3. 疑惑
朝靄煙る、幻想的な風景がそこには広がっていた。昨日の夜は乾いていた空気が一転、水気を含んだその空気は葉や草の先に、雫となって舞い降りていた。鳥が飛び立つたびに、雫が地に落ち、傘を逆さにしたような輪を作る。たったそれだけのミクロの世界でも、初めて見るその光景に、マナはただただ魅入ってしまっていた。
(この世界は本当に不思議なことばかりだ……)
そして目に映るもの全てが新発見で、とてもおもしろくもあった。普段、感情をあまり外に爆発させたりすることは少ないタイプだから、本当は喜んでいたり、楽しんでいたりすることが、相手には気づかれにくいのかもしれないが……。
だけどそれを言い出せば、昨日出会ったあの男もそんな気がするのだ。しかし彼の場合、〝感情を表に出さない〟というよりかは、どうも仮面を被るのが上手い気がする。きっと彼にとっては、特殊な遺伝子を持つ彼にとっては、そうすることもまた、生きてゆくための術だったのかもしれないが。
(目立たないように、か……)
だけど充分彼は、目立つと思う。醸し出す雰囲気だけでも充分……。
「うわぁぁぁっっっ!」
そのとき、突然に叫び声が上がった。もちろんそれは狼のものではない、人間の男のもので、テントの中から聞こえてきた。急いで駆けつけてみると、人型にすっぽりと脱皮したような寝袋がそこにはあった。肝心の叫び声の主はどこに行ったと見回してみると、テントの隅っこのほうで、縮こまって震えていた。その姿は、ルナに威嚇されたときのシアンに似ていた。
何があったのかは、このテントに入ったときに、マナにはわかっていた。臭いでわかったのだ。人型に脱皮した寝袋のど真ん中で、ちょこちょこ、かしかしと、問題のそいつは自由に闊歩していた。まぁたしかに、嫌いな人からしてみれば、ショッキング極まりないことであろう。
しかし、〝目立つな〟と言っていた本人が、こんなに騒いでいては、規定違反も甚だしいというもの。マナは、心の中で〝マイナス五点〟と唱えながら、どこからともなく取り出したガムテープで寝袋の上を泳ぐそいつを捕まえ、ぺっと捨てた。
まるで、人外のものを見るような目を寄越してくるジーンの存在など無視し、さっさとテントの片づけを始めるマナ。
「あぁ、ちょっと待て! まだいるかもしれないから、点検してからにしよう!」
それにしてもこの事態は、こうも考えることができるような気がして、マナはなんとも言えない気持ちになる。結局は、カメムシ如きがジーンの仮面を取っ払う起爆剤になっている……。そう思うと、ため息が止まらなくなるのだ。
(何なんだろう、この人は……)
腹の中の声が聞こえてしまったのだろうか、それでも彼は必死の形相で、
「俺にとっては、死活問題に近いことなんだ!」
と、訴え始めた。
「はいはい……」
適当に合わせながらも、寝袋やらランプやらを手際よく片付けてゆく。しかしなぜか彼は、それでもマナの顔をじーっと見つめていた。
「それにしても、なんで切ったんだ?」
一瞬そう言われて、マナは何のことだかわからなかった。ジーンの視線がマナの顔ではなく、髪に注がれているということに気づいたとき、やっとマナはその意味を理解した。
「だって、足りなかったんだもの、あの染髪剤。男性用だったんじゃないの?」
そう、マナは肩くらいまであった髪を、バッサリとショートに切ってしまったのだ。その状態で、キャスケット帽を被ろうものなら、見事に男の子に見えてしまうことだろう。
「あー、そうだったのか……。それは、悪かった。俺がケチったばかりに……」
なぜかそれは、気にしている風だった。この人でも、悪いと思うことはあるんだと、マナは結構薄情なことを思ってしまう。するとジーンは、ぼそぼそとしたものの言い方で、その理由を語り始める。
「女性にとって髪は、命の次に大事なものなんだろう?」
マナはそれを聞いて、きょとんとした。
「それは、人それぞれなんじゃない?」
まさに、その言葉そのもので、マナにとってはそこまで重要なことではなかった。
「むしろ私は、動きやすくなって良かったかなと思ってるけど」
「……そう……なのか?」
