4. 強襲
舞踏会開始三十分前に会場に着くと、そこはもうすでに仮面をつけたたくさんの来場者で満たされていた。町長の挨拶も、まだ何も始まってはいなかったけれど、雰囲気はもう出来上がっていた。大会というわけではないのだけれど、踊りの練習を始めている者さえいた。随分と気合の入った者たちもいるものだ。
かと思いきや、出会いの場として活用しているのか、大勢の男女のグループが婚活のようなことをしている者もいた。
と思いきや、本当のハロウィンパーティーさながらに、はしゃぎまくる子供たちの参加者。それを鎮めようと追いかける大人たち。
街の様相が渾然一体となって、この会場で体現されているかのようだ。
マナたちは、余ってしまった三十分をどうするというわけでもなく、ただ会場を歩き回って観察してみた。この会場のどこかに、ガーネットの護衛が、まだ潜んでいるということになるのだろう。
しかし、姿を現わし名乗る気配さえないというのは、ガーネットの護衛というよりかは、監視されているという可能性のほうを強く感じてしまう。どうにも、薄気味悪い。どうやら、ジーンも同じことを感じていたようで、もうすでに感覚を研ぎ澄ましているようだ。
そんなときだった。その人は、窓際にたった一人でいた。黒の仮面に黒のモーニング、その中で長い金髪が目に鮮やかに映った。その髪は、後ろで綺麗に束ねられていて、清潔感を感じさせる。
その服装も、〝着られている〟という感じではなく、服の雰囲気と見事に調和していた。と同時に、大人びた雰囲気を感じさせた。いや、実年齢としてもマナたちよりも一回り上のような気がするが。
その人はじっとこちらを見つめていた。始めから、ずっとこちらを見ていたといった様子だ。右手に持っていたシャンパングラスを窓際に置き、手に持っている折りたたまれた紙を広げて、彼はこちらと紙を見比べるように何度か視線を交互に移動させた。そしてそのまま、こちらに近づいてくる。
あと数歩で会話に適した距離というときに、彼はその紙をこちらに見せるように掲げた。マナは〝あっ!〟と、声を発しそうになった。そこには顔写真のような再現CGが印刷されていたからだ。それは、ジーンのものだった。
「優秀な人間とカラスの遺伝子の結合体。高度なIQ値を有する男。コードネーム〝アスクレピオス〟。数年前に研究所を脱走。いずれ、あの研究所の開発責任者となるために生み出されたのだが……」
男はジーンの真正面に立ち、顔写真の紙を折りたたみ、そしてニッと笑った。笑うと妙に、少年のように見えた。だけどそこがまた、この状況では不気味にさえ感じられる。
そう思えたのは、自分の正体を勝手に晒された当の本人、ジーンの雰囲気ががらりと変わったからというのもあるのかもしれない。彼はその男に対して、殺気を隠すことなく放ち始めた。
「おぉ! 怖い怖い! そう怒るなよ。俺はただ、自己紹介するために近づいたってだけのことさ」
だが尚もジーンは、ゆっくりと歩き回るその男の一挙手一投足を睨みつけている。男はその視線に構うことなく、言葉を続けた。
「美しきものは、仮面をつけていようがすぐにわかるというもの。そこに神が宿るからね」
「神は神でも、堕天使かもしれないという可能性は考えなかったのか?」
自嘲のような笑いと共に、ジーンの口から吐き出された皮肉。しかし男はそれを笑い飛ばしてしまった。
「その可能性は考えていなかった! いやはや、おもしろい!」
〝HAHAHA!〟というローマ字表記での笑いが似合いそうな、陽気な男である。そして、男は胸ポケットに手を差し入れた。誰もが、緊張に身を強張らせた。だが取り出したものは、掌に乗っかるサイズの小さな紙切れだった。
「俺は、こういう者です」
その紙切れは、名刺だった。ジーンの手に渡った名刺を、マナも覗き込む。
