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Mana 第一部~始まりの物語~  作者: 福島真琴
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2. 邂逅

 小川のせせらぎが、どこかから聞こえてきた。その音はなぜか、安心感を与えてくれる。

心地良いまどろみの中、彼女は寝返りを打った。何かふさふさしたものが、顔に当たったような気がした。だけどすぐにその感覚は消えたから、気のせいだったのだろう。再度寝直そうとしたそのとき、頬に熱い息がかかった。瞬間、彼女の脳裏に浮んだのは、施設にいた警備兵たちの下卑た笑い……。

「っ!」

 急に起き上がった彼女の目の前にいたものは、予想もつかない動物だった。全身、ふさふさの灰色の毛に覆われ、目を驚きの表情にまん丸にさせていた。身体はそんなに大柄ではなく、もしかしたらまだ子供なのかもしれない。垂れ下がった尾は、興味津々といった様子で、左右に振られていた。

(この人、怪我してるのかなぁ?)

 自分のものとは思えない高い声が、そう脳の中で木霊する。

(でも人間だからなぁ。あんまり近づいちゃあ、いけないんだろうけど、でも今まで見た人間とは何か違う気がする……)

 その高い声は彼女の中で鳴り響いたまま、目の前の狼はいろんな角度から彼女を観察する。

(匂いも人間臭い感じじゃなかったし、うーん、やっぱり今まで嗅いだことない感じ。長だったら、わかるかなぁ?)

 次々と送られてくる声に、彼女は混乱していた。でもたしかに言えることは、この声は自分が心で思っていることではないということ。そしてこの声は、目の前の狼の動きと連動しているということ。

(やっぱり長に聞いてみよっと)

 ぴょんと跳ねるように、駆け出したその狼の背に、彼女は思い切って話しかけてみた。

(君はこの森に住んでいるの?)

 その瞬間、狼はぴたりと静止した。糸か何かで引っ張られたかのように、こちらを振り向く。

(私だよ。今、喋っているのは)

 首を思い切り傾げながら、狼は窺うように近づいてくる。

(え! えーっ! しゃべれるの? 僕の声、わかるの?)

「わかるよ」

 彼女はその質問に、自分自身の声で答えた。狼は驚きで、全身の毛が逆立ったように、彼女には感じられた。

(うそー! えーっ! うそーっ! だってそんな人間、今まで見たことなかったよーっ!)

 ぴょんぴょん跳ねながら、彼女のまわりを一周する。およそ狼と言うよりかは、カンガルーか、猿の子供のような動きである。どうやら彼のそんな反応からも、おおよその年齢を彼女は推測した。

「君は狼の子供なの?」

(ううん。子供じゃないよ。僕は大人!)

 そう言いながら、澄まして胸を反らした。だけどすぐに猫背になってしょんぼりし、うなだれて話し始めた。

(正確に言うと、まだ独り立ちしたばかりなんだけどね。でも僕、まだまだ子供っぽいから、群れの中でも下っ端なんだ。むしろ、煙たがられてる……)

「……そっか。長は厳しい狼なんだね……」

(……まぁねぇ)

 一通り自分のことを話し終えたその若狼は、今度は彼女のことを聞きたがった。

(ねぇねぇ、君は? なんでこんなところで寝てたの? 君、本当に人間? 名前、なんて言うの?)

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、彼女はどれから答えたものかと、困った顔をしながら、答える質問を選んだ。

「えーっと、まず名前……、名前はわからないんだ。なんだか、CX-01って呼ばれていたような気はするんだけど、それが〝名前〟って言えるのかな?」

(し、CX-01? なんか、しっくりこないなぁ……)

 狼は、喉元に何かが引っかかっているときのように、すっきりしない表情を浮かべながら、首を左右それぞれ九十度ずつ傾けている。

(うーん……名前、名前ねぇ……)

 どうやら彼なりに考えてくれているようだ。やがて狼は、ぱっと明るい顔を弾けさせ、こう言った。

(マナ! マナってのはどう?)

「……マナ?」

(そう! 目に見えない不思議な力……、まぁ、大雑把に言うと神様みたいな意味合いなのかなぁ)

「神様……」

 彼女は僅かに俯いた。人間のエゴによって造られた自分が、神様……。その構図がなんとも、皮肉に感じられたのだ。

(うん、そうだ! 〝マナ〟がしっくりくる! うん! うん!)

 目の前の狼は、とても嬉しそうだった。

(その綺麗な髪にも、似合う響きだ!)