彼は本当に意外な顔を見せてくれる。変なところで繊細だったりして、そのくせ土壇場では図太かったりして。いろんなものが混在していて、よくわからない人。今のマナにとって、ジーンはそんな印象だった。
「それよりも、早く出発の支度したほうがいいんじゃない? さっきこの辺の水辺を歩いていたら、カメムシの大群見つけちゃったし」
「え……、う……嘘だろ……」
「うん、嘘だけどね」
「……」
そんなマナの言葉に、ジーンはイラッとした表情を見せながらも、本気でもう遭遇したくないようで、いそいそと片付け始めたのだった。
その野宿から数日間、次の街へ向けて地道に徒歩で移動した。旅費も出費させてしまったのだ。そこはマナも文句は言えなかった。
幸い、一日目の野宿以外は舗装された道伝いに移動したというのもあってか、カメムシの襲撃はなかった。至って普通の観光の道程である。地図も交通機関の時刻表も持ち合わせている彼は、一見すると、研究所から逃げているという雰囲気さえ感じさせなかった。ただのバックパッカーと言っても、差し支えなさそうである。
実際、彼が検問で提出する書類には、〝観光目的〟として書き記すようだ。
辿り着いた港街、ヨット。現に、ここでの検問には、そのように記された。もちろん検問時には、シアンとルナにはその辺に潜んでもらっている(だが彼らは、検問を通らずとも、屋根伝いに侵入という荒技を使いこなすのだが……)。
そして今回は、騒ぎを起こすこともなく、目立つこともなく、粛々と通過することができたのだから、大分進歩したと言えるのかもしれない。
早速ジーンが導くような形で、街の中を進んで行く。その先は、仕事に関する場所だとマナは思っていた。しかし辿り着いたそこは、古びた木造建屋の二階。狭い階段を上がった先には、銀行のような窓口が三つ設けられた場所だった。
その窓口の向こう側には、若い女性店員……ではなく、眼光鋭い中年の親父ばかりであった。しかしその強面の一人が、ジーンを目にした途端、顔を明るくさせ、気軽に声をかけてきた。
「よぉ、ジーン! お前にうってつけの仕事がきてるぞ!」
どうやらここは、仕事斡旋のギルドのようだ。気さくなその声に反応するかのように、ジーンはそちらに向けて進んでいった。
しかし次の瞬間、ジーンは予想もしない反応を示した。ずかずかといった歩調でその男のところに進んでゆくと、鉄格子のような柵の隙間にすっと手を差し入れた。そのまま思いっきり、男の襟首を締め上げるように掴んだのだった。
「ほぉ、貴様は前回の仕事のことを、忘れたのか?」
「なっ、何の話だ!」
ぎりぎりと締め上げた状態のまま、男の身体を持ち上げようとしている。しかもその男、お腹の出っ張った巨体である。ジーンの線の細い身体のどこから、そんな力が湧いてくるのか……。
「贋金掴ませやがって! 現生はお前がネコババしたのか?」
「そ、そんなの知らねぇよ! 依頼主に騙されたんだろ、お前が!」
「依頼主に直に聞いてみたよ。お前の斡旋料が八割だってな。あこぎな商売しやがる。それでも二割はこちらの手元に来るはずなんだがな、たったその二割ぽっちの金でさえも、贋金ってのはどういうことなんだ?」
「だから、そんなこと知らねぇよ! 贋かどうかなんかも知らねぇし、もう使っちまったよ!」
「知ってて使ったんじゃないのか! あぁ?」
目立たないようにする、の規定違反その二。マナは彼らのやり取りを見ながら心の中で秘かに、〝マイナス十点〟と唱えた。あぁ、この減点が溜まっていったら、私はどうなるのだろうか……。マナは目を細め、その二人を冷ややかに見つめていた。
「わーったよ! わーった! その分はちゃんと支払うから、頼むから下ろしてくれ!」
「ということは、やっぱりお前が着服してたんだな?」
「違うって! ケヴィンの指示だって! 俺だって、ただの雇われの身なんだぜ?」
「……」
尚もジーンは刺すような鋭い視線を相手に向けたままだったが、とりあえず相手を解放することだけは許したようだった。
「……ふぅ。まったく、怖ぇ怖ぇ。お前を怒らせちゃいけないってことが、よくわかったよ。特に金に関することはな。で、向こうにいるのは、お前の女か?」
「いや、あれは男だ」
ピシッ。
マナの社交辞令的笑顔に、ヒビが入った。中から不動明王のような鬼が出てきそうであった。
(こ……こいつは!)