〝オフィス・サイファー 代表取締役
ケイロン
MAIL:e5n4i3g2m1a0solve@noah.underground.co.jp
PHONE:080-××○○-△△□□〟
「で、何者なんだ?」
ジーンはかろうじて、会話らしい会話を続ける努力を掘り起こしてくれたようだ。ケイロンの表情は少し、明るくなった。しかし、ジーンの質問に対しての答えは、兆しの見えるものではなかった。
「それは、ここでひょいひょいと話すわけにはいかないな。ここは、いろんな御仁が出入りする場所だからねぇ」
もったいぶった言い方に、ジーンは少々苛立った。
「あぁ、誤解しないでくれ。ここでは話せないけれど、別の場所だったら話してもいいって意味さ。まぁ、そのときが来たら、こちらから連絡するよ」
一方的に名刺だけ置き去りにして、切り上げようとするケイロンの背に、ジーンは喰らいついていった。
「だったら、なぜ名刺にメールアドレスと電話番号なんか載せるんだ?」
「それでも、俺からの連絡を待っていてくれないかな?」
ジーンの質問など一切お構いなしに、自分の意見だけ放ってゆく。さすがにジーンも、触らぬ神に祟りなしと判断したのか、すっと浮んでいた疑念を引き下げたようだ。しかし相手は忠告のように、こんな言葉も残していった。
「仮面舞踏会を楽しむのも大いに結構だが、〝ニーナ〟にならぬよう、気をつけるんだな」
その言葉には、ジーンは最高の苛立ち、眉間に皺を寄せての仏頂面を披露した。
「俺は男だぞ」
その呟きを近くで聞いたマナは、ジーンのキレポイントってそこだったんだと、なにやら改めて発見した気分であった。ということは、出会ったばかりの〝女装が趣味〟発言は、相当に怒りを殺しての対応だったのでは――
過去のことを一人思い出していたマナだったが、目の前の会話に再度意識が引き戻される。
「俺だって、もう一度再会したいと思っているんだ。しっかりと目見開いて、男でいろよ」
その言葉を最後に、ケイロンは意味深な笑いを浮かべながら、ジーンに背を向けた。その言葉にジーンは、くぐもった笑いを放ちながら、去り行く背に向けて恭しく頭を垂れた。
「一日千秋の思いで、お待ちしております」
しかし目だけは下に伏せられることなく、射抜くような眼差しと共にその言葉は放たれたのだった。
「えー……、本日は晴天に恵まれ、雲一つない夜空に月が照り映え、煌びやかな夜となっておりますが、あー……」
ついに仮面舞踏会の所謂、開会式が始まった。壇上の町長は仮面をつけていたが、訛りの強さが、仮面をつけても、つけていなくてもすぐに町長と知れた。こんなところに、港街臭さが残されていて、なんだか微笑ましくなる。
そして、聴衆の怠惰がピークに達したあたりで、町長は潔くスピーチを切り上げた。壇上を下りる町長の丸まった背を見つめ、マナはタヌキの置物を一人思い出してしまった。
その後は、とんとん拍子に司会も進行し、さくさくと仮面舞踏会は開幕となった。会場は、黒と色とりどりの花が舞い、シャンデリアの明かりの下、色彩豊かな空間となった。中には、花と花、黒と黒の組み合わせもあったが、それはそれでご愛嬌というものだった。
ガーネットはそれらの光景を、キラキラしたものに憧れる少女の瞳で見つめていた。そしてごく自然にジーンの手を取り、踊りに誘った。しかし当のジーンは遠慮がちだ。そのわけを語るような言葉を、彼は呟くように話した。
「……こんな俺でもいいのかい?」
やはりジーン自身は、先程のケイロンとのやり取りを気にしているのだろう。そりゃあやはり、造られた人間だということを気にしない普通の人間はいないだろう。そのことを彼は、気にしているのだ。しかしガーネットはそのことに関しては、さらりとした口調で返した。
