。それは虫のように私の手の甲の上を這う。タクシーのラジオから、連続殺人犯についてのニュースが流れている。窓の外を、街灯や車のライト、ネオンの光が滑っていく。


「よく吐き戻してるし、大丈夫かなと思っていたんだけど」

『ッ、いた、』

「いやまさかね!もしかして妊娠しちゃったかな?って思わなくもなかったんだけど」

手の甲に累の爪が食い込む。

「さすがに早すぎるし…」

―――連続殺人の被害者の共通点は、

―――彼らが自殺志願者であったこと

―――3番目と6番目の被害者はSNSで自殺志願者のコミュニティに入っていたこと

―――それを契機に周囲をより細かく捜査した結果、

―――他の被害者も何かしらの形で自殺をほのめかしていたのが分かったこと

「しかもだんだん、俺も同じように腹痛に悩むようになってさ」

「ねえ、杏ちゃん」

―――俺に何をしたのかな?と、累はやさしい声でささやいた。

「運転手さん、そこを右で」

目線だけ動かして盗み見た累の顔は、はいつもと変わらない、嘘のような笑顔のままだ。マンションの前にタクシーを止め、私は累に腕を掴まれた状態のまま車から降りる。不穏な気配でも察したのか、運転手がちらりと私のほうを見た。今、私が立っているのは、すべての始まりの場所だ。

今日も街灯は白く丸く地面を照らしている。私と累は手をつないで、街灯の中に黒々とした影の姿になって立っている。そしてその二つの影は、大きいほうが小さいほうを引きずるようにして、丸い舞台から消える。

「残念だよ、杏ちゃん。死にたくないって言ってたから、殺さないでいたのに」


――君も結局、死にたい人のままだったね――


バン、と累は、乱暴に玄関のドアを閉めた。そしてそのまま、床に私を突き飛ばす。抱えていた鞄が落下して、中身が散乱する。

「結局杏ちゃんも死にたいままだったんだねえ」

累は、コロコロと足元に転がる小さな瓶を拾い上げてつぶやく。

「それとも、俺と一緒に死にたくなっちゃった?…いつからこれ、仕込んでたんだい?」

靴のまま、私は腹を踏まれて動けない。そして、脚をどけたかと思うと、累はいつものように私にまたがった。違うのは、いつも空っぽの笑顔を浮かべているその顔が、にこりともしていないことだけ。累は私の首を掴むと、もう一度、

「ねえ、俺と一緒に死にたい?」

と聞いた。

『…死にたい』

腹の底で、ひときわ大きく怪物が唸った。累の背中がビクッと動いたかと思うと、そのまま私の腹の上にボタボタと血を吐いた。…律儀に、昨日の残りを食べてくれたんだろうな。

『あなたとここで死にたくて、ずっと食事に混ぜてた』

「…いいね」

同じ釜の飯ってやつだね。累は愉快そうに言う。口の端からは血が滲み、眼窩は青黒くくぼんでいる。首を掴んでいる手が、初めてじわっと温かくなった。累は、手に持っていた瓶の中身をすべて口に入れると、そのまま私に口づけた。累の血と、累の唾液と、ゆっくりあたたまっていく毒薬とが私と累の口を行ったり来たりする。初めて、累の体が熱い。気持ちよくすらある。本当は少しずつ飲ませて、弱ったところで刺し殺そうと思っていたんだけどな。私は、圧し掛かってくる累の体温をおぼろげに感じながら、もう化け物のなすがまま、だらんと手足を弛緩させた。こんだけいっぺんに飲んだら、死ぬでしょ。私も、あなたも。あなたに出会う前から、死んだようにしか生きてなかったんだから、今死んでも同じ。目を閉じる直前、床に散らばった鞄の中身が目に入る。

包み紙でくるみなおしたおにぎりが一つ。―――おにぎり、一口くらい食べておけばよかったな。累の体が、ずるりと私の上から落ちた。私はまるで累がそうしていたのをやり返すみたいにその頭を抱えて、ゆっくりと目を閉じる。


―――暁!!!

―――暁いるんだろ!!!

―――開けろ!!

―――暁杏!!!