湧きあがってくる怒りの焔に気を取られていたが、考えてみれば今のマナの格好は、ショートの黒髪をキャスケット帽ですっぽりと覆ってしまっている。たしかに、男の子に見えなくもない。
だが思い返してみれば、この建屋に入る前に、ジーンから帽子を被れと言われたのだった。
(端から、男に見せるため? これも目立たせないようにするための作戦だったとでも?)
しかし、窓口の男からは意外な反応が返ってきた。
「そうか、女だったら尚のこと、潜入しやすい仕事だったかもしれないんだがな……。残念だ」
「どういうことだ?」
中年男の物言いに、ジーンは興味を示した。中年男は、かかった! とばかりに、目を光らせて話し始めた。
「明後日、この街で仮面舞踏会が催されるって知ってたか?」
「仮面舞踏会?」
「あぁ。それに、ある資産家のご令嬢が出席したいんだそうだ。その護衛の仕事が舞い込んだんだがな、なんせうちに来る連中の大半は、〝舞踏会〟というよりかは、〝武道会〟な連中がほとんどだからなぁ。頼めるのは、お前くらいだと思ったまでのことさ」
「……」
その話をジーンはしばらく熟考した。やがて、おもむろに口を開いた。
「そもそも、港街で仮面舞踏会って、おかしくないか?」
「そこからか、お前は……」
呆れたといった調子で中年男は嘆いたが、ジーンの意見もご尤もである。
「〝港〟って言ったら、マグロの解剖ショーとか、うなぎの養殖品評会とか、カニの夜間観察会とか、いろいろあるだろう?」
「……どれも一般的じゃないな、それ」
〝港〟に対してどんなイメージを持っているのか、マナは個人的に問い詰めたいと思ったが、そのあとの中年男の説明を聞いてなるほどと、納得した。
「そりゃあ最初は港街らしい祭りを開いていたんだが、どこの港街も似たような催しをやるせいなのか、だんだん人の入りが少なくなってな。たまたま、港街らしからぬ仮面舞踏会を開いたら、当たっちまったってだけのことさ」
〝ま、ハロウィンパーティーみたいなもんだな〟と言って、ガハハと笑った。片や子供が主役ではしゃぐ日、片や大人が主役で上品にはしゃぐ日……。まぁ、似てると言えば似ているのかもしれないと思えてしまったマナは、どこかが麻痺しているだろうかと、変なところで心配になった。
「で、報酬はいくらだ?」
「五〇〇〇〇〇プレだ」
「ご……五〇〇〇〇〇プレ? どんな相場だ、社交界!」
「ま、相手は資産家だからな。しかも、一組五〇〇〇〇〇プレだそうだ。他に、何組も募集かけてるらしいぜ」
「し、信じられん……」
失った一〇〇〇〇〇プレの五倍……。しかもそれを、ポンポン出せてしまうその資産家って一体……。世の中って本当に広いなと、マナはそう思った。
「で、そのご令嬢ってのがまた、可愛いらしいぞ。それだけでも、受けてみる価値はあるんじゃないのか?」
最後にギルドの中年男は、そんなことを言っていたことをマナは思い出した。その言葉は、間違っていなかった。たしかに、可愛い。可愛いというよりかは、愛らしいのほうがしっくりくる。
金髪のくるくる巻き毛のお姫様風なそのご令嬢とやらは、豪華な装飾の施された大きな椅子に、ちょこんと座っていた。まだワンピースが大きかったのか、立ち上がると床に裾を引きずってしまいそうな長さである。大きな目をくりくりさせながら、ぬいぐるみのようなその少女は、そこに存在していた。
だが、その小さな少女を取り囲むように護衛している男たちは、屈強な身体つきをしている。ますます、少女の小ささが強調されてしまう。
ジーンも、問題のご令嬢が年端もいかない小さな子供だということに、最初は面食らった。だがすぐに、持ち前の優しげな笑みを浮かべた。いやはや、怖ろしき七変化だとマナは思ったが、たしかに彼はこの手の対応は上手そうだ。
