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Mana 第一部~始まりの物語~  作者: 福島真琴
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5. 出発

 自身の心臓の鼓動、脈打つ血液、全身の震えが銃を持つ手に伝わってゆく。その震えは相手への怯えだろうか、それとも武者震いだろうか。答えはどちらも否だろう。なぜなら――

 その時間は、一秒にも満たない時間だった。だけどマナにとっては、長い長い、途方もなく長い時間に思えた。

 互いに銃口を向け合うその時間。互いの心臓を互いが手にしている時間。握り潰すのは簡単だった。ただ少しだけ、この人差し指を握りこめばいいだけ。なんと儚く、なんと脆い生命だろう……。

 マナにとっては、手にしているこの銃も、自身が持つ力も、そのことを嫌というほど再確認させられる瞬間だった。

 だが相手は、こんな気持ちになどならない人物かもしれない。必死で自分の身を守ることだけを考える者かもしれない。もしくはその感情とは表裏一体で、相手を制圧するということを考えているのかもしれない。

 または、それらの情感を生み出す中枢とは切り離されていて、無感動のままの〝仕事〟かもしれない。

 いずれにせよ、マナの感情とは違うということだけは、マナは決定的にわかっているのだ。なぜならその者は、その者の瞳は、〝トリガーを引く〟と、圧倒的な強さで語っていた。

 マナは彼のその銃に意識を集中させた。銃内部の細かい構造、リボルバー式弾倉、弾頭、薬莢、中の火薬、雷管、スプリング……。それらをミクロの世界に入り込んだように、映像が頭の中に浮かび上がってくる。

 彼はトリガーを引く。そのとき、起きていた撃鉄は勢いよく倒れ、雷管を叩き、薬莢の中の火薬は実弾を勢いよく飛ばすために激しく燃焼する……。

 予想されるその光景が、ミクロレベルでマナの中で再生される。それらを阻むために、マナは撃鉄を振り下ろす役割を果たす、内部のスプリング数本を破壊した。

 男は何が起きたのか理解できないという顔で、銃を何度か確かめた。マナはその隙を突くように脚を振り上げた。それは、ちょうど男が持っていた銃に命中し、数メートル飛ばされてゆく。

 そのとき、一体の大きな影が飛び込んできた。一瞬だけ、その塊は僅かに青く光ったような気がした。

 男はその狼に飛び掛られ、倒れたときに頭を打ったらしい。そのまま脳震盪を起こして、立ち上がれなくなった。

 そしてすぐさまシアンは、まだ会場に残る研究所の刺客に襲い掛かってゆく。その姿は、普段の陽気でペットのような親しみやすさからは想像できないほどに、勇敢でそして、獰猛でもあった。身体つきも毛を逆立てているせいか、一回り大きく感じられた。

 やはり彼は、生粋の狼だということを再確認させられる。

「シアン! シアン!」

 マナはシアンの名を何度か呼んだ。だが彼は未だ、喉の奥で唸り声を発しながら刺客の男の腕に噛み付き、懲らしめることを止めようとはしない。

「シアン! お願い、もういいから!」

 空気を切り裂くような強い声と力で、マナはシアンの動きを止めさせた。そこで初めて目が覚めたといった顔の、普段のシアンに戻っていった。

(マナぁー! マナぁー!)

 半分泣き出しそうな顔で、マナに近づいてゆくシアンは、逆立てていた毛も急激にしおっと垂れてきた。

「大丈夫だよ。シアン、ありがとう」

 跪いてそっとその厚みのある毛皮を抱きしめると、シアンは安心したのか、遠吠えをするように鳴き始めた。

 あたりには、怪我を負ったモーニング姿の刺客たちが数名。避難しながらも、その様子を遠巻きに見つめていた一般の参加者も、数名大広間にいた。だが大半はどこかに避難してしまったことだろう。町長だけがアナウンスのためか、マイクを握り締めたままぽかんとしていた。

 やはりその人たちからすれば、奇異な人々と映っていることだろう。しかも野生の狼が、飛び込んできてしまったのだ、恐怖を通り越して、どうしたらいいのかわからず、その場に呆然と突っ立っているといった雰囲気である。

「マナ!」

 唐突に大広間の出入り口から、大声が響き渡る。その場に突っ立っていた皆の視線を嫌でも集めてしまう。だが彼本人はもう、気にもしていない様子だった。

「大丈夫だったか?」

「あ、うん……」

 やけに心配顔のジーンが、近づいてくる。珍しい光景だとマナは思った。だがジーンは、マナの側で忠犬のように控えている無傷のシアンの姿や、マナの変わらない様子を見て、どうやらそこで初めて、ほっと一息ついたようだ。それどころか、シアンの〝ご褒美頂戴〟な様子で尻尾を振っている様を見て、なかなかに太い奴だなと思い直したようだ。

「お集まりの皆様!」

 そのとき突然、マイクアナウンスが流れた。しかしそれは町長の声ではなかった。マナは聞いたことのない声に、そちらに顔を向けた。するとマイクを握り締める男と共に、彼の警備隊なのか、数名の護衛が大広間にどやどやと入ってきた。そのまま研究所の刺客たちを、拘束し始める。