 彼女は、喜ぶ狼の姿を見ていると、断ることができなくなった。それに、〝CX-01〟と呼ばれるよりは、とにかくあの施設の香りの断片でも、自分に残されるよりはましだと思った。

「マナ……かぁ」

(うん! あ、ちなみに僕はシアンね。母さんが、生まれたばかりの僕の毛並みを見て、つけてくれたんだ。ちょっと青みがかかった灰色だったんだって!)

 〝今はもう、消えちゃったけど……〟と言いながら、くるりと一回転して見せてくれた。

「……シアン」

(そう!)

 シアンと名乗った狼は、マナに名前を呼ばれることが嬉しそうだった。はしゃぎながら、さらに質問を追加した。

(マナはどこから来たの?)

 前の質問の残りはいいのかな? という疑問もあったが、シアンの新たな質問に対する答えは、おのずと以前の残りの質問にも答える形となる。ただ、マナ自身がその質問に答えることには、勇気と気力を要した。

「私は……」

 そう言うと、視線を元来た道のほうに静かに移動させた。

「あの施設からやって来た。逃げ延びて、この森に入った途端、眠くなって……」

 この話を聞いた途端、シアンは禍々しい気配を感じたのか、その灰色の毛をざわつかせた。

(あの施設……)

 マナは小さく頷く。みるみるうちに、彼女の顔色は血の気を失ったように、元気のないものへと変わってゆく。シアンは気遣うように、小さく声を出した。

(そうか……、それは大変だったね……。君に何があったのかはわからないけど、この森からは早く離れたほうがいい。あの研究所とこの森は、目と鼻の先だ。もし、奴らが捜索しているのだとしたら……)

「……うん、わかってる」

 マナは小さく頷いて、立ち上がった。自分はここにいてはいけないような気がしたのだ。捕まるからとか、それだけの理由からではない。自分がこの森にいれば、この森の狼たちにも迷惑がかかる。だからこそ、マナの口からは、自然と謝罪の言葉が洩れたのだ。

「ごめんね。でも、話し相手になってもらえてよかった。素敵な名前も、ありがとう……」

(どこに行くの?)

 不意にシアンは、マナにそんな質問をした。

「……わからない」

(僕も行くよ!)

「……?」

 会話としては噛み合わないやり取りだった。だからこそ、マナの頭の上には疑問符ばかりが浮んだ。

「え、どうして……」

(だって君、このあたりの道、わかるの? それに僕一匹が群れから抜けたところで、問題になんかならないから!)

 満面の笑みで(浮かべたようにマナには感じられた)、シアンはそう言う。

「でも、危険と隣り合わせかもしれないんだよ!」

(いいの! いいの! 僕、そういうの、待ってたんだから!)

「……」

 マナは開いた口が塞がらない、まさにそんな心境だった。まるで、世界への冒険に憧れる少年のような瞳で、キラキラとマナを見つめている。さしずめ今のシアンは、か弱そうな(・・・)、ヒロインを守るヒーローの気分なのだろうか……。

(ほら、僕についてきて!)

「ちょ……、ちょっと!」

 尻尾をふりふりさせながら、シアンはずんずん森の奥へと突き進んでいった。その陽気な背に追いつき、マナはさらに訴えかける。

「私、あの研究所で造られたの! 言わば、人造人間。だからこそ奴らは、絶対私を血眼になって追ってくると思う。そんな私と一緒にいることが、どれだけ危険なことか……」

(いいの! いいの! 君がどんな出自なのかなんて、僕は気にしないよ。現に今こうやって会話できて、僕たち仲間になれたんだからさ!)

 完全に旅のパーティーの一員に割り込んでしまった……。いや、もしかしたら彼のほうが、私を自分のパーティーに引き入れたと考えるほうが、構図としては正しいのかもしれない。なぜなら彼の英雄譚の中では、彼がヒーローなのだから。

 ならば、彼の歩みを無理矢理止めてしまうのは、酷なことになってしまうのかもしれない。マナは、彼の英雄譚におとなしく付き合うことにした。


 狼の森を抜け、広大な草原と獣道が続く世界を、ただひたすらに歩いていた。マナは、目の前を行く狼の尻尾を、シアンは自分の嗅覚と記憶を頼りに先へ先へと進んでいった。

 それでもシアンは、どこか楽しそうだった。やはり、自分の暮らす世界から飛び出す楽しさや、好奇心というものは、人も狼も変わらないのかもしれない。

 草が舞う大草原の海原も、やはりその終わりはあるもので、マナたちはその終わりに辿り着くと、また別の光景にほっと安堵した。同じ光景ばかりが続くというのも、結構な苦痛と不安を感じるものだ。

 特にマナは、シアンほど楽天的でもなかったし、シアンほどこの目に映る世界が、希望やキラキラしたもので溢れているとも思えなかった。常に心の奥底に黒い泥のように潜んでいる不安や脅威が、マナの心をじっと見つめている……。そんな感覚だった。

(ねぇねぇ、あれ見て! 街だよー!)