すっかりそのご令嬢もジーンがお気に召したようで、護衛はもちろん、ダンスのパートナーのポジションも獲得してしまった。
「私めのような者でよろしいのでしたら、この上ない光栄でございます」
大仰な物言いでそう言うと、恭しく頭を垂れた。
「私は、ガーネットと申します。この度は、どうぞ宜しくお願い致します」
まだ少女らしい、たどたどしい言葉遣いで、だけど必死で丁寧に話そうとするその姿勢がまた、愛らしい。しかもジーンを前にして、すっかり顔を赤らめているあたりも、可愛い。
マナのほうがガーネット嬢にメロメロになっているこの状況を、なんともおかしく思う。
そんな中、ガーネットの隣に控えていたニムロデ侯爵夫人の契約に関する注意事項が滔々と流れている。そして、契約書を取り交わし、儀式のようなそれらの時間が過ぎ去ると、侯爵夫人は人払いを願い出た。
護衛たちは、機敏な動きで退室してゆく。静まり返った室内では、侯爵夫人、ガーネット、ジーン、マナの四人だけとなった。
煌びやかなシャンデリアが、天井付近で輝いている。バロック様式の装飾が施された室内は、荘厳な雰囲気だった。大きな絵画が壁に飾られていたが、絵とは言えその人物に見張られているような、そんな錯覚を覚えることに、マナは妙な心地がした。
「あなた方は、こんな疑問をお持ちになりませんでしたか? なぜ、護衛がここにいるのに外部の者に頼んだのかという疑問……」
やはり、本題はこれからだなと、ジーンは直感的に思った。
「最近、この子のまわりではおかしなことばかり起こります。何者かが、この子を狙っているような、そんな節さえ感じられるのです」
身分も身分なのだから、そんな思いは一般庶民に比べれば遥かに多く経験していることだろう。だからこその護衛が常時ついているのだが、今回その邸を守る、いわば信用しているはずの護衛たちを連れて行かないということは、考えられる理由は一つ。
「危惧しているのは、内部に誰か、善からぬ組織と通じている者がいるかもしれないという可能性なのです」
「なるほど……」
ジーンは座っている椅子から、身を乗り出した。
「目星はついているのでしょうか?」
「……いいえ、何も」
一言呟くと、侯爵夫人は目を伏せた。すかさずジーンは、疑問点を挙げた。
「ならば、なぜこんな狙われているかもしれない危険な時期に、仮面舞踏会に出席なさるのですか?」
「今、夫は外交官としてこの国内にさえいない状況なのです。敵は必ずこの手薄な時期を狙ってくるでしょう。だからこそ、人目に触れるところへ出るのです」
「大衆の目がある場所のほうが、安全だからということですか?」
「えぇ」
ジーンはそこでまたしばらく考えた。二人のやり取りを見ていると、いつの間にか逆になっている。まるでジーンが取調べか何かのように、侯爵夫人から聞き出している。マナの目から見ても、侯爵夫人は何かを言いづらそうにしている節が感じられる。それは一体……
「ですが、それはそれで疑問に思うことがあります。新たに雇われる外部の人間もまた、その善からぬ組織と繋がっている可能性も全くないとは言い切れないのではないかという点です」
侯爵夫人の様子を窺うように、ジーンはそこでしばらくの間を、意図的に作った。だが、マナの目には、手がかりになりそうなものは見つからなかった。
「しかも夫人は、我々だけではなく、多数の護衛を募集されているとのこと。これではまるで、護衛が護衛を護衛するようなもの。逆を返せば……」
「その通りです!」