 一体彼らは何者なのだろうと、マナが目を白黒させているうちに、マイクの男はその疑問を解消するかのように話し始めた。

「私はニムロデ=フォトンと申します。この度は盛大な仮面舞踏会を、邪魔立てしてしまって大変申し訳なく思っております。ある筋からの暴力団体が、会場内に紛れ込んでいたようで……。我々の生活を脅かす輩は、私が責任もって警察部隊に引き渡しましたので、ご安心ください。それと、お詫びのしるしとつきまして、次回日を改めまして、再度仮面舞踏会を私主催の下、開催したいと思っているのですが、町長、いかがでしょうか?」

「えぇ? 私ですか?」

 急に話をふられたせいか、町長は焦りながら答えた。

「えーっと、まぁ、かまいませんが……」

「もちろん、資金面でも私が全面的に負担致します」

 町長は慌てふためき、遠慮の呈を示したが、最終的にはニムロデ侯爵の強い希望で折れたのだった。

「それでは皆様方、そちらの日程につきましては後日、お知らせしたいと思います。本日の仮面舞踏会を楽しみにされていた方々には、大変ご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした」

 侯爵はそう言い終わると、深々と頭を下げるのだった。会場からは、ぱらぱらとだが拍手の音が沸き起こり始める。やがてその音が会場に残る全ての人から湧き上がったとき、彼は頭を上げた。

(なるほど、彼は街の人々からも慕われるわけだ)

 ジーンは密やかに、心の中で納得した。瞬間、侯爵と目が合ったような気がした。


 借りた衣装もレンタル店へ返した後、そこには疲れた身体が残っているだけだった。時刻は、ちょうど夕飯時。街灯の明かりと、家々からは温かな食事の芳香が流れ出ていた。そんな香りを街灯の下で嗅いでいると、夜風の冷たさが身に染みる。その冷たさから逃れるためにも、夕飯をとることに相成ったのだった。

 繁盛しているレストランは夜風の寒いこんな路頭でも並んでいるお客はいたのだが、二人はそこまでして待つ気にはなれなかった。それ以上に、腹が減っていたのだ。手近で、そしてなるべく庶民的な店を選んで、二人は夕飯にありつくことにしたのだった。

 運ばれてきた夕飯を目の前にして、彼は呟いた。

「やはり、飼い主に似るものなのだな」

「何が?」

 マナはその独り言に対して、純粋な疑問の声を上げた。

 空には小さなガラス玉のような光と冷たい夜風、ぼんやりとまわりに暈をかぶったような月の光があたりを覆う時間。

 場所は、賑やかな人々が集う盛り場だった。店内に集う客層を見る限り、仕事帰りの一杯を味わう平和な庶民が多いようだ。まぁ、そういう場所でない限り、ジーンは入ろうとはしないだろうが……。

 橙色の、少し明かりの落とされた照明が、リラックス効果を生んでいるのかもしれない。ほろ酔い状態のジーンは、マナの足元にうずくまる灰色の獣を、視線で示した。

「シアンだよ」

 一言呟くと、琥珀色のビールを口に含んだ。グラスの中で泡を弾けさせ、どこか陽気に見える。

「え? シアンが、私に似ているって言うの?」

 その当の狼は、意中の相手、ルナに夢中であった。ルナの隣に来ては、頼んでもいないのに、自分の夕飯の半分をルナにプレゼントしようとする。

(いらないわよ。あんたみたいな庶民が食べるものは、口に合わないの)

 これもお決まりの対応なのだが、ルナはつっけんどんにそのプレゼントを断った。いつも通りうなだれるのかと思いきや、シアンはならばとばかりに目をキラつかせて、

(じゃあルナの好きな味、僕も食べる!)

 と言って、ルナの食事に首を突っ込んだ。

(なっ! 何するのよ、このガキんちょ!)

 怒って噛み付こうとするルナだったが、シアンは逃げ足も速かった。〝キャイン!〟と一鳴きしながらも、ぴゅーっと逃げた。

「……似てるかしらねぇ」

 情けないような、哀れなような、でもどこかは図太いような、そんな複雑な感覚を感じながらも、マナは現実逃避したいような気持ちになった。

「あぁ、似ているさ。ちなみに、ルナも俺に似ているよ。特に、美しいところとかな」

 しれっとそんなことを口にする。遠まわしに自慢を聞かされたマナは、目の前の男に心底呆れた。

「うん、あなたのことが少しわかったような気がする。女の子にモテそうなのに、実はモテないタイプだ」

「……それは、どういうことだ?」

 〝どういうこともなにも、そのままの意味よ〟と返してあげたかったが、あえて無言を貫いた。横目でマナを窺う視線を感じたが、急にぼそぼそとした口調で、独り言を喋り始めた。

「なら、マナはモテなさそうに見えて案外……」

「? 何?」

「いや、なんでも……」

 最後のあたりは、尻切れトンボのように消えていった。たぶん、ジーンの独り言とぼそぼそとした思いは、マナの耳には届いてはいなかったことだろう。マナは頭の上に、疑問符を浮かべながらも、飲み込んだ言葉を押し流すように酒を飲む、ジーンの横顔を見つめた。

 店内は、相変わらず賑やいだ雰囲気のまま、たくさんの笑い声に囲まれていた。店主は動物好きらしく、大抵は動物の入店禁止のところが多い中、ここの店主は狼の飲食も許してくれた。

 それどころか、店主自身が食べ物を用意してくれたり、可愛がりにきてくれたりと、怖がる素振りさえなかったのには、本当に助かった。満腹で満たされた表情のシアンとルナを見れただけでも、この店で夕飯をとってよかったとマナは思った。そして、大仕事をやり終えた充足感で、二人とも満たされていた。