「あなたがどんな人であれ、私にとっては〝星の王子さま〟に見えたんです。だからあなたに、ダンスの相手をお願いしたのです。たとえ一瞬でも、それでも――」
彼女はそんな、夢のような時間が欲しかったのかもしれない。殺伐とした現実ばかりで生きてきた者なればこそ、そんな時間のなんと儚いことか――。
少女でありながら、もしかしたら彼女は、少女らしい時間を過ごすことが少なかったのではないか。そんな人間にとっては、たかが夢であれ、宝物のような時間になるのかもしれない。
ジーンは彼女の中の、無理やり閉じ込めてしまった少女を感じ取り、自然と手を握り返していた。
「わかりました。あなたほど踊りは上手ではないかもしれませんが……」
ガーネットの手を携えたまま、ジーンたちは踊りの輪の中に入っていった。傍目に見ていても、可愛らしいカップルである。
そしてジーンは口では踊りは上手ではないかもしれないというようなことを言っていたが、マナの目にはそんな風には見えなかった。まわりと同じくらい、いや、それ以上に華麗にステップを踏んでいた。いつ練習していたのだろうと思いたくなるほどに、上手かった。少なくとも、仮面舞踏会開催までの一日間では、その様子は見受けられなかった。
それどころか、マナのほうこそ街角に流れる舞踏会の映像を見て予習していたというのに、さっぱり覚えられなかった。今でも皆のステップを見ながら、必死に勉強中である。目が回りそうになっているという時点で、自分には才能がないのかもしれないとまで、思い始めている。
いやいやそれよりも、今はガーネットの護衛の仕事中なのだ。踊り云々は置いといて、そちらのほうに集中しなければ。それに、ガーネットの護衛は他にもどこかにいるのだ。何組も募集をかけているというのだから、どこかでひっそりと護衛と監視をお互いに繰り広げているのかもしれない……。
(職務に集中しなければ!)
そう思い始めたそのとき、二人は休憩のためなのか、こちらに戻ってきた。
「あー、楽しかった! それにジーンさん、すごく上手!」
「お褒めに預かり、光栄です」
爽やかな笑顔と共に、そんなことを言う。しかし本当に、不思議である。ダンスを習ったことがあるとでも言うのだろうか。
「一体どこで、覚えてきたの?」
マナがそう質問すると、
「街角のビデオ映像で」
との一言。〝それって、私も一緒に見ていたんですけど……〟と言いたかったが、まるで自分が能無し人間に思えて癪に障るので、無言を貫くことにした。
「ほら、マナも踊っておいでよ」
「……え?」
〝踊っておいで〟って誰と? という質問が顔に書いてあったのだろう。さっとジーンの両手は、ガーネット嬢を指し示した。そりゃあたしかに、ガーネットの護衛中なのだから、彼女を一人にするわけにはいかないのだが、せめて教えてくれるだけでも……。
そんな思いもお見通しとばかりに、
「ガーネット嬢が丁寧に教えてくれますよ」
と、鮮やかに切り返してきた。そして、こんなおまけの言葉も付け足すことを忘れずに。
「それにせっかくレンタル代払ったんだからさ、その金額分踊ってこなきゃ損だよ、損!」
(出た、守銭奴! 見た目は〝王子〟って感じなのに、中身はただの高利貸……)
金額分踊ってこいという、笑顔の脅しに屈したマナは、渋々、でもちょっとだけ、わくわくしながらガーネットと踊りの輪の中に加わっていった。
それにしてもやはり、踊りのほうは予想通りといったところか。ガーネットの細かい指示を聞きながら動いてはみたものの、そもそもリズム感というものがないらしい。関節に油差してないんじゃないのか? と思えるような、かくかくした動きだった。端から見れば、可愛いお嬢さんが骨の標本を操って踊っているように見えることだろう。