一声、大きな声で遮るように、侯爵夫人は唐突に叫んだ。伏せていた目を上げ、真っ直ぐにジーンを見つめ、話し始めた。
「多数の護衛を募集しているのは、護衛同士で監視させるため。お互いにお互いの行動を、チェックさせるような、そんな体制を築けたならば、本当の敵が見えてくるのではないか。そう思ってのことです。あなた方を、信用できないというわけではありません。ですが……」
「わかりました!」
ジーンもそこで、両手を上げて遮るように一声張った。だが表情は、最初のあたりよりは明るいものへと変化している。
「ならば、納得できます。様々な疑問点も。それを踏まえた上で、聞かせてください」
そう言って、ジーンは一呼吸置いた。じっと、侯爵夫人の瞳を見つめたままで、口を開いた。
「我々は、護衛をすればいいのでしょうか? 監視をすればいいのでしょうか? それとも、炙り出しを?」
夫人は一瞬、唇をぎゅっと引き結んだように見えた。深く瞼を閉じ、そしてゆっくりと瞼を持ち上げた。
「その全てです」
ジーンは、全てに納得したという顔で、深く頷いた。そして、恭しく立ち上がり笑顔と共に丁寧な調子でこう言った。
「承知致しました。ご期待に沿えるよう精一杯、尽力致したい所存でございます」
ただただ流れてゆく会話を、見守るしかなかったマナは、意外なジーンの才に驚くばかりだった。自分ならば、相手の真意を探り出すことさえできないだろう。
それどころか、こんな会話を静かに聞いているガーネット嬢の冷静さも、マナはただただ感嘆していた。もしかしたら自分は、言葉は悪いかもしれないが、囮とされるかもしれない今回の作戦。そんな話を、実の母親の口から聞かされた実の娘。それでも心乱すことなく構えているその姿に、小さいながらも大人な心を感じ取っていた。
いや、きっと彼らは一般庶民にはわからないような、複雑な世界で生きているのかもしれない。常に、命狙われる存在――
それはなんとなく、ジーンと重なる部分があるような気がして、彼の中のまだ見えない影を感じる。
だけどそれは、本当はマナ自身も同じはずなのに、なぜだろう、月日の重みの違いだろうか。それともまだマナは、何も知らないということを、本当にまだわかっていないからなのだろうか――
ガーネット嬢と会って一日後、街中がどこか浮き足立った雰囲気の中、仮面舞踏会の当日となった。それまで、一日の猶予はあったが、祭り参加への衣装選び(もちろん、レンタル)や会場視察、装備品の手入れなどへの準備に費やした。
ちなみにこの装備品、研究所の警備員の服は細切れに切り裂いて森の中に埋めてきたが、警棒、ライト、拳銃は、結局未だ持ち歩いている。研究所のシンボルマーク、茶色い山のロゴ(アルカディア計画にちなんでのイメージと推測される)がそれらには印刷されていたが、それを持ち歩くことの不吉さよりも、実用性、利便性の重要さのほうが勝ってしまったというのが正直なところ。
そのときマナは、ふとあることを思い出した。警備員の服に入っていた、黒い石。妙に照りのある石だと思ったあれが、手元にはなかった。ゆっくりと思い返してみる。空腹に耐えかねて立ち寄ったレストランで一度手渡し……。そういえばあのとき、返してもらっていなかったことを思い出したのだ。
とはいえ、たかが石ころ。取るに足らない些細なことと思ったマナは、そのまま忘れていったのだった。それよりも今は、身支度と衣装レンタル店へ向かう準備のほうが重要。
ばたばたとしたいつもの準備の風景に、戻っていったのだった。
「……はぁ」
夕暮れ時に関わらず、華やいだ雰囲気の街並み。街のあちらこちらに飾られた西洋風の旗には、仮面舞踏会のイメージであろう、仮面の写真が印刷された旗と、ダンスを踊るカップルの写真の旗が、街頭の下に交互に飾られていた。