 橙色の淡い光に照らされたジーンの横顔は、ビールを流し込むたびにその喉元が上下する。だけど彼のパーツの中で、動きを示しているのはそこだけのように、マナには感じられた。なぜか他のパーツからは、身動き一つ感じられない――

 特にその瞳からは、酒の香りすら感じられなかった。身体がほろ酔いならば、目元などは特にその色が浮んでくるはずなのに、むしろ飲むほどに怜悧さを感じさせるのはなぜなのだろう。気を張り詰めさせ、何かを研ぎ澄ましているようにさえ、感じられた。

(この人は……)

 マナはその横顔を見て、彼は決して酔うことのない人なのだということを知る。身体は確かに酔っているのかもしれない。だけど意識だけは、決して酔ったりはしないのだろう。なんて孤独な人なのだろうと、マナは思った。彼はきっと、どんな相手と飲んでも酔わない。酔ったふりなら、いくらでもするだろう。

 酒に強いとか、そういった男の力比べとか、そういう単純な次元の話ではなく、心から酔うことができない。そんな姿を見せられる状況が、いまここに到るまでの彼にはなかったということだ。

 無理もない。いつ、どこで、誰が自分を狙っているかわからないのだから。今だって、平和そのもののようなこの酒場だって、研究所の刺客や関係者がいないとは限らないのだから。

(それでも、たとえ今だけは……)

 そんな風に思ってしまう自分に気づいて、それはやはり、自分勝手なエゴだろうかと、心の中でマナは自分に問いかけた。と同時に、〝自分といるときだけは……〟と、特別視されたがっているもう一人の自分も発見してしまい、マナは己を恥じた。


 明くる朝、二人はニムロデ邸に寄った。ちょうど仕事の報酬ももらい(もちろん今度は本物の現金)、この港街、ヨットを発つことを報告するためでもあった。そのまま知らせることなく発つ選択肢もジーンの中ではあったのだが、なんとなく今回ばかりは借りがあるような気がして、顔を出さずにはいられなかったのだ。

 案の定、ガーネット嬢は寂しがった。せめて、今度の仮面舞踏会まではいてほしいと懇願されたが、ジーンはなんとなく行かなければならないような気がしたのだ。

 どこに? と問われても、具体的な答えは出てこない。いや、自分なりに目指す場所は明確にある。ただ、今回の件で関わってしまったある人物のことが、頭の隅でちらつく。その者に会って話を聞くべきなのか、否か。

 しかし彼は、マナの特殊なあの力を知っている。そして彼は、その映像を手にしているのだ。〝マスコミに送りつける〟とは、どういうことなのだろう。研究所の者たちを追い詰めるためか?

 だが確かなのは、彼は研究所とその後ろについている国のことを、快く思ってはいないということ。

 ごちゃごちゃ考えていても埒が明かない。なら、始めから自分が行きたい道をただ行くだけのこと。目的地は、そのときジーンの中で決した。

 寂しそうなガーネットが、邸の門の前で二人を見送る。もちろん彼女の側には、ニムロデ侯爵と、侯爵夫人も横にぴったりとついている。ガーネット嬢は門から飛び出し、去り行くジーンの背に向けて叫んだ。

「私、大きくなったらあなたみたいな星の王子さまを探します! 必ず……」

 その大きな声に驚いたジーンは、片眉を上げながら振り返った。そんな大声を張り上げるような子には、見えなかったからだ。彼女は顔を真っ赤にさせていた。彼女なりに、勇気を振り絞って叫んだ言葉なのだろう。ジーンは父親になったことはないのだけれど、不思議にも、大切な娘を思う父親のような気持ちでこう言った。

「きっと見つかるさ。俺よりももっといい、本物の星の王子さまが――」

 そして、大きく手を振った。彼らもまた優しい笑顔と、旅人の行く末を祈る祈り人のような表情で、手を振り返した。

(あなたの行く先に、幸運がありますように)

 誰かがそう呟いたような気がした。誰の声なのかは、わからない。誰もそう呟いていなかったかもしれない。それでもジーンは確かに、その言葉を耳にした。


 今回の報酬で、旅費も稼げたということもあり、進路は船で新大陸に渡ることとなった。新大陸と言っても、何週間もかかる長期の船旅ということではなく、ほんの三~四時間の距離的には目と鼻の先だった。着いたのは、港街コルセー。そこで一泊し、ジーンは唐突にこんなことを言い始めた。

「聖都市カルバリオに寄って行きたい」

「カルバリオ?」

 世界地図も持っていないし、世界のことに疎いマナにとっては、その都市がどんな都市なのか、さっぱりわからなかった。

「そこが最終的に行きたい場所なの?」

 マナは試しにそう聞いてみた。今なら、答えてくれそうな気がしたのだ。

「いや、違う」

(違うんだ……。じゃあ、どこなんだろう? 世界地図を眺めて、想像でもしてみようかな。いやそれよりも、他国の旅行ガイドや歴史なんかを学んでみるほうが、予想を立てるのにはいいかもしれない)

 そう思い始めたとき、彼はぼそりと答えた。

「俺が行きたいのは、知の都市ウィズだ。ちょっと知りたいことがあって」

「ウィズ……」

 まるで、習いたての言語のように、マナは一音一音大事に発音した。

「知りたいことって?」

 まるっきりさっきから、鸚鵡返しのような単純な言葉の返しだが、それでもマナにとっては大事なことばかりだった。しかし意外なことに、ジーンはその質問に対しては少し困ったような顔をした。