 シアンはいかにも楽しそうに舌を出して、マナのほうを振り返った。その顔は、『行ってみようよ!』という文字が、全面にへばりついているみたいだった。

 言葉に出すこともせずに、マナはただ頷いた。どうやらシアンはそれを同意と受け取ったようで、楽しげに尻尾を振りながら、街へ向けて駆けて行った。マナはやれやれと、こっそりため息つきながらも、シアンにおいていかれないように、ついていくことにした。

 やがて近づいてきた検問の前で、前を向いた体勢のまま、シアンは足踏みした。

(ねぇねぇ、あそこで取り調べ、やってるみたいだよ)

 〝取り調べ〟という言葉はいかにも警察的で、まるでこちらがその逃亡者で、犯罪者にでもなったような気持ちにさせられるが、そんな妄想を振り切ってくれるような言葉をシアン当人(当狼?)から発せられた。

(でもマナは大丈夫だと思うよ。おまわりさんの服着てるし、ネームプレートがあると入れるみたい。前にここに遊びに来たとき、そんな感じの人たちがいっぱい入っていったの、見たことあるし)

「……大丈夫かな」

(大丈夫! 大丈夫! 僕に任せて!)

 〝任せて〟と言われても、全てを任せてしまっていいものかどうか……。そんなマナの心配をよそに、シアンはずんずん、ぴょんぴょん進んでゆく。仕方ないとばかりに、マナは腹を決めて、検問の列に並ぶことにした。

 その列は、検問作業が思うように進んでいないのか、長蛇の列と化していた。そしてそこに並ぶ人々も、実に様々な人種が集っていた。もちろん服装もそれぞれに違う。そんな中にいれば自分は、そう目立つ存在ではないのかもしれないと、マナは思った。

 だが、自分のこの髪の色は、そうは言えないなと思った。まわりを見回しても、黒や茶色、金色といった一般的な色が目立つ。強いて言えば、銀色に近い色合いとも言えるのかもしれないが、それでも数が少ないという時点で目立つことに変わりはない。

 変に隠すのも、逆に目についてしまいそうなので、マナはあえて普通にすることにした。

 立ちながら列に並んで、ずっと待つというのは、何もすることがなく、案外苦痛なものである。何もすることがないからついつい、まわりの人間観察に楽しみを見い出すしかなくなる。

 商売のためなのか、大きな荷物を背負う者、観光客のようないでたちの男女、大道芸人のような風体の旅団、国境警備の勤務中のような兵士……。様々な国の言語が、そこでは混ざり合っていた。

 マナはその空間を不思議に思った。こんなにも違う人々が、この小さな街に集まっているのに、喧嘩一つ起こっていないことが、マナには不思議なものに映ったのだ。自分が今までいた施設のことを思い浮かべれば浮かべるほど、その違いに慄くのだ。これが初めて知る〝世界〟なのかもしれないと、マナは思った。

 そのとき、なぜかそこに視線が吸い寄せられた。なぜと問われても明確な理由は、言葉にはできなかった。運命だとか、インスピレーションだとか、そんな簡単な言葉では片付けてしまいたくはないのだけれど、だけどそういった類の目に見えない力が働いたのかもしれない。


 その人は、こちらをじっと見つめていた。だから気になったというのもあるのかもしれないが、だがその人の視線には、不思議な力があった。なぜかわからないが、自分に似ているとマナは思った。光の宿らない瞳だった。だけど、不思議と不吉には思わなかった。

 そしてその人は、マナの考えでも読んでいるかのように、側近くまで近づいてきた。近くで見ると、その目はまた違って見える。その黒目に光を宿し、活き活きとしていた。

 不意に耳元で、鳥が羽ばたくときの羽音がした。マナは瞬間的に、肩をすくめて両目をぎゅっとつぶっていた。そっと薄めで目の前の彼を窺うと、口元を笑みの形に変化させていた。