上空では街の模様を中継する飛行船や、紙吹雪や紙テープを、ライトアップされた街並みに撒く飛行船が遊泳していた。ちなみにその紙テープには、町長の祭りに対するメッセージが書かれていた。なんだか、コンサート会場に来た感じである。この場合、町長がステージ上の歌手ということになるか……。
そんなくだらない妄想の中を、ジーンは泳いでいた。そんなところに泳ぎだして、現実逃避したい気分なのである。
というのも、衣装の着付けと、メイク中のマナを、レンタル店の前で待っているのが、今のジーンの状況なのだ。なんとも自分が、居た堪れない気持ちになる。いや、〝居た堪れない〟というのは少々表現が違うのかもしれない。
とにかく、この今の待ち時間というのは、慣れないことなのだ。慣れないことが故に、そんな表現になってしまう。だけど本当は――
ジーンは、頭を振った。顔を上げてみる。木々の葉は、夕日を受けて色彩が少々変化して見えるが、日中の青々と茂る新緑は記憶に鮮やかに焼き付けてくる。風に吹かれて飛ばされてきた一葉を、ジーンは手にとった。
目を惹くこの緑色は葉の中にある光合成を行う細胞小器官である、葉緑体のもの。葉先まで走る線は、維管束組織である葉脈。葉肉内に水を届ける役割を担っているせいなのか、繊細である。そして葉表面の照りは、クチクラというつやを出すワックス層に被膜され、保護されているからなのだろう。
またこの葉というものは、昔はその裏に経文や手紙を書く〝葉書〟の代用として使われていたという話も聞く(タラヨウの葉)。どこかの国では、カラスを宗教的な場所で祀っていて、そこでは黒塗りのポストや神木が祀ってあると聞いたことがあるような……。
こんな日常生活において、どうしようもなく役に立たなさそうな、雑学のようなことを頭の中で独り語り、居た堪れないこの時をやり過ごしてみる。
しかし、葉のことについて考察してみることに飽きたジーンは、今度は視線を空に向けてみた。暮れかかる空からは、日中と比べると少なくはなったが、それでもまだ太陽光が差し込んでくる。それらは様々な波長の電磁波が混じったものとして、構成されている。
その主なものは可視光で、いろんな色が混じって人間の住む地上に降り注ぐのだが、人がこの目で知覚する色というものは、違う。
例えば、赤い箱それ自体が赤い色を自ら発しているのではなく、照りつける可視光のうち、その箱という物質が赤い光を反射するのだ。だから我々の目には、その箱は赤いと知覚するのだが、実は人間以外にはそいつは赤くは見えないかもしれないのだ。
もっと深く考えるのなら、その箱は実は赤の光が嫌いでただ反抗しているだけなのに、その箱は〝赤だ〟と認識されているだけなのかもしれないということだ。だが、こんな風に考えてしまう自分は、〝その箱〟というものを客観的視点では見ていないことになる。それは主観的視点――
そんな考えに至ったところで、自分はつくづく科学だとか、医療だとか、ましてや何かの研究だなんぞには、不向きだということがわかる。やはりその日暮らしの、バックパッカーあたりが性に合っている。ジーンは一人、そんな結論を出した。
正装姿の男が、ベンチに座ってボーっとしている光景は、今日という日でなければ奇異なものに映ることだろう。だが街には、そんなカップルでひしめき合っていた。
必ずしもそれが、男女ばかりではないということも、おもしろい現象といえば、おもしろいというものだが……。友人同士で気軽に参加、という雰囲気もなかなかに悪くない。