「……うーん、なぜマナはそんなに知りたいの?」

 逆に質問されてしまった。それはそれで、マナも答えにしばし窮した。

「なぜと言われても……。そりゃあ、あなたの行きたいところは、今のところ私の進路にもなるわけだから、そこは知っておきたいところだし。場合によっては、私は別の進路をとりたいと思うかもしれないでしょ?」

「まぁ、そう言われてみれば、そうなのかもしれないけど……」

 なぜか妙に、歯切れの悪い答えばかりを連発する。いつもはズバズバと、いらなく切れ味の良い言葉の持ち主なのに、である。しかし珍しく彼は、渋々といった様子で語り始めた。

「いや、ただ単にだな、まぁその、……荒れた土地の開墾というか、一から移り住むというかだな……」

「……開墾?」

 思いもよらない言葉がジーンの口から発せられて、マナは耳を疑った。

「まぁ、こんな身の上だ、誰も知らない土地に住むのが一番いいのかなと、そう思っただけのことで……」

 確かに、あまりにも意外すぎる考えだ。踊りを一目見ただけで覚えてしまえるほどの頭脳の持ち主なのだから、もっと壮大な夢でもあるのかと思いきや、ほんっとうにフツーなことを考えていようとは。

「要するに、〇円生活ってこと?」

 半ば呆れながらマナがそう問うと、

「金を使うのがもったいないからとか、そういう観点からじゃないからな!」

 と、なぜか顔を赤くしてそう答えた。やはり、自分の考えを表明するのが、恥ずかしかったのだろう。まぁ、無理もないかもしれない。見た目や外側だけの性格を見る分には、あまりにも意外すぎる考えだからだ。そのギャップを知られることもまた、彼は恥ずかしいのかもしれない。

 だけど言ってしまえば、あとは思いの外、するすると言葉が出てくるもののようだ。

「まぁ、一から生活していくのは大変かもしれないけど、意外と俺は作ったりするのは好きだから、まぁ、毎日楽しいかなぁと。これだって、自分で改良して携帯できるようにしたんだぞ!」

 そう言うと、懐から警棒を取り出した。いつの間に、こんな小細工を……

「それにまぁ、これでも手先は器用なほうだし……」

 そしてまた、照れるのだった。本当に、好きなのだろう。マナはある意味、口がぽっかりと開いてしまって塞がらない心の中の自分を発見してしまった。なんだか、頭を抱えてしまいたい気分である。

 見た目は華やかで、頭も切れて、これ以上ないほどに恵まれたものを持ち合わせている人が、中身はフッツー。ただの一般人、凡人、何の取り柄もない男(そこまで言うか! と言われそうだけれど……)。

 むしろマナの中で、ジーンの中身の人物像が勝手にむくむくと妄想されてゆくのだった。太っているのか、筋肉がついているのか微妙な体形の凡人で、麦わら帽子がすごく似合う田舎男。その男が切り株に腰掛けて、昼食のサンドイッチを頬張りながら、畑に集う虫たちを微笑みながら見つめている……。

「違うっ! 違いすぎるっっ!」

「え、な、何?」

 マナは思わず叫んでいた。自分の頭の中のジーンにツッコミを入れたつもりだったが、気づけばそれは現実の自分も声に出して叫んでしまっていたようだ。うろたえるジーンを放っておいて、マナは深いため息をついたのだった。

 だけどなんという皮肉だろう。ジーンを取り囲む人間たちは、決してそんな生き方は望んでいないだろう。彼が造られた理由だって、そういう自然的なものとは正反対の世界で活躍することを渇望されて造られたはずなのに、当の本人はなんと平和的希望の持ち主だろうか……。

 だからこそ感じることは、彼は絶対に研究所の人間には従わないだろうということ。なんとしてでも、活路を見い出そうとするだろう。研究所を逃げ出すときに、壁をその身一つで登った自分のように――


 結局ジーンの最終目的地がわかり、なんとも言えない気持ちにはなったものの、かと言ってマナ自身が他に行きたい場所があるわけでもなかったので、今まで通りそのままついて行くことにした。

 そして、聖都市カルバリオに寄っていくという進路も変わることはなかった。マナ自身、どんな都市なのか気になるところもあり、寄ることには大いに賛成だった。知らないことだらけだから、いろんな街を知りたいというのが、本音だが。

 カルバリオへは、街道を道なりに進むというコースだった。徒歩で行くにはめんどくさいし、今は手元にお金も入ったことだし、というのもあって、交通機関を使うことになった。と言っても、ロバ車である……。干草がいっぱい載っている荷台に、おまけみたいに乗せてもらう。

 そんな、お世辞にも早いとは言えない乗り物で、カルバリオへの二泊三日を野宿をして過ごした。街道沿いということもあってか、ジーンの苦手なあれは現われることはなかった。

 それに彼は、どこで買ったのか、ちゃっかりと虫除けポットなるものを手に入れていた。それにしても、世の中いろんなものが出回っているんだなと、改めて妙なところに感心してしまう。まぁ、彼みたいな人がいるから、売れるのだろうけれど……。