案の定視界の端に、必死で笑いをこらえるジーンの姿が目に映った。〝おのれ! 非情な守銭奴め!〟と、腹の中で怒りを噛み殺しているときだった。
唐突に視界に黒が差した。いや、差したというものではない。全面が黒に覆われた。あたりからも悲鳴が上がる。会場の照明が、急激に落ちたのだ。それは他の部屋も同じらしい。突然の停電だろうか。ざわつき混乱する会場内。マナは必死で、握り締めた小さな手とその身体を自分の身体で覆うように守った。
「大丈夫ですか? ガーネット様」
「はい、ちょっとびっくりしたけど」
「絶対に私から離れないでくださいね」
「はい」
小さな背が僅かに強張っている。無理もない。そしてこの停電はやはり、敵の罠だろうか。マナにとっても、緊張の時間が続く。
「えー、えー、皆さん、落ち着いてください。原因は今スタッフが調査中ですので、静かにその場で待機していてください」
町長のアナウンスが会場に流れる。だが場内のざわつきは、一層大きくなるばかりだった。さらに一部からは、罵倒する参加者も。その声に呼応するかのように、喧嘩騒ぎがどこかから発生し始めた。
一体、この会場の参加者たちは何をやっているのだろうか。こんなことをしている場合ではないはずなのに。しかしそのときふと、このタイミングを見計らって暴動騒ぎを扇動する者がいるのではないか。マナはそんな考えに至ってしまった。
そのとき、何者かが体当たりしてきた。繋いでいた手が引き離される。
「ガーネット様!」
マナは思わず、大声で叫んでしまっていた。そのとき、第六感とでも言うのだろうか、この感覚は。気分が悪くなるほどのどす黒い何か、それを感じた。その息遣い、その体温、心の内に秘めている何か、それらが手にとるようにわかってしまう。しかもそれらはなぜか、スローモーションで伝わってくるのだ。
そいつが手を伸ばして、こちらに触れようとするイメージが頭の中に流れてくる――
「うぁぁぁっっ!」
マナは知らず知らずのうちに、力を使っていた。鈍い何かが、床に打ち付けられる音がする。そしてもう一つの体温が、急激にこちらに近づいてくる。その者は、何か(・)を手に持っている。それがマナの頭を狙う。咄嗟にマナも身を翻し、その者の頭に銃口を向けた。
そのとき、会場の明かりがぱっと灯った。目の前には銃口をこちらに向けた、モーニング姿の見知らぬ男。だがその者の上着とシャツは乱闘にあったのか、擦り切れていた。そして、その隙間から見えた防弾チョッキには、茶色い山のロゴが印刷されていた。
ジーンは暗い廊下をひた走っていた。小さなその手を伴いながら。多数の息遣いが背後から迫ってくる。だがそれらを少しずつ排除してくれている存在があった。月の光を受けて、その毛皮が輝いていた。やはりこんな状況は、獣のほうが夜目が利く。
ジーンは後ろを僅かに振り向いた。小さく舌打ちした。十人? いや二十人? 相当な数がこちらに振り分けられているようだ。たしかにあの会場内にも、研究所の刺客は何人か残った。だが残りが全て、こちらに振り分けられようとは――。予想外の多さだった。やはり、狙いは――
(あんただよ、ジーン)
追いついてきたルナが、そう呟いた。ガーネットを狙っていた悪しき組織というのは、研究所の人間だということは予想がついていた。ガーネットの類まれな才能。その遺伝子が欲しいのだろう。しかし、奴らの動きを見る限り、これはどうも――
(マナだったら、あの子は一人にしておいても大丈夫よ。シアンもついている。それよりも、危ないのはあんたのほうさ)
「ふふっ、これだから人気者は……」
(笑い事じゃないよ)
ルナは叱り付けるように、ぴしゃりとそう言った。
(案外ガーネットよりも、あんたのほうが狙われているかもしれないってことだよ)
「なんとなく、そんな気はしてたんだけどね……」