頬杖ついてそんな彼らを眺めながらも、さて、真面目に考えるか、と現在の自分の状況に意識を戻すのだった。
それは今回の仕事のことで、侯爵夫人のことだった。侯爵夫人にも、ガーネットにも、ましてやマナにも話していない可能性を、昨日一日ずっと秘かに考えていた。
今回新たに雇った護衛全員が、悪しき者である可能性を侯爵夫人は考えてはいなかっただろうかという点である。その場合、彼女はどうするだろうか。考えていないなんてことは、一昨日の会見から考えにくかった。護衛同士で監視させるなんて体制を考えつくことができる、聡い女性なのだから。
そう考えれば、思い浮かぶ案は一つ。一番信頼できる人物を、投入するのではないだろうか。その人物こそが、本当の監視員になる。ガーネットはどうだろうかとも考えた。だけどそれはあまりにも危険で、そしてそれはあまりにも、母として非情だ。そう考えるならば、一体誰がその本当の監視員となるだろうか――
張り巡らさなければならないアンテナがたくさんあって、久々の大仕事になりそうな予感がしていた。ジーンは舞踏会につけてゆく仮面を見つめた。
(これだから大人の祭りというやつは、厄介だ……)
ため息をつきながら、その仮面をつけた。薄く笑う、その口元だけは隠すことなく。
「ジーン! あれ? ジーン、どこ?」
ガランガランガランガランッ!
物が地面に落ち、何度もその場で自転する派手な音があたりに響き渡る。身体が反射的に飛び上がり、ジーンの手から見事に仮面が滑り落ちていったのだった。思わずわたわたと仮面を拾い上げると、目の前に真っ青な色彩が視界に迫った。
「店の前で待ってるって言ってたから、ちょっと探したよ」
顔を上げると、青いドレス姿のマナが目の前にいた。
「あ、そう、……だな。悪かった」
しどろもどろとした口調と共に、普段なかなか謝ったりしないのに、いとも簡単に謝罪の言葉を並べてしまっている。
「ごめんね、待ったでしょう?」
「いや……、そんなに。それに、まぁ、いろいろと考えることもあったことだし……」
「どうしたの? 具合悪い?」
「いや、別に……」
普段だったらもう少し捻りの聞いた言葉でも吐けるはずなのに、どうもこういうのは慣れないのだ。案の定、マナは本当に心配し始めた。
「本当に大丈夫? 何か悪いもの食べたんでしょ? 薬、買ったほうがいいんじゃない?」
「大丈夫だっての!」
遮るように言い放ち、ずんずん進んでゆくジーンの後ろを、何か口の中でごもごも文句を言いながらもついてゆくマナ。やがて予約していた馬車も到着し、ニムロデ侯爵邸へ、まずは向かうことと相成ったのだった。
無事侯爵邸に到着し、そこから会場までの馬車を、また別の馬車へと乗り換える。それは、侯爵邸で用意した専用の馬車だった。客席側の作りが、ジーンたちが乗ってきた馬車とは格段に違うのだ。
黒塗りの高級なボックス型で、スカスカと妙に風が入り込んでくるような、チープな作りではなかった。しかも室内は、臙脂色の革張りでラジオ、冷暖房完備である。いやはや、さすが高級車は違う。無駄にがたごとと揺れたりもしない。御者もがなり声で、お客に世間話をしたりしない。全てが、粛々と静寂の中で進んでゆく。
そんな空間の中で、マナとジーンに挟まれる形で真ん中にちょこんと腰掛けるのは、ピンクのドレスを着たガーネットである。そのドレスの雰囲気と、この室内の雰囲気とはしっくりこない。どちらかというと、メルヘンな可愛らしい内装がぴったりだろう。
一人まわりに妖精を引き連れているようなガーネットを真ん中に、室内にはラジオの優雅な音楽が流れてくる。ちょうどこの日にあわせて、全チャンネルがクラシック音楽の祭典状態である。マナたちが聴いているチャンネルからも、美しいメロディが流れてくる。