 あたりを見回しても、鳥の影すらなかった。それなのに、彼は自分がなぜ目を瞑ったのかをわかっているのだと、マナは瞬時に感じ取っていた。しかし彼の口からは、今のこの反応とは無関係のことが飛び出した。

「君のその制服は、研究所の警備員のものだね」

 彼の襟足の長い黒髪が揺れた。風でも吹いただろうか。それとも、何かが通り過ぎただろうか。不思議なことだけれど、彼は頭を動かしたわけでもないのに、髪が揺れた。まるで鳥が翼を広げて、たたむときの動作に似ていると思った。そして、こう言った。

「たしかあの研究所には、女性スタッフはいなかったはず。それとも、新米さん?」

 その言葉を聞いた瞬間、マナは警戒心を剥き出しにした。自分を捕まえに来た、研究所の人間だと思ったからだ。だが彼の興味はそこで、マナから一緒にいた狼のシアンに移っていった。

「おや? 狼じゃないか。珍しい!」

 そしていとも簡単に、顎の下に手を差し入れ、シアンをわしゃわしゃと撫で始めた。しかもあろうことか、〝僕に任せて!〟と胸を張っていたシアンは、ころりとその男に陥落させられたのだ。お腹まで見せて、信頼のポーズである。

(ちょっ、ちょっと、シアン! なに甘えてるの! 私を守ってくれるんじゃなかったの!?)

(え、僕そんなこと言ったっけ?)

 薄情にも、ペットと化してしまった目の前の狼は、そんなことをマナの心にそっと呟いた。よっぽど〝馬鹿犬!〟と叫んでしまいたかったが、そんなことを心の中とは言え、叫んでしまえばシアンのことだ、〝ギャウギャウ!〟と鳴き始めるに違いない。そんなことをされるのは、目立ちたくないマナにとってはまっぴらごめんだった。

 そんな内心のハラハラを隠しながら、目の前の黒髪黒目の男に相対した。よく見ると、どこか女性的とも言える顔立ちをしている。要するに、女性受けしそうな顔立ちである。だけど鋭ささえ感じさせる彼の目は、そうではない。何がそう思わせるのかはわからないのだけれど……。そして彼は、マナの瞳をじっと見つめて呟いた。

「君は目立つなぁ……。その髪といい、この狼といい……」

 彼は目を細めながら、後の言葉を濁した。そして小さく微笑んで、背中を向けた。マナは、ほっと息を吐き出した。そのとき……

(この世界では、目立たないことが生き延びる秘訣だよ、マナ……)

 心に直接語りかける声だった。しかもその声は、紛れもなくさっきの男のものだった。マナは男の背を追った。だが人ごみに紛れて、その背中はもう、消え失せていた。と同時になぜか、研究所の通路で聞いた言葉が、胸の中で反芻していた。

 ――暗闇を進むときは、真っ直ぐ進むことを、心がけるんだ……。いいね?――


 検問は、シアンが言った通り、すんなりと通った。どうやら身分証明の点では、通ってしまったようだ。

ただやはり、さっきの謎の男が指摘した通り、マナの髪は物珍しい目で遠慮もなくじろじろと見つめられた。

 そしてこれも、先程の男のご指摘の通り、シアンも検問の護衛の目に止まった。街は狼の出入りが禁止だったらしく、そこを問い詰められた。

 だがマナは、〝シベリアンハスキーと雑種の合いの子なんです〟という、心苦しい言い訳を放ってみた。シアンの犬らしい〝ワンッ!〟という一鳴きとお座りポーズ、そして従順なキラキラした瞳の効果もあったのかもしれない(ちなみにマナはこのとき、この子は本当は犬として生まれるはずだったのに、どこかで間違えて狼になってしまったんじゃないかと、本気で疑った)。

そしてその護衛も、この街一番の愛犬家という巡り合せも功を奏したのかもしれない。全ての歯車が一致し、無事に街に入ることができたのである。

 この場合、一番上機嫌だったのは、シアンだった。謎の男にも撫でられ、検問の護衛にも可愛がられ、気分は上々だった。視線で、〝あとは、マナだけなんだけどなぁ~〟と訴えてきたが、マナは正直なところ、〝この薄情犬め!〟と言って、シアンの尻尾を踏みつけてやりたい気分だった。

 そんなマナの心中など、一切気にする素振りもなく、シアンは楽しそうに話し始めた。

(それにしても、いい人たちだったなぁ~)

「……いい人?」

(うん!)

 マナの中で思い浮かべたあの目は、〝いい人〟という単語とは少し違っていた。

「えーっと、一番最初に撫でてきた人も?」

(うん!)