 それにしても、検問手続きのときから、特徴ある人々ばかりが列を成して並んでいた。神父服を着た牧師や、ショールを肩がけにした女性、頭を丸坊主にした僧侶など、様々な神職者や参拝者が集っていた。やはり〝聖都市〟という名称が、しっくりくる街だ。

 それにしても、人々の服装を見る限りでも、統一性のない宗教観というか、様々な民族が集まっているような、そんな様相さえも感じられた。

 そして、シアンとルナはいつもの如く、街の外で待機ということにしてもらった。特にこの都市は、動物に対する規制が厳しいようだ。しかも狼となれば、それはなおさら……。

 街は、美しい建築が多かった。教会や寺院が集う場所なのだから、それも尤もなのかもしれないが、それでも様々な細工や芸術的な建物があると目移りしてしまう。細工も細かく、色使いも鮮やかだと、もはや礼拝堂というよりも、芸術性の高い場所に思えてしまう。

 そしてこの街の特異だと思う部分は、様々な違う宗教なのに、争うこともなく一堂に会しているというところ。さすが、〝聖都市〟と言うだけのことはある。

 露店も露店で、他の街にはない特色があった。聖書、聖典、経典、経文や、ロザリオ、数珠などが、露店には並んでいた。そんなフレンドリーな場所で売ってしまっていいのか? という疑問が、湧かないでもなかったが、人々は気にする素振りさえなかった。

 そんな中、ジーンはさっさと宿泊場所を決め、荷物を置いた。そして、あとは各自自由行動と言って、さっさと外に出て行ってしまったのだ。せめてこの街に来た理由くらいは、聞かせて欲しいものだ。何か、新しい仕事でも請け負っているのだろうか。

 マナは様々な疑問を胸の奥に押しやりながら、窓の外を見た。たくさんの参拝者の列が、いたるところに見える。どこかで、鐘が鳴っている。その鐘の音に驚いたのか、窓の近くで鳩が飛び上がった。数枚の羽がマナの視界を上から下に、独特の軌道を描いて下りてゆく。

 そういった人為的でないものを、神の御意志と言うのだろうか。しかもそれが美しければ美しいほどに、人は何者かわからぬその存在に対して、敬意と感謝の念を抱くのかもしれない。

 マナは、世界は案外そういうもので溢れているように感じた。ただ、見つけようと心の目を開けている人にしか、なかなか見つからないことなのかもしれない。それはきっと職人と一緒で、何度もそうしようそうしようという意志と共に続けてきたから、アンテナの感度が良くなってきたのかもしれない。

 今、この街に集う人々は、そんな類の人々なのかもしれない。そう思うと、マナは急に幸せな気持ちになった。窓の外では、日の光に照らされた鳥たちが、のんびりと羽繕いをしている。とても優しくて、平和な光景にマナの心は和んだ。

 そしてもう一つ、マナの心を和ませるものがあった。どうやらこの宿の近くには、パン屋があるのだろう。その香ばしい香りが、窓を閉めていても伝わってくる。時刻もちょうどお昼時。マナのお腹も正直な音を発したところで、昼食を買いに外に出ることにした。


 街はやはり、〝都市〟と言うだけのことはあり、今まで訪れた街と違い規模が大きかった。大通りには路面電車も走り、中にはオートバイや小型自動車も稀にだが、走っていた。

 そんな文明の発達も感じられる都市だったが、不思議と街全体の流れはゆったりとしていた。やはり街の特色が、大きく影響しているのかもしれない。

 ジーンがいつ帰ってくるのかわからないというのもあり、マナはとりあえず、自分の分の昼食をさっさと買い上げた。だがやはりマナにとって、初めての大都市。いろんな建物や風景、人々の服装、露店の商品など、興味あるものを見つめているうち、路地裏にまで迷い込んでしまった。

 その路地の先には、小さな教会がひっそりと存在していた。こんな路地裏にあるというのに、なぜかその教会は存在感を放っていた。そしてその扉は、薄く開いている。誰かが入ったあとなのだろうか。ふと気になって、マナはその教会に近づいた。

 外壁は、全て白の漆喰でできていた。尖塔には、金の十字架が配されていて、それを包むように、白い羽の精巧な細工が施されている。ファサードは、青を中心としたステンドグラスがはめ込まれた天窓が特徴的だった。それは鳥を模した形に見えた。

 扉は茶色の、ごく普通の引き戸で簡素な造りだった。薄く開いた扉を、静かに開ける。僅かな軋みを、あたりに響かせた。

 最初に見えたのは、光だった。煌く光が、たくさん見えたのだ。それらは蝋燭の火でもあったし、燭台や内装の美しい細工が煌く光でもあった。まさにそれらの細工は、高度な芸術作品だった。

 全体の造りはバロック調の荘厳な造りでありながら、その場の醸し出す雰囲気はなぜか温かみがあった。蝋燭の明かりがそれを感じさせるのだろうか……。そして室内を、青の光が満たす。それらは、ステンドグラスのなせる業だった。

 参拝客の一人が、祈りを終えたのか静かにこちらに向かってくる。それでもまだ人影は室内に一つだけあった。空を見上げるようにしているその横顔は、髪の毛で隠れていた。その人物は、祭壇の向こうの鳥のステンドグラスを見上げていた。そしてそのまま、そっと俯いて、祈りを捧げた。