踊っているカップルで満たされた会場を想像しながら、その旋律を聴いていた。しかしその曲は、少しだけ滑稽な調子も交えている。明るく、軽やかで、それでいて滑稽。
だけど後半からの旋律は、クラシックらしい優美さと、壮大さ、そして、感動的でさえある。調子もころころ変わり、踊るのには不向きだけれど、それでもマナはその曲がなんだか可愛らしくて、そして美しくて気に入ってしまった。
「ラプソディー・イン・ブルーか……。俺の好きな曲だ」
非常にご機嫌な様子で、メロディーのテンポをとっているのはジーンだった。マナは思わず、ジーンの方を見てしまった。
「ん? どうした?」
「……」
〝何か俺、変なこと言ったか?〟という顔のジーンは、あっけらかんとそう言った。
「へー、そうなんだー」
妙に感情のこもらない声が自身から出たことに、マナは自分で自分に驚いた。変な感じに聞こえていなければ、いいけれど……。別にやましいことをしているわけではないのだけれど、一人何かを隠すようにマナは顔を僅かに伏せた。
「ジーンさんは、この曲が好きなんですね」
唐突に口を開いたガーネット嬢は、にこにことした笑顔である。そして、続けてこう言った。
「私は、この曲が好きですね」
〝この曲〟と言うのは、同じく〝ラプソディー・イン・ブルー〟のことだろうか。そう思っているうちに、マナの隣で大きく息を吸い込む音が聞こえた。次の瞬間、
~~~♪ ~~♪ ~~~~~♪
小さな少女は、卓越した歌唱力で歌い始めた。しかもその歌唱力は、少女のものとは思えぬもの。それは、大人が歌っていてもおかしくないオペラ歌手の声だった。
マナとジーンの二人は、半ば呆気にとられたような状態で、その少女を歌が終わるそのときまで見つめていた。プロ顔負けの歌唱力に、二人は歌い終わったことも忘れるほどに聞き惚れていた。そして、一瞬の間を置いて、二人は雨のような拍手と賞賛を仕切りと送るのだった。
「アメイジング・グレイスとは!」
「す、すごい! ガーネット様! どこで習ったのですか?」
「いえ、独学です」
こういうときに見せる照れた顔つきは、年相応の表情に見えた。
それにしても、才能というものは不思議なものである。こんなに小さいうちから花開いている子もいれば、年をとってから熟成するように開いてゆく者もいる。もちろん、どんなに努力しても〝才能がない〟と言われてしまう人もいるだろう。かと思いきや、突然変異の如く、唐突に跳び越えてしまうような人もいる。
特に不思議に思うのは、小さいうちの知識も入っていないまっさらな状態から、開花してしまう子。もはや、前世というものがあるのではないかということを疑ってしまう。
だがその観点から言うなれば、マナやジーンなどの造られた、所謂人造人間という者は、前世と言えば、前世と言えるのかもしれない。
しかし、マナがそんなことを考えているその向こう側で、ジーンは真剣な面持ちでガーネットを見つめていた。そして、おもむろに口を開く。
「ガーネット様、そのお力は、今は外ではあまり披露しないほうがよろしいかと」
一瞬ガーネットはきょとんとした顔をしたが、状況を理解したのか、小さく頷くだけに留めたようだ。
「光が強ければ、闇もまた濃くなるものです」
ジーンはそんな謎めいた言葉を放った。しかしすぐにその言葉は、現状を現わした詩的な比喩の言葉だという考えに、マナもガーネットも一致する。
だがジーンは、このときからその言葉が示す具体的な理由を、もうすでに考え付いていたようだ。マナは何も知らずにいた。ガーネットを狙う悪しき者たちが、何者であるのかさえも――