それにしても、これほどの人数が入り込んでいようとは――。もちろん、ガーネットの護衛として入り込んでいた者もいよう。一般の参加者として入り込んでいた者も、いたのかもしれない。しかし思いの外の人数だった。
(このことは、侯爵夫人はわかっていたのだろうか。まさか侯爵夫人も研究所の者たちと手を組んでいるのでは――。しかしそうなると、狙いは俺ということになり、自ずと一番側にいるガーネットが一番の危険に晒されることになるだろう……)
ジーンは何を信じるべきなのか、考えあぐねいた。頭の中では様々なパターンが過ぎったが、だがそのどれもが確証はなかった。
ならば結局頼るところは、己の勘だった。この心が感じ取った感覚、人の心の機敏、夫人の表情、僅かな仕草、ガーネットの表情、僅かでも垣間見えた彼女の性格、〝星の王子さま〟に見えたのだと言っていたときの彼女の――
ジーンは、彼女を信じることにした。だから今は何が起ころうとも、自分がすべきことは彼女を全力で守ることのみなのだ。
角を曲がるとそこには、一人の男が佇んでいた。僅かに月の光が差し込む廊下でも、その金髪は光に照り映え目立っていた。彼は空気を僅かに震わせるように笑うと、ジーンと並走し始めた。
「仮面をとった姿も、なかなかの美男子じゃないか!」
ジーンは相手に聞かせるように、大きく舌打ちした。
「一日千秋どころか、一日一秒の短さじゃないか。俺はそこまでして、あんたに会いたいとは思っていなかったんだが……」
嫌味を飛ばした相手も、もうすでに仮面はつけていなかった。ゲームの時間は終わりということか? 栗色の瞳に月の光が反射し、美しい琥珀色を成していた。だがジーンはろくすっぽその瞳を見返すことなく、厄介払いするかの如く言い放した。
「今はあんたと語り合っている暇はないんだ。悪いんだけど、どこかに消えてくれないか?」
「そう頑なになるなよ。今の俺は、君からの許可が欲しくて近づいているだけなんだからさ」
「許可?」
相手が喰らいついたと判断したのか、ケイロンの瞳はきらりと光った。
「そう、許可。マスコミに送りつけるための暗視カメラ映像に、君が映りこんでしまっているのさ。それに対しての許可が欲しいんだ」
そう言うとケイロンは、携帯用タブレット端末を取り出した。後ろの団体から、流れ弾が数発発砲され、近くの床を穿ったが、ケイロンはそのお返しとばかりに、二十二口径のミニチュア銃でその分の弾を撃ち返した。後ろでは脚をやられ、引き摺るように脱落してゆく者が数名。そして事も無げに、ジーンとの会話に戻ってくる。
「あんた、何者だ?」
結局、初めて出会ったときの質問に戻る。しかし今回もやはりうまいこと、かわされてしまう。
「そんなことはどうでもいいだろう? それよりも……」
端末の画面上には、暗視カメラ独特の緑色の複数の人物が映っていた。乱闘で取っ組み合う男たちの映像、誰かが取り落としたのだろうか、研究所のロゴマークまで見えるくらいの銃のアップ映像。
そしてカメラは急に方向転換した。手ぶれしながらも映す画面の先には、少女を連れて逃げるジーンの姿が、たしかに映り込んでいた。
「ここなんだよね」
ケイロンは、指し示しながらそう言ったが、映像は尚も続いていた。男性ばかりだった画面の映像の中に、女性が新たに映り込む。その女性は暗闇の中で辺りを伺っているような様子だ。
一人の男が手にナイフを持ち、その女性に近づいて斬り付けようとする。だがその女性は、まるでそれが見えているかのように、僅かに身体をずらしてかわす。そして次の瞬間、
「なんだ、これは……」
ジーンは思わず呟いていた。その男性の脚はあらぬ方向に折れ曲がっていた。そして、その男の前に佇む女性は、紛れもなくマナの姿だった。しかし映像は、ジーンの興味を遮るようにそこで終わってしまった。