 マナはその人物に近づいた。その人は、ジーンだったからだ。声をかける手前、彼は気づき、少し面食らったような顔をした。〝なぜここがわかった?〟とか、〝なぜここへ来た?〟とでも言いたそうな顔をしていたが、マナの見つめる視線の先が気になったのか、彼もまた同じくそちらのほうを向いた。

「……綺麗だね」

 言葉は月並みなものしか出てこなかった。だけど本当の美しさを前にしたときには、言葉なんてものは、そう役には立たないのかもしれない。少なくとも、今のマナにはこの感動を表せるだけの言葉を持ち合わせていなかった。

 それに、この場所が持つ美しさを、新たに自分が表現してはいけないような気もした。その感動はその感情のままに受け止めたほうがいいような気がしたのだ。だからそれ以上は、言えなかった。

「ガルーダ……」

 ジーンはぼそりと呟いた。マナはその声に、やっと現実に引き戻された。

「教会の中でも数少ないんだ。ガルーダを祀る教会は……」

「……ガルーダ?」

 またもや疑問だらけのマナは、ジーンに質問していた。ジーンは、知識のないマナでもわかるように、噛み砕いてできるだけわかりやすい表現で、説明してくれた。

「鳥の神様みたいなものだ。とは言っても、さらに上位の神様の使いでもあったりするんだけど……」

「……ふーん」

 意外だった。だけどこうも意外なことだらけだと、もはや意外にも感じられなくなってくる。やはり自分の遺伝子に、カラスの遺伝子があるからという単純な理由からなのだろうか。そんな風に思っていた。だけど彼は、こう言った。

「たしかに俺は造られた存在だけれど、それでも俺はこの世に生まれたことを嬉しくも思っている。どこかで、感謝もしているのかもしれない。だけどこの感情は、研究所の人間には抱けないんだ。なら何に対してって考えたら、行き着く先はこういうところだった」

 彼は難しい言葉で飾ることもなく、素直に語る。

「かと言って、熱心な信者というわけでもない。暇を見ては訪れるくらいだけれど、それでも、毎日を無事に生きられたとき、ありがたいと思う。そんな何もない平和な一日を送り終えることこそが、祈りみたいなものになるのかなって、そう思うんだ」

 そう言うと、また上を見上げた。その横顔が、マナはとても美しいと思った。彼は男ではあるけれど、それでも美しいと思う。たとえ彼が女であったとしても、美しいと思っただろう。

 きっと今、自分は彼の魂を見ているんだ。だから性別なんて関係ない、ただその魂が好きだと、そう思ったのだ。

 マナはそんな自分の心に気づいたとき、戸惑いを覚えた。それはいったい、どういうことだろうと。自分の感情を認識できないことなんて、そんなことって、あるのだろうか……。

 あまりにもぼんやりとしていたのだろう。他の参拝者が来て、〝邪魔になるから行こう〟と言った意味合いの、ジーンからの身振りで、初めてはっとした。

 路地裏に出ても、未だ教会の中にいるような奇妙な浮遊感にも似た感覚が、マナの身体を包んでいた。日常の空間に戻ったような、まだ半分は戻っていないような……。

 だけどそれが、路地裏を抜けて、人通りが増す開けた場所に到る頃には、現実の世界に徐々に引き戻されていった。人々が通るたびに起こる、それぞれが運んでくる風が、目を覚まさせるのだろうか。雑多なその匂いが、現実感を伴ってくるのだろうか。

 その中にいると、さっきまでの神聖な雰囲気を纏っていたジーンでさえも、その風の色に潜り込んでしまったかのように、街の人となっていった。そんな風に、すっとその場その場に馴染んでしまえるところもまた、彼の才能の一つなのかもしれない。

 そう思うと自分はなんて、定規みたいなのだろうと、マナは思うのだ。北極星、磁場の中心点、台風の目、支点、基準になるもの、アベレージ、プラスとマイナスという観点からのゼロ地点――。

 思いつく限りの自分に対するイメージなるものを並べてみたら、なんだかとてもつまらないものに感じられてしまった。ただただ硬質的で、変わらないもの、なのだろうか……。

 そんなことを考えていたら、一陣の風が勢いよく、マナとジーンの側を駆けた。それは、二人それぞれの香りさえも、かっさらうような勢いだった。

 最初に見えたのは、黒い服だった。目の前でこちらに背を向けているその人物が駆けてきて、マナとジーンの前で立ち止まっているのだ。しかもただの黒い服だと思っていたそれは、神父服だった。そしてその男は、振り返ると同時に、口を開いた。

「こんなところで会うとは、思わなかったよ」

 男は笑顔を浮かべながら、妙に馴れ馴れしく、そう声をかけた。その顔を見た途端、ジーンの雰囲気が変わった。

「あんたこそ、なぜここにいる? しかもその格好はなんだ?」

 言葉の中に、棘が混じる。その警戒心も徐々に増してゆく。そんなジーンの態度を目の前にして、男は爽やかな笑みを浮かべながら、口を開いた。

「そんなに毛嫌いしないでくれ。それにこの格好は、ちょっと仕事中だったものでね。またもう一度会いたいと言っていただろう? その約束を果たしに来たまでのこと……」

「約束? 俺は約束なんてした覚えはないが……」

 決してかみ合うことのなさそうな会話を、一人は営業スマイルのような笑顔で、一人は苛立ちにも近い表情で相対している。だが唐突に目の前の男、ケイロンは、浮かべていた営業スマイルを微笑みに変え、意味深なことを言い始めた。

