ある者にとっては過去、ある者にとっては過去ではない。
自分の歩いてきた道は、変えられないから、
仕方ない。
仕方ない、で済ませられるのは、
本人だけ。
その道に誰かが巻き添えをくって、
今からの道を気持ちよく過去にさせてくれないかもしれない。
誤算は、どこで起きるかわからないもの。
俺は今、このまま数時間放置されれば、
死んでしまうような状態で、
まったくどこかわからない、
街頭もないような、月明かりでなんとか見える、
そう広くもない道路の路肩に倒れている。
気がついたのは、今から10分程前だと思う。
たぶん、左の足は膝から下が折れているし、
右腕も折れるか、ヒビが入っているようだし、
目は両方とも、頭から流れてきた血で、
開きにくい状態だ。
血は乾き始めている。
全身が、そこら中から痛みを発しているような感じだ。
なんでこんなことになったんだろう?
うっすら見える月の位置から、
数時間前だと思うが、俺は会社帰りの電車を降りて
駅の改札を出たところで、男に絡まれている女を見かけて、それを助けた。
男は、手をつかんだだけで、
それを振りほどいて走って逃げていった。
女は礼をさせてくれと言ってきて、
俺は一度は断ったものの、その女の美しさと、
出産のために、
実家に帰っている妻が不在なのもあって、
〈今夜の夕食は弁当か外食の予定だったのだ〉と
伝えると、では、食事を、と言うので、
食事の誘いを受けることにした。
『わたし、この近所の人間ではないんです。
どこか美味しいところはありますか?』
女はそう言った。
見れば見るほど美しい女だった。
絡まれるのも無理はない、俺はそう思いながら、
『あそこに見えるお店、なかなか美味しい洋食店なんですよ。
値段もそんなに高くない。どうですか?』
女は、無言だったが笑顔で頷いた。
2人とも無言で、店までの短い距離を歩いた。
テーブルに向かい合って座ると、
女が、メニューを広げて渡してくれたので、
さっとハンバーグ定食を選んだ。
女は、『迷いがない』と笑うと、
3分ほどメニューを眺めて、エビフライ定食を、と言った。
食事をしながらした会話は、こんな感じだった。
『先程は本当にありがとうございました…!』
「いえいえ…困っておられるようだったから…」
『男らしいんですね!えっと…お名前をよろしいかしら…?』
「水野です。水野春樹です。」
『水野さん…私は叶絢子といいます。』
「叶さん…この街の人ではないということですけど、どちらから来られたんですか?」
『仕事で山口の方からまいりました。神奈川は初めてです。
神奈川はというか、関東へ来るのが』
「山口。僕は、広島なんです。こちらへ就職して結婚もこちらでしたから、もう、神奈川県民ですけど」
『水野さんはおいくつ?』
「30です。なったばかり。叶さんは?」
『私は、28歳です』
とてもそうは見えなかった。
20代の前半のような瑞々しさだった。
「もっと若いのかと!」
と言うと、
『よく言われますけどほんとに、28なんです…』
食事もすんで、コーヒーを飲みながら、
会話は続いた。
仕事を聞くと、印刷所の仕事から、
地方雑誌の記事を書くライターに転職して間がなく、
仕事の取材で神奈川を訪れ、
たまたま宿泊先のそう遠くない街に、
同級生がいるこの街に遊びにきて、
一緒に過ごしてからの帰りの電車に乗ろうか、
というときに絡まれた、という話だった。
彼女は、丁寧に彫られた彫刻のように美しい顔を、
にっこりと笑顔にして、
そろそろ宿泊先に戻らなくては、
と言った。
俺たちは立ち上がった。
彼女は、本当にありがとうございました、
といって食事代を払うと、深々と頭を下げた。
言葉も丁寧で、仕草もやわらかく、
会話も上手…
俺は、なんとかもっと一緒にいられないものか、
という気分になっていた。
「急ぐんですか?」と聞くと
『まぁ、一人なんですけどね、あんまり遅くなったら怖いし…』
「何処に泊まるの?」
『○○駅のすぐ前のビジネスホテルなんですけど…』
というと、彼女が突然、
あ、ごめんなさい目眩が…としゃがみこんだ。
「大丈夫?」
『ええ…ときどきこんな風に。
今日は、慣れないことばかりで疲れたのかも』
「もう今日は、君を助けついでに、
もう一度助けさせてくれないか?
宿泊先までタクシーで送るよ。
食事のお礼に…」
というと、
『そんな!ダメですよ、おうちに帰ってください、
ここが最寄り駅なんでしょう?』
と返ってきたが、
俺はちょうど走ってきた個人タクシーを停めると、
さぁ、乗って、と促した。
彼女はほんとにすいません、ひとりで帰れますから…と
いったが、ふらついている体を、俺は抱き抱えるようにして、
タクシーに乗せて、
運転手に、ビジネスホテルの名前を伝えて、
今からそこへ行ったら、この女性を部屋まで届けて、
戻ってくるので、
そのまんま、待っていてもらえないかと聞くと、
かまいませんよ、と言うので、
彼女の顔を見ると、『すいませんほんとに…』と、
小さな声で返事があった。
後部座席に二人で座ると、
彼女はピタリと体を寄せて、俺の肩に頭をのせた。
俺は、彼女の肩に手を回した。
彼女はその回した手の先をそっと握ってきた。
俺はもう理性が飛んでしまい、
彼女を抱き寄せた。
すると彼女は静かに目を閉じた。
俺は、彼女の美しい顔に、自分の顔を近づけた。
すると彼女は、水野さん…と呟くと
彼女の方から唇を押し付けてきた。
俺は、完全に理性がぶっ飛んで、
運転手の存在も忘れて、彼女と激しい口づけを交わした…
ここから、記憶がないのだ。