「そういうわけだ。君とは、今度ゆっくりと語り合いたいと思っているんだよ。だからそのときまで、生き延びろ」
言いたいことと、気になる謎だけ残して、ケイロンは速度を速めていった。ジーンが上げた抗議の声さえ、その耳に入れさせないようにしているかの如く、彼はどんどん離れていった。その背は、さらに角を曲がる。ジーンもそれに続く。だがその人物は、忽然と姿を消していた。ただ一つ、開け放たれた窓がそこにあるだけだった。
しかし未だジーンの中では、暗視カメラの映像が頭の中で再生されている。
(あの光景は……、マナは……。何も手を下すことなく、男の脚は粘土が壊されるかの如く、ひしゃげていった。マナの遺伝子とは一体……)
考えれば考えるほどに、情報不足とそれが故の不安、自ら作り上げてしまう妄念に振り回されそうになる。しかし、ジーンは考えることを止めなかった。何にでも言えることだが、止まることは退化や死を意味するような気がしたのだ。
(いやしかし、あんな力はどの動物からも見受けられない力。突然変異だとでも言うのか? いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。目の前のことを何とかしなければ。未だ追っ手は、しつこく迫ってきているのだから)
さらに突き当たりの角を曲がる。その廊下の先には、行き止まりの壁が絶対的な存在感で聳えていた。しかしその手前で、個室に繋がる扉が佇んでいた。ジーンは、その扉を開けた。幸いその部屋は無人で、がらんとした寂寥感さえ漂わせていた。
「ガーネット様、しばらくこちらで待機していてください。必ずお迎えに上がります」
「わかりました」
彼女はこんな状況下でも、気丈に振舞おうと必死に努力している様子だった。
「それから、扉の近くには立たないでください。奴等の流れ弾が飛んでくるかもしれませんので……」
最後に一言言い残すと、ジーンは扉の外に飛び出していった。
そしてそこには、黒のモーニングの集団が闇夜の小波のように、徐々にその個室に向けて近づいてきていた。彼らはまるで、それが暗殺者の服でもあるかのように、異様な雰囲気を纏っていた。やっと獲物を追い詰めた彼らは、じりじりと間合いを詰めてくる。
ジーンは懐に隠し持っていた、警棒を取り出した。マナが研究所から運び出した警棒だ。それをジーンは、特殊な細工を施していった。携帯できるように折りたたみ式にし、そして威力を増すためにも、起動させると電流が流れる仕組みを作り出していったのだった。
正直、空白の一日間は踊りを覚えることよりも、こちらの改良に時間をかけた。しかし相手は、ただの警棒と侮っているようだ。
数人の男が、手にナイフを持ち、襲い掛かってくる。その後ろの団体は、銃を片手に援護射撃のつもりなのだろう。だがこんな狭い通路で撃ちまくるというのは、仲間を見殺しにするも同然。
不意に、目の前の男二人が動いた。襲いかかってくる二人の動きが、頭の中でスローモーションの状態で行動予測される。
そして後方部隊からの発砲。その銃弾の軌道と、男二人の動きとを読んで、誘い出すようにジーンはわざと隙を作った。そこをついて男の一人が突進してくる。だが、その刃がジーンに到達する前に、銃弾がその男の右腕を貫通する。
その衝撃で手から零れ落ちたナイフを、横一閃するように警棒で叩き打つ。そのナイフは後方部隊の一人の肩に、命中する。その後方部隊の隙を突くように、ルナも次々と襲い掛かってゆく。
そして、ジーンのすぐ側でナイフを振り上げるもう一人の男の鳩尾には、警棒の一突きを。身体中を電流が駆け巡ったその男は、やがて失神した。