「まぁ、聞いておいて損になる話ではないと思うんだ。お互いにとって。この世界のこと、そして、君たち自身のことを俺は、君たち以上に教えてあげられると思うんだ」

 急激に変わった彼の理知的な瞳は、特別な何かを感じさせた。何かの研究をしている人のような雰囲気を湛えてはいるのだが、明らかに研究所の人間たちとは違う。そして何よりも、柔らかな物腰でありながら、強い意志を感じさせた。ジーンの雰囲気もそこで、何かが変わった。

「この近くに、うちの事務所があるんだ。寄っていかないか?」

 ケイロンは、軽めのお茶にでも誘うようなそんな雰囲気で言った。そして、ジーンの答えを待たずに、ずんずん一人で進んでゆく。まるでその背は、〝ついてきなさい〟とでも言っているかのようでもあるし、ついてくると確信している人の歩み方だった。

 そんな自信に溢れた歩みに、ジーンは心の中でこう思った。〝上等じゃないか〟と。


「おい! おい!」

 こう呼びかけてはその背に、先程から同じ質問を繰り返している。

「どこまで行くんだ?」

 と。そしてそれに対する答えは、もう何度聞く答えかわからないほどに同じ答え。

「あと少しだよ。そんなに急くな」

 現状を楽しんでさえいそうなその答えに、ジーンは苛立ちを隠せない。なぜならここは、聖都市カルバリオから出て、西へもう六キロも歩いている。旅行客用の街道も途切れ、途中から砂漠になっても、それでもまだ歩いていた。

 そしていつの間にか、シアンとルナも合流していた。結局昼食のつもりで買った一人分のパンは、シアンとルナのおやつになってしまった。人間の食べ物ばかり食べて、いつかメタボになるんじゃないかと、今からマナは心配している。

 その代わりに上手い手料理をご馳走してやると、ケイロンは言っていたのだが、一向に着く気配がない。それどころか、砂漠である。こんなところに、普通事務所はあるだろうか……。

 そう訝しんでいると、藁葺き屋根のようないかにも簡素な造りの家が見えてきた。シュロなどの南国の素材を使った家なのだろう。いかにも、熱帯地方の香りがする。そしてその家の近くには、これまたオアシスというのだろうか、飲み水にもできそうな綺麗な泉があった。

「なんじゃこりゃ」

 あまりの拍子抜けっぷりに、ジーンもそんな言葉しか出てこなかったのだろう。〝事務所〟で、〝社長〟と聞くと、どこかのビルに入った会社のイメージを浮かべるのが普通だろう。しかし現実はまるっきりの、原住民のような事務所である。いや、そもそも本当に事務所なのだろうか。

(うわっ、臭っ! 煙草とコーヒーとアルコールのトリプル臭っ!)

 突然に、シアンがそう喚いた。そしてその場をぐるぐると狂ったように回り始めた。しかしこの声は、ケイロンには聞こえていない。不思議そうな顔をして、こう言う。

「どうした? そんなに嬉しいのか?」

 ケイロンは人懐っこそうな笑顔と共に、シアンを撫でようと手を伸ばした。しかし珍しくシアンは、唸り声と共に威嚇した。

「な、な、なんだよ! 何か気に食わないことでもしたか、俺?」

(私も無理。私たちは外で待つことにするよ)

 ルナのほうは、呆れてものも言えないといった顔で、これ以上は進まないよと宣言するかのように、その場に座り込んでしまった。

「……まぁ、わからないでもないな。俺も今から、なんだか怖ろしい……」

「え? 何が怖ろしいんだ?」

「いや、独り言……」

 人間よりも遥かに優れた嗅覚の持ち主たちがそう言うのだ。マナもその点には怖ろしさを感じながらも、意を決してケイロンの案内に従うことにした。

 しかし前もってのそんな予想もあったせいか、悪臭レベルは心象的には、まだぎりぎり〝中の上〟と言えるレベルかもしれない。しかし……

「……きったねぇ」

 男のジーンがそう呟いたくらいなのだ。たしかにその事務所(?)は、資料だか紙だかも散乱し、服は脱ぎっぱなし、飲みかけの缶ビールも散らかし放題、それに割り込むようにブラックコーヒーの強い香りが強制乱入してくる。

 挙句の果てには、灰皿は煙草の吸殻で満たされていて、まだ吸いかけなのか煙をくゆらせていた。無人の事務所で、煙草の火が消えていないという時点で、結構な問題だと思う。もはやそれは事務所とは言いがたい、ただの一人暮らしの男の部屋だった。しかも造りは簡素。

 マナは、自分の魂がどこか別のところに行ってしまいそうな錯覚を覚えた。ジーンのときもそうだったけれど、このケイロンという男のときもそうだ。第一印象と、そのあとのイメージが違いすぎる! 顔自体もよく見ると、あのときは小奇麗に髭も剃っていたのに、今やそんな暇もないのか無精髭が所々顔を出している。

 しかも何気なく視線を移した先には、剥き出しのベッドに女の子が見てはいけない雑誌やらが無造作に置かれていた。どうやらケイロンは、マナのその冷たい視線に気づいたのか、慌てて駆け寄りわたわたと隠した。

「いやはや、レディを招くには適さない部屋だったねぇ、はっはっは」

(たとえそれがなかったとしても、それでも適さないと思いますけどね)

 心の中でそう毒づくと、隣で肩をポンポンと叩くジーンがいた。どうやらその意味は、〝どうどう〟という意味合いらしい。

(私は馬じゃない!)