「あの人、〝いい人〟かな? もしかしたら、研究所の人間だったかもしれないよ……」

(そんな感じは僕は抱かなかったけどなぁ。優しい人だよ、あの人! それに、なんかわからないけれど、すごくいい匂いがしたなぁ……)

 そう言うと、シアンはとろんとした顔をした。

(いい匂い? 香水ってこと? そんな匂いはしなかったけど……。もしかしてシアンって、実は女の子? いやいや、お座りポーズのときに、若干見えてしまったけれど、完全に男の子だったしなぁ……。いやいや、中身だけが女の子とか……。いやいや、そんなはずは…)

 一人ぐるぐると、そんな考えのどツボにはまっていたマナだったが、急激に悲鳴を上げたお腹の音で、マナもシアンも立ち止まった。

(……マナ、お腹空いてるの?)

「あ、うん。そうみたい……」

 盛大なオーケストラのような自身のその音に、マナは赤面しながらも、そういえば研究所を出てから何も口にしていないことを思い出した。

(じゃあ、どこかのレストランに入ろうか?  僕は入れないかもしれないけど)

「うん、そうだね」

 だけどこのとき、二人共(正確には一人と一匹か?)、肝心なことを考えていなかった。それは……

「お客様のお会計は、一四八〇プレになります」

 お金の問題だった。

 ど、どうしよう。食べることしか考えてなかった……。今更、吐き戻すわけにもいかないし……。うーん、うーん……

 何かそれに変わるものを持っていないだろうかと、研究所から掠めてきた備品やら何やらを、会計台に載せてみる。

「あ、あの、お客様……?」

「え、えーっと……」

 しどろもどろしながらも、何気なくポケットに手を入れてみた。何か固いものが手に触れる。取り出してみると、真っ黒な石であった。しかも黒いわりに、照りがあった。不思議と存在感のある物体である。

「これじゃ、だめですか?」

 一か八かで聞いてみた。

「……それ、なんですか?」

 やはり、予想通りの反応が返ってきた。

「あ、じゃあ、これもつけます。足りますかね?」

 言いながらマナが台に乗せたのは、警棒とライトのセットだった。店員は胡散臭いものでも見る目で、渋々と物色し始める。しかし店員はそこで、予想外の反応を見せる。

「! これ、研究所の備品じゃないですか! も、もしかしてあなた、あの研究所に勤めてますか?」

「あ、えーっと、そんなところです……」

 マナがそう答えると、相手は慌てふためいて台の上に載せた備品を返して寄越した。

「でしたら、これらは受け取れません! また今度来たときに支払っていただけたら、結構ですので!」

 その口調は丁寧ではあったものの、まるで厄介払いされているような、そんな心地にもさせられる。実際この店にとっては、あの研究所の人間はそんな存在なのかもしれない。いや、もしかしたら、この街全体にとっても……。

 いろんなことを勘繰ってしまう。そんなことを考えながらレストランから出ると、入り口におとなしく座っていたシアンと合流する。こうしていると、本当に犬に見える。だけどどうやら嗅覚は、犬よりも優れているようだ。〝だらだらと流れ出る涎を必死で我慢していました〟、そんな顔つきのシアンに、思わずマナは小さく笑った。

 腹ごしらえも済み、今度は服を探しに行くことにした。それこそ、目立たないようにするためである。レストランでの店員の反応を見る限りでも、あの研究所の人間はどうやら嫌でも目立ってしまうようだ。ならさっさと、捨ててしまわなければ。散々この街を歩き回っていて、今更な感は否めないが。

 一般庶民が入りそうなごく普通のショップを選び、こっそりと入店する。さっさと選んで、こそっと試着室に入ろうと思った矢先、入り口のほうで待っていたシアンが店内に駆けてきた。

(ちょ、ちょっと、シアン! なんで入ってきちゃったの!?)

(マナ! 急いで隠れて! あいつらが来ちゃったよ!)

(あいつら?)

 入り口のほうにさっと視線を走らせると、胸元に白いネームプレートを下げた研究所の職員が、肩で風を切って堂々と入ってきた。片手には服の山がごっそりと、抱えられている。

「おい、誰かいるか! この服いらなくなったから、引き取ってくれ!」

 横暴なその男は、大声で店員を呼びつけた。店内はそのお客の来店によって、急激に慌しい雰囲気に包まれる。店員の半分以上がそちらに収集される形に、マナたちはほっと胸を撫で下ろした。

(よし、今のうちに出よう!)