この僅かな時間の間にもジーンは、頭の中で彼らの動きをインプットしていった。彼の中の、まるで機械のような記憶装置である脳は、今まで覚えた体術、武術、剣術、槍術、棒術、弓、ナイフ、銃、飛び道具その他諸々……の記憶と、今インプットされたばかりの彼らの動きとが交じり合い、新たなバリエーションを生んでゆく。
ルナの襲撃によって混乱した後方部隊は、ジーンとの間合いを詰められたのもあり、連射ができないという欠点を持つ、リボルバー式拳銃からナイフへと持ち替えた者もいた。
だが、相手の切っ先が閃いたその瞬間、さらに大きな混乱の渦が刺客の団体の中に流れた。刺客の後部のほうから、倒れる者や逃げようとする者が現われたのだ。
いや、よく見ると刺客よりも大きな波が押し寄せてきたのだ。それらはニムロデ侯爵邸にいた護衛の団体であった。と同時に、廊下の電気も復旧し始めた。
「この者たちを全員捕らえよ!」
廊下の端から大音声が響き渡った。その人物に目を凝らすと、黒のタキシードに身を包み、さらにまわりを護衛で固めていた。年の頃で言うと、侯爵夫人とそう変わらない。ということは、この人が――
「あぁ、こらこら、その者は違う! 娘を守ってくれた恩人なのだから、捕まえるんじゃない!」
彼は部下である護衛たちに、そう命令した。ジーンは片腕を掴まれ、そのまま捕らえられそうになっていたが、そんな自分の状況よりも、今この目の前の現実のほうが驚くべきことばかりだった。そもそも外交官として外遊中だったはずのその人物が、なぜ今ここにいるのか。
「いやはや、親友からの連絡があったものでね。正直なところ、昨日には帰国していたんだが、今回の作戦のために少々身を潜めていたまでのこと」
ニムロデ侯爵は、ジーンの疑問に答える形で自らその種明かしをした。
「し、親友というのは……?」
「ケイロンのことだ」
予想はしていた。だけど漠然とした勘でしかなかった。一番信頼できる、監視員。ジーンは小さく、〝なるほど……〟と納得の意を示した。だがそれでも彼は何者なのか? という疑問は拭えない。
「どうか、彼に会ってやってくれないか?」
今度は、ニムロデ侯爵からもそんな要請をされてしまった。一体なぜ、そんなにも……。不服にも近い表情が、自分の顔に表れていたのだろう。すかさずニムロデ侯爵は、言葉を続けた。
「君に興味があるんだそうだ。そして君に、協力を要請したい、とのことだ」
「協力?」
「あぁ」
すると、ニムロデ侯爵はジーンに近づいて、小声で語った。
「私も侯爵という立場上、公に研究所と、そしてその後ろについている国と、敵対するわけにもいかないのだが、だがそれでも私は親友をバックアップしたいと思っているんだよ」
(研究所の後ろについている国?)
それはジーンにとっても、初耳だった。
「それに、娘に手を出す者は、どこの国の者でも許すわけにはいかないのでね」
はっきりとした強硬な姿勢は見せないが、それでも許さぬものは許さない。そして今回の侯爵の行動は、やはり研究所にとっては、そしてその謎の国にとっては、〝反旗〟ということになるのだろう。それでも侯爵は笑顔で、のらりくらりとやり過ごすことだろう。きっとこの一連の一掃作戦を思いついたのは、他でもないこのニムロデ侯爵であろうから。
「パパ!」
扉から飛び出し、一直線に侯爵の元に駆けて行くのは、緊張の時間から開放され、安堵の表情を浮かべているガーネット嬢だった。
しかし、感動の再会を目にしても、ジーンの心はまだ、安息についてはいなかった。
「どこへ行く?」
廊下をまた駆け戻ろうとするジーンの背に、侯爵は声をかけた。
「まだ大広間に……」
そう言いかけて、マナのことをどんな言葉で言ったものか、ジーンは僅かに考えた。しかしこんな言葉しか出てこなかった。
「相棒がいるので……」
侯爵は遠ざかってゆくジーンの背中を、意味ありげに見つめていた。
「〝相棒〟にしては、随分とご心配だこと……」