 と思いながらも、刺すような視線をケイロンに向けた。

「掃除しましょう」

「いやいや! ちょっと待て!」

「俺もそれに賛成」

「大事な資料もいっぱいあるんだ! 見られちゃいけないの意味合いが、また違うわけで……」

 問答無用でマナは腕まくりをした。ここに、掃除の鬼が誕生した。


 掃除で整頓され、美しく甦ったこの部屋は、悪魔が去り、天使が舞い降りたかのようだった。だが、持ち主のことを思えば、天使とはとても言いがたかった。しかも服装も神父服からTシャツにジーンズという簡素な普段着に着替え、天使というよりかはもはや、冒険&特攻野郎なイメージである。

 ちなみに、ジーンはクール&へたれ王子のイメージである。もし、彼らが主人公になる小説があるとするなら、マナはどちらも読みたくないなと思った。もし読むのならやはり、シアンとルナのブリーダー物語といった感じのほのぼのとした――

「マナ! マナ!」

 近くで自分の名前を呼ぶ声がした。はっとしてそちらのほうに顔を向けると、ジーンが〝大丈夫?〟と聞いてきた。マナはついつい、自分の妄想の中に入り込んでしまっていたようだ。しかしそれに気づかないジーンは、

「まだこの部屋が汚らわしい?」

 と、聞いてきた。整頓された資料を確かめていたケイロンから、

「〝汚らわしい〟とか言うな! そんな言い方をされると、心が痛む」

 と、返ってきた。

「それとも、カルバリオの宿に戻る?」

 ジーンはそうも聞いた。しかしこの言葉を耳ざとく聞いていたケイロンは、にやつきながら、〝なるほど、そういう仲か……〟 と、揶揄する。だがそれに対して、ジーンは盛大なため息をついて呟いた。

「これだから、おっさんは……。そんなんじゃないよ」

 そう言い、手近にあったファイルを、整頓して空いた棚に並べる。並べながらぽつりと、こうも言った。

「強いて言うなら、相棒みたいなもんだ」

 〝相棒〟

 その言葉が、マナの中でするりと消化された。それは思いの外、速いスピードだった。たぶん、マナ自身の中でもしっくりきたからなのだろう。

〝彼女〟とか、〝恋人〟なんて言うには、そこまでの仲どころか知り合って間もないくらいだし、それにそういうのは何か違うような気がした。砂糖菓子のようにとても甘くて、そしてとても脆い気がしたのだ。かと言って、

〝パートナー〟なんて言葉は、ルナのほうがぴったりくるだろうし。だからやっぱり、〝相棒〟という表現は、なんだかほっとした。

 それでいて、なんだか嬉しくもあった。自分自身を肯定されているような気もするし、役に立てているような、そして対等でもあるから……なのだろうか。

「相棒ねぇ……」

 ケイロンは、何か眩しいものでも見るときのように、目を細めた。そしてケイロンは、新たな煙草を取り出し、火を点けた。

「げっ! また部屋が臭くなるだろ!」

「いいだろうが、俺の事務所なんだぞ」

「どこが〝事務所〟だ!」

 またもや、軽い言い合いが始まってしまう。この二人は放っておくと、こうなるのだ。掃除のときもそうだった。

 しかし実際、掃除から得られたものは大きかった。目にする資料や、壁に貼られた写真、新聞記事、一部にマーキングされた世界地図、つけっぱなしのパソコン画面、投げ出されたタブレット端末、無線機、ICレコーダー、デジカメ、小型カメラ、小型拳銃……。これらを見る限りでも、彼は何かの調査員のようだと思った。

 掃除中もパソコン画面のデスクトップがずっと気になっていた。ひっきりなしに、メール受信の音が鳴るからである。その度に画面下、ツールバー付近に、件名が表示される。だがそれが、どれもこれも読めないのだ。否、読むことは読めるが、送信者はでたらめな文章を書いているのではないかと思えるような、ふざけた文章ばかりだった。もしくは、強度の言語障害であろうか。

 しかしこれに関しては、ジーンも気になっていたようだ。

「で、事務所は事務所でも、あんたは何かの情報員なわけ? 諜報活動家とか?」

 ジーンはずばりと切り込んだ。それに対してケイロンは、あっさりと答えてくれた。

「まぁ、言葉にすればそうなのかもしれないな」

「で、そのデスクトップにある、〝アルカディア計画〟っていうアイコンは何?」

 その言葉がマナの耳に入った瞬間、弾かれたようにそちらを向いた。ケイロンはそんなマナを、じっと見つめていた。煙草の煙が天に向かって燻る。その隙間から彼は、言葉を放った。

「これは、昔の計画書さ。研究所のね」

 途端にジーンは、鋭い瞳をケイロンに向けた。それは、敵を見る目つきだった。まるで、隠し持っているナイフを、取り出しそうな勢いである。

 だがケイロンはそれには構わず、言葉を続ける。

「今のアルカディア計画の原案になる計画書だ。これは、俺がいた時代のものだ」

「……は?」

 あまりにもさらりと告白されたその言葉に、ジーンは警戒や攻撃的な感情を通り越して、嘲りにも近い笑いと共に、そんな声が出ていた。しかしそれさえも、掻き消してしまうかのように、ケイロンは潔くこう言った。

「俺は昔、あの研究所にいた。医師として」

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