(うん)

 細心の注意を払って、そっと出て行こうとした。しかし、

「おい、お前! まだ車に積んであるんだ! 運ぶの手伝え!」

 展示されている服の影のほうに、身を潜めるようにして、移動したつもりだった。だが、その声は紛れもなく、こちらに向けて発せられている。しかも、

「ん? お前、妙な動物連れてるな?」

 大股で近づいてくる男の気配に、マナは身を縮めた。腰のホルスターに手をかけた。あと一歩近づいてきたら、飛び出して銃を構える。そんなイメージを頭の中で描いていたときだった。

 不意にさっと風が通り過ぎた。頭に何か載せられたのはわかったのだが、それが帽子だということに気づくのは、五秒後のこと。

「この服、いいですね!」

 唐突に近くで、別の声が上がった。その声の持ち主は、横暴な男に近づいていった。そして、服の山の中から数着ひょいと選び、自分の身体に合わせるのだった。

「これ、俺に売ってくれません?」

 その男の言葉に、横暴な男は小さく、くぐもった笑いを発した。

「構わんが、それ、女物だぞ」

「あぁ、俺、女装の趣味あるんですよ」

 しれっとしたものの言い方に、横暴な男は今度こそ盛大に笑い始めた。

「そんなに欲しいならくれてやる。だが、高いぞ。一〇〇〇〇〇プレだ!」

 言いながら男は、歪んだ笑いを浮かべた。それは、新しいおもちゃを見つけたという目だった。

「いいですよ」

 しかしもう一人の男は、あまりにもあっけない一言と、その実物を差し出した。マナはそのやり取りを見て、呆気にとられた。そんな大金を出す男は、検問のときに出会った、あの謎の男だったのだ。

「早速、試着してみてもいいですかね?」

 服を手にしたその男は、試着室のある、ちょうどマナが潜んでいる通路に近づいてきた。すれ違いざま、マナの頭の上にあるキャスケット帽を押さえつけながら、そっと囁いた。

(走って逃げろ。街の郊外まで)

 そしてそれが合図だとばかりに、マナの背を押した。横暴な男はすっかり、その男に興味を示し、マナたちの脱走には気づくことさえなかった。

 マナたちはその店を出て、通りを走った。路地の所々で、研究所の警備兵や職員がうろついていた。その度に立ち止まり、行き過ぎるのを待ったり、見つからないように脱兎の如く逃げ回ったりした。

「それにしても、郊外ってどこをどう行けば行けるの?」

(僕もわからないよ!)

 二人ともパニックになりながら、路地をジグザグ状態で駆け回る。自分たちが今どこにいるのかさえ、わからない状態である。本当にこのままで、郊外に辿り着けるのだろうか……。そんなときだった。

(こっちよ。私が案内するわ)

 唐突に聞こえた女性の声に、二人はあたりを見回した。家々の屋根を伝い、目の前に飛び降りてきたものは、シアンと同じ狼だった。

「屋根の上にいるのって、大抵猫だと思ってた……」

(……僕も)

(無駄口叩いてないで、ついてきなさい)

 その狼はシアンと違い、随分と大人びた物言いをする狼だった。そのせいもあってかマナは、またもや未知なるものを見つけてしまったという気持ちだった。そしてもう一つ、彼女の毛並みはとても美しかった。きっと狼界の中でも、美人のほうなのだろう。だが彼女は、足もとても速かった。

(ちょ……、ちょっと待って! 速すぎるー!)

「シアンで速いんだったら、私はもっとついていけないよ!」

(煩いわね! 黙って走りなさい)

 しかも動物が選ぶ道というのは、得てして人間には不向きな道ばかりだ。無駄に登ったり、降りたりを繰り返して、障害物だらけの道をなんとか突き進んだ。おかげで泥棒と間違われたり、子供には笑われたり……。

 だけどそれもこれも、無事に郊外まで辿り着けたのだから、笑い話で済ますことができるのかもしれないが。

 そして間もなく、その問題の男も郊外に辿り着いた。どうやら道案内をしてくれたこの雌狼の飼い主が、彼のようだ。雌狼の働きを褒めるように、彼は撫でた。

 〝試着してみる〟とあのときは言っていたが、服装は以前のままだった。その代わりその服は小脇に抱えたまま、彼の表情は仏頂面だった。

「くそっ! 結局騒ぎになったし……。あの野郎、超キモかったから、鳩尾に一発食らわしてやった」

 言いながら、抱えた服をマナに差し出した。

「これ着てろ。その服は目立ちすぎる。それと、髪! 染めろ」

 そしてもう一つ、小さなボトルをひょいと投げて寄越す。

「な、なにこれ?」

「染髪剤」

「え?」

「〝え?〟じゃない! 生き延びたければそうしろ! 目立てばあいつらは必ずやってくる! 現に、この街には研究所の人間が増えてきている。今日はこの街には泊まれない」

 吐き捨てるように言う目の前の男に対して、彼の狼は小さく笑った。

「何が可笑しい!」

(守銭奴のあんたが、そこまで出すなんて初めて見たからね)