眩しい声だ。眩しくて熱い声だ。

そんなものを、

聞かせないで。

死にたくなくなってしまう。




ゆっくり目を開けたら、真っ白の天井が見えた。ピッ、ピッ、と規則正しい電子音が鳴っている。首を動かそうとしたら、違和感とともに鋭い痛みが走った。しばらくして、バタバタという足音とともに、複数の人が私の顔を覗き込んだ。

「―――意識が―――」

「まだ…混濁…」

「―――自発呼吸…弱い―――…」

断片的に聞こえてくる声がうるさくて、私はまた目を閉じる。

死ななかったことだけがわかった。

…死ねなかったことだけがわかった。


目が覚めてからのことは、夢のなかの出来事のようにおぼろげだった。喉に入れられていた管が抜かれて、喋ることができるようになってからは、毎日のように警察官が私のもとを訪れた。まだ累の意識は戻っていないと聞かされた。

「あの毒物の購入経路を調べたら、君が半年ほど前に購入していたことがわかった」

「血液検査の結果、意識不明の男性と君の体には毒物を定量的に摂取していた痕跡が残っていた」

「一方、君の体を医師が診察したところ、首や手足に強く絞められたような痕が見つかった。君は、日常的にあの男性から暴力を受けていたのか?それから逃れるために、無理心中を図ったのか?」

警察官は、威圧的に追及する。状況から推測されるストーリーが、もうできあがっているらしかった。

なるほど、こうしてワイドショーで煽情的なストーリーだけをまとわされて曝されるのだな、とぼんやり思う。そうだ、あの薬は、私が以前自死したくてたまたま買っていたものだ。思わぬところで役に立った。

「どうですか、何か違うところは、ありますか?」

今まで黙っていたほうの警察官が、今度は撫でるような声で言う。無理心中は否定しない。累の前では、死にたくないと思ってしまう自分が恐ろしかったのも、殺そうとする累に殺されてなるものかと思ったのも、どちらも事実だ。

『…家を捜索してほしい』

「え?」

『凶器が残っているはず』

私の言葉に、警察官たちがざわめいた。

『あの男は、人殺しです』

―――そこから、一気に捜査は進展した。私の家からは、被害者の血液と累の指紋がべっとりとついた凶器が発見され、5人目の被害者の家に残っていた下足痕と累の靴のそれが一致した。世間を震撼させた連続殺人犯は、隠れ蓑にしていた女の家で毒物を飲まされ意識不明。女は容疑者に脅迫され、正常な判断力を喪ったまま、凶行を終わらせるために無理心中を図った。

…という煽情的なストーリーが瞬く間に席巻した。

私が被害者か、共犯者か、はたまた犯人殺しの加害者かは、時と場合と報道サイドのうまみによって違っていたけれど。


結局、2か月たっても累の意識は戻らず、私は退院して、会社には戻ることなく実家に帰された。あの時助けてくれた鹿目君とも一度も顔を合わせることなく、それきりになった。転がり落ちるような数か月間だった。


あれから、4年経った。

実家に戻って1か月後、累が死んだことを、いつも来る警察官によって知らされた。私は他人事のようにぼんやりとそれを聞いていた。


累の子供を妊娠していたことがわかったあたりから、急に周囲は同情的になった。累が死んだと聞く前日にちょうど、私は手術を受けていた。別段、それについて思うことはなかったが、まわりはずいぶんと気の毒に思っているらしい。ますます、私は自分の感情が平坦になっていることに気づいていた。これじゃあ、死んでいるのと同じだ。私は「死にたい私を変えられたくない」という望みを果たしたのだろうか。


同じような秋が、彼のいない秋が、まためぐってくる。私は一通の郵便を受け取る。差出人は鹿目君だった。私は彼の代わりに累に駆け寄ったあの日の自分を思い出す。私は、その手紙を読まずに、破いて捨てた。丁寧に丁寧に、細かく破った。


彼がいなくなって以来入っていなかったあの制作部屋に入る。会社の有休をとった日に、描いた彼の絵を見る。ガラス玉のような目、赤い唇、高い鼻、程よく筋肉のついた体。同時に彼の体温も思い出す。死んだように冷たい体は、私と死のうとしていた時だけ、燃えるように熱くなった。彼がベッドで私の背中を撫でた時のように、鉛筆の跡を、1本の指でそっと撫でる。長い間考えていたけど、今決めた。彼と同じ方法で死のう。ねえ、累。私が貴方を愛してたって、知ってた?私は心の中で彼に話しかける。小学生の時、クラスメイトに聞いたんだ。同じように死んだ男女は、来世でもう一度出会えるんだって。だから心中する時、来世に期待しようって言うんだって。ううん、もし私が病院で目を覚まさなければ、貴方と会えていたかもしれない。まあ、いいや。私は貴方のいない世界では生きたくないの。数日前、あの毒薬を通販で買っておいた。私は小瓶に口をつける。冷ややかな小瓶。あの時の、貴方の唇とは全然違う。やっぱり、私たちは全然違う死に方をするから、来世では会えないね。私は小さな笑みを漏らし、一気に飲み干した。…結局、私は貴方に直接言ったことは無かったね。


愛してる、累。

俺もだよ、杏ちゃん。

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