「守銭奴だと? 俺はただ、エコな生き方を追求しているだけだ!」

 ものは言いようである。〝守銭奴〟をものすごく美化した言い方にしようとしている感、満載である。しかもあのとき平気で、〝女装の趣味がある〟とも言い放ったのだ。半分くらい、本当にそうなのかもしれないと、マナは疑ってしまったくらいだ。

 第一印象とのあまりの違いに、呆れを通り越して、呆然としてしまう。そんなマナの様子を見て、男は尚も話し続ける。

「嫌だというのなら、それはそれで構わない。ただ、生存確率がその分下がるかもしれないが、俺の知ったことではない。俺は俺だし、お前はお前だ。以上」

 まるでばっさりと切り捨てるようなものの言い方である。何がそんなに、気に食わないのか。心なしか、苛ついているようにも見える。その答えを言ってくれたのは、またもや彼の狼だった。

(この男は、野宿したくないのさ。カメムシがうようよしているだろ?)

 その言葉にマナは、一瞬聞こえた言葉を疑った。

「……カメムシ嫌いなの?」

 確かめるつもりで、再度そう聞いた。数秒の間の後、男はムキになって言った。

「……笑いたければ、笑えばいいだろうが!」

 急激に見せた彼の子供っぽい部分が、マナの口元を微笑ませた。それがどうやら彼にとっては、馬鹿にされたと感じたようで、尚も言い訳のような言葉を並べ立て始めた。

「じゃあ、あのくっさい生き物好きな奴いるのか? あんなもん好きな奴がいるって言うんだったら、お目にかかりたいもんだ!」

 そう言い放つと、顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。

 しかしこんな雰囲気の中でも、空気を読まない、所謂KYが一匹。

(うん、うん、道理でいい匂いがすると思っていたんだ。そうか、そうか~。君だったんだね~)

 妙に身体をくねらせながら、シアンは彼の雌狼に近づいていった。

「……おい、お前のわんこ、あれどうしたんだ? マタタビでも吸ったか? ルナににじり寄ってるみたいだが」

(へぇ! ルナって言うんだね! 君の名前!)

(ねぇ、なんなの、こいつ……)

「ちょ……ちょっと、シアン?」

  案の定、シアンはルナと呼ばれた狼を追いかけ始めた。もちろんルナは、威嚇と抵抗で見事に追い払ってしまったが。

(ねぇ、マナ! 僕、ルナについていく!)

「はぁ? 何言ってるの?」

 マナからすれば、急な裏切りにあったような気分である。しかもそれを聞いていたルナは、露骨に何かを吐き出すような仕草をした。

(冗談じゃないわよ! こんなガキんちょにまとわりつかれる毎日なんて、考えただけでもぞっとする!)

「ほら、ルナだってそう言ってるんだから! それに……」

 マナはちらりと、ルナの飼い主に視線を向けた。

「俺か? 俺は、世話も何も特にしていないぞ。気まぐれにおやつを与えたりはしているが、基本的にルナは自分のことは自分でする女性だからな。一匹増えたからって、俺のそのスタンスは変わらない」

 要するに、〝勝手にしろ〟と言っているようなものである。究極の放任主義と言うか、なんと言うか……

(だから、マナも好きにしていいよ!)

 当のシアンからも、そんな放任主義的な言葉が放たれた。あまりにも勝手なその言葉に、一瞬イラッとはしたものの、だが言われてみればこの場合、そうなのかもしれない。

「俺も同じ意見だ。行きたいところに行けばいいだろうし、研究所を潰しにいくのだって、一つの方法かもしれない。本当の自由を手に入れるためだと言うのならね」

 なかなか過激なことも、さらりと言う。だがたしかにその方法は、自分にとっては本当の平和に繋がることなのかもしれない。

「ただ、少しでも長く生き延びたいという賢明な考えを選ぶのなら、静かにしていることだ。俺のアドバイスを聞くもよし、聞かないもよし。君が決めればいいのさ」

 突然に全権を投げられ、マナは戸惑った。だけどそれこそが、自由を手にしたという今の現実そのものなのだ。

「ま、そういうわけだ。俺はこれから、楽しくもなんともない、野宿の準備をするよ。じゃあな」

 しばらくマナは、そこに立ち尽くしていた。街の向こう側に見える、メタリックな人工建造物を視界にちらりと収める。

(これが最後。もう見ることは、絶対にない。絶対に)

 マナは心に強くそう誓い、街に背を向けて歩き出した。


「ねぇ、あなたはどこに向かうの?」

 必死で走って追いついたその御一行に、マナは背中から話しかけた。

「……だから、野宿って言っただろう? それと、ジーン。俺の名前は」

 振り返った彼の表情は、いくらか落ち着きを取り戻していた。いや、大嫌いな野宿に腹を決めたと言ったほうが、正しいのかもしれない。

「あ、今日の行き先ってことじゃなくて、これからの長い道程の目的地」

「……」

 それに関してジーンは、なかなか口を開こうとはしなかった。そりゃあ、出会って間もないよくわからない人に、自分の行き先をべらべらとは、なかなか喋れないものかもしれないが……。

「とりあえずは、一〇〇〇〇〇プレをまた稼がないとな。旅費がぱぁになった」

「それは……、どうも……すみません」

 小さな声で謝ると、〝俺が勝手に支払っただけだから〟と、ぼそりと言った。そして、横目でこちらを見ながら、

「ところであんた、仕事したことあるの? 稼ぎ方、わかる?」

 と、聞いてきた。もちろんマナは、首を横に振るしかなかった。

「あー、もう! だったら、こうしよう! 俺の仕事の手伝いをしてくれない?」

 頭を掻きむしりながら、それだけを要求してくる。

「仕事って……、どんな仕事?」

「次の街に着いたら教える」

 ジーンは、本当に最低限のことしか言ってくれない。結局、最初の質問には答えてくれる気配すらない。そのことを、マナが訝しんでいるということを、感じ取ったのだろう、これだけは答えてくれた。

「別に俺は、研究所やらそれに関するものをぶっ潰そうと思ってるわけじゃない。そうなってくれるのなら、それに越したことはないけれど、それ以上に俺は、普通に生きたいだけなんだ」

 〝こんな遺伝子を持つ自分が言うのもなんだけれど……〟と、ぼそりと呟いたのを、マナは聞き逃さなかった。自分も同じだと言うことを、彼は初めて直接的な言葉で吐露した。だけど彼は、どんな遺伝子構造を持っているのだろうか。そこまで聞いてしまうというのは、少々踏み込みすぎというものだろう。

 それにしても、彼の向かいたい方向の一端を聞いて、マナはふと、心に湧き上がった思いを打ち消すことができなくなった。きっとそれは、事なかれ主義とも言えるのかもしれないということだ。

 シアンはジーンのことを、優しいと言っていたけれど、それに実際に自分のことを助けてはくれたけれど、でも本当のところは自分のことしか考えていないのではないか、という疑問も浮んできてしまう。自分の命が危機に晒されるような、そんな事態になったときに、彼の中に切り捨ててしまえるような非情な影が潜んではいないだろうか……。

 そして未だ研究所で、〝検体〟と呼ばれ研究員に培養されている者たちは、まだいるのだ。実際にマナは逃げ出すときに、彼らの姿を目にしてしまった。そのことを思うと、完全に忘れ去ることもできなかった。でもだからと言って、世界のことも何も知らない今の自分に、何ができるだろうか。

 マナはぐちゃぐちゃになった思考を振り払うように、頭を振った。

(だめだ、だめだ! このまま、誰かに全身を預けて依存しきってしまうような、そんな人間になっちゃいけない。せめて、自分のことは自分でできる人間にならなきゃ。でなければ、自分の心の奥底にあって、忘れ去ることもできない研究所のことも、どうすることもできないじゃないか!)

 マナは突然に、歩調を速めた。

「お、おい! どうしたんだ?」

「私、着替えてくる! それと、髪もどうにかしてくる! だから、野宿はこの辺にしよう!」

「え!? ちょ、ちょっと! 俺はやだよ、ここ! だって、絶対出る!!」

 悲鳴にも近いジーンの叫びなど無視して、マナはその辺の茂みに飛び込んだ。獣たちの鳴き声が響き渡り、星もちらほら瞬き始める、そんな時間帯のことだった。


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